会誌-「第10回会誌別冊 ナーラダ戦記」

■ ナーラダシナリオ#1「乱」(独立暦402年火の月)


【カリフ・イーマーン・マラーイカ:高砂キカ】

 そこは色の花咲く反物の家だった。間に、質素な衣服を身に纏った人が擦り抜けていく。花を抱えた農夫のように、一瞬見まごう。
 開けた格子窓から、熱を抱えた夏の風が吹き込んで来た。マラーイカはおさ打ちの手を止め、揺れる前髪を指先で触れた。陽光を受けた額が熱い。火の月の陽光は、より力強く、天に炎が巡っているようだった。
 サイダバードの砂丘も、砂の一粒一粒に熱を孕み、ほんの僅かに過去の記憶と重ならせる季節だ。しかし、今は、目の前に窓を通して広がる景色は、青々とした木々の連なりと、同色の絨毯のような丘だった。時折汗を吹き吹き通りかかる人々も、薄い色彩の服
 太陽の光が強ければ、その脇の月の存在もより際立つ。地の上に、月の分かれ身が降り立っていた。窓のすぐ近くに、円形のその影は降りている。その影を見取ると同時に、マラーイカの指は己の胸元に重ねられた。
「…願わくば、ルナ様、変わらぬ光で見守っていてください。」
 声が落ちてきたのは、祈りを放ったのと同時だった。
「大丈夫かい?余り根は詰めるんじゃ無いよ。」
 丁度図上てせ大きな腹を、巨大な帯で抑えた婦人がマラーイカを見下ろしている。餅のようにふくよかな肌全体に、塗り付けたように汗が滲んでいた。軽々と円筒形に纏めた布を抱えているが、汗が布に染みないように、腕を微妙に傾けていた。
 マラーイカは、瞳を合わせたまま微笑した。さりげない驚きがその面に浮かんでいる。指は胸の上のままだ。
「大丈夫です。熱い中での作業はずっとやっていました。」
「そうかい…」
 婦人は、おさ打ちも殆ど終えた布に目を降ろした。夏用の反物である。細い糸で透けるように織られた布だ。極薄の空色の布の上に、幾何学模様風の花片が一杯に満ちている。身を包むものだというのに、どこかひんやりとした雰囲気が匂う作品だった。
「おふくろどの、氷いりのお茶ないかなぁ?」
 反物の山の向こうから、大福帳を手にしたエリシュが声を上げる。首に布を巻き付け、顎からは汗の滴を垂らしていた。華やかな反物が増える度、人間たちの疲労は増える。布を痛めない為に風はなるべく呼び込んでいるが、滲む汗は一日ごと量を増している。
 マラーイカだけは平気な顔をして、頭に籠を乗せて右から左へ足音を立てていた。
「氷室からとってきな。あたしはこれから工場に籠もるんだよ。」
 婦人は細く整えた眉を寄せた。声自体は穏やかだが、妙な圧力がある。彼女はエリシュの反物屋の従業員だった。しかしエリシュよりも権力等は強いことを、その場にいるものは生きる為の知識として知っている。この店と工場に変わった粒は、皆彼女と彼女の家の者の何番目かの財布から出ているのである。
「俺もスィスニアヘ大切な商談なんすよ。」
 マラーイカは頭を上げた。椅子の上に織物を落とす。
「あの…雲徳殿ですか?」
 声が飛び込み、エリシュと婦人は顔を向けた。黒が凝縮されたような髪が、夏陽の光にも光っている。マラーイカはその面に、小さな堅さを秘めて立っていた。その表情に、エリシュは微かな既視感を感じた。
「私も…ついていって宜しいでしょうか。」
 琴音のような声の響きだ。口に蓋をしたがる者ほど、時に口よりも鮮やかな鏡を持つことがある。
「そりゃ、ナジを含めて荷物持ちがいてくれたら有り難いが…マラーイカは後宮を嫌っていたのだろう?」
「あの、でも。私たちが作った布がどんな人に着られるのか、知りたいのです。それに、後宮は男の人は余り入ってはいけない場所ですし、お手伝いしたいです。」
 困ったようにエリシュは息をつく。目を細めて、マラーイカの身体を見つめた。視線の力は抜け、夏の陽光より柔らかい。しかしその目に、マラーイカは身を固くした。
 生きるものは、皆己の一生を捧げるべき業を見つけ、その路を辿り続けなければならない。─遊牧の律といったものの鎖は、14の彼女さえ縛っているらしい。それに行き着けるだろう鍵は、今間違いなく彼女の小さい手の中にあるというのに。
 マラーイカは、織布に包んだ旋刃を握り締めた。不思議な武器屋に貰って以来、彼女にとっては天から降ったお守りのような存在になっている。常に宿る重い焦りがすこしだけ和らぐ気がするのだ。
 その時、暖かな感触が頭上に落ちた。
「ま、いいんじゃないの。どうせ、男は宦官しか駄目なんだ。アタシも工場があるしね。」
 柔らかい大きな手が、マラーイカの頭を軽く包む。人の肌に触れられる時だけ生まれるくすぐったい感触が伝わってくる。見上げると、強ささえある微笑みがマラーイカを見下ろしていた。
「…ハルナさん。」
「人生勉強だと思って行かせてみなよ。」
 エリシュの目には、ため息と同時に、何かが溶けたような色が浮かんだ。口元に常とは違う微笑が滲んだ。彼の、淀みも似た翡翠の目は波打たず穏やかなものだった。
「…そりゃあ、僕も宦官になる気は更々ないのでね。」
 それをマラーイカは、丸い琥珀の目で見つめていた。呟き程小さな声で問いかける。
「かんがんって…どんな人なのですか?」
 蝉の歌が、室内をくるくる回って空気を引き裂いていた。

 巨大な門の前、娘子軍の兵士は、瘤付きの子馬を連れた小さな少女を見下ろした。面には驚きが浮かんでいる。後ろのエリシュが、軽い言葉でいなした。
「商人はこの子ですよ。」
「カリフ・イーマーン・マラーイカです。」
 兵士は、顎を撫でつつマラーイカを見下ろした。
 マラーイカは目礼を返す。背中に反物の山をくくり付けたナジも、「ぶし」と鼻を鳴らしそれに従った。琥珀の視線と、睫に飾られた駱馬の目が、兵士に注がれる。
 時刻は昼下がりだった。火の気は砂が削れるように失せてはいっているが、長い壁や舗装された道は殆ど白く光っている。蝿が一匹、羽音を巡らせてナジの尾っぽに纏わりついている。雑踏の中のスィスニアの街─昨今セルフィアで復活した概念だ─というのにこの辺りだけは沈黙が落ちていた。
「宮女候補ではない…な?」
「ええ、それはもう。この子供はまだ幼いので。」
 その言葉を聞き取り、マラーイカは常と変わらぬ口調で声を出す。
「私は、まだ子は生めません。」
 突如、兵士とエリシュの間だけ、背中を短刀で貫かれたような空気が生まれた。

「ここで待ってるよ。」
 エリシュの声を背に、反物や細々とした商品を布に包んだものを頭に乗せる。小さな金細工が鳴ったのが聞こえた。エリシュから、サイダバードの工芸品も入れなさいと言われたのだ。
 蝶々を引き寄せる匂いづけになるだろうさ…その言葉は今一よく分からなかった。
 眼前に巨大な扉があった。目をこらすと次々と情景が生まれるような彫刻が刻まれている。木の筈だが、触れると引き込まれてしまうような生気があった。枠を飾るのは青銅だが、マラーイカの手など潰してしまうような取っ手は銀の塗装らしい。
 真ん中の直線が扉を二分している。それは、殆ど目につかず扉に埋もれているが、今僅かずつ開き、向こうの光を伝えた。吹き込んだ風に、前髪が揺れる。
 扉の先は、異世界が広がっていたと、マライーカは一瞬錯覚した。
  澄んだ水を含んだ風が、封印から解かれたように彼女の回りを一瞬包む。それは存在を感じさせた瞬間、空気の中に溶けていった。
 火の月だというのに、雲徳殿の中は涼しかった。元よりそこに根を張っていたように葉を広げる大樹、光を蓄えた川。そこから漂う水の匂いには交じりは無く、吸い込むだけで、澄んだ味の余韻が広がる。蓮の花の一片の鮮やかさに瞳が引き付けられた。
 マラーイカは琥珀色の目を開くしか出来なかった。ちからを持つひとは、世界をも創れるのだ。風も、光も、樹々も─無の場所から。実感が沸いてくる。
 ナグモ・リューンという人がどんな人かは分からない。どうして、いくさを求めるのか、多くの妻を一カ所に集わせるまでして己の血筋を多く残そうとするのか。─謎は、マライーカの心の中に雑多な思いと共に固まっている。それらが彼女の心に与えた方向性は、リューンという存在への恐怖感だった。
 ただ、以前エリシュと舟の上で交わした会話が、それに溶け込めず浮かんでいる。

「そうだねェ…何かを終わらして、何かを始めようとしている人のように、僕は感じるよ」
 哀れに鳴き声を上げ続けるナジを撫でつつ、マラーイカは呟いた。
「…始まりと、終わりですか?」
 エリシュは目を少し丸くした。不精髭を剃ったばかりの顎を撫でる。
「…ごめんなさいっ。間違えてしまいました。」
「いやいや…『終わりと始まり』『始まりと終わり』ね。どちらなんだろうねぇ。」

 空気に舞う脂粉、紅の匂い、布に焚きしめられた香の薫りが鼻を擽る。
 娥舎では、肌の白い奇麗な人々に目を見張った。白い唇や瞼の上に、青や桃や翡翠などの色を乗せている。ふと浅黒い手の平を目に入れる。
 ここが、商売の中心となる場所だ。しかし、マライーカの考えつくことといえば、ひとつひとつ戸をたたき、反物や工芸の物を見せることだけだった。丁寧に織った夏様の単衣、更紗、そしてサイダバードに根付く技術を使った工芸品や絨毯など。
 珍しげに接してくる人もいれば、明かに出会ったばかりなのに侮蔑の目を滲ませるひともいた。一様に滲むのは、何か、目の前の存在を、工芸品と同様の珍しいものとして見なす色だった。その度に、マラーイカの心は灰色に包まれる。それは、彼女の心を酷い疲労に染めさせた。
 大きな柱の影に凭れる。背を丸くし、顔だけを天に向けた。
「…ルナ様。」
 胸を握り潰されるような、感情ともいえないものに襲われたのはその時だった。
 透明な水の滴が、金の環の上に落ちた。


…ごめんなさい。前回にも増して分からない内容になっちまいました。文がくどくなり長くなってしまうのは悪い癖ですね。…ここまで読んでくださった奇特な方、本当にありがとうございました。


【ファーカル・ナヴィス:剣山翔】

「私には無理なのですかね……」
 ティムさんに頼まれている皿洗いをしながら私は独り言を言ってしまいました。
 最近独り言が多くなりまして、特に夜中の寝る前なんて他人には見せられないくらいぼやいています。
 それもこれもティムさんのあの表情が原因になっているのです。こう、なんといいますか、私に対する視線が冷たいんですよ。
 しかも最近、ティムさんは私に雑用を押しつけて暇をくれないんです。なんででしょうね。
 まぁ、何となくはわかりますが、まさか姉弟が恋人同士とは考えにくいですが、ティムさんにとって店長は尊敬すべき姉ですので、私が入っていって何かするのはご不満なのでしょう。
 とはいえ、男色ディーノに追われている身の私にとって恋人を作るのは急務です。
 いや、まてよ……ディーノといえども敵は一人、こちらが数十人ともなれば奴とて不用意に私には近づけないでしょう。
 こっちの方が断然簡単ですね。女心のわからない私にとってはこちらの方が簡単です。
 しかし……肝心の味方になりうる同志がいない……まさか、今から故郷に戻って兄と妹とその友達、そして私の友達を連れてくるわけにもいきませんし、そんなことをしたら怪しまれてしまいます。
 私はそんなことを考えつつ、皿洗いを終えて自室へ戻り、同じ事を考えました。無論、独り言を交えてですよ。
 ですが結局、完全な結論は出ずじまい、疲労もあってその日は寝てしまいました。
 さて、その翌日、前日の一端の結論に従って店長へのアプローチを諦めた私は労働に励みつつ、今後の方策のためになる情報を手に入れるべく店内をうろうろしたりしていました。さすがに、必要以上であったために店長に注意されましたけどね。
 しかし、急がなくてはいけません。ディーノに狙われて価値観の変わらなかった男はいないと聞いています。私はその仲間には入りたくありません。
 そうこうしているうちに、時は放たれた矢のように過ぎ去り、火の月の12日になってしまいました。
 この日、私はようやく方策に為になる情報を手にすることが出来たのです。これも12日の別名であるナーガ神のお導きに違いありません。
 その情報とは、どうやらこのウォウルと故郷リビュニアの中間よりややウォウル寄りに居を構える山賊の親分が病没し、その下にいた副頭目と参謀役の二人が反目して仲間割れを始めたと言うことでした。
 普通の人ならば大半が「山賊同志が殺し合って消滅すればもうけもの」と考えるでしょうが、私は少数派に入る意見を持っていました。
 そう、この山賊同志の仲間割れを利用してどちらかに恩を売って協力してもらうという策を思いついたのです。
 ですが、どちらに恩を売っていいやらわからず、さらに手持ちの武器は大したものはなく、これでは恩を売る前に殺されるのがおちです。
 そこで、食費と税金分を除いた手持ちの金を惜しみなく使用して武装することにしました。少々武装しておくのは軍人のたしなみ……母上、良い教訓をありがとうございました。
 と言っても、100粒強位しかない……これではなにも購入できません。
 ええい、こうなれば借金も致し方なしです。確か、最近知り合ったファングさんと言う方が金貸し業務を行っていると聞いたことがあります。
 ともかく、ファングさんからお金を借りてその資金を持ってウォウルでもその名の高い武器屋へ行って武器を購入、その後で急いでその場へ駆けつけなくてはなりますまい。
 情報がここまで伝わるのには二日以上かかりますから、発生は9日くらい。両人ともそれなりの戦力があるならば反目しているだけで決戦には及んでいますまい。
 ならば、まだ間に合う。私は急いでファングさんの所へ向かい借金を申し込むことになりました。


【ランギヴァラーハ・ライラ:ハイト弐拾八号】

火の月 無宿人ランギヴァラーハ・雷羅のアピールシーン
    BGM エリック・クラプトンの「ライラ(レイラ)」
    場所 ターヌ地方西部の小邑ド・コカ

 砂が踊る。繰り返し巻散らされる真砂がやがて点描画の一端をなぞるように一つ個所に収束していく。大道芸人の砂絵は朱と黒、そして黄砂からなる一人の人物を浮かび上がらせる。往来の人垣の中、黙々と砂をたらしていく遊女風情の女は、はだけた着物の開襟を強調するように身を屈めた。夜鷹の昼の姿なのだろう。それにしては見事な砂絵だった。余興、そんな言葉で終わらせるのが惜しいかな、そんな思いがこの往来を過ぎていく。だが、過ぎていくだけだ。言葉は枯れる。そして口にしなければ枯れるのも早い。所詮、言葉は形の伴わぬ絵空事。大道芸の砂絵がやがて風に巻かれるが如く、これほどおぼろなものはない。

 「風情…」
 「なんだって?」
 「風情かな、と言った」

 二つの人影が往来の人垣の中にある。一人はフードに頭部を包み込み俯いた視線を即興の大道芸人の垂らす砂の行方に重ねている。もう一人は…極楽鳥が羽を広げたような奇抜な頭髪を緑に染めあげ、所々透かすように金の網目模様を入れた挙句に額に三日月の紋様を彫っていた。一見の者は例外なくその風体に圧倒され、気の弱い者は視線をそらし道をあけ、気の強い者は視線の先に得体の知れぬ隔たりを覚え、毒気を抜かれ道をあけた。何れにせよこの男の先にはあたかも見えない壁で左右を遮られた通路が続いているように道が開けていった。(そうまるでモーセの出エジプトにおける海が割れた状態である)

 気が付くと極楽鳥頭の男は歩きながらそれとなく往来の露天から獲物を失敬している。フード頭のほうはそれを知ってか知らぬのか、先ほどから一言もないまま人の流れに身を任せていた。二人の踏みしめる長靴の先に乾いた砂がこぼれていく。その砂は目的もなくそぞろ歩く様を反映するように、これもまた決まったとこのない風に乗って何処かへ運ばれてゆく。
 「食うか」
 「いや、いい」
 「昨日から食ってないだろ。それともあれか、武士は食わねど高楊枝、あんたそういうくちか」
 「食うときには食う、だが今はその時ではない」
 「とか何とか言っちゃて、さ」

 フード頭が何か言いたげに頭を極楽鳥頭の方にかしげた。だが、かしげた頭をそのまま元に戻すと再び往来の人の流れに溶けていった。

***


 八武衆が一人、ランギヴァラーハが離反。この報が清竜殿にもたらされたときそれを受けるべき当の主は日課であるナーラダ体操の真最中であった。腰に手を当て上体を反らしたままブラフの負傷とライラの離反を聞いたナグモ・リューンは蛙を潰したときのような奇声を挙げて息を吐き出したという。

 「ライラがブラフ老を撃っただと、で無事なのか」
 「はっ、老は一命を取り留めたよし」
 「いや、ライラは無事なのか」
 「は?」
 「だからランギヴァラーハ卿は無事かと問うている」
 「い、いえ逃亡しおおせたとの事で、ブラフ老が討伐隊を既に差し向けたと聞いております」
 「そうか、無事か。では良い、俺はまだ体操の続きが残っている」

 その先を無言で引き継いだ使者が退出したのを確認したリューンは誰ともなく呟いた。
 「もし私が間違っているというのなら、その時は卿が実力をもって予を圧倒せよ。いつでも待っているぞロイエンタールよ、ん?誰だよロイエンタールって」

 リューンが分裂症状を来たしている頃、野に放たれた一条の矢はその先を再びスィスニア向けて回頭しようとしていた。

***


 「スィスニアに戻るってか!?」

 極楽鳥頭がすっとんきょうな声で赤毛の女の顔を凝視した。板張りが軋む安宿の一室。長らく泊まり客のなかった室内のそこ此処に埃が堆積し層を成していたが、極楽鳥頭の声に驚いたようにその時間の層を乱している。赤毛の女はそんな室内のすえた空気を払うようにゆっくりと首を縦に振った。そしてその足で窓辺に近寄るとすっかり日に焼けて黄ばんでしまった窓布を引き裂くように割り、部屋の空気を解放しようとする、が、開かない。赤毛の女は少し不機嫌な様子を示し、窓枠と格闘している。

 「あちゃー、確かにここって人目には付かないけどさ、あれなんじゃない。もうちょっとグレードの高い部屋取れなかったの」
 「文句を言うならお前が野宿すればいい。そうすれば二人分の料金でさらに高いグレードの部屋がっ」

 赤毛の女が語尾に力を込めた瞬間、格闘していた窓枠がようやく降参の意を示した。放たれた木枠のさらに向こう側、下ろされていた雨戸をずらすと赤毛の女はやっと待望の外気に頬を晒し短い吐息を付いた。既に夜の帳は降りてしまっており、昼間の猥雑さは見下ろした通りには見られない。本当に小さな邑だった。

 「星が、きれいだ」
 「どれどれ、あっ、ほんとだ。さすがド田舎、空気が澄んでる証拠だな」
 窓枠から顔だけのぞかした極楽鳥頭が素直に感嘆のため息を漏らした。牛乳をぶち撒けたような白い光天が頭上に広がり、不規則にまばたきを繰り返しながら思い思いの姿で空にぶら下がっている。

 「デュオ、あまり近寄るな」
 「何だよ失礼な奴だな、そんなに信用できないか、俺は」
 「それもあるが、落ちそうだ」

 相変わらず冷静な口ぶりで現況を解説しているライラの身体は、デュオが顔をのぞかしている事によって、大きく外に向かって圧迫されていた。いや、正確には身体が触れるのを避けているライラが自ら窓の外へ乗り出す恰好となっている。絶妙のバランス感覚は馬上で鍛えられた弓術の賜物であったか。重心を室内に残したままライラは耐えていた。しかも、きわめて冷静にである。後世、彼女は冷酷な女であったと評されることが多いのは、この無愛想なまでの冷静さが負の方向に解釈された結果だろう。簡単に言えば彼女は歩いている途中で信号が青から赤に変わっても決して走らないタイプの人種であった。信号?いや、それはいい。

 「でも、本当にスィスニアに戻るのかい」
 「考えはある、そして気になることも」
 「あの男か」

 赤毛の女は至近距離でデュオと呼ばれた男と見つめあった。彼女が思いを馳せたのは一月ほど前に離れ離れになった部下のことである。ヒューバート、そしてレリューコフら北蛮関駐留軍。風の噂ではレリューコフは駐留軍全体の免責と引換に逮捕に応じたという。いわば人身御供だ。駐留軍の動きは彼の犠牲によって牽制されている。だが軍団長が離反した部隊だ。さぞ肩身の狭い思いをしているに違いなかった。

