会誌-「なるぶみ 2000年火の月号」
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■ ザラスMCPG バルス地域シナリオ 「飛天」 高砂キカ はばたき 空は濃い深紫に沈み、その上、無数の輝く粉が撒き散らされていた。空気全てが静寂を吸い込み、地上に沈殿しているような夜。冷気を呑み込んだ風がゆったりと流れて行く。 力無く立つだけで、押し潰されそうな夜の空気。だから人は横たわり目を閉じるしかないのか、大河と化した夜風に流されるしかないのか。 草を食むのを止め、馬たちはただ静かに地を眺めている。彼らの体から、白い湯気が引っ切りなしに生じていた。時折響く馬の唸り声も夜の無言を飾るだけだった。 馬の群れの脇。同じように屈む人間たちの群れがあった。 焚き火を中央にして、円座を組んでいる。厚く彼らの身を覆うのは、山羊皮らしい。一様に薄汚れた頬をしながら、黒い目は輝いている。炎の光が、円の内だけを橙色に照らしている。 「ご覧」 声が響く。全ての場の視線は、声の方向へと誘われた。 円の一部に天を向く指が上っていた。真摯な眼がそこに注がれる。 「星が集まっている」 男がそこにいた。不精髭の先まで火に光らせながら、柔らかい笑みを浮かべている。その目の輝きは、安らぐ童子か、子馬の輝きに似ている。清涼な色をして、目の前の事物を受け入れ見つめているような。 風が塊で流れて行く。触れたら身体全体を冷気に沈まられるような風だ。テントの裾がばたばたと鳴る。遊牧の民たちは身を丸くさせた。旅するもの本能的な姿勢だ。しかし、男の天指した指は揺るぎはしない。豊かな響きが、彼らの耳に届く。 「俺は、それに従って行く。空飛ぶ星と同じように。群れとは離れた道筋になる。でも、皆とはまた会えるだろう。」 沸き上がる様々な思いを、笑顔で表しながら、男は言葉を続けた。 「空は自由だから。」 馬たちは頭を擡げた。首に繋げた鈴が、からんと声を上げる。焚き火の光に、彼らの紐飾りの色彩が、微かに生気を持った。馬の鼻から、白い息が立ち昇る。今群れが座するのは、森林を抜けた後にある小谷の頂きだった。森林に埋もれるようにして有る谷だが、その上、遥かに広い大空がある。星が地図を作っている。 「人は皆天に星を一つ持っている。見ろ!あの強い輝きの星が俺の星だ。」 無邪気な笑い声が漏れた。─違うよ、星は神王さまのお館だよ、と、はにかみやの子供が、顔を隠しながら呟く。男は大きく肩を竦めた。 「俺たちのものであり、神王さまのものであるのさ。神王さまの懐は、俺たちよりも遥に広くて、広いからな。まるでツァンの山脈のようだ。ああ、神王さまたちよ俺たちを見守り給え」 最後は戯言のようだった。子供たちの笑い声が更に高まる。夜空は変わり無く。神王の創造された空の海流はゆったりと流動している。一際強い風が吹いた。霧も無い谷を滑り降りて行く。子供たちは言葉を消した。男は大きく伸び上がった。天の流れに自らを乗せるように。 何処からか、鳥がつうと滑って行った。幾つかの瞳はそれを捕らえたのだろうか。潤った視界では、鳥は水の世界に溺れてしまっているようにしか見えないのだろう。 膝に顎を入れ、また指で眼前を覆い、小さな頭は隠されていく。強く瞑った一重の目の端から、滴が零れる。濃密な夜闇と風の隙間を縫い、高く伸びる、小さな声たち。 男の顔から笑顔が漏れ出た。そのまま、両手を広げて、両脇の子供を包む。自分もその一部に溶け込む。 鳴き声は輪となり、空気に埋もれるようなか弱さのまま夜空に消えて行く。 鳥が鳴いたようだった。 冬の街角 「杏酒を飲まれますか?」 鼻先に甘い匂いが飛び込んだ。白い湯気が頬を撫でる。 ダルディークは顔を上げた。銀鼠色の空を背後に、尖った耳と麦藁色の髪が見えた。目を細める。窶れた面を見せているのではと気になった。 樽の上に腰を降ろしているダルディークに、亜人─隠語だ。妖人の薬師ダナスは微笑していた。両手に小形の椀を二つ摘まんでいる。時折すれ違ったが、変わらず薄汚れた旅人姿だった。 バザールの片隅だ。冬の真ん中だというのに、変わらない熱気がある。丸炉に鳥に串刺したものが突っ込まれている。