会誌-「なるぶみ 2000年火の月号」

■ 不完全ザラス用語集 【文・剣山 翔】

<タ行>
 蜘蛛会政権交代
  @蜘蛛会には成立当初から不動の規則がある。それが会長の任期と会長の就任資格、就任方法である。会長は14歳から40歳までの26年間ものあいだ会長に君臨できる。しかも、その会長が失敗したとしても、解任されると言うことはない。26年間は安全が保障されているのだ。Aしかし、26年を経過したらどうなるのか。それは会長の寿命がつきたことを意味する。蜘蛛会には40を過ぎた老人を会長として擁立し続ける気はないらしく、会長の任期切れを以て次の会長を擁立する。その擁立される新会長はほかにはない独特の方法で決定する。Bそれが、14歳の武に長けた男女を集めて会長を討ち果たさせ、討ち取ったものを擁立するという方法である。とは言うものの、そうは簡単に討ち果たさせてはくれない。その難関を通過して討ち取ったものが会長に就任できるわけだ。ちなみに、討ち果たせなかった男女は家に帰ることなく殺害されるとか……このあたりの正確な情報は伝わっていない。Cしかし、何で40歳なのだろうか? 一説にはその昔40歳を越えた会長がボケてしまい、蜘蛛会を存亡の危機まで追いやったことがあったのでこの規則が成立したと言われるが……真実は藪の中である。さすがは情報操作に長ける蜘蛛会である。D歴史イベント。蜘蛛会が存続しており、蜘蛛会会長が40歳になった水の月に発生する。数人の14歳でFI(武力)・AG(機敏)・SK(器用さ)が優れた人物が現れ、会長を争う。勝利者が蜘蛛会の会長になる。勝利者を決定する要素は三能力のほかにLU(天運)の高い人物が選ばれるようだ。Eこのイベントに関わりたい人物は、キャラクターの年齢を14歳に設定するか、14歳になる子供を持つ親である必要がある。無論、ナルスでなければならないが。その際、寿命は40歳と決定されるのであしからず。
 こんなところでしょうかね? しかし、かわいそうな設定ですな。40で確実に死んでしまうとは…平均寿命でもあと10年は生きられるのに……ん? そうだ、追加をしておきます。

<タ行>
 蜘蛛会政権交代(緊急)
  @蜘蛛会に会長が40歳で交代することはすでに述べた。しかし、その会長が不測の事態で40に達することなく没した場合はどうなるのか。疑問に思われる方がいると思う。そのときは、副会長が繰り上がりで……ということはない。会長に就任できるのは14歳の武に長けた男女である。よって、繰り上がりはないのである。では、どうするのか? Aそれは簡単、その時点で14歳である武に長けた男女が選出される。その男女が互いに殺し合い、最後に残った人物を後継者とするのである。うーん、ずいぶんと血なまぐさい交代劇だ。B歴史イベント。蜘蛛会が存続しており、蜘蛛会会長が40に達する前に病没か不慮の死を遂げた場合、その次の月に発生する。数人の14歳でFI(武力)・AG(機敏)・SK(器用さ)が優れた人物が現れ、会長を争う。勝利者が蜘蛛会の会長になる。この場合は三能力の総合が一番優秀な人物が選出される。それでも決着がつかない場合はIN(知力)が高い方が、それでも決着がつかない場合は総合能力の高い人物が選出される。Cこの突然の出来事は、キャラがエントリーされる不幸な事態を引き起こす可能性がある。会長に就任する実力のない、もしくは会長になりたくない14歳のナルスはアヴィーナに近寄らないように。
 これはどうでしょうか? 人間、いやナルスいつ死ぬかわかりませんからね。意外に長くなってしまいましたが、以上が交代劇です。