 「私は北蛮関指令アズルードのもとに投降しようと思う」
 「正気か、そんなんであの人が喜ぶかな?」
 「あの人?」
 「い、いや。こっちの話」
 「だが本当に投降するわけではない」
 「というと?」
 「そのためにはデュオ、お前に頼まなければならないことがある」
 「へえー、珍しいね。そっちからお願いしてくるなんて」
 「これは賭だ。私はお前の目的はわからない、それに他の様々な条件も時として不運 な組合せとして現れてくる。悪いときには、それは大抵連鎖するものだ」
 「ふむふむ、それで俺はどうすればいいんだい」
 「ウォルウの地に赴いてかの若い王に会ってもらいたい」
 「なんか、話がデカイな、おい」
 「だから賭だといった。このままでは生活していくこともできないだろう。あと一週間もすればこんな安宿にすら身を隠すことができなくなる」
 「それで投降するフリをして、敵さんのおマンマにありつくわけだ」
 「有り体に言えばそうなるな。こちらから出向くのだ。要塞にブラフ老でも駐留していない限り地下牢に拘禁ということはない、だろう」
 「一軍の将なら、まあ軟禁程度で清竜殿との連絡の間は据え置かれるだろうね。まさかアズルード卿が賞金に目が眩んで手をかけたりは…」
 「そこで意味有りげに溜めるな」
 「冗談、じょーだんだって」

 その夜、赤毛の女ライラはデュオと夜の更けるまで話し合った。スィスニアに戻り、そして再び舞い上がるために。

***


 フードが風を孕む、めくれた頭巾からこぼれる赤毛が日の光に真っ赤に照っている。単騎行、デュオと別れたライラは一路その足を北蛮関へと向けた。既に昨夜の宿をとった小邑ははるか背中だ。乾いた砂と背の低い草むらが何処までも広がり、ライラの行く先に横たわっている。上手く行くだろうか、そんなことを考えながらライラは少し伸びてきた赤毛に無意識に手をやった。毛先は不揃いに切り落とされている。カールしているのは天然だったが決してファションのつもりではなかった。しかし、他の者にそれがどう映ろうがライラ自身にはことさらそれを説明する気はなかった。朱く、そしてショートの髪は自らに課した証なのだ、咎人ということを一刻も忘れないための。そしてその証は失った兄と自分だけに横たわる記憶なのだった。それ以外は何者も介在できない朱い記憶。過去に思いを馳せながらライラは懐から兄の形見の短刀を取り出すとそれを毛先に当てがった。滑らせるように短刀の刃を短くひくと朱の毛先が風にはらはらと舞う。
 死者の死に死以上の意味を持たせることが、果たして意味のある死になるというのか。それはまだ彼女には分からない。分からないが、名も無きものたちの無念や怨嗟といった無形のものだけは確かに降り積もっている。それは感じていた。


【カレリア・ロアン:三純るく】

 大国スィスニア。その中において最も華やいだ場所の一つが、ここ、人と品物に沸き立つようなエルヴァ通りだ。折しも話題の2つの店(CCFとロージア)が入って来たばかりとあって、こんな清々しい買い物日よりの午後は歩くことさえ困難なほどの人出であった。
 さて、この大変な人混みのなかを二人の男女が歩いていた。黒服の青年と、赤い長衣の若い女性。ともに品の良いフォーマルな印象を与える二人であった。ただ、どちらかというと青年のほうが物静かで実直な、旧家の執事めいた雰囲気を漂わせているのに対し、女性の方は明朗快活,身のこなしにも無駄のない、しっかり者のキャリアタイプの空気をまとわりつかせている。共に要領よく雑踏を踏み分けて行く様子にもその性格の違いは現れていた。青年は、掬った指の間をすり抜ける水のように自然な流れに乗って進み、女性の方はよく切れる鋏がすいすいと紙を左右に切り分けてゆくような鮮やかさで、器用に進路を開く。きっと同じ要領で人生も切り開いて来たのであろう彼女は、黒竜書房編集部の若手キャリアの一員にして、作家カレリア・ロアンの担当さん、アルニカ・アシュヴィー(通称アッシュ)であった。黒竜書房はシーランに本社を置く出版社である。今日は、仕上がったと連絡のあった短編三本の原稿を持って帰るのがお仕事で、そのアシュヴィーにロアンからの原稿をリレーするのが、青年、クレス・ディルのお役目だった。
「それにしても・・・どうしてその店でなきゃならないんですかアッシュ。通りに入って行かなくても、他にもっと落ち着いた場所もあったでしょうに。」
 絶え間ない人の波に、少しうんざりしてきたディルがこぼす。アシュヴィーの指定した待ち合わせ場所はエルヴァ通りのど真ん中の店だったが、偶然ふたりは通りの入り口で出会ってしまった。それならそれで、もう「待ち合わせ」ることはない。そのへんで原稿の受け渡しなどすればいいのだが、アシュヴィーが頑として譲らなかった。どうしてもその店でなければイヤだというのだった。
 しばらく歩いて目的の場所にたどり着いた。その店は、そう古くはないが悠然とした佇まいの菜館で、質の良い材で築かれた雅な高楼を別館に持っていた。
「どう?気に入ったでしょ。別館のほうがいい雰囲気なのよね!落ち着いて話したり、優雅に午後のお茶を楽しむのに最高の所よ。高級そうだけどそんなに敷居の高いとこじゃないし。まあどっちみち経費で落としちゃうから関係ないけどね。」
 両手を腰にあてて得意そうに言う。どうやら予約を入れていたらしい、高楼の最上階の一室へと通された。さりげない上質さを感じさせる落ち着いた部屋だ。黒檀の端正な卓上で、青磁の花瓶に挿された白木蓮がたおやかに花びらを広げていた。開け放たれた窓からは通りの賑わいが見て取れる。雲徳殿の景色を知る彼が見てもやはり華やぎのある光景だった。
「これが原稿、はい、確かにお預かりしましたっ!ん、これも?先生四つも短編書いて下さったの?すごーい!」
「ああ、それは別です。貴方へのお手紙だそうです。確かに短編一つ分ぐらいの分量がありますね。」
「そう・・・これは帰って読むわ。ところでディル君、先生はお元気?後宮入りされちゃってから、私一度も会ってないわね。先生ならどんなとこでも大丈夫って気もしなくはないけど。それに例の計画の方はどう?順調なの?」
「お元気ですよ。今は試験の準備などなさっておいでです。もうすぐ宮女試験ですから。今のところ、全て順調のようです。“作品”づくりは。」
 アシュヴィーはこれを聞いて安心したように息をついた。肩の辺りで前下がりに切り放した髪が、自由奔放に揺れる。その微かな空気の動きが飾り気のなく仕立ての良い衣服から、リレイア商会の香水“エゴイスト”の香りをディルに届けた。ロアンの愛用の銘柄。ロアンの担当編集者であると同時に熱心な読者であり、歴史探究者としての立場においては弟子を自称する程のアシュヴィーである。憧れの人の真似をしてみたくなる心理は分からぬでもない。彼女は今までの担当の中で最も気に入られていた。一見普通で快活なアシュヴィーにも、自分と共鳴する微かな狂気があることを、作家は見抜いたのだ。
「先生の担当になれて良かったわ。先生は、他の作家や学者とは違うもの。他のどんな人達にも出来なかった・・・いいえ思いつきもしなかったでしょうね、そんな計画をなそうとされてる。素晴らしいわっ!歴史自体が完璧な形を持った先生の作品になるのよ。きっと劇的なものでしょうね。先生の最近の研究テーマ知ってる?」
 夢見るように語る彼女はいつもの明るいお姉さんとはちょっと、違う。
「体裁の崩壊、繁栄と退廃、戦乱の悲劇、廃墟の美、大乱の中において個人の思想がどこまで保たれ得るか・・・そんなところに興味をお持ちのようでしたよ。」
「じゃ、演出の為に邑の一つや二つはきっと消えるわね。華やかな街が滅びてゆく壮麗な場面もきっとあるわ。この通りなんて格好の舞台になるかも。ナーラダ全体が壊れて行く様を、マクロの視点で描くのも一つの技法かもしれないわね。巻き込まれる人達はある意味光栄よ、構成に残る最も完成された作品のなかの登場人物になれるなんて。私と君もそうね。純粋な天才の大作作りの助手に選ばれたんだものね。」
「そうですね。」
 本当は、私と貴方とは少し違うのだけれど。ディルは心の中でつぶやいた。貴方はあの方と少し似ている。“作品”作りに貴方自身が魅力を感じている、だからそれを思いつき、それを成せるロアン様に惹かれるんでしょう?私は歴史自体はどうあっても構わない、ただあの方のお役に立ちたくてお側にいるんです。あの方の夢だから、かなえて差し上げたいんです。
「君って不思議ね。君みたいな普通っぽい子が“手”として選ばれるなんて。」
「手・・・?どういう意味ですか?」
「知らず操られる“駒”とは違うの。先生の意志を遂行して“手”は“駒”を動かす。先生の思惑通り動く点は同じだけど、“手”はね、あくまで遊戯をする側の立場にあるから、形成不利となれば盤上から引かせてもらえるわ。駒は盤上で死ぬこともあるけど動かす側は死なないでしょ。君はどうも操られてる側には見えないものねー、ただ騙して使うだけなら簡単そうに見えるのに。あ、気、悪くしないでね。悪い意味で言ったんじゃないんだから。」
「・・・・・。ところで折角こんないいお店にきたんですから、ここらで何か頼みませんか。」
「そおね。いいこと言うじゃない!あ、そうそうここ出たら、買い物つき合って。編集部のみんなにお土産買ってってあげたいわ。」
 あくまで押しの強い彼女であった。

 後宮に戻ると、ロアンはにっこり笑ってディルを出迎えた。
「ご苦労様、ディル。デートは楽しかったですか?」
「からかわないでくださいよー。原稿を渡したあと、エルヴァ通りでえんえんと買い物につき合わされて、荷物持ちまでするはめになったんですから。ただでさえ疲れる相手なのに・・・まいりました。」
「あの子、自分のペースに人を巻き込むの得意ですからね。でも、損はしなかったでしょう?」
 確かに、初めの菜館だけでなく、その後もいくつかいい店を教えて貰えたので損ばかりの気はしない。
「自分は勿論相手にも何か得になる、そんな人付き合いの出来る子だから、同僚や後輩、上司にも信頼されている。人望と仕事の正確さが評価されてきた子なんですよ。」
 お気に入りの担当をそんな風に評すると、ロアンは機嫌良くお茶をすすめた。
「ところでアッシュには、ウォウルへ行って貰うことにしました。」
「えっ?」
 驚くディルを、氷湖のような冷たい知性に満たされた瞳に映し、作家は微笑む。
「あちらの情勢をしりたいですし、ウォウルで計画の微調整を行う人が欲しかったんです。まあ保険をかけるぐらいの気持ちですよ。ウォウルはスィスニアの大事な敵役。簡単に負けられても困るし、今の時点で邪魔がすぎるのも困りますから。」
 淡々と言ってふと青年の肩口に目を留めた。素直な黒髪を束ねる翡翠色の絹リボンが、人混みで無くしたのだろうか、仮どめの細紐のみを残して消えていた。確かまだ同じものがあったはず・・・。出してきたそれを、手ずから結ってやる。
「これでよし、もう無くすんじゃありませんよ?よく似合っているんですから。」
 純粋な貴方には、貴方自身を司る二つの色、髪の漆黒に瞳の翡翠だけが相応しい。何も余計なものは要らない。ふとそんな事を、ロアンは思うのだった。


【乱(独立暦402年火の月):ダンディ中年】

 雲一つない青い空。そして、その大空を自由に飛ぶ鳥達。
 少女は目を細め、その情景を眺めていた。
「私も・・・あんなふうに飛べたらいいのに・・・」
 鳥のように飛べたならば、どんなに楽しいことだろうか。
「ねえナジ・・・貴方もそう思わない?」
 カリフ・イーマーン・マラーイカは駱馬のナジに首を撫でるようにして訊ねた。
「鳥達は、楽しそうに雄大に空を駆けているというのにね・・・地上の人々は・・・どうして・・・・」

さあ 眠りなさい
疲れきった 体を投げ出して
青いそのまぶたを
唇でそっと ふさぎましょう
ああ できるのなら
生まれ変わり あなたの母になって
私のいのちさえ
差しだして あなたを守りたいのです
このまちは 戦場だから
男はみんな 傷を負った戦士
どうぞ 心の痛みをぬぐって
小さな子供の昔に帰って
熱い胸に 甘えて
(HIROMI IWASAKI:聖母たちのララバイより)

 この月のはじめ、ナーラダ・ヴィレクはウォウル王の名に於いて慰霊祭を行った。昨年のセルファニア湖の戦い、俗に「火の50日間」と呼ばれたこの戦で、命を失った者は5千人を超えた。ヴィレクはスィスニア兵達を含むものとして、この慰霊祭を行うにあたって、その中立性を内外に示すために、ナーガ大司祭ルシャナ・シルキーヌを招いていた。彼女は国という枠組みを越えた存在である。過去にスィスニア邑宰という肩書きを持ち合わせてはいたが、己の中に抱えた矛盾を解き放つために、その地位を親類のヴァシュナ・シリルへと譲っていた。そのため、今の彼女はどの勢力にも属さない。ヴィレクにはこのナーラダの民達に平等な、中立的立場の者に慰霊祭を取り仕切ってもらうのが、もっとも意義があることのように考えられたので、それに相応しい者としてシルキーヌを招いたのであった。
 一方、スィスニア王国のナグモ・リューンは時期を同じくして、数日に渡り、民衆の前に姿を現し、大演説を行った。その中で、このナーラダの地に麻の如く乱れた世をもたらすことになった張本人として、ヴィレクの名を挙げ、真の平和をもたらすにはこれを誅滅せしめることが唯一つの方法とした上で、スィスニア王国は打倒ウォウル王国の姿勢を一層強めることを内外へと示すこととなった。

 エルヴァ通り・雲徳殿前。
「結局は、同じ穴の狢だろうに・・・」
 リューンの演説に拍手喝采を送る民達を後目に、彼の能弁を聞くことにハヤは強い不快感を覚えていた。リューン自身が戦乱の原因の一つであることは、本人だって自覚しているはずだ。それでも民達の前ではその正当性を証明しようとするところに、権力者の、いや大人の汚れた部分を見たような気がしたのだ。
「立て前だよ、ハヤ・・・」
 ハヤの心を見透かしたかのように傍らの女性が声を発した。
「立て前・・・ねえ・・・」
「国には大義名分が必要だ。客観的な事実がどのような形をしていようと、民達にはこれから進むべき道を示すための材料となる真実のみを伝えればよいのだ・・・」
「それが偽りの真実であっても・・・か・・・くわばらくわばら・・・」
「まあ、そうぼやくな・・・。それより私は執務に戻る。陛下の護衛は任せるから、何かあったら死んでも守りきれ」
「それはないぜ、シュラ様」
「ふふっ・・・やんちゃ坊主のお前も人並みに命は惜しいか。だが案ずるな、何かあってもお前の出番などは十中八九ないから。その前にライゾウ達、隠密衆が片付けているさ」
 そう言葉を残し、シュラは真紅のマントを靡かせて立ち去っていく。
 ハヤはシュラの後ろ姿を見つめていた。
 あの女が王宰ね・・・。そして俺はその衛士か・・・。俺の運も満更捨てたもんじゃないかも知れねえな、ライサ・・・。

 雲徳殿・娥舎。
「くしゅん」
「大丈夫ライサ、風邪かしら・・・?」
 ロアンは筆を止めてライサの顔を覗き込む。
「問題ない、誰かが私の噂をしていたのだろう」
「はいネピア、これでチーンしてね」
 そう言ってアリサが「てぃっしゅぺーぱー」なるものをライサに渡す。
「・・・・・保湿てぃっしゅの方が・・・実は好きなのだがな」
 結構「てぃっしゅ」にこだわるライサだった。

【ルシャナ・シルキーヌ】
「ナーガの血を引きし者、我が誠の名の下、天は海に、海は地に、地は天に、光をもって刻み込まれし道を指し示し、英霊達の魂を安寧の地へと導き、彼らにどうか安らぎを与えたまえ・・・」
 波の音に紛れながらも、シルキーヌの声はそれを見守る参列していた人々の元へと届いていた。
 ヴィレクは慰霊祭をセルファニア湖に面しているウォウル港で行い、その一切をナーガ大司祭ルシャナ・シルキーヌに任せた。
 シルキーヌはナーガの神剣である「竜神の剣」を右手に、そして左手では奇妙な印を結んでいた。神剣とは水部二神・神王ナーガの力の一部をこの世界に具現化するために大司祭が所有するもので、祭事やその他大きな行事の際に、その力を示すことが許されている。
 印を結びながら、流れるような剣の舞を見せるシルキーヌ。
 そして、次第に空は薄暗い雲に覆われていった。
「いよいよかな・・・」
 参列席のヴィレクはシルキーヌの舞を見ながら一言そう漏らした。それを聞いた、ヴィレクの護衛として左隣に座っていたレザー・ウェルは、
「何が、いよいよなのでしょうか」
 と王に疑問の声を発したが、
「・・・すぐに分かるよ」
 ヴィレクはそう答えるだけだった。
ウェルはその視線を再びシルキーヌへと移した。
 空は厚い雲に覆われ、風も出てきた。湖面も荒れてきている。
「スィー・ド・ア・スィー・ヴ・・・・・」
 シルキーヌは神剣を天へ向かって掲げ、印を結んでいた左手を湖面に対し水平に差し出した。
 それと同時に彼女の長い髪がわさわさと舞いはじめる。
 ・・・何だ・・・何が起こるというのだろうか・・・。
 ウェルは掌に汗をかいている自分に気が付いた。
 ・・・この僕が?・・・戦場では恐れる者を知らぬこの僕が・・・冷や汗だって・・・。
「ヴァウ・アーハ・デスマ・ムーア・・・・・ラユ・ミーオフ・ヴァイサ・イロシ・モーダ・・・レイ・ジ・・・・・ムヴァ・ナーガ!!」
 シルキーヌがそう叫んだと同時に、天の雷が厚い雲を貫き、湖面を直撃した。同時に突風が巻き起こり、参列者達の中に吹き飛ばされそうになった者も何人かいた。
 そして、ウェルは信じられぬ光景を見るのだった。
「み、湖が・・・」
 雷が落ちた辺りの水面が盛り上がり、次第に一匹の竜の姿へと形を変えていく。
 参列者達は声を失っていた。しかし、誰もがこの眼前に起こっている状況から目を離そうとはしなかった。
「ナーガ大司祭、健在と言うところか・・・」
 唯一人、ヴィレクだけはこれを冷静に受け止めているようであった。
 湖から現れた、文字通り水の竜は、天へ向けて駆け上がっていく。
「湖に巣くう怨念達を乗せ、水竜は空へ駆け上がる、か・・・漫画みたいだな(笑)」
 ウェルはそう宣うのだった。

【北蛮関】
 砂塵に紛れ、赤い髪が風に舞う。街道からはセルファニア湖を眺めることが出来た。青く美しい湖だ。だが、ちょうど一年前には、あの青く美しい湖面は禍々しい赤へとその色彩を変化させた事がある。砂浜には数多くの戦士の亡骸が打ち上げられた。
「兄様・・・」
 一年経った今、湖は美しい元の姿へと戻っていたが、ライラは決してあの情景を忘れることはないだろう。あの地獄絵図のような情景を・・・。

 ライラは首からぶら下げている木彫りのお守りを、無意識のうちに弄っていた。

(ほれ、これを持っていけよ・・・)
(何だ、この不細工な人形は)
(お守りだ、お守り。俺が作ったんだよ)
(こんな不細工なお守り、とても御利益があるとは思えんな・・・)
(馬鹿野郎、男とお守りはルックスじゃねえんだよ、ルックスじゃ)

 デュオの部屋の窓辺に飾ってあった木彫りの人形を、ライラはふと思い出すのだった。
「案外、器用な奴なんだな・・・」
 そう言って、口の端に冷めた笑みを浮かべる。
 元スィスニア八武衆、ランギヴァラーハ・ライラは、街道に沿って北蛮関を目指し、単身、馬を進めていた。
・・・しかし、北蛮関を守っていた私が、よもや攻め手に回ろうとはな・・・何とも皮肉なものだ。
 ライラは北蛮関を陥落させようとしている。あの要塞一つで、5千の兵力で5万の軍を相手に2年以上の長期戦を戦えるよう作られている。それを陥落させようと言うのだから、常人であれば気違いと言われても仕方が無いことかも知れない。だが、如何な巨象といえども、それを蟻が倒す可能性が無いわけではない。
 これは賭だ・・・頼んだぞデュオ・・・。
 不如帰の鳴き声が聞こえる。空を見上げれば、黒みを帯びた緑色の翼を羽ばたかせながら飛んでいる。
 季節は既に夏であった。