時折飛び込む咳き込みの声以外は。 ダルディークは、被ったローブを軽く持ち上げ、唇の端を上げた。淡い陽光が入り込み、ひどく整った容貌を照らし出す。 「ご相伴しましょう」 ダナスは脇に腰を降ろした。そしてダルディークに粗末な杯を差し出す。泥水で煮しめたようなずた袋を肩に下げ、足に脚絆を巻いている。左の腰の当たり、瓢箪を加工した容器が下げられていた。 受け取り、舌に乗せると、甘い味が広がった。だが、古い砂糖大根を削ったような、食後延々と喉にしがみついて離れない質の悪いものではない。得難い女のような感触がした。 「流石イシャーナ神殿司祭の敬意さえ受ける、名うての薬師の方ですね」 「は・・どういう事でしょう」 ダルディークは笑顔を向けた。 「杏露酒は、富家の子女しか口に出来ないものだと思っておりましたので」 「いやー、んなことはないですよ。作ったんです。簡単ですよ。」 鼻先を掻く。ダナスは、人懐こい犬を連想させるような雰囲気をしている。気を抜くと直ぐさま袂に入り込む氷狼でも、彼の周囲では避けて走りそうだった。 「お疲れのようですね」 さりげない言葉が耳を撫でる。ダルディークは、長い脚を裾の下で組んで、それを見返した。 実際、多忙の為酷く疲れていた。しかし、生まれついて以来、安穏より疲労に慣れた身体である。常の状態に近いものとも言えた。僅かでも顔を漏らせば、塊のような人間たちに追われるという事実も。 「ええ・・最近特に忙しくてね。貴方なら知っておられると思いますが。病は人の数だけあるというのは確かなようで・・繁盛していますよ。」 ダナスは肩を竦めた。ヴィーシアのものより僅かに色褪せた瞳が申し訳なさそうに揺れる。正真の詫び交じりというのは、悪意や嘲笑よりもたちが悪いなとダルディークはちらと思った、しかし、実際、こういう場面では、居心地悪い遠慮の念の方が先に立つものなのかもしれない。 「そうですか・・・何か調子が悪くなれば、こちらに来てくださいよ。薬草湯程度ならいつでも用意できますし。うん。」 「ならば、久々に財布を持って行かないといけませんね」 星薬会が戸口を狭めた余波は、今のところ無粒医師ダルディーク一人だけが被っていた。原因も彼にあるのだから、巡り巡って、ということだろうか。ダルディークは責める気も無かった。不正規な方法を取っているのはこちらだと思い知っている。 加えて、ダルディークは物資的には摂取されるだけでもなかった。世の中の人間は案外真面目なもので、布や器や花や野菜など、手を加えた患者が携えて来たものも溜まっている。 しかし、ダナスはお人よしそうな顔を曇らせてもじもじとしていた。言葉は皮肉として働いたらしい。 「そういえば、バルスに根付く妖人といえば、ヴィーシア邑宰以外には星薬会の方々しかいないですね。どうです?そんな方々だからこそ見えるものがあるのではないですか?」 「え…」 「曖昧すぎましたかな。その、我々より十倍の長さの歳月を持ち得る、あなたがただからこそ」 「百年邑。ああ!そういうこってすね」 ダナスのずた袋が大きく動いた。持ち主が自分の手のひらに拳を打ち付けたからだ。袋の中の薬草粉が埃となって冬の空気に放たれる。疲れた顔も交じる雑踏の中、彼らは取り敢えずの寒さを忘れていた。真冬の空気は、全てのものを、僅かずつだが白く化させていく。霙が軽くなり、羽毛のようになり風に流れていく。 「うーん、バルスは何もかも新しい町ですからね。新しく芽生えるものの前には、僕らの視線もまだ無知ですよ。」 「でも、あなたたちだからこそ見えるものもあるでしょう。大切なのはその視野です。それが、この世界を面白くさせている。」 「珍しい考え方をされますね。」 手を、己の額へ持ってゆく。そして軽く首を巡らせた。 「まるで、こう世の中を睥睨されているようだ。」 今度は向こうからの皮肉なのだろうか。ダルディークは苦笑した。そのまま、杯を唇に持って行く。俯くと、項の黒子に光が当たる。 「最近、しょっちゅう違う考えがぶつかる時に、互いの意見を貴びあって、足りない所を補い 合え…という言葉がよく出ます。ヴィーシアもそれを理想としていますね。この戦乱が続く御時世になって以来、しょっちゅう口の端に上るようになったのは不思議なことですが。」 