■ 「名士録」について 【文・剣山 翔】

 ここに、「名士録」(正式名称:ナーラダ名士録)と言う本がある。英雄・奸雄・名臣・奸臣、いずれも当代きっての人物の業績が書き残してある書物だ。諸英伝にもその名は出てくる。
 しかし、この「名士録」、いったいどのような書物なのか。
 起源はかなり昔、チェリア朝アフネリア邦国の支配を消滅させたナーラダの英雄、つまり独立戦争の際にナーラダ族の中心地であったウォウルの初代邑宰の死後のことである。後継者である邑宰が、自分たちの独立の栄誉を讃え、我が父の供養のために編纂された書物が起源となる。
 とはいえ、この書物は単に初代邑宰とそれに従った功臣の功績を書いたものである。このときは「独立英雄記」という仮題がつけられていた。
 だが、完全に完成する前に二代邑宰はこの世を去った。それと前後して、二代邑宰を支え、ウォウルの町並みの形成にその辣腕を振るった邑宰丞が没した。「独立英雄記」の編纂者は、この二人も追記することを提案する。だが、そうなれば「独立英雄記」の名にそぐわないものとなる。
 そこで与えられた名前が「名士録」である。「名士録」ならば、ナーラダの名士を追記しても問題はない。そして、三代邑宰の下で「名士録」は完成する。
 やがて、ウォウル邑宰家はこの「名士録」に必ず追記され、各邑宰丞や功績のあった吏長も追記されていき、膨大なものとなっていく。
 無論、この「名士録」は他のナーラダの邑が知るところとなり、各地の邑宰や名臣、功臣も追記されていくことになる。
 そのうち、この名士録に名を載せたいばかりに多額の粒を支払った、筆者の友達だから載せてもらったなど、収拾のつかない状況になる。
 このようにして膨大になった「名士録」。断片的に追記されていくため、系統立てて完成するため、幾度となく改訂を加えられていく。その際、手書きでの書写が必要となる。そこで、功績の無い人物はもちろん、少ない人物は徐々に削除され、大功ある人物、優秀な人物のみが名を残していく。
 こうして、独立暦400年の第6版の「名士録」は50巻弱にまとまった。この第6版が一番少ない「名士録」として有名である。
 だが、この後で「名士録」の巻数は右肩上がりに上昇していく。原因はもちろん、400年の安穏が破られたためである。諸英伝に突入して50年後に編纂された第7版「名士録」は120巻強まで増加している。名の馳せた人物が多かったか、如実に表している。
 さて、時代は五王国期に突入する。このころ、ナーラダからこの「名士録」は各地に広まっていく。確かに、シャルやメールなどには歴史書はあった。だが、それはすべて編年体であり、紀伝体は存在しなかった。この紀伝体が珍しかったため、各王国で採用されることとなる。
 だが、各王国とも必要だったのは、自分たちの統一への記録を残すことによる自国の正当性であったため、編纂は始めの意志とは異なり、各国英雄記に留まった。見ればわかると思うが、各国とも敗者の記録はほとんどない。あったとしても貶められた表記である。ナーラダの「名士録」と他の「名士録」が区別され、各国の「名士録」は「メール史」や「シャル史」と呼ばれているのはこれが理由である。  だが、一応各国共通の歴史書が完成したため、独立暦653年の「ツァン史」の完成を以て「五族史」の編纂が終わったとされる。この「五族史」は後の名称であることは言うまでもない。
 話を戻して、ナーラダの「名士録」だが、その後も何度となく追記され、改訂されを繰り返している。断絶したという話は全く聞かない。これはこの「名士録」がナーラダ族の誇りの詰まった書物であるからである。
 肝心の中身だが、その前に触れておくことがある。ナーラダ史吏学会である。
 このナーラダ史吏学会は「名士録」の追記、改訂を行うために催される学会で、年に数回行われる。起源は古く、独立暦354年の第二次改訂の際、当時のウォウル邑史吏長ランカル・ヴァウダが「名士録の中立性と内容統一」を唱えてウォウルで開催したのが始まりとされる。この際、史吏のある邑すべてが史吏長を送り込んだと言われる。この際に完成したのが先述した第二版の「名士録」である。
 この学会により、「名士録」は中立を遵守し、追記する人物の伝は史吏学会で諮った上で追記される。内容も姓名、生没年(邑宰のみその在位期間)、出身、役職、功績のみに限り、挿話などはすべて削除された。そしてなによりも、ここで編纂された「名士録」こそが正当本であり、これは各邑宰家が保管する。
 それでは「名士録」は邑宰家や高位官吏のみが読める書物なのか。そうではない。年に数回(少ないところは二年に一回)「名士録」の一般開放が行われるし、「簡易名士録」と呼ばれる歴史上類を見ない名君、名宰相、名将だけを選りすぐった書物が史吏から発行されている。また、史吏長が私撰したものや、野にいる学者が著した本などがある。
 だが、私撰したものは作者の興味と誇りがにじみ出たものであることが多い。愛邑者はその邑の人物を多く、さらに誇らしく描き出す。研究者で名を残したい人物は、知らなくてもいいような人物を書き足す。書いている人物の好悪なので削除される人物があるなど、おおよそ正規本とはかけ離れた「名士録」が多く出回っている。
 市井の民が「正統名士録」を簡単に読めるようになるのは、印刷術が登場してからなので、英雄暦に以降のことであり、相当先の話である。
 さて、おわかりいただけただろうか。最後に、史吏についてだが、各邑とも制度の記録や天文の観察などでは邑宰に尽くすが、歴史については独立で原則的に邑宰の命令に従わない。史吏学会だが、あくまでも「名士録」の編纂に関してのみを扱い、研究発表を行う場ではない。以上は注意すべき点であろう。

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