【髑髏】
「師団を指揮したくはないか?」
 シュラがハヤにそう言ったのは、五日前の夕食の席でのことだった。
 前の戦で指揮官を失った重装師団の指揮官の席が空いており、それをやってみないかという誘いであった。
 一○○七重装歩兵師団。常に前線で戦ってきた荒れくれ共の集団である。半年ほど前のウォウルとの戦で、師団長が敵前逃亡をしようとして部下に斬られるという事件が起きて以来、一○○七の師団長のポストは空いたままであった。
シュラはハヤが何処までやれるのか見てみたい。だからこの話を持ちかけたのだ。ハヤのことについてはリューンはよくは知らない。ただ自分の衛士として取り立てた者としか、彼女も伝えていない。無論、師団長をやらせようとしていることもリューンはこの時点では知らなかった。シュラの一存で決めたことなのである。
「俺が師団長だって?」
「どうしたボーヤ、自信がないのかい」
「へん、上等だぜ・・・やってやろうじゃないか、師団の指揮とやらを」

 雲徳殿・書庫。
「なるほどな、それでその少年を師団長に推したのか」
 リューンは煙管を片手にシュラと向かい合っていた。
「はい、申し訳ございませぬ・・・」
「よい、お前が目を掛けた男だ、俺も興味がある。色々と経験させてみよ。今は少しでも有能な人材が必要だ」
「はい、ではそのように致しましょう」
 そしてシュラは一礼し、立ち去ろうとする。
「ちょっと待て、よいものを見せてやる」
 リューンは手を打った。小姓がやってくる。
「例のものを持って参れ」
しばらくすると小姓は桐の箱を運んできた。
 箱の蓋を開ける。そこに白くて丸いものが見えた。リューンがその白いものを取り出した。髑髏であった。その髑髏を台の上に置く。
「しゃれこうべでございますか」
「左様、では誰のものだ」
「さあ、そこまでは・・・」
「ライラの奴が見れば、さぞ驚くことだろうよ」
 リューンは白い頭を撫でる。
「綺麗なものでございますね」
「磨かせた。俺をライラ共々裏切った男だ。時々出してはこのように撫でてやっている。お前も撫でてみよ」
 シュラは手を伸ばして撫でる。つるんとしていた。
「ヴィレクめのしゃれこうべは、さぞ美しかろうな・・・」
 リューンはレリューコフのしゃれこうべを膝の上に乗せた。さも愛おしそうに撫で回す。
「シュラよ・・・・・お前だけは・・・・・俺を裏切ってくれるなよ・・・」
 そう言うリューンの姿はひどく寂しげであり、力に満ち溢れているいつもの彼からは想像できないほど弱々しかった。

【リビュニアの旗の下に】
 さて、これから記すことについては、やや信憑性の薄い資料を基としているために事実を正確に伝えていない可能性が高い。後に、ファーカル・ナヴィスはリビュニア独立運動の指導者として世に知られるようになるわけであるが、これは、その足掛かりを作るまでの記録のようなものである。
1,ナヴィスは街で情報を得た(ウォウルと故郷リビュニアの中間よりややウォウル寄りに居を構える山賊の親分が病没し、その下にいた副頭目と参謀役の二人が反目して仲間割れを始めた)。
2,その争っている場所の中央を通過、どちらかの山賊に話を持ちかけた(副頭目側)。
「聞いたところによりますと、あなた方はあちらの山賊とこの地域を巡って争っているようですね」
「だからなんだってんだ。荷物をよこしやがれ。それとも、痛い目に遭うか?」
「いえ、それ以上のことをして差し上げようと思っているのですが」
「お前のようなやせこけた奴が俺たちに何かする? 笑わせるな!」
「いえ、これでも私は脱手ひょう使えますよ」
「あれをか?」
「ええ」
「試しにやって見ろ」
3,ナヴィスは山賊に自分の腕前(十発七中:残りの三つは「1回目:緊張のあまり」「5回目、突風にあおられて」「10回目:調子に乗ってしまって」が理由で外した)
を見せた。ちなみに、この飛刀はファングさんから金を借りて購入した。
「なかなかの腕前だな、気に入った! で、何をするんだおめえ?」
「あなたの相手側の山賊の頭目を、この飛刀の餌食にします」
「奴をか? 可能なのか?」
「ええ、刃に毒を塗り、相手の首を狙って放てば可能です」
「うーん」
4,山賊会議
「親分、奴はほらを吹いているだけですぜ」
「といってもな、あの腕前は認めにゃならねえ」
「親分、やらせてみましょうぜ。失敗したらこいつの責任にすればいいんだし、成功すれば丸儲けですぜ」
「よし、決まりだ」
5,敵地裏手
 ここは険しいためにここを使っての急襲は不可能。夜にはここに警備の山賊が立つために夜襲も不可能。
 だが、この裏手からすぐが頭目の館。
「この位置から出来るのか?」
 山賊の頭目と精鋭とともにここに伏せている。
「可能性としては高いですよ。五割は切らないはずです」
 慎重派は五割を切ると絶対にその行為を行わない。
「よし、おめえが奴を殺したらすぐに手下とともにここを襲う手はずになっている。頼むぞ」
「これが終わったら、私の頼みを聞いていただけますか?」
「成功したらな」
6,敵将見参
 と、そこに敵の頭目が館より登場。
「出てきたぞ」
「まだです。今の状況では三割を切ります」
 敵将、略奪品の品定めをするらしく、手下を集める。
「動いてねえ、今しかねえ」
「いえ、まだです。これでは四割です」
 理由は大きな手に取れない品を見るときにかがんでしまう恐れがあるからである。
 敵将、手下に何か話し始める。これならば話し終わるまで動く確率はグンと低くなる。
「今ですね!」
 持っている飛刀を敵将に向かって投げつける。
 その飛刀は風を切る音を立てて一気に敵将のわき腹を突く。助かる傷ではない。
 敵の手下は大いに慌てる。
「よし、うまくいきやがったな! 野郎ども、行くぞ!」
7,決戦
 無論頭のいない敵軍の惨敗。
8,約束
 敵の根城を抑え、そこから敵の奪った品々を略奪。
 そして、山賊の根城にて、勝利の宴が開かれて招待される。
「わっはっは、奴もいなくなって、ここは俺たちの縄張りになった! めでてえじゃねえか! 野郎ども、飲め飲め!」
 頭目は御機嫌。
「ナヴィス、おめえも飲め! かまわしねえ、どんどん飲め!」
「頭目、実は頼みたいことがあるのですが」
「おお、なんだ? 奴を殺したお前の望みなら何でも聞いてやるぜ。なんだ? 金か? 武器か?」
「いえ、私はあなた方のご助力を賜りたいのです」
「なにかするってのか?」
「ええ、リビュニアの独立を」
「わっはっは、でけえことぬかしやがるな! で、その独立を助けろってのか?」
「ええ」
「見返りはあるのか?」
「独立した折には恩賞と、兵吏長位を」
「野郎どもにはあるのか?」
「リビュニア特務部隊として召し抱えます」
「しかしなぁ、俺たちは自由人。そんなかたっくるしいところへいけると思ってるのか?」
「ええ。あなたとその部下たちなら」
「おだててるのか?」
「いえ」
「わっはっは、どっちでもいい。嬉しいぜ、そんなこと言われてよ」
「そうですか?」
「ま、ここも最近人通りがなくなってきた。昔は隊商とかが来てたんだが、戦争のお陰で、ここんとこさっぱりだった」
「では…!」
「ああ、約束してやるぜ。俺もいつまでも日陰で暮らしてるわけにもいかねえ。俺だって歴史に名を残せるって事を思い知らせてやるぜ!」
9,こうして、ナヴィスは山賊のコネクションを手に入れた。無論、褒賞も少々だがもらっている。

 とまあ、このような具合にファーカル・ナヴィスは山賊共を従え、リビュニア独立のための土台を築いたようである。この行動案を筆者がまともに書いていたら、20頁を軽く越えてしまいそうだったので、プレイヤーの意志を100%反映した事実説明だけでこのお話については勘弁願おうと思う。ゴメン。

【エリシュとマラーイカ】
 ルイセルク・エリシュは中常侍の一人であるムド・リョクレイと机を挟んで向かい合っていた。中常侍とは宦官達の中でも特に位が上の者達の事である。
「ならんな」
 リョクレイは宦官らしい少し高めの声で、そのように答えた。
「駄目ですか」
「駄目だな・・・」
 エリシュは溜息をついた。
 雲徳殿の内に入って商売をさせてもらおうと思っていた。商売とはまずお客がどんな生活をしているか知ることから始まる。彼はそう考えている。客を知らずして何が商人であろうか。そのためには雲徳殿の中に入り、その生活ぶりを己の目で見、耳で聞き、肌で感じとることが必要なのである。
だが、雲徳殿へと入ることは許されなかった。理由は男子禁制であること。雲徳殿の外れに設けている宮女御用達の簡易市場のようなもの(ここに商人達が集まる)で、全ては事足りており、この上更に宮内にまで商人達を通す必要性を認めないということ。等々、であった。
エリシュはこの日は諦め、清竜殿を去った。
「どうでした?」
「今日は駄目だったよ」
 清竜殿の前で待っていたマラーイカに苦笑いしながら答えた。

 さてさて、「一商人が宦官相手に商談をしている」などという事は、はっきり言ってしまえば、多くの者達にとってはどうでもよいことである。がしかし、このような些細なことを逆に重要視し、更に別の者に伝えようとする者もいる。

 クレス・ディル。カレリア・ロアンに「ヴェルーダの災厄」の際に命を救われ、以後絶対の忠誠を誓っており、それでいて最近、宦官に化けているという大分ワケアリな好青年である。
 雲徳殿・娥舎裏。
「・・・とまあ、こんな事がありましてね」
 ロアンは頷きながら聞いている。
 ディル一人でも十分過ぎるほど情報は集められる。しかし、これからのことを考えると彼には情報収集よりも自分の傍らにいてもらい、身の回りの脅威を排除することを手伝ってもらった方がよいのかも知れない。もし、宮内に商人達が出入りできるようになれば、生きた情報が簡単に手に入るのである。他の宮女達にはせいぜい権力闘争を生き抜くために宮内の情報が必要な程度であろうが、ロアンは違う。彼女にはナーラダ地域の生きた情報も必要なのである。歴史を動かすのが彼女の楽しみなのだから。
「武王陛下に話してみましょうか・・・」
 リューンは自らの尊号を武王と称している。彼の男がしつこい事実を知っているロアンにしてみれば絶倫王とでも称した方が、余程あっているのではないかと思っているわけだが、その事実を知っている者は彼女の他にはあまりいない。

エリシュとマラーイカ達が泊まっている宿に清竜殿からの使いが訪れたのは、最初にリョクレイと話し合った日から数え、実に1週間後のことである。エリシュもマラーイカも半ば諦めかけていた頃であった。
「いいかいマアリちゃん、商人たる者は如何なる時にも、自分の連絡場所を相手に伝えておく必要があるんだ」
 エリシュは満面の笑みを浮かべ、人差し指を立てながらマラーイカにそう言うのだった。ビジネスのチャンスは何時何処にあるか分からない。そのためには顧客となる可能性のある者達、この場合、不特定多数の者達になるのであるが、そういった人達に自分と連絡がとれる場所を必ず教えておく必要があるのだ。
 マラーイカには出来ることならば、その類い希な織手としての才を磨いていって欲しいと思っている。だが、今の彼女にはエリシュがそう言ったところで、どうなるものでもない。生きるための方法を別の所に見出そうとしているのだ。
 生きるものは、皆己の一生を捧げるべき業を見つけ、その路を辿り続けなければならない。そのような遊牧の律というものが、彼女の心を縛り付けている。
 エリシュにも同じ様な時期があった。果たして己自身は何を業として生きていけばよいのだろうか。大人になりきれない苛立たしさ、そういったものを彼自身も引きずっていたのだ。だから、マラーイカの気持ちが少しは分かる。結局、エリシュが見つけた答えは、ひどく簡単なものであった。「自分が大好きなことをやる」これである。大好きなことならば、どんなに辛くても頑張れる。どんなに辛かろうが、大好きなことならばそれを補って余りある程の楽しさや喜びがあることを知っている。
 結果、今の自分があるのだ。マラーイカと同じくらいの頃はエリシュも色々やった。色々やらねば見えてこないものもある。だから彼女が望むものを今はやらせてあげたい。自分はせいぜい、そう、大人の代表のような感じで彼女を見守れたらと思う。
「自分の答えが見つかるまでは・・・ね」
「え?」
「いや、何でもない。それよりマアリちゃん、雲徳殿の中をよーく見てきてね」
 雲徳殿の中で商売することは許可されたが、それでも守らねばならぬ幾つかの条件はあった。まず第一に、武器の持ち込みは一切禁止であるということ。「宮内での殺生は此を堅く禁ず」という後宮五典の一つである後宮律・第五条・第一項の規定より、決められたことらしい。ロアンなどに言わせれば、「人を殺めるのは何も武器だけとは限らないのに」ということになる。詰まり、この時点では薬品類の持ち込みの規制にまでは至っていない。
 第二に、雲徳殿の中へ商人達が入れる時間の設定である。ルナ・風の刻〜地の刻(0:00PM〜6:00PM)と設定された。
 第三に、男子禁制であること。宮内での商売は女性のみにしか許されていない。男性の場合は雲徳殿の外れにある《商人さん、いらっしゃい》(=命名:リマ・アリサ)と呼ばれる溜まり場、いや市場での従来通りの販売のみであった。
 エリシュは男性なので雲徳殿の中へ入れない。そんなわけで、マラーイカが代わりに雲徳殿の中へ入るのだ。

【GOGOウォウル】
「なーんでこんな女、拾っちまったかなぁ」
 カガト・デュオ、26歳、通称極楽鳥頭は一人呟いた。
「何よ君、私を助けたのがそんなに不服なの!」
 デュオはライラと別れた後、ウォウルへと向かっていた。その途中、街道沿いでアミーゴな賊達に襲われていた女を一人助けたのだ。賊の首領は、自分より美しい者は許せないと言うヤバイ漢で、ナーラダ全域指名手配中の賞金首・タンビマルといった。週刊誌で言えば半年に渡る激闘の末、否、リアルタイムでは四半刻程度の戦いを繰り広げた結果、デュオは賊達を一掃した。相手が悪かった。デュオは人斬りである。三十ほどの首が辺りに散らばった。それは正に狂人の剣であった。
 ・・・で、助けた女の名はアルニカ・アシュヴィーと言う。
「ねえ、聞いてんの君ぃ」
 デュオの背中でアシュヴィーが騒いでいる。
「だぁ、暴れるんじゃねえ!!落馬するぞ」
 ・・・ったくよぉ・・・「きゃっ、助けて〜」なんて声がするから、「女神が俺の助けを求めている」と思って来て賊達をやっつければ、なんでぇ、いきなり「助けにくるならもっと早く来い」だの「斬り方が美しくない」だの次から次へと訳分からねぇこと言いやがって・・・。それにこの香水の匂い・・・。
「な、何よ・・・」
「・・・くせぇんだよ」
 デュオが最後の「よ」という言葉を吐く前に、彼の体は宙に浮いていた。
 アシュヴィーは黒竜書房に入社して、初めて出た給料で買った書類カバン(A3収納可能)でデュオの極楽鳥頭を撲っ叩いていた。デュオは背後からの不意打ちだったので、避けることもかなわず、5米程宙を飛び落馬した。
「ってぇ〜、何すんだよ。この頭にするのに一体どれだけのムースやスプレーを使っていると思ってるんだよ」
「そんなの知らないわよ。それより臭いとは何よ臭いとは」
 アシュヴィーは立派なレディーである。他のどのような誹謗中傷に耐えられても「クサイ」などと言われては女のプライドが傷つかないわけがない。
「君みたいな育ちの悪い山猿には分からないかも知れないけどね、これはエゴイストっていう香水の匂いなのよ」
 そう言って彼女は遥か南の方を遠い目で眺めている。心の中で「ああ、ロアン先生」と口ずさんでいることは想像に難くない・・・。
「んなもん知ってらぁ、じゃあ俺も一つ聞くがな、エゴイストってな男性用の香水だってのは知っているか」
「え・・・・・・・・・・・」

 セルファニア湖・とある砂浜。
「とっちゃ〜、やっぱ夏は海だべ」
「んだ海だぁ。見てみぃ、ギャル達が群れを成しているべ」
「んじゃあナンパだ、とっちゃ」
「んだ、ナンパだ〜」
 相変わらず呑気なイレーヌのガリクソン親子であった。因みにセルファニア湖が海でないことは言うまでもない・・・。

 さて、カガト・デュオがウォウルへ行く理由とは、次のようなものである。
 ライラの北蛮関攻略作戦のためにウォウルの軍を動かすこと。そのためにウォウル王ヴィレクと交渉をしなければならなかった。
 予定ではライラは自ら北蛮関の防衛司令官イバ・アズルードの元へ投降する。そこで当座の生活を確保しながら反抗勢力を集め時を待つ。ウォウル軍が侵攻してきたのに呼応して蜂起する。北蛮関陥落。とまあ、上手くいけばこのようなシナリオになる予定である。
 一方、アルニカ・アシュヴィーことアッシュの目的はウォウルへの仕官である。スィスニア以外の場所からもナーラダの勢力操作が可能なように、ロアンはアッシュをウォウルへ送り込もうと考えたのであった。そんなわけで偶然にも出会ったデュオとアッシュであるが、二人はウォウルまで旅を共にすることになった。

【誰が為の独立か】
 ウォウル北西の霞岳にアジトをもつ盗賊団「爆裂団」。ネーミングは兎も角として、この無法者達を懐柔し、母国独立のための駒にしようとするものがいた。
 ファーカル・ナヴィスである。彼は爆裂団の新頭目であるルクア・アヴィをリビュニア独立の暁に兵吏長に迎えることを約束した。そして爆裂団自体を独立の同志としたのである。
 以前に比べれば一歩も二歩も前進した。ほんの数日前までは、ホモに襲われ、バイト先の店長の弟に精神的なリンチを受けるなどという日々を過ごしていたのが、夢のようであった。
 だが、しかし・・・。
「きゃあ〜」
 今日も犠牲者が一人、アジトへ運ばれてくる。彼らは山賊である。山賊は人様の物品を奪ったりして生活している。間違ってもお役所勤めしながら副業で山賊をしている奴はいない。殺人もする。女も奪ってくる。それが山賊なのである。
 まっとうに生きて下さい・・・・・とは言えない。山賊なのだから。それが彼らのステータスなのだから。しかし、志を持たぬ者達を同志に迎え入れたところでどうなるのだろうか。
 私は間違っていたのでしょうか・・・否、そうではない、少なくとも数日前に比べれば大分前進しているのです。そう、彼らにもいつか役に立ってもらう日が来るはずです。
 ・・・などと自分を励ましているナヴィスに声をかけてきた者がいる。
「おい、ナヴィス」
 赤いバンダナ、短く切り揃えられた美しい黒髪、奥二重の切れ長の目、ファッションモデルでも通用しそうなプロポーション。
 ルクア・ヒュリィ。新頭目ルクア・アヴィの娘である。
 ヒュリィは酒瓶を片手にナヴィスの横に座る。
「ったく、奴らも本当に好きだね、男ってのはそれしか頭の中にないもんなのかい」
「・・・さあ、きっとそういうのは人それぞれだと思いますよ」
 ナヴィスは苦笑しながら言う。
「あんた、リビュニアが独立したら親父を兵吏長にするって言ったな」
「ええ、言いました」
「じゃあ、あんたは何になるのさ」
「えっ」
 私はリビュニアが独立してくれればそれでいい。あの忌々しいイー・リミイ達の手からリビュニアを取り戻すことができるのなら。
「あんたが王様になるの?」
「私はそんな柄ではないですよ」
「親父だって兵吏長って柄じゃないさ」
 ヒュリィは杯に酒を注ぐと、それを一気に飲み干した。
「一つさ、ハッキリさせておいた方がいいことがあると思うんだ」
「と、言いますと」
 ナヴィスはいつの間にか真剣にヒュリィの話に耳を傾けている。彼女の話は今後の自分に、独立のために必要なものだと、本能的に察していた。
「独立した時にリビュニアの主はウェス・ユミイである必要性はある?」
「それは・・・」
「あんた自身がどう思っているかだよ、他人がどう思うかではなくね。これはあんたの戦いなのだから・・・」
 私の・・・戦い・・・。
「皆のため、とでも思っているんだろうけど、そんな考え今すぐ捨てな。皆が本当に独立を望んでいるのなら、とっくの昔に姉妹王国では内戦が始まっているよ。それが起こらないのは、現状に満足はしないまでも、それを受け入れることができているからだ」
「でも・・・」
「でも、独立させたいんだろ、だからこれは、あんたの戦いなんだ。誰のためでもない、自分のために戦うんだ。じゃないとあんた、必ず苦しむことになるよ。民達の怨嗟の声にね・・・」
 私の戦い・・・私が王になる?・・・私がリビュニアを支配する?
「まあ、今すぐどうなるものでもないだろうけどさ・・・本気なら、そういうことも考えた方がいいんじゃないかと思ってね。アタシに言わせれば兵吏長だ、独立だって言っているような親父やあんたは、どうしようもない馬鹿だけどね。でもこんな世の中だし、そんな馬鹿が二、三人いてもいいんじゃないかとも思うんだよね・・・」
 ナヴィスは酒瓶をヒュリィから奪って杯に注いだ。
「・・・・・ごめん、気分悪くした?」
 その杯を一気に体内に流し込む。
「ふ〜、上手いですね、このお酒、何てお酒ですか」
「リパドーラ=勝利の宴・・・」
「もう一杯いただけますか」
 ヒュリィはナヴィスの杯に酒を注ぐ。
「別に怒ってはいませんよ、むしろ感謝しているくらいです。私には貴方のような者が必要だったみたいです」
「あんたの女になれってこと?」
「いえ、そうじゃなくて」
「アタシを必要としているのなら、あんたの女にしないと協力しない」
「困ったな・・・」
「アタシみたいな女は嫌か、先代の女だったアタシじゃ嫌か」
「・・・分かりました、私には貴方が必要です。でも貴方は私とは対等の存在であって、従属するわけではありません。今までのように強い者に従いながら、身を委ねるという生き方はやめて下さいね・・・それが私が貴方を受け入れる条件です」
 無法者達の中で育ってきたヒュリィは強い者に従うことが当然だと思っている。父親もその様に生きてきた。だから娘であるヒュリィは先代の頭目に献上された。弱者のものは強者のものというこの単純な図式のなかで育った。そのためにナヴィスなどに比べ、人の命を軽んじたり、弱者は強者に支配されるものという考え方をする傾向がある。
 ともあれ、ナヴィスはこれでディーノの魔の手から逃れることが出来るようにもなった。確実に事態は良い方向に向かっているようであった。