理由は戦乱だ。戦いとは、規模はどうであれ、他者と他者がぶつかり合うものだ。鏡のように互いを写し合い、そして、互いの姿を明確にしていく。その後は、勝者と敗者が残る。振り分けの無い 「・・ただ、それは酷く難しい」 言葉は自然に落ちた。ダナスの眼が向いたように思う。 「そうですね」 微かな笑い交じりの返事。暖かくも感じる。いつしか杯の中の液体が嘗め取れる程僅かになっていることに気づいた。それを見たのか、ダナスはずた袋を背中に掛けた。中に突っ込まれた草草が声を上げる。ふと、耳が小さい音を聞き取る。雑踏の中、ふとしたどうでも良い音を聞き取るのは、神経がやはり張り続けている為か。こんなに多くの人間たちが流れていくというのに、たった一人の鼓動が入り込むなど。小さい音だ。眼を反らして見れば、そこには子供が一人もいない。幼いものの可憐な響きだった。 「どうしたので?」 「・・いいえ。旅に出られるのですか?」 ダナスは頷いた。 「ええ。シュエルへ。染料の余りを貰おうと思いましてね」 草の汁で汚れた指で杯を軽く回した。そのまま、手の平の中に包むようにして隠す。ダルディークは礼を言った。二つの視線が絡み、間に、季節外れの燕が飛んだかのように錯覚させる、一陣の風が滑った。軽く指を上げる。妖人は腰を上げ、雑踏の中潜っていった。 風のような男だと思う。一瞬浮上すれば、すぐさま地平に潜る。自分もそうでありたいと願うが、多分願う風の類いは違うだろう。 ダルディークは樽の上に座していた。微かに残る甘い湯気を見つめている。昇る先を追いかけると、白い雲に煙られたルナが冷ややかな墨色を称えている。 密使 逞しい腕を組み、ファン・フェイロンは石柱に持たれていた。不逞不逞しさに満ちた濃い眉に大きい口と充分威圧的な外見だが、不思議と、その場では柱に溶け込んだようだった。 遥か真下、脚にリュイが纏わり付いている。良い玩具を見つけたようだった。 リュイがぴたと止まり、見上げて来た。初春の空色の目を開き、唇を動かそうとしている。咄嗟に人差し指を唇に当てたフェイロンを目に入れ、真似をしたが、その指の下から小さな声を出す。 「うたがきこえるよ」 フェイロンは頷いた。三本の柱の陰、細長い入り口から歌声が流れていた。 街は祝祭 喪服を纏い こどもらを生け贄に聖なる祭りは続く 変声期前の少年の声だった。高い音程が伸びやかに、柱を擦り抜けてやってくる。 「このとおり、俺たちはただの芸妓人です。」 部屋の中央、少年は一同に向かった。ため息がほのかに室内に生まれる。椅子に座したヴィーシアの唇から出たものが、最も強かっただろう。頬は既に紅潮している。 「巧いねぇ」 「見習い、です。」 返される言葉に、瞳に真摯さが戻る。緊迫した時でも、美しい旋律に耳を傾けずにはいられないのがこの邑宰だった。 円形の間だった。木造の質素な作りで、柱に囲まれている。ドーム形になっており、天井は複雑な格子が絡み合って、緩やかな丸天井になっていた。そこから冬の天の光が落ちてくる。円座になって宴でもしていたら、心地よいものになっていただろう。しかし、今そこの空気は冴え冴えと研ぎ澄まされ、固いものになっている。 垂れ布を背後に、椅子に腰下ろすヴィーシア邑宰。その脇に控えるセフィル邑宰丞。少し離れた所に外吏長サーズ・ロア。各々自由に散らばっている。 入り口の垂れ布に隠れるようにして、邑客として止まっていたルーキ・フレイ。それと三つの旅人からの視線。 歌い手の少年の陰、金正を持った少女が身を竦ませた。他者の視線に敏感なたちらしい。 サーズ・ロアは、少年の言葉に重なるようにして口を開いた。 「加え、トゥルニア邑の外吏付の間諜でもある。そうかな」 銀の髪の少年は頷いた。虚勢だろうか。背筋が固い。 「まだ若いのに」 セフィルは、指を口に当てた。少年の面には、平和な狭い邑の大人では跳ね返される程の意思の堅さがあった。この邑ではよくよく目にする貌だが。 「親が間諜員なモンで。まだ見習いなんです」 「そうなのか…。それにしては随分物慣れているね。」 少年は首を傾けた。放つ雰囲気が微かに刺を増した。 サーズは頷いた。白銀の武神をどこか重ねられる姿の持ち主だ。