【試験】
 絶世の美女という言葉がある。男が女を褒め称えるためにつくった最高級の麗句だ。だが、歴史上そのように言われてきた女性達が、果たしてその言葉通りの美貌の持ち主であったかというと、おそらくすべてがそうだとは言い切れまい。その言葉の先に時として見えるのは、絶対的な権力に対する臣下達の寧言的な意味を含む、虚偽の姿である。そう称えられた当人の肖像画が残っていても、我々は思わず首を傾げてしまうことが多々ある。もっとも、その時代の絵画の風潮が、写実性というものから遠く離れたものだったり、現代人との美意識の相違という可能性は無視できないものであるが。

 さて、火の月5日である。
 スィスニアの雲徳殿に於いて、宮女の選抜試験が行われた。試験期間は5日間に及んだ。初日は筆記試験であり、それ以降は学司を務めるセト・ルーカンとの個人面談である。宮女候補者は600名を越えるために、面談に費やす日程が4日必要だったのである。詰まり、宮女達にとってみれば試験期間は実質2日だということになる。
 筆記試験前日、アリサは日が暮れると同時に床へ入った。数刻後、アリサに続きロアンが床に入った。最後まで勉強を続けたのはライサであった。

 試験の発表は12日を予定している。この日をもって彼女達には雲徳殿での官職に応じ、部屋を与えられることになる。また、宮女といえども女官の扱いとなる。正妃、后妃、夫人というのは実は官職の名前なのである。

 初日の筆記試験はライサもロアンもこれといった問題はなかった。ライサは学司の講義を真面目に聞いていたし、自分でもそれをよく学ぼうと努力した。ロアンはその方面で指導書を書けるほどの知識をもっているので言うまでもない。もっとも、ルーカンが後宮教育に関係のない、個人的に講義中に話したことについて出題したものについては、講義をサボタージュする機会の多い彼女は解けなかったが。
 問題はアリサであった。
「うぇーん、どうしようロアンちゃん、ぜーんぜん分かんなかったよ」
アリサはロアンの膝の上で頭を撫でられながら慰められている。
 その日、すぐにロアンはディルを呼び、アリサの後ろの席の宮女候補であったメル・イーナという者の答案とすり替えるように依頼した。ロアンの記憶が確かならば、このイーナという女はスィスニア王国に含まれる小邑の外吏長の娘であるはずだった。父親はえらく出世に関心のある男と聞いている。その上この娘も出世欲が強いらしく、勉学や芸にも熱心であった。可愛い(出来の悪いのが玉に瑕であるが)妹のようなアリサのために姉貴分としては一肌脱いでやろうという思いと、危険分子を早めに排除しようという考えが見事にリンクしたわけである。
 余談であるが、結果としてロアンの目論見は成功し、皮肉にもこのメル・イーナという女性はロアンの部屋の侍女になることになる。

 二日目以降は面談となる。ロアンとアリサはちょうど面談初日の試験日程二日目であった。
 カレリア・ロアンはセト・ルーカンに好印象をもたれていない。理由は幾つかある。まず、講義をまともに受けた日数は片手の指で数えられる程であったということ。第二にルーカンは後宮教育の第一人者として知られているが、物書きとしての名声などでは圧倒的にロアンに譲ってしまうということ。第三に年齢の差である。物書きとしてはあまり世に知られていないルーカンは40代、それに対し歴史小説家としての名声がナーラダ中に知れ渡っているロアンはまだ20代である。ルーカンは善人か悪人かと問われれば、一般的に言えば前者に属するであろう。謙虚であり、人には誰にでも平等に接する。妻子も大事にしている。およそ野心などと言う言葉からは程遠い。そんな男である。だが、やはりロアンのような者が身近にいると、そういう男も必要以上に意識するものらしい。
 ロアンの面談はなかなかハードな内容であった。およそ学司が生徒に質問するレベルの内容ではない。ルーカンの傍らにいた学司補佐のルガ・リュイという青年は、師のロアンへの仕打ちを少々大人げないと思いながら二人のやり取りを眺めていた。リュイはロアンに対しては師ルーカンと違い、好意的である。というのも小説家カレリア・ロアンのファンだからであった。目の前で繰り広げられているのは、尊敬する師と大好きな小説家の討論である。このカードの組み合わせは、なかなか見れるものではない。正直、二人には申し訳ないが、リュイはこの状況を楽しませてもらってもいた。
 結局、ルーカンとロアンの面談は一刻にも及んだ。他の宮女候補達のおよそ四倍の時間を費やしたことになる。

 アリサの面談は問題がなかったようである。元々、人と話すのは苦手な方ではない。但し終始、質問に対して質問していたようである。もっともルーカンは面談では知識よりもその人間性を見ることにしているので、そういった点に於いて、アリサは場慣れしている分、救われたのかも知れない。

 日程四日目にライサの面談が行われた。ライサは人と話すのが得意な方ではない。しかし、逆に考えればそれを美点とすることもできるのである。面談では、ルーカンが相手の本当の姿を知ろうと色々と発破をかけてくる。だからライサが如何に明るい女の子を演じたところで、すぐにそれは見破られてしまう。アリサのようなタイプの者は多少、礼を逸する事があっても持ち前の明るさで、それを補える。逆に、ライサのような物静かなタイプは一挙一動がその評価の対象となり得る。だからロアンは、ライサにそこら辺に転がっているような貴婦人モドキには、真似が出来ないほどの洗練された動きを見せられるよう特訓したのであった。
 結果は上々であった。ライサは元々物覚えはよい方である。加えて言えば、童顔ではあるが上品な顔立ちであったことが幸いしたといえよう。

 これで3人の試験はすべて終了し、後は結果待ちとなった。
 日程五日目、即ち試験最終日であった。その日、三人は雲徳殿の中にある池の辺りで涼んでいた。ロアンは読書をし、ライサは笛を吹き、アリサがそれに合わせて唄っていた。 その池の近くを七、八人の侍女を引き連れた女性が通りかかった。腰まで届く長い黒髪が印象的である。そして何よりも三人の目を引きつけたのは、その無機質にさえ感じるほど美しい端正な顔であった。その女性は首を少し傾け、三人に対して笑顔を向けた。頭の金の髪飾りが鈴と心地よい音を鳴らす。
「今日は、ほんによい天気ですこと・・・」
 それだけ言うと、「では」とロアン達に一礼すると立ち去っていく。侍女達は彼女を先頭にしてそれに従う。一番最後に従った侍女も一礼して去っていく。未だ16か17という年頃であろうか、アリサやライサと比べても少々幼く見える。だが、その立ち振る舞いなどはロアンが見たところ侍女達の中では一番洗練されているものであった。
 試験の発表は三日後であった。それでスタートラインが決まるのである。

【ウォウルにて】
 カガト・デュオ、アルニカ・アシュヴィーの両名がウォウルに着いたのはロアンやライサ達の官職発表の前日、火の月11日のことであった。
「やっと着いたわ・・・」
「・・・じゃ、俺はここで」
 デュオはさり気なく手を振りながらそう言った。アシュヴィーが見ればデュオの姿は50米先の人混みの中にある。
「ちょっとカガ君!」
 人混みの中でニコニコ笑顔を浮かべて手を振っている。
「またな〜アッシュ〜、機会があればまた会おうや〜」
 そんな言葉を残しながらデュオは姿を雑踏の中に消していった。
「んもう、何て勝手な男なの。見ず知らずの地にこんなか弱い乙女を残していくなんて」
 この言葉をディルあたりが聞けばきっと苦笑していたことだろう。
ともあれ、アシュヴィーはロアン大先生のためにウォウルに仕官しなくてはならない。彼女はウォウル人吏院へと向かった。
 ウォウルは伝統のある邑である。無論、それはスィスニアもであるが、ナーラダ家という血統によって支えられてきた邑であり、今尚それを治めるのがナーラダ家の血を引く者であるという点に於いてスィスニアとは大分異なる。リューンはスィスニアを支配するにあたり、必要なものは残したが、不必要なものは全て新しくした。それは人事的なものから、法や体制、建築物にまで至る。そのため、スィスニアを代々統治してきたルシャナ家の墓なども取り壊され、そこへ一緒に埋葬されていた宝物の類もすべて換金され財政に当てられている。また、その広大な敷地を利用して各種福祉施設の充実化を図った。
故にスィスニアの町並みからは400年という歴史はそれ程感じられない。清竜殿やナーガ大神殿は歴史的遺産と言えるかも知れないが、その他のものは歴史学上、特別重要視するようなものではない。学者達にしてみればスィスニアよりウォウルの方がその研究対象としては魅力的に映ることであろう。多くの歴史学者達はその研究テーマを過去に求める。ロアンもまたその一人である。歴史というものが人々の時間の流れの記録である以上、それは仕方のないことである。だがそれだけではないと思う。箸や筆、茶碗、そういった我々の日常を取り巻く生活品なども歴史的遺産であるはずだ。それは即ち今ある事実が歴史的遺産だということなのであるから、それらを駆使して未来を切り開いていくことにも歴史学者達は目を向けなければならないはずである。過去にのみロアンがこだわらないのはそういう理由もあったのかも知れない。

 一方。
 ・・・ったく、冗談じゃねえぜ。一週間以上もあの気の強い女に付き合わされちゃ、いくら無敵のデュオ様でも「ノイローゼ」になっちまうぜ。女ってのはこう、もっとお淑やかで男の顔を見るときも目を伏せがちにだな・・・恥じらいながら・・・・・そう、そうだ、アイツには恥じらいがねえんだ、ついでに胸もねえ・・・。
 と、相変わらず馬鹿なことを考えていた。

 デュオはシルキーヌ達に会うために鳳凰館という屋敷に向かった。鳳凰館とは、ヴィレク王がシルキーヌの滞在に際し用意した屋敷である。直接デュオがヴィレクに面会を求めても、断られることは本人が一番分かっていたようで、シルキーヌを通してヴィレクに会おうという腹であった。
 ランギヴァラーハ・ライラの兄、故ライルはシルキーヌに死ぬまで付き従った。そのライルに影のように従っていたのがデュオである。デュオは孤児であり、ライルに拾われ育てられた。デュオは大恩あるライルの妹のライラを、シルキーヌから護衛するよう命じられていたのである。デュオが忠誠を誓っていたのはライルである。そのライルが忠誠を誓うシルキーヌであろうと、そのような輩に命令をされるいわれはない。何故ならば自分が従うのはライルのみであるからだ。しかしながらライルからも、常に自分に万一のことがあれば妹のことを頼むとの願いも聞かされていた。そのため、シルキーヌの依頼を引き受けたのである。

「また、いい女になったなシルキーヌ」
「うふふ、ありがとうデュオ」
「オッホン!!」
 シルキーヌの執事であるタスタントが咳払いをする。デュオはこのジジイが苦手である。真面目すぎるのだ。シルキーヌに対しても常に主人とその従者として接する。そのことがシルキーヌにどれだけ負担になっているか分かっていない。大司祭とはいえ、まだ21の女だ。四六時中、大司祭として振る舞っていなければならないとしたら、それは苦痛以外の何ものでもないであろう。
 シルキーヌも他の人達と同じように接してくれるデュオを貴重な存在だと思っている。無論、他では下手なことはできないが、彼の前では素直な自分でいることができた。

 デュオはシルキーヌに事情を説明した。
「それは確かに困ったわね・・・」
「だろ、しかも一回言い出したら梃子でも動かねえところなんかは親父にそっくりだぜ」
 ま・・・そこも気に入っているんだがな。
「でも東邑同盟と不可侵の条約を結んだとしても、西にはまだイレーヌ・リビュニア姉妹王国の脅威があるし・・・」
 単純な勢力比を表すとイレーヌ・リビュニア姉妹王国が4、ウォウル王国が3、東邑同盟が9、スィスニア王国が6となる。しかしながら、東邑同盟の場合は横の繋がりで成り立っているために純粋に額面上の力を発揮できない。
「詰まり、姉妹王国が攻め込んでくる可能性があるために無駄な兵を割くことができない・・・・・と言いたいんだろう。それなら大丈夫さ」
「何故です?」
「ヴィレクにはシルキーヌ、お前さんが頼むからさ」
「ごめんなさい、話が見えてこないのだけれど」
「ヴィレクにはお前さんが必要なんだ。ナーラダを統一する上であんたのような存在の後ろ盾があれば、奴さんにとっては大分都合がいいのさ。それに姉妹王国ではこのウォウル王国に勝てねえよ。だから多少のリスクには目を瞑ってでも、あんたに恩を売ろうとするだろうぜ」
「でもそうしたら私はこのウォウルの陣営に立つことになるのね・・・」
 デュオは溜息をつく。
「そうじゃない、何も馬鹿正直に恩を返そうとする必要はねえんだよ。おそらくヴィレクは出兵するというこの案を持ちかけた時すぐには、お前さんにウォウルへ来てくれとは言わねえはずだ。あとから言ってくる、忘れた頃にな。だからこれは取引でも何でもねえんだよ」
ったくリューンも罪なヤローだぜ、こんな純真な女の子相手にクーデターなんて起こしやがって、アイツは絶対、地獄行きだな、うん。
「分かったわデュオ。明日、一緒にヴィレク王の元に行ってみましょう」

【ガルゲイユとラートリー】
 イレーヌ=リビュニア姉妹王国。イレーヌ邑宰であるイー・リミイ、リビュニア邑宰であるウェス・ユミイ、この二人が各々、王と副王になり、周辺の中小邑を含む一大王国を作り上げた。リミイはウォウル王ヴィレクより二つ年上で今年18歳になる。従姉妹のユミイもリミイと同じで18歳を迎える。気分でウォウルに侵攻したり、勝手気ままな二人であるが、民衆の評判はそう悪くはない。元々武門の誉れ高いイレーヌ邑宰家とその民達である。争いを好む気質が強い。理より情を優先させるのだ。そのためかどうかは分からないがイレーヌでは年に一度、喧嘩祭が行われる。ナーラダに於いてこのような祭があるのはイレーヌを除いて他にはない。無論、この祭では毎年何名もの死傷者を出す。
 この二人を補佐しているのがイレーヌの「黒衣の宰相」の異名を持つアモン・ガルゲイユとリビュニアのエル・ラートリーである。共に姉妹王国では宰相職にあり、邑に於いても邑宰丞の地位にある。
 二人は仕事帰りによく通っている高級クラブで、グラスを片手にプライベートな時間を過ごしていた。
 ガルゲイユはグラスの中のワインを通してエル・ラートリーの表情を眺めていた。
「あら、何が見えますのかしら」
「うむ、いい女が見えるな」
 そう言ってガルゲイユはグラスを傾けながら、ワインを泳がす。
「ふふふ」
「ウォウル王国が東邑同盟と不可侵条約を結んだ今、我々もただ手を拱いているわけにはいかんな」
「敵の敵は味方、と申しますわ」
「スィスニアか・・・私も考えてはいるが、できればこちらからではなく、向こうからその話を持ちかけて欲しいものだな」
 姉妹王国とスィスニアが同盟を結べば、それに挟まれる形になるウォウル王国を挟撃、もしくは牽制することが出来る。
「未確認ではありますけど、先月その様な動きがあったようですわ。もっとも同盟の使者は妨害工作のためにイレーヌに辿り着けなかったようですが」
「もう一度派遣すると思うかね」
「おそらくは」
 ガルゲイユはラートリーのその回答に満足そうに頷くと、グラスのワインを一気に飲み干した。
「ふむ、やはり273年物が私の口には合っているようだな・・・」

 その頃、ファーカル・ナヴィスは今後のことについて考えていた。本来であれば、同志を集めれば、それを食わせることをナヴィスなどは考える必要があるのだろうが、彼らは自給自足が可能なので、その心配は全くない。もっとも不作の時も大分あるようであるが。と書くと、農家か何かと思えてくるので念のために確認しておくが、彼らは、そう、人様の物を奪ってくるのが職業の、自称自由の民、山賊様達なのである。その名も、「爆裂団」というウォウル近郊では悪名高いグループである。どの程度悪名高いかを確認する上で、各邑の公安関係者が目安にしているものの中に、年に一度、発行される黒竜書房の「悪党なんて呼ばないで!」という雑誌がある。これにはナーラダに巣くうの悪党達のリストが掲載されており、犯罪歴、及び賞金の額などが掲載されている。またAAA(トリプルA)からCCC(トリプルC)までランク別されており、因みに爆裂団はA(シングルA)クラスの悪党と社会的には認知されている。一応、ナーラダ危険者基準というものに則ってランク分けされているらしいが、これもなかなか怪しいものである。というのも、黒竜書房はシーランに活動拠点をもつ団体なのであるが、リューンがシーランを統治する以前は彼をAAA(トリプルA)と掲載していたのであるが、彼が統治した後は、ナグモ・リューンの掲載欄が消えてしまったからである。内容がリューンなどによって検閲されてしまうこともあるのであるから、利害関係によっては他の犯罪者のランクが変動したりする場合もあるのだ。
 ともあれ、ナヴィスが今のところ当てにできるのはA(シングルA)認定団体の爆裂団の皆さんだけである。この爆裂団が有効に使える仕事は間違いなくテロ活動だけだ。使い方を間違ってはいけない。だが逆に言えばテロは行えるのだ。それにアヴィの娘のヒュリィは思ったより有能だ。諜報活動などを任せることが出来るだろう。
だが、やはり経済的な面では心細い。もしこれから同志が増えていくとしたら、山賊としての業だけではやっていけないし、モラルにも影響が出てくるだろう。早めに経済的な援助が欲しいところである。かと言って、おいそれと援助してくれるものでもない。
「さて、どうしましょうか・・・・・」

【胎動】
 火の月12日。スィスニアの雲徳殿では宮女達の官職発表が行われた。
 ライサは后妃、ロアンは嬪妃、アリサは才人となった。
 正妃が一人、后妃が二人、夫人が四人、嬪妃が八人、捷婦が十六人、美人が十六人、才人が十六人、宝林が三十二人、御女が三十二人、采女が三十二人の形式上の百五十九人の婦人にその他多数の女官を入れて約六百五十人からなる後宮が誕生したのである。
ライサの部屋は雲徳殿西の、銀で覆われた建物である。今一人の后妃アル・エルラーゼの部屋が東であるために、ライサは西后妃と呼ばれる。幸運にもライサ、ロアン、アリサの部屋は近かった。だがライサなどは自由に行き来することはできない。彼女はロアンとアリサより上位の妃であるために、自ら出向くのではなく、呼びつけなくてはならない。
「面倒なことになったな」
 ライサは心からそう思った。今までの関係から言えば、ライサやアリサが色々とロアンに相談に乗ってもらっていたのであるから、自分やアリサがロアンの下になれば何も不便は無かったはずである。とは言えライサ自身、后妃という身分に不満を持っているわけではない。幼なじみのハヤと上を目指すことを約束したのである。この雲徳殿では正妃に次ぐ地位である。万が一、正妃がいなくなれば順当にいけば西后妃か東后妃のいずれかが正妃になるのである。
 と、考えていると侍女が二人の来訪を告げた。
「ロアン嬪妃とアリサ才人がいらっしゃいました」

 ロアンとアリサは侍女を伴って現れた。ロアンは白を基調とした美麗な衣服を身に付けている。アリサの方は淡い水色であった。装飾品も身に付けている。こう改めて見てみると二人ともやはり美しい。特にロアンはしっとりした大人の美しさを持っている。ライサなどはこういう女性に憧れのようなものも抱いてしまう。無論それは世に言う同性愛とかという感情の高ぶりではなく、純粋な憧憬の念である。
「后妃だよ后妃〜ライサちゃん、おめでとう〜」
「よかったですねライサ」
「ありがとう、二人とも」

 さて、その日のうちに雲徳殿の宮女達は、正妃の元へ挨拶へ向かわなければならなかった。もっとも、后妃であるライサの元にもたくさんの宮女達が顔を見せに来たので、大分時間をとられてしまったが。
 一段落着くと、ロアン、ライサ、アリサの三人は一緒に正妃の元へと向かったのであった。三人に従う侍女達も一緒である。因みにロアンの侍女の一人であるメル・イーナという女性は順当に行っていれば、少なくとも才人になっていた人である。運悪く、ロアンに目をつけられて、アリサの筆記試験の回答で評価されてしまった不幸の人である。もっとも、そのことはロアンとディル以外は知らない。アリサは実力で才人になったと思っているし、イーナも実力の結果が今の地位であると思っている。
 ロアンは少し考えていた。無論そのことについて反省していたわけではない。正妃についてである。東后妃となったアル・エルラーゼは、スィスニアでも吏長を三代に渡って出して名門といわれてきたアル家の出身であり、彼女自身の才色兼備ぶりも広く知れ渡っていた。ロアンも噂通りの人物であると判断した。それでいて政治的野心をあまり持ち合わせておらず、小説家カレリア・ロアンのファンで少なからず自分に好意を寄せてくれていたことから、将来的にも対立することはまずあり得ないと考え、自分の陣営に迎える上で最右翼の人物であると考えていた。彼女ならば或いは正妃にとも考えていたが、エルラーゼ自身は后妃となった。スィスニアの妓楼で名を馳せたラメ・マドゥーラは美人となっている。シーランの歌姫と呼ばれたロイダ・リーリンは嬪妃であるし・・・。
「さて、誰でしょうね・・・」

 正妃の部屋は黄金で覆われており、柱一つ一つに装飾が施されている。また、小さな池に覆われているために、石段の道を通って部屋には行くことになる。

 三人は正妃の侍女達に部屋へ通された。イーナをはじめとする三人に従う侍女達は部屋の外で待機させられた。ここはやんごとなき御方の部屋であって、等級の低い宮女の侍女如きが入室することは許されないのである。数日前までは共に机を並べていた者達であるが、任官された後は問答無用に差別化される。

 少女は形のよい口を開き、三人を迎える言葉を述べた。
「よういらした、わらわが正妃のオフィーリア・ファーナです」
 その少女には三人とも見覚えがあった。三日前に池の近くで涼んでいた時に、声を掛けてきた女性に付き従っていた侍女の一人である。もっとも今はあの時と違って居丈高に三人を見下ろしているが。
 その目は明らかに三人を挑発している目である。
 だがロアンは、ここは取り敢えず無難に終わらせるべきだろうと判断したようで、
「この度、嬪妃となりましたカレリア・ロアンです」
 と一礼し、二、三祝辞を述べる。
 ライサもアリサもその空気を感じ取ってか、ロアンに従った。
「ほう、そなたがあの**小説家かえ、それと池の近くで笛を吹いて唄っていた者達であろう・・・。もう少しそなたらは芸に磨きをかけてから陛下に披露するがよいぞ。あれでは信天翁の囀りの方がまだよいというもの・・・」
 アリサの顔は真っ赤になっている。ライサは横で彼女がファーナに飛びかからないようにしっかり手を握っていた。
「・・・まったく仰せの通りで御座います。陛下に喜ばれますよう、これからは精進することにいたしましょう・・・では、我々も部屋の片付けなども残っておりますれば、この辺で失礼させていただきます・・・」
そう言ってロアンは再び一礼し、今度は頭を上げるときにファーナの目を睨み返した。ファーナもそれを受け止め、ロアンを睨み返す。そして互いに微笑を浮かべた。
 幼いが度胸が据わっている。少なくとも温室育ちの世間知らずではない。一体何者であろうか。
 そう考えている時、ファーナが付き従っていた女性をロアンは思い出した。あの女が黒幕であろうか。
 何にせよ、ディルに調べてもらわねばなりませんね・・・。

 三人とファーナが話していたのは、一、二分程度である。しかし、これから自分たちにとってどのような存在になるかを知るには、十分すぎる時間であった。

 その夜、ロアンは侍女のイーナ達が自室へ戻るとディルを呼びつけた。今晩はリューンが自分の所には絶対来ないと思ったからだ。初日であるのだから、いくら何でも正妃の元に通うはずである。
「ロアン様・・・。どうもそれがですね、あの正妃が自ら部屋を出て訪れた部屋があるらしいのです」
「それは、何処の部屋ですかディル」
「北東の外れにある部屋です」
「誰です、そこの部屋の者は」
「それが・・・まだよく分かっておりません。ただ警備が厳重です。部屋の前には侍女達が四六時中おりまして・・・しかも侍女ではあるようなのですが、どうもただの女達ではないようです」
「・・・それは厄介ですね」
 ロアンはそう言いながら腕を組む。
「まあ、それよりも今日は陛下もいらっしゃらないし・・・ディル」
「はい、ロアン様」
「久しぶりに、貴方の入れたお茶が呑みたいのだけれど」
「すぐに用意いたします」
 クレス・ディルは早速、鼻歌を歌いながら「おいしいお茶」の準備を始めるのだった。
「ファーナ・・・か」

【曇りのち晴れ?】
 ひとたび雲徳殿という名の後宮が組織として動き出せば、商人達は、その後宮内で誰が、どの程度力を持っているかということなどに関心をもつようになる。今後の商売のために、誰と懇意にしていれば最も美味しい汁を吸えるかということを考えるわけだ。無論、多くの商人達は正妃であるオフィーリア・ファーナの顔色を伺いながら機嫌をとることはまず間違いがない。正妃は形式的にいえば、その後宮に於いて最も上位の女官であるのだから、それに後宮内の権力は集中するはずである。だが、あくまで形式的に言えば、である。王の寵愛を極端に受けるような宮女がいれば、その者を中心にまた別の派閥が形成されるのだ。商人のみならず宮内の宦官を含む官僚達が最も関心があるのは、誰が子を産むかであろう。まして、男子であれば、スィスニアの次の国王となるのであるから、産んだ宮女は国母となる。それが正妃であるファーナであれば全ては丸く収まるが、そうでなければその宮女は正妃と同等の、もしくはそれ以上の権威を持つことになろう。だから、しばらくは商人達も慎重である。今のところはっきりしているのは、正妃になったのがオフィーリア・ファーナという16歳の少女だということだ。噂では絶世の美女であるということだが、それに加え、恐ろしく気位の高い女性だとも評判であった。だが取り敢えず、この女性の機嫌を取っていれば問題はない。商人や宦官連中はそう思っている。
 ルイセルク・エリシュもそう思わなくはない。しかし、彼の場合はそのようにしか考えない商人達とは少し違う。権力者に傅き甘い蜜を吸うというのは、彼本来の生き方に反するからだ。だいたいにしてそのような権力争いとは無縁でありたい。客に喜んでもらえれば自分はそれで満足なのだから。
 とは言うものの、自分が雲徳殿で物を売るわけではない。雲徳殿へはエリシュの代わりにカリフ・イーマーン・マラーイカが行っている。
「大丈夫かな・・・」
 マラーイカは人一倍感受性の強い娘である。それだけに傷つきやすい。
 エリシュは泊まっている宿の窓から雲徳殿を眺めていた。

 その頃、マラーイカはどうしていたかというと、雲徳殿の広大な庭園の片隅に腰を下ろし、溜息をついていた。
 空を見れば今の彼女の心のようにどんよりと曇っていた。
 初日は一つも売れなかった。二日目は一つだけ売れた。三日目は一つも売れなかった。そして今日で四日目になる。
「エリシュさんはまずは慣れることだよ、と言うけれど・・・」
 私には向いていないのかな、と思わずマラーイカは考えてしまう。この雲徳殿の女官達と自分との隔たりは一体何なのだろう。皆、自分のことを何か珍しいものでも見るような目で見る。そういう視線を感じる度に胸がしくしく痛んだ。
「どうした、迷ったのかな」
 廊下からマラーイカに声が掛かった。見れば声の主は四人ほどの従者を引き連れた男であった。男は従者に二、三、何かを言う。すると四人の従者達は男に一礼してその場を立ち去った。廊下から庭園へ出てマラーイカの方へとやってくる。
「いえっ、少し疲れたので休んでいただけです」
 そう言って一生懸命笑顔を作った。
「ならばいいが。最近、商人達が出入りするようになって賑やかになったのはいいのだが、迷子になる者が続出していてね・・・ん」
 リューンはマラーイカの抱えている布の中のものに興味を引かれた。
「見せてもらっていいかな、お嬢さん」
「どうぞ・・・えーと・・・」
 そう言ってマラーイカはリューンの顔を眺めた。宦官と呼ばれる者達は、皆のっぺりとした顔立ちをしていた。その表情はひどく病的で生気を感じさせない。不気味にさえ見える。そう考えると、目の前の男は若干中性的な顔立ちをしているものの、宦官ではないような気がする。
「失礼、私は侍医のダルディークと申す者。今日は東后妃様が御気分優れぬとのことで呼ばれて参ったのです、お嬢さん」
 リューンはとっさに嘘を付いた。いきなり「私がこの国の王様だ。はっはっは」などとは流石に言う気はない。寧ろ、この状況をより有意義に使いたい。目の前の少女は自分のことを知らないのであるから、対等な存在となることが可能である。もっとも、東后妃アル・エルラーゼの様態が芳しくないということは事実で、リューンはその見舞いをした帰りであった。
「ダルディークさんですか、どうぞ遠慮なくご覧下さい」
 そう言ってマラーイカはリューンに布の中の商品を見せるのだった。
 リューンはサイダバードについて多少の知識はあった。無論自分の足でサイダバード邑へ行った経験はない。しかしながら、今の地位になく、流浪の旅を続けていたら一度は行っていたに違いない。サイダバードの民達は大陸から渡ってきた遊牧の民達で、独自の文化を持っているそうである。リューンは旅が好きだ。多くの事を学べるからだ。そのことについて昔、シュラに年寄りくさいと笑われた。でも好きである。否、旅のようなものが好きなのかも知れなかった。
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。その言葉を残したのは芭蕉であっただろうか。リューンにとっては日々生きることが旅のようなものなのだ。旅をするからには納得のいくものでありたい。結果としてリューンは剣を抜くことになった。一度剣を抜けば、鞘へ戻すのはなかなか難しい。そのことに後悔したこともある。だが世を変えるための力を欲したのは自分である。自分で選んだ道だから、しばらくはこの道を歩んでいこうと思う。この道で自分の旅は終わるのかも知れないし、またこの先に大きな分かれ道があるのかも知れない。今は分からないが、時流という名の旅先案内人がそのうち進むべき道を示してくれることだろう。
 目の前の少女にとっての旅とは、これからどのようなものとなるのであろう。幾数にも分かれた道をこの娘はどのように考え、選んでいくのだろうか。旅というものは自分の足で歩み続けるだけではない。人々との巡り会いによって大きく変化するものだ。
「ほう、これは綺麗な・・・髪飾りですか」
 リューンはマラーイカの作った木彫りの装飾品を手に取った。巻き貝を模したデザインの髪飾りである。
「これはお嬢さんが?」
「いえっ、あ、はいっ」
 そして、はにかむようにマラーイカは俯く。
リューンは本当にこの娘は商人かと、一瞬疑った。
 有能な商人とはどのようなものであろうか、と問われたら、リューンはまずこのように答える。繊細な心を持つ者。そして客へ売る商品に絶対の自信を持っている者。最後に行動力のある者。
 目の前の少女には後者二つが欠けている。いや、この娘は行動力はあるのかも知れない。自信のなさが彼女本来の積極性を失わせている可能性もある。

 リューンは間をとるために深呼吸をする。そして、
「も、もうかりまっか・・・」
「はい?」
 一瞬何のことか分からず、マラーイカはリューンに疑問の声を上げる。
 場の雰囲気が凍りついた感さえある。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・慣れないことはしないほうがいいようだ。
 リューンは心からそう思った。これが今日の教訓だった。

「いや、商売の方はどうかと思ってね。その、色々と大変ではないかな・・・」
 マラーイカの表情が曇る。そして、リューンの顔から目を逸らした。
 褐色の唇から、消えそうなくらい小さな声が漏れる。
「なかなか、その・・・売れなくて」
「どうして?」
「どうしてって・・・・・ここはとても冷たいんですもの、全てのものが」
 冷たいとものが売れない、と少女は言う。他の者ならばいざ知らず、リューンには幸運にも彼女の述べたいことが少しは理解ができた。
 マラーイカはここ数日考えていたことを次々とリューンに聞かせた。あまり自己主張のすることのないマラーイカであったが、その分、己の中で溜め込む傾向も強い。一度、心の枷が取り払われると、自然にそれを全て外へ出そうとしたのだった。

 リューンは苦笑せざるを得なかった。彼女に聞かされた話の中には、自分自身への非難の言葉も多分にあったからである。
 嫌われたものだな・・・。リューンは自嘲気味に小声でそう言った。
「ご、ごめんなさいっ、こんなどうでもいいことを長々と話してしまって」
 マラーイカは今さらながら赤面して俯いている。
「構わないですよ、私は別に・・・それより」
「何でしょう、ダルディークさん」
「貴方はものを作るのが嫌いなのかな?」
 マラーイカは頭を振る。
「いいえ、そんなことはありません」
「では自分が作った、この髪飾りは好きかな?」
 マラーイカはリューンが手に持つ自分の作った髪飾りを凝視している。マラーイカにとって、布を織ることや装飾品を作ることは自分の一部であった。即ち、息をしていることと同じなのである。好きか嫌いかなどということは、あまり考えたことはない。
「貴方は、自分の作った作品に愛情を持たなければならない」
「えっ」
「それから、あまり他人の目などは気にしない方がいい。それだったら自分のペースに相手を引き込めばいいのだよ、私など・・・」
 そう言ってリューンは止めた。
「私など・・・何なのですか?」
「いや、何でもない。とにかく作品に愛情をもつこと。そうすれば自信も生まれる。そうしたら次にお客さんには、自慢の息子や娘を見せびらかすんだ」
 リューンはマラーイカの頭の上に手を乗せる。
「そうすれば、きっと上手くいく」
 その時、二人の元に一人の宦官がやってきた。宦官はマラーイカを一瞥すると、リューンの耳元で何やら囁いている。
 次第にリューンの表情が強張っていった。心なしかマラーイカには周りの空気も張り詰めいているような気さえする。
 怖い・・・。
 そうマラーイカは思ったが、一瞬の後には恐怖心は消えていた。
 宦官はリューンに一礼し去っていき、再び先程までマラーイカと話していたダルディークが目の前にいた。
「また仕事が入ってね、私はいかなければならない。その前にこれと、これをいただくとしよう」
 そう言ってリューンは先程の髪飾りと、幾つかの織物を指さした。
「それらをカレリア・ロアン先生、いやロアン嬪妃の元へ届けて欲しいのだが、お願いできるかな」
「はい、ありがとうございますっ」
 どうして侍医が嬪妃の部屋に贈り物をするのか、やや疑問を感じないでもなかったが、ロアンの部屋と聞いて、マラーイカの頭の中からそのような疑問は忘却の彼方へ吹き飛んでいた。小説家カレリア・ロアンの名はマラーイカもよく知っている。死邑、華鏡列伝、氷湖、酔虎伝、等が今のところの彼女の代表作であるのだが、マラーイカはそのすべてを読んでいた。
「あの・・・」
 ここにきてマラーイカはダルディークに頼み事をすることにした。兄ナザフのことである。ダルディークは侍医として様々な宮女達に接する機会もある。宮女達は色々な地から訪れたのであるから、もしかしたら手掛かりくらいはつかめるかも知れない。
「わかった、聞いておこう、えーと」
 リューンはまだ目の前の少女の名前を聞いていなかった。いつもの悪い癖である。
 それを察したマラーイカは恭しく一礼して笑顔でこのように述べた。
「椿屋でお手伝いさせていただいております、カリフ・イーマーン・マラーイカと申します。今後とも当店を何卒御贔屓のほどを、よろしくお願いいたします」
 それを見てリューンは何となく可笑しくなった。
「・・・へ、変でしょうか」
「いや、すまない、そのようなことはないよ。それでいい、それで・・・やはり貴方は笑顔の方が似合っている」
見上げれば、いつの間にか雲は消え去り、空は一面青色であった。

【戦場を駆ける恐怖の青い狸・その名は上官殺しのドラえもん】
 スィスニアと東邑同盟の国境付近にライアードという邑がある。このライアードはスィスニア領でもなければ、東邑同盟領でもない。森に囲まれた人口五千人ほどの邑である。リューンは再三に渡り、スィスニアの領土となるように、ライアードへ使者を出していた。その度に返答は曖昧で、満足のいく結果はもたらされなかった。ライアードの邑宰であるエルバ・ラグールは慎重であった。ライアードの民達の命運は自分の手に掛かっている。そのために軽々しく返事は出来なかった。同じく東邑同盟のゼス・ガルボアからも使者が来ており、同盟入りを進められていたが、これについても慎重な姿勢を示していた。しかしながら先月、ターヌ平野に於いて東邑同盟軍とスィスニア軍の大規模な武力衝突が起こり、東邑同盟軍が勝利するという事件が起こった。ライアード内の世論は東邑同盟と結ぶことに大きく傾き、ラトーラもそのようにすることを決定した。
 この事実にリューンは激怒し、直ぐさま出兵の準備に取りかかった。
「見せしめに皆殺しにする。一度この俺に弓を引けば、どうなるかを世に知らしめるのだ。女子供といえど容赦するな。そして森ごとライアードを灰燼と化すのだ」
降伏か死か。今のリューンの頭の中に共生という二文字はない。
 虐殺という名の狂人の宴が始まろうとしていた。