寛い心の持ち主であることが、目元に浮かんでいる。 「仕事は塩樹の森に拘わるあらゆる情報を纏めてます。」 「…あ、樹守りか。」 ヴィーシアが微かに肩を揺らす。眉が少し寄った。 少年はそれを見返す。強い視線には微かに険がある。ヴィーシアに注がれる類いでは極小のものだった。 「前から密採野郎もけっこう多かったんですよ。ご法度なんすけどね」 塩の密獲は、噂にもならない程の真実だった。島のどの場所でも、純度の高い塩の商談は流れ、ましてバルスではほぼ毎日耳にする。裏には何やらの柔軟で強固な組織があるのだろう。 「余り刃傷沙汰は起こしたくないんですよ。森が汚れて、塩も穢れんだ。」 口調が僅かに乱れる。子供らしい顔立ちが崩れた。ヴィーシアは一瞬、彼は他者の目で映される程幼くはないのではと感じた。儀礼として、交渉者には成人したばかりの若衆を遣う邑は多かった。 腰に括り付けた筒から布を取り出した。裏向け、一同の眼に入るように差し出す。絹布に紅糸で刺繍をされている。 「トゥルニアの音楽祭へ招聘致します。─主客として」 ヴィーシアは腰を上げ、それに向き合った。さらと衣装が鳴る。正面から彼女の視線と、放つ香りを受け止め、確かに少年の足は下がった。 「君が使者なんだね」 「今は、昇竜会幹部も訪邑していますから、表だった招待は控えています…また、のち、トゥルニア邑宰丞との議も、準備されています。」 「少年。…それは塩樹の森の話なのかな。正直。」 「その通りですが、それだけではない」 フェイロンは視線を滑らせた。話が聞こえているだろう、正面のルーキ・フレイは眉一つ動かさなかった。息を付いて、彼は廊下へと歩きだした。リュイが、見上げながら追いかけて行く。日が降り注ぐ、竜胆の花のような可憐な表情だった。 少女を、隣の部屋へと連れて行く。そこには、戦乱から逃れて来たメール人の婦人が女房として雇われていた。 すれ違いざま、ルーキの肩を叩く。 「旦那、これからは流れ者が聞く場でないぞ」 硬質の視線と合ったが、彼は無言だった。これから紡がれるだろう話を全て知っているような顔をして、ルーキは頷いた。 フェイロンを後にした彼は、手の中を軽く開いた。痩せた手指には緋色の紐が結ばれていた。何か祈詞を一言二言漏らし、腹部に当てる。殆ど無意識のような行為だった。 リュイは首を傾げた。ん、という小さい声を上げ、足を止める。 「…奥さんがいるのかい?」 穏やかな声に、再び二人の間に関わりが作られた。 「…それ、安産の護符だろ。」 「詰まらぬことです」 そうかね。と口の中で呟く。紐の草臥れ加減で、どれ程祈詞が囁かれたのかすぐに見とれる。 「これ知ってるの。父さまと母さまが持ってたの」 ずいとリュイは身体を押し出す。揺れる銀髪が突如真下に入り込み。人形のような顔に突如さあっと血の流れが上がったようだった。 元々豊かな声量を必死で押さえながら、フェイロンは吹き出した。 その時、三本柱から邑宰が抜け出した。 「音楽祭には行くよ。わたしたちにとっては大切に祭りだ」 白貂の毛皮をあしらった外套を着けながら、ヴィーシアは言った。諧謔の匂いさえする、自然な響きだった。口元に軽い笑みが浮かんだ。瞳は、どこか遠くを見るようで。 往来 馬の鼻息と蹄の鳴る音と、絶え間無く巡る車輪の軋み音。弾かれる石の叫び声。芸術の邑バルスの今の所の基調である。バルス正門前は春でも冬でも赤茶けた土埃色をしている。 島中から、噂を耳にしたあらゆる商売人がやって来ている。目の前を行くのは、陶器の皿を積み上げ、荒縄でくくり上げた手押し車であり、その前は干魚の匂いをぷんぷんと撒き散らす漁師だった。 ずた袋を肩掛けしたまま、ダナスは楽しげにそれらの風景を眺めていた。時間が許されるなら、隅っこにテントでも作りささやかな薬の屋台を開きたい程だった。彼の麦藁色の髪が、車輪の風で揺れている。 「ダナス、話を聞いて」 優美だが微かに鋭い声が耳に入ってくる。彼は慌てて意識を戻した。その声は思念を引きずり寄せる釣り糸のようである。 肩に、柔らかい白絹のマントを羽織っている姿は、どこかの富裕な家の婦人のようだった。冬の日によく映える。同じように純白のスカートは、裾の辺りが茶色に汚れているが。 「行っていらっしゃい。うちが暇でよかったわね」 「はーい。でもすぐに帰ってきますよ」 星薬会売薬部部長のシフレンは、疑いの視線をちらと投げかけた。小さく息をつく。 この場の雰囲気に見事に溶け込んでいる妖人と、隔絶した上品さ・・その上、それは傷一つ寄せ付けない強さがある・・妖人は好対照だった。全ては土煙に霞んでいるが。 「ところで、ダナス」 顔を向けると、ずた袋の中のものが、しゃりんと鳴る。 「あの医師と話をしていたでしょう。」 「・・・」 「ここに来た患者から皮肉を言われたましたけど?」 彼女は上目使いでダナスを睨んでいた。ぞぞ、と不快ではないが、それなりに怖い冷気が背筋を撫でる。 「・・ヒトの目って怖いですねえ。」 「そうよ。そうだけど・・まったくあなたは。」 言葉に険がある。これまで、星薬会の為に頭を働かせ、駆けずり回ってきた彼女の苦労を思うと、当然のことである。しかし。 「ただ会ってお話ししだけだすよ。向こうも大変なようですから、決してダンゴウはしてませんて」 ついつい、口と一緒に両手が踊る。砂が口に入り込む。 「信じられてないのは分かるんすよ。不信感はね、案外顔に出易いものなんです。好意とは逆でね」 「そんなのはここ数日でいい程思い知っているわ」 鋭い言葉が飛ぶ。シフレンは、外見はいかに高雅な貴夫人なのだが、感情を素のまま相手に伝わらせる才を持つ女性だった。憧憬と恐れと、その両面の思いが常に注がれている。 「あの医師・・聡明な人のようですよ。ここについて色々考えている。決して人望を集めようとか、後に利用しようとか・・そんな思いは持っていないようです」 灰白の空が横たわっている。空を隔てるようで、その中に溶けいるようで、遠くもなく近くもなくそこにある。ぽつんと浮かぶ墨色の月。今のシフレンの表情に似たものだろうか。 ダナスは小さく笑った。不安の意を知っていた。 「僕の見立てですが、ダルディーク氏は長らくここにいないでしょう」 人の作る風が、彼らの裾をたなびかせる。 「本当かしら?」 「僕は彼の住処を目にしたことがあるんですけどね。長く根付く、ような家では無かったですよ。口振りもそんな感じでしたね。自分の生々しい跡のようなものをなるたけバルスに残さないようにしている。誰もが『無粒医師』の看板に目を引かれるでしょう。その向こうの生身には隠されている。秘匿されたるもの、ですよ」 「でも、あすこに集まる患者たちの中、望んでダルディークに手を貸そうとするものも増えているわ。曳かれているのよ」 「本人は望まなくてもそんな人もいますって。」 呟くと同時にまたほほ笑む。齢が死んだような妖人の面だが、彼の上には、重ねて来た旅の跡が、時折現れる。特に笑顔を浮かべる時はそうだった。 ダナスは読んだ真実しか口に出さない。しかし、胸に置き残すものはある。 彼は、奇態な薬や道具を創り廉価で売るという商売を生業と定めてい為か、売り手となる人の面にあるものを読みとることも、ささやかに得意だった。匂いを嗅ぎ取る、という表現が最も適切か。その中、先に出会ったナーラダ族の男は、特異な香りをしていた。多くの人を引き寄せる一種の魔力。その奥にもう一つ、隠れる真。 「なら、何故ここに来たのかしら」 「バカンスとかではないでしょかね?」 呆れ交じりのきつい視線が走り、慌てて背筋を反らす。 大きい溜め息。不安が入っている。ダナスは何度かの苦笑を浮かべた。平行線、なのかもしれない。シフレンの不安は巨大な曇り雲だ。彼女一人の姿も掠れさせてしまう程。薄曇りに染まる心を思いやるが、それを去らせる手立ては無い。 「はは…嘘っぽいですかぁ。でも、正直、この邑全てががダルデイークの手のなかに集約されると考える方も、同じくらい蜉蝣的だと思うよ・・・?」 シフレンは腕を組み、鼻息を一つついた。形にならない言葉が、その小さく品のよい唇に満ちる。爪先が土を突いた。 「バルスは、腐葉も含んだ豊かな土壌みたいなものです。陽光がその上に燦々と注いでいる…そこの木々は自由に伸びようとしている。」 「全てが上に、外に広がろうとしているということかしら」 「うーん・・勢いの一言で済むかもしれない。