スィスニア一○○七重装歩兵師団・屯所。
「ざーけんなーっ!!!!」
 この日、副師団長のモンド・ラーエは虫の居所が悪かった。朝から部下達に当たり散らし、時として、副師団長室にある家具を叩き壊したりしていた。
「ラーエ様はご機嫌斜めらしい」
「余程、あの人事が気に入らなかったのであろう」
 兵達の口からその様な言葉がちらほらと聞こえてくる。
「上官殺しのドラえもん」。彼はそうあだ名されている。敵前逃亡をしようとした腰抜けの上官を叩き殺したことから、部下達から畏敬の念を込めてそう呼ばれている・・・・・のか?
 そいつはともかくとして、とにかく今日は不機嫌きわまりない。
「人吏の奴らは何を考えていやがんだ。それとも、俺にグンジン辞めてガキのお守りやれってのか、あーん?!」
 副師団長は師団長の補佐をすることをその責務とする。また、師団長不在の場合は副師団長がその業務を代行する。軍律にはそう定められている。
 ラーエが以前殺した上官は名門出の男だった。当時、一○○七師団はウォウル軍の攻撃からスィスニア領内の小邑ルシアを防衛することをその任務としていたのだが、その上官はウォウル軍の圧倒的な兵力の前に臆し、邑民を見捨て逃亡しようとしたのだった。それをラーエは斬ったのだ。ルシア自体は当時まだ八武衆の一人であったライラの援軍が駆けつけたために、守りきることはできたが、ラーエはその後、軍法会議にかけられた。だがこの時、司法官であったエレニス・メロウリンクはこの訴えを退け、ラーエを無罪放免とした。上官を殺したラーエには何も非がなかった。メロンはそう判断したのである。
 ハヤが一○○七の屯所へやって来たのは、昼過ぎであった。この頃になるとラーエの執務室は足の踏み場もないほど散らかっていた。棚は倒れ、壁には拳の形をした跡が五つ、六つ見える。ハヤはこの部屋に入り、念のためにもう一度廊下に出て、誰の部屋か確認した。『戦場を駆ける恐怖の青い狸、モンド・ラーエ副師団長のオ・ヘ・ヤ』と書かれている。戦場を駆ける恐怖の青い狸、という妙な修飾語は兎も角として副師団長の部屋には間違いがないようだ。中には椅子にふんぞり返り、机に脚を投げ出して、鼻を穿っている狸のような中年男がいる。
 うーん。
「俺、今日からこいつらと仲良くやんなきゃいけないのか」
 胸中に複雑な思いを秘めながらも、ハヤは再び部屋の中に入っていく。
 中にはラーエがいる。
「今日からここの師団長になるハヤだ、よろしくな」
 ラーエは溜息をついた。ハヤがラーエが思った以上に若かったからだ。少年の面影をまだ残している。こんな奴に兵を率いさせようってのがどうかしている。この一○○七は荒れくれ共の巣窟である。彼らはハヤを自分たちの上司として認めまい。
「お若いですな」
「今年で18になる」
 ラーエは愕然とした。彼はこの師団に属する二千名の名前と年齢、その他の素性等を頭の中に入れている。最も高齢な者は51、最も若い者は17である。だが目の前の師団長を名乗る青年は今年で18になるという。
 こいつは・・・前の奴の方がましだったかも知れん。
「以前はどちらに」
「王宰シュラ様の衛士だった。その前はただの兵卒だ。まあ、よろしく頼むぜ」
そう言ってハヤはラーエに握手を求めた。ラーエはこの時初めて立ち上がり、それに応じた。
 このハヤという青年の美点は、少なくとも名門意識や妙なプライドを持ち合わせていないところだ。それだけが今のところラーエには救いだった。前の師団長はガチガチの名門出身の男で、兵卒を蔑む傾向があった。そのくせ指揮官としては無能だったのであるから、兵達がついて行くはずもない。最後には任務を放棄しようとし、ラーエに斬られた。
「ラーエ・・・さんだったか・・・」
「ラーエで結構ですぜ、師団長」
「あんたらが、俺のことをどう思っているかは分かっているつもりだ。あんたらにとっちゃたまったもんじゃないよな、人を使ったことのない奴に率いられるんだからな」
「誰にでも、初めてはありやすぜ」
「ありがとう、そう言ってもらえると助かるぜ。噂じゃあんたはこの師団の連中からは大分慕われているみてぇだし、色々と世話になるよ」
 そう言ってハヤはラーエの部屋を出ていく。
「ちょっと待ってくだせぇ」
 ラーエの呼びかけにハヤが振り向く。
 暫しの沈黙があった。
「師団長、あんた人を斬ったことは?」
 ハヤの表情が曇る。だがそれは一瞬であった。そして笑顔でこう言った。
「先月ターヌでイヤになるくらい斬ったよ、それだけかい」
「・・・へい、それだけです」
 ハヤはラーエに背を向け、手を振りながら部屋を出ていく。
 それを見守ったラーエは再び椅子に座り、机の上に脚を投げ出した。そして、引出から葉巻を取りだし、それをくわえて火をつけた。
「ふーっ」
 部屋の中では煙が蜷局を巻いている。
「ハヤ・・・といったか、あの小僧・・・」
 ボンボンよりはましだな。それと・・・「ありがとう」・・・か。軍では聞けねえ台詞だよな普通・・・。変わった奴だ。変わった奴だが、嫌いじゃねえな・・・。まあ、俺がしっかりしていりゃ、あの小僧でも何とかなるか・・・な。
ラーエは隣室に控えている部下を呼んだ。
「おい、てめえら俺の部屋を片付けておけや。いや壁の拳の跡もあるからな・・・明日の朝までリフォームしといてくれ」
 かなり理不尽なラーエであった。

【八雲立つ】
 旗差物が風に鳴る。
 号令と共に槍が一斉にあがり、鈍く光る林になった。
 恐ろしい光景であった。少なくとも宿の二階の窓から眺めているマラーイカにはそう感じられた。
「また多くの血が流れるんですね・・・」
兵達はエルヴァ通りを行軍していく。

 ナグモ・リューンがスィスニアを発ったのは火の月16日のことである。即位してから初めての戦であった。当然、万全の体制で望んだ。動員された兵力は実に一万二千名を数えた。これは実際にスィスニア王国が動員可能な兵力のおよそ五分の一に達する。人口五千人ほどの小邑であるライアードを攻め落とすには、明らかに多すぎる兵力である。しかしながら、この事は多分に政治的な意味合いをも含んでいた。
 まず、小邑如きを攻め落とすのに一万二千もの兵を躊躇いもなくいつでも出兵させることが可能であるという事。それだけスィスニア王国が経済的に余力があることを内外に示すいわゆる宣伝ショーである。次に、黒竜旗軍との戦いを備えていることもある。ライアードの邑宰エルバ・ラグールは東邑同盟の盟主であるゼス・ガルボアへ救援要請を行うであろう。だがガルボアはこれを退ける。例えこれを受諾したとしても、ライアードへは援軍を派遣しない。ガルボアが軍を派遣するのは東邑同盟にとって是非とも確保したい前線要塞の竜角関である。この要塞があるお陰でスィスニア王国領内への積極的な侵攻が出来ないのである。詰まり、ガルボアにとってライアードはスィスニア軍をおびき寄せる囮に過ぎないのだ。対してリューンは途中で軍を二つに分け、八武衆の一人であるエルファ・ザドゥ率いる片方の軍で竜角関を防衛し、東邑同盟軍を撃破させ、自分の率いる残りの軍でライアードを攻め落とそうと考えている。再三に渡る勧告を無視したライアードの邑を文字通りこの世から消滅させ、東邑同盟軍に勝利することで、リューンのシナリオは完成する。スィスニア領の方はシュラやメロウリンクに任せておけば問題はない。そう、問題はないはずであった。リューンが考える範囲内に於いては。しかしながら、そういった心の奢りは何かしらの形で打ち砕かれるものである。リューンの場合はランギヴァラーハ・ライラという人物の思考をそれほど重要視していなかったためにその事件が起きた。
 即ち、北蛮関の陥落である。

「すると、その女を一人助けるために、我がウォウル王国の精兵を派遣せよと貴公は言うのだな」
 火の月13日、シルキーヌはデュオを伴いウォウル王廷へと出向いていた。
「少々違いますな。助けるために派遣するのではなく、北蛮関を攻略するために派遣するのです。ライラ将軍は態と捕まり、内部から北蛮関を攻略することになっています。ですが、万が一援軍が駆けつけた際にこれを退けられる兵力を将軍は持ち合わせておりません。そこで王の力をお借りしたいのです」
 デュオはヴィレクを説得するために、自慢の緑色の極楽鳥頭を黒く染め上げて来ていた。服装もジャンキーないつものスタイルではなく、正装をし、髪はオールバックにしている。360度何処から見てもジェントルマンであった。元々ライラの兄の下で間諜として働いていたデュオは変装などをする機会も多々あったために、化けるのは得意である。
 シルキーヌは、横でヴィレクを相手に話すデュオを眺めていた。
「王もあの要塞には、色々と悩まされておられるはず・・・」
「確かにその通りだ。あの要塞はスィスニアの民達から見れば、半ば平和の象徴のようになっている。それだけ堅固だということだろうが・・・」
「そう、あの北蛮関がある限り、ウォウルが陸路からスィスニアに攻め込むことは出来ませぬ。それだけに民達にしてみれば、平和をもたらしてくれる存在だと考えるのでしょう」
 ヴィレクは少し考え、傍らに控える王宰ミナリア・ジグトに外吏長を呼ばせた。

 外吏長クルー・マツヤがヴィレク達の前に現れたのはそれから四半刻後である。大柄な男が頭を撫でながら歩いてくる。
「いやいや申し訳ない。かみさんの仕事を手伝っていたら・・・」
「ウォッホン!!」
 その時ジグトが咳払いをした。マツヤに目でシルキーヌを指す。
 客人の御前故、あまり羽目を外すな。ジグトの目はマツヤにそう言っている。
 それを察してマツヤも改める
「王、私をお呼びだそうで」
「そうだ」
 ヴィレクは、ライラが北蛮関にて捕まったという情報がマツヤの耳に入っているかを聞いた。マツヤは外吏長である。外吏長の仕事は、外交使節として他国へ赴いたり、公文書の作成のみならず、他国の視察も含まれる。スィスニアの隠密衆のような間諜の仕事もマツヤは行う。もっとも、スィスニアの隠密衆は同時に暗殺集団であるが、マツヤの率いる「ウォウルの耳」と呼ばれる組織は殺人は行わない。純粋に諜報活動のみをその公務としている。
「今のところ、そのような情報は届いておりませぬが」
「だそうだ・・・。ライラ将軍は本当に北蛮関にて投降するのかな」
 ヴィレクは今一度デュオに問うた。
「間違いは御座いませぬ。恐らく七日以内には動きが出るかと思われます」
 シルキーヌを一瞥した後、ヴィレクは冷めた笑みを浮かべる。
「よかろう。大司祭殿の頼みもあったとあっては断るわけにはいかないからな」
 それでヴィレクとの会談は終わった。ライラが捕らえられたという情報が「ウォウルの耳」を経由して入ってくれば、出兵すると確約してくれた。
 シルキーヌはほっと胸を撫で下ろした。ヴィレクから最後に何かしらの条件を持ち出されるのではないかと思ったからである。だがデュオの言うとおり、ヴィレクは何も条件を出さず出兵する約束をしてくれた。

「かーっ肩凝っちまうよな、こんな服着ているとよ」
 シルキーヌの前を歩くデュオは両腕を伸ばしながら首を鳴らしている。
 王廷を出る時であった。
 王廷に向かって猛烈な勢いで突っ走ってくる女性の姿があった。口にはパンをくわえ、右手にはカバン、そして左手には・・・なんとハイヒールを持っている。詰まり、彼女は、アルニカ・アシュヴィーは素足であった。

 アッシュは今日から何とヴィレク王の秘書となったのである。初めは外交関係の部署の方がよいかと思っていたのであるが、ちょうど運悪く外吏の人事募集はなく、代わりに幸運にも秘書の募集があったのである。しかもヴィレク王の秘書である。ただの外吏と王様の秘書を天秤に掛け、どちらに進めばよりロアンのために働けるかと考えれば、これはまあ、言うまでもないことである。
 アッシュがその秘書採用の広告を見たのが試験実施の半刻前である。彼女は人吏院に於いて速攻で願書を貰い、履歴書を書き、こんな事もあろうかと持っていた健康診断書を同封して、試験実施の四半刻前に受付へ提出した。
 そして倍率52000%の超難関を彼女は呆気なくパスする。ヴィレクは独身で、若く秀麗な青年だ。年を追う毎に「王妃」という言葉も囁かれるようになってきている。我こそはと思う女性達が「国王秘書」という役職に目を付けないはずがないのである。だが、そんな女性達が夢見るシンデレラ・ストーリー、もとい野望をアッシュは何気ない気持ちでぶち壊してしまうのだった。秘書の定員は一名。即ち519人の女性の夢がアッシュのロアンを想う気持ちの前に潰えた計算になる。

 火の月11日に試験を受け、翌日12日に発表があり、13日、即ち今日からアッシュは出仕しなければならない。
 が、しかし・・・・・。

「なんでよ、どうしてこんな日にかぎって寝坊なんてするのよ!!」
 アッシュがこの日に起きたのは火の刻(10:00AM〜0:00PM)であった。本来あるべき出勤時間から一刻以上が経過している。彼女は急いで顔を洗って化粧をし、イヤリングを付けながら手帳をめくり、ヴィレクの今日のスケジュールを確認した。続いて服を取り替え、鏡台の前で髪を梳かす。
「よし完璧だわ」
 アッシュは鏡に向かってウインクする。
 ふふふ、今日も綺麗よアシュヴィー・・・・・って、こんなことしている場合じゃないんだったわ。
 アッシュは昨日買ってきた食パンを口にくわえ、大事な書類カバンを持って王廷へと全速力で向かった。途中からパンプスでは余りにも走りにくいので、これを脱いで素足で突っ走った。

 デュオは王廷に凄まじい勢いで向かってくるアッシュの姿をシルキーヌより僅かに早く捉えていた。すかさず彼はシルキーヌの後ろに隠れる。
「ん、どうしたのデュオ」
「いや、なんでもないんだ」

「遅刻遅刻遅刻遅刻〜!」
 アッシュは王廷前の階段を三段ずつとばしながら駆け上がってくる。
 必死だったために、障害物にまで意識が向かなかったことが災いした。階段を駆け上がったところでシルキーヌと正面衝突の事故を起こしてしまう。
シルキーヌは尻餅をついただけであったが、アッシュはバランスを崩し、そのまま階段から転げ落ちそうになった。
 それをデュオが助けた。
「これで助けたのは二度目だぜ」
 デュオはアッシュの細い腰に手を回し受け止めている。
 アッシュはデュオの顔を眺めている。極楽鳥頭こそがデュオのトレードマークなのであるから、今の彼に気付くわけもない。
 そしてデュオの細い顎に手を差し伸べた。
「うーん、まあ一応、可ってとこかな」
「やっぱ、このまま落としてやろうか・・・アッシュ」

【投降】
 火の月17日。
 冷たい雨が降っていた。
 宵の口には、叩きつけるような激しさだったのが、今では時に止んでは又さあっと降りしきる秋時雨のような雨に変わっている。
 ライラの目の前には北蛮関がそびえ立っていた。暗闇の中、雨にうたれる要塞の姿が松明によって不気味に映し出されている。
 ランギヴァラーハ・ライラが投降のために北蛮関の前に姿を現したのは17日の地の刻(4:00AM〜6:00AM)であった。この時、防衛司令官であったイバ・アズルード将軍はまだ自室で休んでいた。彼は衛士のアルフ・スカーツという少年から、ライラ投降の知らせを聞いた。そして、アズルードは胸中に複雑な思いを秘めながら正装をし、ライラの前に姿を現した。
 ライラはアズルードに軍礼する。ライラは裏切り者であったが、一個の武人であることには変わりはない。八武衆の一人ではなくなっても、武人としてアズルードが非礼をもって接してよい存在ではない。アズルード自身は、ライラの奇抜な容姿は兎も角として、武人としての有能さには敬意を表している。
 アズルードは同じく軍礼をもってライラに応対した。その後も客人として丁重にライラをもてなした。まずはリューンに判断を仰ぎ、その上で処断すべし、と考えている。アズルードに任されているのは、この北蛮関の防衛という任務である。如何なる捕虜と言えども彼が裁いてよいという理由はない。極めてリューンという男に忠実な武将であるのだ。彼は任務に忠実である反面、融通の利かない面もある。八武衆とはリューンに直属の者達である。従って、シュラやメロウリンク、ブラフ老らとは同格なのである。アズルードが指図を受けるのはリューンのみである。彼はそう考えている。だから例え王宰であろうとシュラに判断を仰がない。リューンが遠征より帰還するまで、アズルードが己自身の責任に於いてライラの身を預かる。
 アズルードは中央にライラ投降の連絡をしない。
 ランギヴァラーハ・ライラはそこまで読んだ上で、リューンのいない期間を狙ってアズルードの下へ投降したのである。彼女はついこの間まで、この北蛮関の駐留軍の司令官であった。防衛司令官のアズルードとはよく話したし、どのような人柄かを知り尽くしている。もしアズルードでなければ、間違いなくスィスニアへと護送されたはずである。スィスニアにはライラの矢傷で療養中のブラフ老がいる。あの老人であれば、感情のままにライラの首と胴を容赦なく切り離すに違いなかった。
ライラには一室が与えられ、そこに軟禁された。

「ウォウルの耳」ファイ・エルナットが外吏長クルー・マツヤの元に「ライラ投降」の情報を持ち帰ったのは18日人の刻(8:00PM〜10:00PM)のことであった。
 マツヤはエルナットが報告に来た時、愛妻ヴィドゥエ・ターラと共に夕食をしていた。マツヤとターラはウォウルではおしどり夫婦で有名だった。ターラはヴィレク王の乳母の妹である。彼女自身は、子を産めない体であるために乳母にはなれなかった。しかしながらそのことについては夫、マツヤの支えもあり現在は気に病んでいない。ターラ自身は教導役という役職にある。教導役とはヴィレクの近侍達の教育係のようなもので、王の側近として恥ずかしくないよう教育するのが彼女の仕事である。
「どうしたのです、おまえさま」
「スィスニアの北蛮関にて、元八武衆の一人、ランギヴァラーハ・ライラが投降したそうだ。俺はこれから王廷へ行き、王にこの事を報告しなければならない。今日はもう遅いからお主は休んでいてくれ」
「夜道には気を付けて下さいね」
 そう言ってターラは夫を家の外まで送り出すのだった。

 アルニカ・アシュヴィーにはヴィレクの執務室の隣に秘書室が与えられている。
 王の執務室へ入るにはこの秘書室を通らねばならない。我が国に於いては江戸中期に側用人が絶大な権勢を誇った事がある。大老堀田筑前守正俊を江戸城中で若年寄稲葉石見守正休が殺害したという事件が起こり、それ以降将軍に会うためには側用人の部屋を経由して会わなければならなくなった。以前は老中達の部屋は将軍がいる部屋のすぐ側にあったのであるが、その事件以来、老中の部屋は遠ざけられた。代わりに側用人が将軍の傍らに常に侍るようになり、著しくその役職の重要性が増大したのである。
 話が少し逸れてしまったようであるが、アシュヴィーの場合も状況がこれに近い。以前まではヴィレクの傍らにいるのは必ずミナリア・ジグトであった。しかしながら昨年のセルファニア湖の戦い以来、著しく疲弊した国力を回復するために、ジグト自身も執務に追われるようになり、常にヴィレクの元にいることができなくなってしまった。そのためにヴィレクを少しでも補佐できるよう新たに「国王秘書」という役職を設けたのである。国王秘書自体のウォウルでの地位はそれ程高くはないのであるが、側用人同様、その重要性は高い。王に会うには秘書に会って取り次いでもらわねばならない。王宰のジグトであろうと、兵吏長のルーシであろうと、外吏長のマツヤであろうと例外はない。国王秘書は最も王に近い存在なのである。
「で・・・君は何時までそうやっているの」
「そりゃ、お前さんが帰るまでだろうな」
 カガト・デュオはアッシュのデスクの上に腰を乗せてお茶を啜っている。
「カガ君、私はね、遊んでいる暇はないの、分かる?」
「だってよ、俺ぁ何もすることねーんだよ。暇なの、分かる?」
「じゃあシルキーヌ様の所で暇つぶしをしていればいいでしょ」
「駄目駄目、あそこにはタスタントっていう頑固爺がいるから、通夜みてぇになるんだよ。あの何とも言えない沈黙が苦手でさ」
 アッシュは溜息をつく。そしてデュオの表情を眺めた。
 デュオはまだ極楽鳥頭に戻していない。髪をオールバックにして後ろで結い、正装しているデュオの姿からはいつものジャンキーな姿は想像できない。階段で助けられたときも最初は誰か分からなかった。
 でも、
「おめぇ、まだあの香水つけてんのかよ。くせーんだよ、それ」
 すかさずカバンでデュオを殴りつける。
 やっぱ、カガ君だわ・・・。

 それから少し経ってから、外吏長クルー・マツヤが秘書室へやって来た。
「アシュヴィー殿、すぐにでも王にお会いしたいのだが」
 マツヤに応対しながらアッシュは奇妙なことに気が付いた。
 デュオがいないのである。
 しかしながら奇妙には思ったが、取り敢えずは秘書としての責務を果たすことにした。
アシュヴィーはマツヤを待たせ、ヴィレクの元へ行き、再び戻ってきてからマツヤを執務室へ案内した。
 そして、アシュヴィーが執務室から一礼して出てきた時に、彼女の後ろで影が落ちた。「どうもいけねえ、こいつは職業病って奴かも知れねえな」
 何もやましいことはないが、これもスィスニアにファンシーショップを出店した女性のように日頃の行いの影響であった。

「くしゅっ」
「大丈夫ですかシーちゃん」
 また、いい男が私の噂をしているのかしら・・・。

 そして翌々日20日早朝、兵吏丞セルビオ・パズーに率いられたウォウル兵二千が北蛮関へ向けて出立した。デュオもこの軍に加わっている。
 東の空がわずかに明るい。
 降っていた雨はようやくあがったが、濃い霧が立っている。
 霧の中で馬蹄のみが響きわたっていた。

【悪魔との契り】
「俺にはもう、お前のことを一番大事なものだと思うことが出来なくなってしまった」
「どうして?塩の代わりに砂糖を入れたから?それとも小麦粉の代わりに片栗粉を入れたから?牛肉の代わりにミミズの肉でハンバーグを作ったからなの?」
 お、俺は・・・そんな物を食べさせられていたのか・・・。
「・・・兎に角、今のままではもう、駄目なんだ・・・だから俺はここを出ていく・・・」
「そう・・・いつも自分が中心よね貴方は・・・。勝手にすればいいでしょ、馬鹿ァ!!」
「リレイア!!」