でもね、新しい場所に集う人々は、そんな人々は多く訪れていない。まだ、溶かされた鉄の段階なんですよ。鋳る型さえまだ決まっていない。」 そこに一陣の風が吹き。ダナスは上身を翻した。 ひゅる、という笛の音に似た音。群衆が後ろを通って行く。 「…の密儀が・・・南の・・白き森へ」 右手に、何者かの指の感触が走る。冷えた肌。ずた袋のものがしゃりと堅い音を立てた。人の手の形をした樹木が。脳裏に一瞬、塩花の管が腱と化し、爪先を動かしたのが浮かんだ。 血の匂いが、また鼻を付いた。 寒空の下 晩秋の空は重く、雲の動きも鈍い。しかし、それは眠る大地の為の寝袋だ。 ハイローは、黒い目を細めて、空に見入っていた。既に半身と溶け合った愛馬が、微かに神経質に体を震わせている。足から伝わる、もう一つの鼓動のような律動が乱れたのを、彼は感じ取った。 群れから離れた為だ。ハイローはその背中を撫でてやる。 「俺がいるだろ」 息が白く膨らむ。人の街に近づくたび、大気の冷たい巨きな流れは薄まり、人いきれに変わって来ている。切り取られたばかりの木材の匂い。 バルスまで後少し。時間を数えなくても、それが分かった。 ハイローは思い切り背を伸ばして、大気を二つの肺ぱんぱんに詰め込んだ。後ろに積んだ獣皮がうねり、木々が軋む。その響きが、また鼓動に波を与えた。 視線を天に投げると、一羽だけの雁が目に入る。纏わる白い雲を突き抜けて、翼を羽ばたかせて行く。羽根が風に流されて行った。夜空に比べ、このただ広い淋しさは何だろう。 「雲居の雁、か。可哀想に。」 呟きはそのまま己に帰っていく。それに直ぐさま感づき、ハイローは屈折のない苦笑をした。哀れな身への不安は、いつも心の隅に膝を抱えている。親の、祖父の、更にその両親から続く、群れで歩んできた民は、ただ広い世界に一人放り出されることに不安を覚える。暗闇の中で手探りで歩むようなものだ。個で見る世界は限りなく広く、そして狭い。 だが、ハイローの漆黒の目は前を見据え続けていた。冬の草いきれを吸い込む。自分の吐いた息が白い綿になって頬を撫でていく。 いま歩いている路は、水路脇の土が積みあげられた場所で、視界が僅かに高くなる。馬の上のハイローの気持ちは高まっていた。谷の真上ほどではないが、ここでも大地に張り付く邑々や樹木たちが見える。夕方に近づき、邑の所々から細長く昇る煙り。生活の営みだ。 鳥か虫の目に僅かでも近い気がする。偶然でも、ハイローは微かに背中を押された気がした。動かぬ曇天の元の風景は、全て灰色に広がっている。老人の寝息のように、鈍く長い自然の息吹が、どこからか聞こえてくる。 これを空から眺められたら、どれ程広い風景が目の中に入るだろう。いつも彼は望んでいた。人の想念など霞んでしまうほどの広大さを思い知るのか、それともすべてが心の内に納められるように思えるのか。大地を飛び立つその瞬間まで分からない。 それに、いつものように魂を委ねようとした瞬間、全身を一陣の風が擦り抜けた。 目を向けると、二頭立ての馬車が土煙の尻尾を降りながら小さくなっていた。簡易な輿車だ。わずかに開いた窓に、豊かな金髪が視界に入った。記憶の表面に後残したのは、それがまるで春の陽光のような鮮やかな色合いだったからだ。 「ヴィーシア邑宰はいるかなぁ」 隊商たちの群れが、ハイローの脇を歩んでいった。水牛たちの汗が冷たい空気に蒸気と化していく。 ハイローは綱を掴んだ。握り慣れた荒縄は艶を持っている。 小山のように積みあげらたれ貨物の影に、隊商は隠れているようだ。冬でも、ぼんやりとした影は作られる。そこにハイローも潜って行った。 薬 担架に乗せられた患者が運び込まれる。口や鼻から血の筋が流れていた。 溢れ出す吐血の匂いに、周りの者が眉を寄せるが、幾つかの手が寝台へと持ち上げる手伝いをする。患者の群れから抜け出して、ダルディークはその前へ近寄った。 擦れた血と、どす青い顔色の対象が鮮やかだった。 「毒魚の胆。」 湯に浸した布を取り出し、血を拭い取る。塩の匂いもするのは、海藻取りだろうか。 道端に置いた箪笥から薬草を取り出し、素早く摺鉢の上に乗せて掻き回す。 「かのスィスニア湖の大戦でも、腹を空かした兵士が口にしたのですよ。すわ、敵軍が毒を流したのか!と、かの竜時代の双壁をなす英雄二人も腰を上げかけたそうです」 洒脱な口ぶりだった。薬缶を取り上げ、鉢の上に湯を注ぐ者もいる。そのまま、唇を押し開き薬湯を流し込んだ。 頬に張り付いた黒髪を撫でる。落とすさりげない翡翠の視線さえさりげない険含みで。 先まで語り合っていた神官たちは肩を竦めた。 殆ど何も言わなかった患者は、ふと目を離した隙に出て行ってしまった。残るは見舞で飾られた花びらだけである。細やかな事実は神殿の者たちが念入りに口止めしていった。 ダルディークは怪我した患者の手当をしつつ、そのことも考えていた。 神手と言われる楽士の失踪である。今の所悪い噂は出ていない。しかしやがてはそうもいっていられないだろう。このバルスの住人たちが、瞳を自分たちの生業やらに向けていられる時だろう。新しい場所というのは、それだけで意味がある。土地に棲むが故に生まれる縁の束縛が無いのだ。 ディヤウスの恩寵が傾いている。ダルディークは己の住かをそっと抜け出した。外で病んだ者たちが門前市を成している。土路に寝転がる人間の上を這う虫の上にも光が転がるのを、彼は遠目で見ていた。しばらくの間は、女たちが相手してくれるだろう。 髪を掻き上げ、雲が渦巻く空を見上げる。 治療を求める人間たちの群れは、彼の寝所の周囲に輪となり日々広がっている。少なくとも、この場では彼は王であり、神手を賜るものであった。死と腐敗が毛穴ひとつひとつまで入り込んだ患者も、際立つダルディークの容姿目当てに、仮病を使い訪れる者も。 しかし、それはバルスという地の上でこそ成されるものだったのかもしれない。相変わらずこの新しい邑は祭りの日々だ。祭りが生涯続くことを求めて訪れる者は数知れず、自分もバルスの上で店を開いているに過ぎなかった。 「しかし、邑は邑だ」 呟く。星薬会の狭まった門、財務長官の睨み−彼も良く働いているらしい。上の反応は早かった。当然だ。他者の為に働き、それで代価を受ける。それが人の造る邑の決まりだ。 主人の姿に気づいたのか、屋根から鳥が舞い降りて来た。右手に爪を立てる。 幼い黄鶲は、身を震わせ、鳴き声を上げた。目が合うように、腕を掲げる。鳥は首を傾げた。長い影が伸びる。秋の一日は半ばを過ぎた。枯れ葉も見えなくなり、雪も一片二片と舞い降り始める。 「春の大主」。ヴィーシア・アプーシズにやがて付けられた称号だ。常に人心を集める鮮やかな姿勢と波打つ金髪の外観から連想されたのだろう。春はすべてを育む。 無粒で患者を取る自分を、ヴィーシアは心の奥でどう感じているのだろう。出来てばかりの邑には効きすぎる薬を。ダルディークは、力無く瞼を閉じ、心を飛ばした。この邑の主の座にある人と、視点を合わせる。 傷付いたものには、病を負う者には、そのまま、癒しの手を施す。彼女の願いはそこにあるかもしれないのだが。−まだ、この世界全体はそれを許せるほど腹がくちてはいない。 黄鶲が小さく鳴いた。憂鬱な空の中でそれは冴えて聞こえる。 卒中、中気、酒精結石、ただれ目、喘息、骨炎、皮膚病、梅毒、脱腸、ついでに赤ンぼの取り上げまで−何でも受け入れる医者となろうか。 死ぬ訳では、あるまい。 そんな言葉が浮かび、時に少年の顔に比せられるように稚げに、彼は微笑した。 自分の影に交差するものがあった。顔を上げる。柔らかい微笑が目に入った。トゥー族の、の女性だった。中々の上臈だった。 しかし、ダルディークを受容する女性ではないことは、大切そうに腹部に添えられた両手で解った。 彼女はまた一つ顔を綻ばせ、懐の中から木札を差し出した。 黄鶲がまた飛び上がった。黒い羽根が地面に落ちる。 札を受け取ろうとした瞬間、あくまで力の無いまま、彼は引き寄せられた。足は裏の小路地へ向かう。路地奥、幾つかの影が見える。 同時に、背後で、今までは雑音でしかなかった人間たちの音が明かになった。確実に、ディークの助けを行っている者たちが増えている。時々針のように指してくる視線を感じ取った。自身の手足の動きひとつに絡み付いてくる。懐かしい感がした。−素人の目はすぐさま解る。相変わらずの混乱。だが、きんと冴えた空気は其処に生まれている。 ダルディークは苦笑を一つ落とし、両手を軽く上げた。 