 このところ降り止まなかった雨が止みはしたが、依然として空は厚い雲に覆われている。その空をリレイル・リレイアは何気なく眺めていた。

 フェルノ商会からウォウルのリレイアの元へ使いの者が来たのは、そんな時であった。「死の商人」という言葉がある。戦争で私腹を肥やす商人の呼称である。フェルノ・クーレーンという人物は表向きは酒の交易と染料の販売を行う商人であったが、その実、裏では様々なことをやっている。リューンがスィスニアに於いてクーデターを起こした時も、スィスニアの有力商人達に武器を横流しをして、一儲けしている。また、セルファニア湖の戦いの際もウォウルやスィスニアにその影が見え隠れしている。自己の繁栄のためには、敢えて正義に目を瞑れる冷徹な男であった。リレイアが敬意を表している商人の一人である。
 その使者は儲け話と称して、イレーヌ=リビュニア姉妹王国のことについて話し始めた。聞けば、姉妹王国に於いて内乱が始まるという。否、正確には内乱の可能性を秘めた種がある。上手くいけば、現在の政情に不満をもつ一部の過激派が暴動を起こし、リビュニア独立のために内乱を起こす。そこで一儲けをしようと言うのである。勿論、どちらが勝っても負けても、儲かるように操作は行わなければならない。そこで、リレイル商会にフェルノ商会のもう一つの顔になって欲しいと言う。詰まり、フェルノ商会は、姉妹王国側にも反乱軍側にも売りたいのだ。だが露骨に二方に顔を出すわけにはいかず、片方の販売をリレイル商会に請け負って欲しいという。しかしながら、最初の方は圧倒的に不利な反乱軍側には投資という形で無償で物資を流さなくてはならない。まず、彼らが「反乱」を起こしてくれない限り、「商売」は始まらないのである。その分、姉妹王国側に流す物資の値段を吊り上げておけばいい。次第に反乱軍側が力をつけてきたら、金を貰うようにして、この時、姉妹王国側の物資の値段を下げればいいのだ。
 そして、その戦いが長引けば長引くほど、儲けが大きくなる。
 この話にリレイアは乗ることにした。彼女は反乱軍側への販売を受け持つことになる。

ファーカル・ナヴィスがウォウルのリレイル邸へ招かれたのは、それから二日後のことである。
 ナヴィスは何故自分がリレイル商会の代表から屋敷に招待されたのか、全く分からない。しかも、爆裂団のアジトにまで迎の使者をよこして、自分を指名してきた。リレイアとは会ったことはない。だが噂はよく聞いていた。若くして財を築いた、やり手の商人である。今ではウォウルでは五本の指にはいるほどの大商人となっている。今のナヴィスには人脈が必要だ。そのことは彼が一番承知している。だからどのような理由があるにせよ、ナヴィスはリレイアに会わねばならなかった。

 フェルノ・クーレーンはセルフィアー全土を股に掛けて暗躍する商人である。そのため、フェルノ商会の諜報員は大陸全土に派遣される。その規模は一国の諜報機関に匹敵するものであった。
 ナヴィスが独立の意志を強く持ち合わせた青年だという事実は、皮肉にもナヴィスの父、バルシールから漏れた情報であった。バルシールは普段は真面目で寡黙な男であったが、酒が入ると人が変わる。偶々酒の席に居合わせたフェルノ商会の手の者が、バルシールの語る「不肖の息子」について知ることになる。その時は未だそれほどナヴィスの存在を重要視していなかったクーレーンであったが、爆裂団を懐柔した事実が彼を突き動かした。彼にとってカネになる人物とは、机上で批判論を唱えているような者ではなく、実際に行動し、結果を出せる者である。今は未だ盗賊団を手駒としたに過ぎないが、いずれは大きくなる可能性を秘めている。こういう者に寄生してこそ富を得るチャンスが巡ってくるというものだ。

 ナヴィスは屋敷の使用人にリレイアの部屋へと案内された。
 部屋の扉を開けて入ると、窓辺にイブニングドレスに身を包んだ女性が、グラスを片手に立っていた。光沢のある紫色の口紅がひどく魅惑的であった。
 そして少し長めの前髪をかき上げながら、冷めた笑みを浮かべた。
「・・・若いのね」
「すいません」
 ナヴィスは思わず謝まってしまう。

 リレイアはナヴィスに資金及び物資の援助の件について話した。代金は出世払いということで、色々と世話を焼いてくれるということであった。この突然の話にナヴィスは戸惑いを覚えた。当然である。見ず知らずの自分をウォウルの大商人がバックアップしてくれると言うのであるから、驚かないはずがない。
「あの、どうして私などを援助しようと思ったのですか」
「革命に燃える若者の心に打たれた・・・というのでは、理由として不十分かしら」
 無論、この言葉を鵜呑みにするほどナヴィスは愚かではない。しかしながら目の前の人物の機嫌を損ねるわけにもいかず、
「貴女のような方にそのように思っていただけただけでも光栄です」
 などと言ってしまう自分を少し恨めしく思った。
 ナヴィスは下手に理由を聞くべきではないと直感した。リレイアほどの商人が無駄に投資をするはずはない。おそらく自分達は彼女の商売の駒に過ぎない。彼女が自分を利用するつもりならそれも悪くはない。自分達はその間、彼女の経済力を利用すればよいのだ。大体、商人に何も隠さず全て白状しろというのが無理なことなのだ。特に、利に生きる商人であれば尚更である。
「捨てる神あれば、拾う神ありとはよく言ったものです。今後ともよろしくお願いいたします、リレイア代表」
 そう言ってナヴィスはリレイアに握手を求めた。リレイアも笑顔でこれに応じる。
でも果たして、貴方を拾ったのは「神」なのかしらね・・・。神と悪魔を人はよく間違えるものよ、ボーヤ・・・。
 女豹はほくそ笑んだ。

【光陰】
 舞台は再びスィスニアに移る。
 千登勢屋という旅館がある。エルヴァ通りにあるマラーイカ達が泊まっている宿泊施設のことだ。ここにはマラーイカやエリシュの他にも多数の行商人達が泊まっている。因みに、マラーイカは藤の間、エリシュは杜若の間という部屋に泊まっている。マラーイカは余計に旅費が嵩むので一緒でもよいと主張したのであるが、エリシュはマラーイカにも部屋を取ってくれた。
「それでも、やはり一緒はまずいでしょう」
 というのが彼の言い分である。女性は性の対象としてしか見られないことに酷く嫌悪感を抱くが、それ以上に性の対象としてみられないことに深く傷つくものである。エリシュはマラーイカに対し、一人前の大人の女性として接していた。マラーイカ自身もそのように気を遣ってくれているエリシュに感謝している。

 スィスニアからライアードへ向けて、一万二千もの軍が出立してから一日が経った。
 ここ数日で、マラーイカは雲徳殿へ行くことに初めほどの躊躇いは無くなっていた。慣れた事と、そして、何よりも楽しみができたからである。
「それではエリシュさん、いってきまーす」
「マ、マアリちゃん、商売道具忘れているよー」
「ごめんなさいっ、エリシュさん」
 マラーイカは布の中に商品を入れ、それを頭の上に乗せて、千登勢屋から雲徳殿へと向かった。
 この3日間というもの天気が悪かったのであるが、今日は青空が一面に広がっている。まるで今の元気なマラーイカのようだ。杜若の間の窓に小鳥がやってくる。エリシュは窓に自分の残飯を置く。それを小鳥達が食べにやってくるのであるが、天気が悪いとなかなかやって来ない。だが今日は三日ぶりに窓辺が騒がしかった。
「さて、今日はいい天気だし、俺も頑張るかな」
 エリシュは横で小鳥達の囀りを聞きながら、エルヴァ通りを走っていくマラーイカの姿を窓から眺めていた。

 雲徳殿。
 オフィーリア・ファーナ。彼女は今、主人の元にいた。主人と言っても「夫」ではない。彼女が侍女として仕える主のことである。
 主の名は、ファナ・ロゼッタという。今年で29になる腹違いのリューンの姉である。
 ロゼッタの部屋は雲徳殿の北東にある。雲徳殿の中心になればなるほど、位の上の女官達の部屋がある。正妃の部屋は雲徳殿を上空から見れば、丁度中心に位置している。詰まり、外れになればなるほど、位の低い女官達の部屋となり、部屋の造りも質素になってきている。しかしながら、外れにある部屋で一際異彩を放っているものがある。それが彼女の部屋であった。
 香が焚かれている。甘く、それでいて、えも言われぬ淫靡な香りがする。外から入ってきた者が嗅げば、おそらくは眩暈を起こすであろう。昼だというのに、扉という扉は閉められ、部屋の中は薄暗かった。薄暗い部屋の中に、二本の蝋燭の灯火が揺れている。そして、その蝋燭の灯火はロゼッタとファーナの白い肌を照らし出している。
「早く、子を宿しなさい・・・そして、ここでの地位を揺るぎないものとするのです、私のために・・・そのためにだけ、お前は存在するのですから・・・」
「はい・・・ロゼッタ様・・・」
 ファーナはヴェルーダの出身であった。良家の娘として育てられていたが、14歳の時に例の災厄が起こり、彼女を残し、支えてくれた家族も何もかも失ったのである。ファーナには、ディルのように、身を呈して命を救ってくれたロアンのような存在はいなかった。そして、リューンがスィスニアとヴェルーダとの間に南蛮間という城塞を築いたことによって、ヴェルーダは完全に孤立化し、結果として無法地帯となった。その中でファーナは生きてきた。ヴェルーダの人々は、様々な手を使いスィスニアへ亡命しようとする。当然、そういうことを請け負う連中も出てくる。彼らは巨額の依頼料で亡命を手伝う事を生業としていた。ファーナは彼らに借金をしながらも、どうにかスィスニアへ辿り着くことに成功する。しかしながら、巨額の借金返済のために彼女は日夜働かなくてはならなかった。そうこうしているうちに行き着いた場所が、エルヴァ通りの外れにある「オダワ遊郭街」である。ここには近年、ファーナのようなパターンの者達が男女問わず大勢いる。ヴェルーダから夢を抱いてスィスニアへやってくるが、巨額の借金返済とその利子のために、昼夜働きながらも、結局返済も出来ず、「彼ら」にここへ売られて客を取らされるのである。
 ファーナは何度もここから逃げだそうとしたが、その度に捕まえられ連れ戻された。
 何度目だっただろうか、それは肌を刺すような寒さの中の、土砂降りの日であった。

 暗い路地裏に、息を殺し、身を潜めていた。
 雨の音に紛れ、怒鳴り声が聞こえる。男衆が自分を呼ぶ声だ。彼らのぴしゃぴしゃと雨水の上を走り去る音が聞こえる度に、目を瞑りながら祈った。どうかこっちへ来ないで下さい、と。何度も心の中で叫んだ。
 連れ帰られたら、また折檻される。そして暗い部屋に閉じこめられ、二日は食事抜きであろう。
 今さらながらファーナは後悔していた。どうして逃げ出してきたのだろうか。捕まって酷い仕打ちを受けることが分かっていながら、何故逃げ出したのか。
 逃げ出す度に後悔し、同じ事を考える。そして答えはいつも一緒だ。
 好きでもない男に抱かれたくはない。
 しかしながら、今のファーナはそのような理屈が通じる世界に身を置いているわけではない。莫大な金額の借金のために、身体を売る。或いは身請けして貰うしかない。
 雨がまた少し強くなった。
 水を吸った髪がひどく重く感じる。着物も水分を吸っている分重くなっている。冷たい風、冷たい雨、そして冷たい着物がファーナの体温を次第に奪っていく。しかも、急いで逃げ出してきたので素足であった。
「・・・寒いよ・・・」

 どの位経ったかは覚えていない。ファーナが眠りかけていた頃、雨は降り止んだ。
 しかし、よく見ると降っていないのは自分の場所だけだ。辺りは未だ降っている。
「どうしたのかしら、こんなところで・・・」
 膝を曲げて、女神が最初に発した言葉はそれだった。傘の中にファーナの体を入れて、ロゼッタは微笑んだ。

 あの雨の日から、ファーナにとって、ロゼッタこそがすべてであった。身も心も彼女と共にありたい。それがファーナの唯一の願いだ。ロゼッタが望むことであれば何でもかなえてあげたい。彼女への気持ちは主従というもののそれをを遙かに越えていた。ロゼッタが誰かを憎めば、それは即ちファーナの敵であり、誰かを愛せば彼女も無条件でその者を愛することができる。手を差し伸べ、あの生活から救ってくれたのはロゼッタである。他の誰でもない。この世に神などいない。もしいるとすれば、それは自分を救ってくれたロゼッタだけである。
「・・・ロゼッタ様・・・」
 必ずや、貴女様のために・・・陛下の御寵愛を・・・。


 さて、ロアン嬪妃の部屋にはアリサ才人がいる。
 風の刻である。昼過ぎになると商人達が雲徳殿の中で商売を始める。もっとも男性は入ることができないので、専ら女性の商人達しか出入りはしない。それでもいつの世もチャレンジャーはいるもので、自分は去勢した男だから中に入れろと言う者もいる。もっとも、その男は嘘がばれて斬首されている。
 ロアンには出兵前にリューンに進言した事があった。
 イレーヌ=リビュニア姉妹王国との同盟の件である。東邑同盟とウォウル王国が結んだ今、スィスニア王国も姉妹王国との盟約を結ぶべきである。妨害工作によって先延ばしになっていた同盟の締結を急ぐべきである。
 この事については、ちょうどリューンも考えていた。そして、当然これを受け入れた。
 しかしながら、その使者に自分を指名して欲しいというロアンの願いは退けられた。姉妹王国の有力者に知人がいるから交渉を進めやすいという理由で申し出たのであるが、流石にリューンは危険な旅路にロアンを出したくはなかったようである。
 結局、ロアンは交渉し易いよう一筆とるだけに止まることになり、使者はシュラの陪臣であるリオン・リオンという者になった。
 リオンは遠征軍出立と同日、火の月16日に姉妹王国へ向けて出発している。

「遅いねぇ・・・マアリちゃん」
 アリサは「あんまん」を食べながらロアンに言った。
「今日は天気もいいですし、商人達も雲徳殿に大勢来るでしょう。おそらくは入るための手続きに時間がかかっているのでしょう・・・・・・・それにしても・・・アリサ」
「なあに、ロアンちゃん」
 アリサは「まろん&まろん」を食べながら聞き返す。
「部屋の中の空気が、ものすごく甘ったるいと思いませんか」
「そうだね」
 アリサは「あんみつ」を食べながら頷く。
 リマ・アリサ、19歳、一応、スィスニア王国第七位の宮女である彼女は、そんじょそこらにはいないほどの、大の「甘党」であった。
 アリサの周りには、まだまだ沢山の「あまーいモノ」が用意されている。この数日、アリサのおかげでロアンの部屋は宴会場と化していた。リューンは遠征でいない。夫のいぬ間に何とやら・・・というやつである。この部屋の主であるロアンは当然として、二人の后妃であるライサやエルラーゼをはじめとする宮女達や商人達を呼んで騒ぎまくっているのである。
 主犯リマ・アリサ。そして共犯、いやこの場合、被害者であるカレリア・ロアンはマラーイカを待っている。
 数日前にロアンの部屋に届け物をしに来たマラーイカは、それ以後もよく通うようになった。やって来てはロアンの「次回作」について色々と聞いている。
 その時、扉が開かれマラーイカが入ってくる。
「まいどどうもっ、椿屋です」
「いらっしゃーい!!」
 アリサは「ぽっきー」を口にくわえながらマラーイカを出迎えるのだった。

【シュナイダー】
 ウォウルに対する北蛮関、ヴェルーダに対する南蛮関、そして東邑同盟に対する竜角関。それぞれの存在がスィスニア王国を不可侵のものとしている。そのなかでも最大の規模を誇るのが北蛮関である。セルフィアー広しといえども、これほどの城塞は古今例を見ない。スィスニア盆地を囲む小山の一つである、リディアール山の頂上にそびえ立つこの城塞からは、西を見ればセルファニア湖が広がり、晴れた日は対岸のイレーヌ邑が見渡せた。また、東を見ればターヌ平野が一面に見渡せる。
 大空を雄々しく羽ばたいている鷹がいた。
「ベアトリス!!」
 男は鷹に向かって指笛を吹く。そして丸太のような太い右腕を高く掲げた。
 ベアトリスと呼ばれた鷹は風に乗りながら、男の腕に向かって急降下してくる。そして、すれすれのところで羽を大きく開く。開かなければミンチになっていたところである。風圧が男を襲い、長い黒髪が舞う。
「こいつめ、また無茶なことを」
 ベアトリスは男の右腕に乗っていた。
 この男の名はシュナイダーという。元々はランギヴァラーハ・ライラの陪臣であったが現在は形式上リューンの直参となっている。この北蛮関ではニ百の兵を預かる身である。北蛮関に於いての要塞司令官はイバ・アズルード、駐留軍の司令官はライラであった。ライラは駐留軍三千の兵を預かっていたが、内、ニ百の兵はライラの私兵である。彼女の縁戚やランギヴァラーハ家に関係の深い者達で構成されている。そのために、彼女が反逆者とされた後は軍内でも非常に肩身の狭い思いを強いられていた。本来ライラ不在のまとめ役たるレリューコフ老は、共謀の容疑をかけられスィスニアへ連行されている。そのために今はシュナイダーがレリューコフの代わりをしているというわけである。
 シュナイダーは北蛮関からウォウル王国の方角を眺めている。
「ベアトリスよ、本当に来ると思うかい」
 ライラはシュナイダーに、ウォウル軍に呼応して北蛮関内で蜂起してこれを陥落させる、という考えをうち明けていた。
 それを話したのが二日前の夜のことである。

「正気ですか、将軍」
「勿論だ・・・」
「そのような賭じみたことに賛同はできません」
 自分のライラに対する忠誠心には微塵の曇りもない。しかしながら今のシュナイダーは二百の兵とその家族の命を預かる身である。北蛮関の駐留軍は基本的にここを離れることはない。したがって、家族共々移ってくる者達も多い。シュナイダー預かりの二百の兵達もほとんどが妻子を伴ってきている。ライラの作戦が成功しようとしまいと犠牲は出る。成功すればまだいい。だが、失敗すれば家族達も死ぬ。
「シュナイダーよ、バグラの奴が死んだそうだな・・・」
「・・・・・・・・・・・」
 バグラとはシュナイダー同様、ライラの陪臣で北蛮関一の槍の名人であった。シュナイダー、ヒューバート、ヴァシリー、そしてバグラの四人はレリューコフに育てられた。彼らは血は繋がっていなくても兄弟のようなものであった。バグラは血の気の多い男であったが、四人の中ではもっともライラを慕っていた。
 ライラが反逆者の汚名を受けた後、シュナイダーは前述の通りライラ直属であった二百の兵を預かることになった。ヒューバートはライラと共に行動し、その後、行方不明となっている。ヴァシリーは自ら転属を希望し、中央に戻された。今はリューンの直参として遠征に参加していた。
 事件が起きたのは今月の頭頃であった。アズルード配下の者がライラを侮辱したことにバグラは怒り狂い、感情のままに三人の兵を斬殺してしまったのである。
 シュナイダーがそれを聞き、駆けつけた頃には、既にバグラは自ら腹を切って果てた後であった。
「バグラには申し訳なかったと思っている・・・」
「今さらやめてください!」
「だが、このままでは皆、肩身の狭いままではないか・・・。私には今のリューンという男が信じられぬ。あの男に大義はあろうとも正義はない。私は自分一人の力で世の中が変えられると考えるほど傲慢ではない。だから、お前達の力が必要なのだ。私について来い、シュナイダー。私を信じろ」
この時、シュナイダーは即答を避けた。一時の感情の高ぶりに心を踊らされ、判断するのは危険であると考えたからである。

 腕に乗っているベアトリスに餌をあたえながら、シュナイダーは自らどの道を進むべきか考えていた。
「ヒューバート、ヴァシリー、バグラ・・・お前らならどうする・・・俺はどうすればいい?」

 北蛮関に於いて、ライラが軟禁されている部屋は、過去に彼女の私室であった部屋である。
 黒いドレスに身を包み、ライラはベッドに横たわっている。カーテンは閉められ、部屋の中は薄暗い。ベッドの脇の机の上には酒瓶と水差しが置かれている。
 彼女の手の中にはグラスがある。ただグラスだけがある。中身はない。
「兄上・・・私はやはり間違っておりますか・・・」
 己の戦いに皆を巻き込もうとしている。仮に北蛮関を落としたところでスィスニアへの侵入がそう容易になるわけではない。スィスニア邑が城壁を持たない理由はもともと要衝の地によって囲まれているからである。その要衝の地に城塞を築いたのがリューンなのだ。要衝の地にこの城塞はあるのだから難攻不落なのは当たり前である。自分がそれを落とす。それはよいとしよう。しかしその後どうなるのか。再び同じようなものを築けば、自分のやったことはまるで意味のないことではないか・・・。
それだけではない。その戦いにシュナイダーを巻き込もうとしている。シュナイダーを巻き込むということは、直属の兵達二百をも、巻き込むということである。しかも、シュナイダーが皆のことを案じ、即答を避けたことは分かっている。そこまで分かっていながらも、シュナイダーの力を借り、この北蛮関を落としたいと思っている。
 人の下で戦っている時は、余り考えなくてもよかったことをライラは考え始めている。自分の戦いを始める者の宿命とも言える。良心とエゴとの葛藤があり、大いなる矛盾を抱え続けなくてはならない。それが己の戦いをするということだ。
「だんだんといやな女になってくるのが、自分でも分かる・・・・・」
 ライラは仰向けになりながら、空のグラスをいつまでも眺めていた。