旅 「え…」 ハイローは開いた顎が馬の背にくっつくかと思った。 「ヴィーシア邑宰はトゥルニア音楽祭に出掛けられております」 応対に出た警邏部隊の一人は、そう優しく、しかしやや事務的に応じたのだ。 今まで通りかかった邑で受けたものに比べれば、充分しみじみ心に染み込む優しさの範疇に入るものだった。 「そうか…困ったなぁ…」 頭を掻く。空気中に飛ぶ雲脂を眺めながら、「銀狼部隊」の一人は細い目を丸くする。とことん草臥れた格好をしていながら、その男はひどく愛敬があった。遊牧の民であるひとを示す毛皮と、木の連珠の首飾り。冬でも灼けた肌。その奥の親しげな目は深い黒。見れば見るほど、奇妙な様だった。加えてその男の背後にくくりつけられている物も壮観だった。 木で作った巨大な骨、と呼ぶのが適切かもしれない。人の目ではバランス悪く据え付けられた木々と、反対側にぶら下がるまた大きな毛皮の袋。切れ端の所に、不格好な縫い跡が並んでいるのは、何かの造作品なのだろうが、似た者など一つも無い。 「音楽祭、か」 長らくの旅の末、目的が成されなかった事は、ハイローの人生の上ではよくよく有った。自然の律は遥かに大きい。人にさせられたことはそれに比べては小さいものだ。 「トゥルニアまでどれ位かかるかねえ」 天を眺めて、その目が、何とも楽しげな色にじわりと染まって行く。 「少し、遠回りをするかい?」 下の馬の耳へと語りかける。ため息のような唸りが帰ってきた。 「…よければ、宿で休まれませんか?隊商の方の為の木屋があります」 「いや、いいよ。近くにいい谷があったから。」 「はあ…」 部隊の者は、後ろの門に戻らなかった。控えめに問いかける。 「あの。その木と布は…」 風に膨らんでいる布は船の幌布のようだった。そう言えば、出来損ないの船とどこか重なる気がする。 ハイローは、馬を撫でながら応じた。 「凧だよ」 「…はぁ。でも酷く大きいですね…」 「そりゃそうさ。人一人乗せるからね。骨も布も大きくとらないと、落ちてしまうさ。」 目を白黒させる。遊牧のものの独特の秘術かなにかかと感じたが、呪いのものにしては無骨過ぎる。考えを明確にしようと努力するうちに、巨大な架を背負った男は馬と共に去って言った。呑気な鼻歌が、風の変わりに流れた。 きざはし 遠く空気を掠めるのは小波だ。 低く、其処に淀むような音だというのに、身を浸されてしまうようだ。 空は薄く、濃青の玻璃にも似た上に、雲が泳いでいる。遊牧の一群のようにように空をわたって行く。 トゥー・ラスカは目を覚ました。先ず目に入ったのは、風に舞う自分の銀髪だった。一本一本、うねりながら極光に似た色彩を滲ませている。 背中に、凍った土が刺を差す。長らく、四肢を投げ出し眠っていたことに気づく。視界の中天には星が一つ瞬き、それら自ら伸び上がるように銀の髪が波打っている。 トゥー・ラスカは冷たい微睡みの中、それまでの記憶を数えていた。旧きバルスに行き、新しいバルスに行き、瞬間、胸に刺す痛みでそこで起こったことを確認した。 耳元に何ものかが唇を寄せた気がした。さりげなく親しげに囁きかけられるような響き。 やがて、それは己の回りで幾重にも芽生え。祈言のように口の中だけで呟く言葉に似た。 それが突然止んだ。視界に、おどおどとした動きで何ものかが見えた。 黒い髪に翡翠の目。少女だった。瞳の丸さは小鳥のようだった。それが何の種族があるか、さえ忘れていた。指が動いた。幼い頬に触れる。少女の手がそれを受け止めた。温もりが薄れ掛けた自意識を揺り戻し、小さく鼻を擽ったのは、塗料の油の匂い。 唇が動く。潜められた眉、吐息は乱れがちだ。 衣は塩花の破片で汚れている。それがきらきらと、月も無い夜だというのに輝いていた。 周りに幾つもの影があることに気づいたのはいつ頃だろう。吐息と共に、彼らの身体は震え、生きている人であることを知った。 ─帰ってきてしまったよ 唇が動いたのは、自分の心からのものではなかった。別の思念が脳裏の片隅に巣くって息をしはじめる。そう感じた間に、ラスカの念はまた薄まっていった。 |
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