【ライアード消滅】
 火の月20日。この日、リューンは遠征軍一万二千を二手に分けている。ライアード攻略のために七千の兵を自ら率い、残る五千は竜角関の防衛のために八武衆の一人であるエルファ・ザドゥが率いていた。因みにハヤ率いる一○○七師団はザドゥの指揮下に入っている。
それから二日経ち、ザドゥ率いる五千の兵は竜角関に入城する。竜角関を元々守っていた二千の兵もこの時点でザドゥの指揮下に入り、守備兵は七千人もの数に膨れ上がっていた。
 同日夜。ナグモ・リューン率いる七千の兵はライアードより西に七里のところに陣を張っていた。
 リューンの幕僚におもしろい男がいる。ライラの陪臣であった男で、最近になって、リューンの直参として取り立てられた。名をブランツェ・ヴァシリーという。
 ヴァシリーは小男である。戦働きはそれ程期待できそうにもないのであるが、人並み以上に剣は扱う。だが槍は苦手だ。だからやはり戦場で敵将の首は取れないとヴァシリーは言う。
「故に、陛下にはそれがしの頭でお仕えいたしまする」
 リューンは軍師を必要としていない。だが、ヴァシリーはリューンにそう言って自分を売り込んだのである。武勇を誇り、彼に仕えようとする者は多くいたが、ヴァシリーのような者はいまだかつていなかった。リューンはその不貞不貞しさを気に入った。故に己の傍らに置いている。勿論、軍師としてではない。彼にとって軍師とは、対等の存在でなければならないものであった。自分に傅くような輩につとまるものではない。心理的に対等の存在ということで、唯一耳を傾けるのは、現在では、カレリア・ロアンぐらいなものかも知れなかった。

「ヴァシリーよ・・・余はまだお主を信用してはおらぬ」
「当然でございましょう。それがしはライラ殿とは家族同様に付き合ってきたのですから、お疑いになるのも仕方のないこと・・・して、陛下に忠義を示すにはそれがしは何をすればよいのでしょうか?」
 ヴァシリーはライラの右腕ともいえた老将ロマノフ・レリューコフに育てられている。ロマノフ家は代々、スィスニア貴族であるランギヴァラーハ家に仕える執事の家系である。実子であるヒューバートの他に、シュナイダー、バグラらと共にヴァシリーは育てられたのだ。レリューコフに育てられた四人の男達は、兄弟同然であり、皆、ライラに忠誠を誓っていた。
 その昔、レリューコフは四人の子達に、この世で最も尊ぶべきものは何か、と聞いたことがあった。
 シュナイダーは「友」と答えた。そしてヒューバートは「親」であると答え、バグラは「ライラ」と答えた。この時ヴァシリーは「それは自分自身である」と答えている。
 ライラが反逆者となった後、もっとも自分のことを真剣に考えていたのはヴァシリーかも知れなかった。彼には反逆者の縁戚であるという事実が耐えられなかったのである。故に仲間を見捨て、中央に転属を希望した。

 シュナイダーよ・・・お前は優しすぎる・・・。

「ヴァシリー、三千の兵を率い、余のためにライアードを落としてみせよ」
「ありがたき幸せ。そのお役目、慎んでお受けいたします」
「このナグモ・リューンに反目したことだけではなく、この世に生まれついたことをも悔やむように奴らを葬れ」
「御意」
「余はこの丘の上で陣を張り、貴様の働きぶりを見せてもらうことにする」

 この時一瞬、ヴァシリーの心が揺れ動いた。三千の兵権を委ねられ、リューン自身は四千の兵と共に陣に残る。しかし、リューンを含むその四千の兵は、陣を張っているだけで戦闘準備を調えてはいないはずである。もし、自分がライアードから矛先をリューン自身へ向けたらどうなるか・・・。
 だが、その雑念は直ぐさま振り払われることになる。

「これが武王陛下の御見物か・・・」
 ヴァシリーの姿は三千の騎兵の先頭にあった。後ろを向けば陣幕があり、そこにはリューンがいる。
 リューンは陣幕の中で軍配扇を握りしめて座っていた。傍らには近侍がおり、酒の世話をしている。
 それはいい。
 だが四千の騎兵は全員騎乗しており、前衛の騎兵達などは槍を降ろして突撃の構えを見せている。
 おそらくリューンが軍配扇を振りかざせば、四千の騎兵は怒濤の勢いでヴァシリー達の背後を襲ってくるだろう。
「たまらんな、これは」
俺は試されている・・・。ならば、このブランツェ・ヴァシリーが取るべき道は一つしかあるまい。
「シュナイダーよ・・・許せ。俺はこの男に付き従うことにした・・・。だが・・・責めてお前だけは・・・」
その続きの言葉は、風によってかき消されていた。

ライアードの邑宰、エルバ・ラグールはスィスニア軍が侵攻して来るという情報を得て直ぐさま、援軍を請うためにターヌのゼス・ガルボアの所へ使者を派遣していた。
 だが、ガルボアの返答はリューンが想像した通りのものであった。
 政情不安定なために此度は援軍を派遣できず。健闘を祈る。
「馬鹿な・・・スィスニア軍はもう、すぐそこまで来ているのだぞ」
ライアードを守備する兵数は五百人余りである。しかも、スィスニア兵に比べて装備も貧弱で、実戦経験も無きに等しい。
「ガルボア殿は、我々に死ねというのか・・・」
こんな事ならば、最初からリューンの申し出を受けていればよかった。リューンが率いている軍は七千もの兵だ。これでは、全く勝負にならぬではないか・・・。
「・・・ナグモ・リューン殿に和睦の使者を出す。それと・・・年頃の娘達をかき集めろ」
リューンの女好きは今やナーラダの誰しもが知っていることである。ラグールも当然そのことを知っていた。
 不幸なのは人身御供とされた娘達である。ラグールは夫がいようが恋人がいようが、容赦なく連行させた。ラグールは誠実な人柄を慕われていた男であった。その男が追い詰められ、とうとう牙を剥き出しにしたのだ。

 数刻後。
「・・・で、今さらながら余に詫びを入れに来たわけか」
 リューンの前にはラグールの派遣した使者が平伏している。その後ろに人身御供とされた女達がいる。
「貴様の後ろに侍る、その場違いな者達は一体何のつもりだ」
「はい、これはラグール様が陛下への恭順の証にと・・・」
「ほう・・・これはこれは」
 リューンは女達をじっくりと眺めた。どれも選りすぐりの美女ばかりである。
 使者はリューンの表情が緩むのを確認した。どうやら気に入ったらしい。これならきっと上手くいくに違いない。使者はそう思った。
 しかし、それがその使者の最後の思考となった。
一瞬の後には、リューンの太刀の上にはその使者の首が乗っていた。使者は笑っていた。何が起こったのか分からないまま、幸せな気持ちのまま逝ったのである。
 首の乗った太刀を近侍に向ける。
「この首をラグールに届けさせろ。これが余の答えだ」
 その言葉を待っていたかのように、漸く首を失った胴体から血が噴水のように流れ出し始めた。
近侍は命令されたとおり、太刀の上に乗っている首を布に包み、ラグールの元に届けさせるように手配する。
 リューンの前には首を失った胴体が無造作に横たわっていた。
「ラグールめ・・・自らの首を差し出せばよいものを、女を差し出すとはな・・・。最後の最後で、自らの名に泥を塗りおったわ」

 ライアードの攻略に当たったヴァシリーのやり方は凄惨を極めた。
 それは、一方的な虐殺であった。
 実戦経験のない五百名の守備兵など、ものの数ではなかった。
「陛下はそれがしに、この手を血に染めろと仰せらしい」
 リューンにはラグールの首を持ち帰るように命令されていた。これはヴァシリーの推測であるが、その首を地中に埋め、肉が腐り、骨だけになったところで飾り物にするのだろう。
 敵将のしゃれこうべの収集。リューンはこの悪癖ともいえる趣味のために、清竜殿の庭に「首櫓」といわれる倉庫を建てていた。ここに、過去にリューンに敵対し、斬首された名のある者の首が眠っている。これの意図するものが何かということは誰にも分からない。極希にリューンはその首櫓に訪れる。中には供の者は従えず、己のみが入り、一刻は出てこないという。その建物を、単なる自己顕示欲の所産と言う者もいる。そうではなく、もっと何か特別な理由があると言う者もいる。
「過ぎた詮索だな」
 ヴァシリーは己の分を越えた思考を中断し、剣を振るった。眼前の敵の首が落ちる。
 この場合、敵とはヴァシリーにとって守備兵のみならず、逃げまどう女子供を含んだ。ライアードでは文字通りの虐殺が行われている。この惨劇は瞬く間にナーラダ中に広がることだろう。「見せしめ」である。
 ヴァシリーのみならず、率いる兵達もまた、狂っていた。彼らは、血の池をつくりながらたくさんの屍を築き上げていく。自ら狂わねばならない。正気のままでは、狂気に取り殺されてしまうからである。
 ライアードの城壁には、槍で貫かれた屍が立て掛けられた。槍を伝い、滴り落ちた血が、城壁を真っ赤に染めていく。

 邑宰エルバ・ラグールの屋敷にブランツェ・ヴァシリーが入ったのは火の月22日の夕刻の事であった。
 屋敷を占拠した時、ラグールは台所近くの物置に家族共々隠れていた。それを兵が発見し、ヴァシリーの元へ連れてきたのだった。
「これがスィスニアのやり方か。無抵抗な者まで斬り殺し、辱め、うぬらは獣か!」
「ラグール殿、勘違いをしてもらっては困りますな。我々をその様に駆り立てたのは、他ならぬ貴殿ですぞ」
「儂には、邑民の安全を守らねばならぬ義務がある」
「そのために日和見をし、東邑同盟側が優勢と見るやガルボアに尻尾を振り、力を借りれないと知るや、今度は陛下に媚びを売ろうとして女達を送りつけてくる・・・。あの者達にも家族はいたでしょうな・・・」
「邑のために皆、理解してくれた」
 嘘である。ラグールは抵抗した者には容赦しなかった。だが、それを認めたくない。認めれば、リューンと同じである。鬼である。自分は鬼にはなりたくない。
「そ、それよりもヴァシリー殿、儂はどうなってもいい。だから、責めて家族達だけは助けてはくれまいか」
「・・・なりませぬな、禍根を残さぬよう、ライアードの全てのものを滅せよとの命なれば、その儀はかないませぬ」
「そ、そこを何とか貴殿の力で・・・」
 ラグールの横には妻と娘がいる。ヴァシリーは部下を呼んだ。
「その二人を別室に連れて行け、あとはお前達の好きにするがよい。だが生かすなよ、必ず最後は殺せ」
「なっ・・・なんだとぉ!!」
 怒声を発したラグールはヴァシリーに飛びかかってくる。
 ヴァシリーは一瞬のうちに剣を抜き、ラグールの足を薙いだ。ラグールは腿からその身体を両断され、勢いで床に突っ伏す。
「おっと、ラグール殿、貴殿にはまだ死んでもらっては困る。存分に地獄を味わってから黄泉路へ旅立つようにとの、陛下の御言葉だからな・・・」

 リューンは丘の上からライアードを眺めていた。辺りは夜だというのに明るかった。眼前で巨大な松明が燃えているからである。
 炎上するライアードの邑が、夜空の下のリューンの姿を映しだしている。風に乗り、丘の方まで焦げ臭さは伝わってくる。建物が、そして人々があの炎の中で焼かれていた。
 ライアードは文字通り消滅することとなった。生存者は誰もいない。降伏者もいない。ナーラダの地図から、一つの邑が消えて無くなった。ライアードの生き残りは、ラグールがリューンの元に送り届けた10人の女達だけであった。
「また、あの娘に嫌われるな・・・」
 空高く舞い上がる火の粉を眺めながら、思わずリューンが口走ったのは、そんな言葉であった。
 きっと、あのマラーイカという娘は、この所業を許しはしないだろう。
「そういえば、兄を探していると言っていたな・・・」
 帰還次第、隠密衆に調べさせようと心に決めた。それが彼女に対する、せめてもの償いのように感じられたからだ。しかしながら、もし、あの娘がここにいたら、償うべき相手が違うと罵られることは疑いない。だがリューンにしてみれば、そうでもしなければ、少しも自分は救われないのではないか、と思ったのである。
 人の命すら、己の考え一つで自由にできる。これを権力という。その権力者たる自分が、子娘一人に救いを求めようとする。
 大いなる矛盾であった。

【北蛮関陥落】
 ちょうどライアードが陥落した頃、北方の竜角関では東邑同盟軍が来襲してきていた。ガルボアは、やはりライアードを囮として、竜角関を狙っていたのである。しかしながら同盟軍は五千の兵力で攻め込んできたが、エルファ・ザドゥの指揮する七千の兵の前に呆気なく敗れていた。ザドゥは予め城外に二千の兵力を待機させておき、敵が侵攻してきたところで城門を開き、城内に待機させていた五千の兵とで、敵を挟み込む形で殲滅させたのである。
 この朗報を、リューンはスィスニアに帰還する途上、ザドゥの走らせた使い番によって聞かされた。
 その翌日。
 スィスニアからの凶報がリューンの耳に入ったのは、31日の夕食の席でのことだった。

 北蛮関。
「ここにいても、皆の幸せはないでしょう。だから、私は貴女に力を貸します。ですがライラ様・・・。貴女を慕う二百名の兵と、その家族達をいつまでもお見捨て無きよう、お願いいたします。さすれば私は、命ある限り貴女をお守りすることを、改めて誓いましょう」
 臣下の礼をとりながらそう述べたシュナイダーの手を、ライラは歩み寄り握りしめた。「よく決心してくれた、シュナイダー。それでこそ、お前を頼った甲斐があったというものだ」
 五日前、朝食を運んできたシュナイダーは、ライラに協力する旨を伝えた。その彼の決意を促した事実。それは前日の出来事であった。
 この北蛮関には駐留兵達の家族もいる。無論、その中には子供達もいる。シュナイダーが目にしたものは、アズルード配下の兵達の子が、ライラ配下の兵達の子を「裏切り者の子」と蔑んでいる光景であった。
 大人達だけではなく、子供達にまでその余波が届いている事実に、シュナイダーは愕然とした。ここにいては、我々に未来はないのではないか・・・。漠然とした恐怖と怒りが、ライラに協力する事を決意させたといえる。ヴァシリーが己自身の未来をリューンに託したのに対し、シュナイダーは自分を含む五百数十名の未来をライラに託そうとしたのだ。

 ライラ自身は軟禁されているために直接動けない。故に直接ライラの作戦の準備を行うのはシュナイダーである。彼はいつでも出立できるよう、女達に秘密裏に準備させていた。男達は出来る限りの食料を貯蔵庫から荷車に乗せている。司令官のアズルードには、動きを悟られぬように、別の理由を伝えてある。
 ライラ殿のための宴を催す事を許して欲しい。これが最後の別れになるやも知れず、是が非でもこれを行いたい。
 と、いうようなことを、シュナイダーはアズルードに願い出た。この手の話には弱いアズルードはこれを許した。しかも「盛大」にやってよろしい、という防衛司令官の御墨付きまでよこした。
 故にここ数日、ライラ一派の手の者達が慌ただしく動いていても、誰も不思議がる者はいなかったのである。
 ライラは脱出の準備と平行して、北蛮関を内から突き崩す準備も進めさせていた。シュナイダーにしてみれば、ライラと共に部下とその家族を伴って、北蛮関を脱出できればよかったのであり、何もこれを落とす必要性までを感じていたわけではなかったが、ライラがリューンに対して宣戦を布告するには、この位の演出も必要なのだろう、と己自身を納得させていた。当のライラに至っても、明確に陥落させる意義を見出せないでいる。少なからず意地が入っている事も自覚している。但しこの北蛮関を落とせば、リューンと敵対し、自分に付き従う兵と、その家族達を新たな地へと導かねばならないという事だけは、分かっている。
ライラは内から火を放ち、これを攻め落とそうと考えている。北蛮関は外からの攻撃に対しては非常に堅固であるが、内からとなるとそうではない事実をライラはよく知っている。城だとか要塞だとか言われるものは、北蛮関に限らず、外敵に対するよう造られているのであって、内なる敵に対しては案外脆いものだ。こと北蛮関などは、内装はライラに言わせれば「燃えるモノが多い」のであった。

 兵吏丞、セルビオ・パズーに率いられたウォウル軍二千が、北蛮関の前に姿を現したのは、火の月29日の明け方である。深い霧におおわれていたために、発見は遅れた。物見櫓の兵が、その軍勢を発見した頃には、既に弓矢が届く距離にまで迫っていたのである。
 二刻おきに、定期的にアズルードは哨戒させていたが、この霧のために発見できず、結果的に目前に現れるまで接近を許したのであった。

「デュオ殿・・・」
 総大将のセルビオ・パズーがカガト・デュオの横に馬を並べてくる。パズーは軍権を預かる兵吏長ナーラダ・ルーシの懐刀である。ウォウルの後継問題で、ルーシがヴィレクと戦って敗れた際に、ルーシは蟄居したが、パズーもこれに倣い、自ら職を退いた程に彼女を慕っていた。彼が三十を越えても独身でいる理由が、ルーシに恋慕の情をもっているからであるということは、上は棺桶に片足を突っ込んだ老人から、下は歯の生え揃う前の赤子まで知っているという。
「我々は、どのようにすればよろしいのですか」
「うーん、できるだけ城内の兵を引きずり出したいな。そうしないとライラの奴も暴れにくいだろうし・・・。まっ、そこら辺のやり方はあんたに任すぜ、俺は兵を率いたことなんかないんで、用兵に関しては、からっきしだし・・・」
「なるほど、ではそのように善処いたしましょう。ところで・・・」
「ん?」
「ライラ殿はこのままウォウル王国への亡命の意思をお持ちなのでしょうか・・・」
「さあな・・・アイツの考えていることはアイツにしか分かんねーよ」
「できれば来て欲しいものです・・・。我が国には兵はいても、それを使いこなす将達がいない・・・」
その時、法螺貝の音が辺りに響きわたった。
 城壁から一斉にウォウル軍に向けて弓矢が射かけられる。
「いよいよだな」
「ええ・・・」
 パズーは弓矢の射程ギリギリの所まで兵を後退させた。

 その光景をライラは窓から眺めている。
「あのアホ(意訳=K・D)が、本当にウォウル軍を連れて来おった・・・」
 部屋の外が騒がしい。甲冑の音と兵達の声が聞こえる。
 扉がノックされる。ライラの返事を待たずにシュナイダーが入って来た。この男には珍しく、大分興奮気味である。その両手には黒い平箱が握られている。
「こちらをお召し下さい。今日のために、女達が貴女のために作りました・・・」
 ライラはその平箱の蓋を開ける。中には、真紅の衣服とマントが収められている。
「・・・礼を言う。やはりドレスよりは、軍服の方が私には似合うようだ」
「御意」

 ウォウル軍は攻めるわけでもなく、かといって退却するわけでもなく、北蛮関に近づいたり離れたりするばかりであった。何よりもアズルードが不思議に思ったのは、攻城兵器の一つも見当たらなかったことである。
「高楼一つなしで、この北蛮関を落とそうというのか・・・。奴らめ、一体何を考えておるのだ」

 アズルードは門を開け出兵してウォウル軍と戦おうとはしなかった。未だ霧が深く、そのために未確認の敵の援軍がいる可能性を無視できなかったからである。
「厄介な霧だな。アズルードの奴、ビビって出てこないぜ・・・」
「待ちましょう。霧が晴れれば、きっと何かしらの動きを示すでしょうから。待つことも戦いの内です・・・」
「俺は待たせるのは好きなんだが、待たされるのは嫌いなんだ・・・」
「デュオ殿は、我が儘な人ですね・・・」
「ほっといてくれ。それより俺ぁ、ちょっくら中の様子を探ってくるわ」
「中って、北蛮関の中ですか」
「その通りだ。俺に忍び込めないところはないからな。あるとすれば女神の下着の中ぐらいなもんさ」

 シュナイダーは脱出の準備をさせていた。必要なものだけを持つようにさせ、女子供を一カ所に集めて待機させている。ライラは北蛮関の西門から逃がすように指示していた。また、それらをシュナイダーが率いて脱出する事になっている。
 しかしながら、アズルードが動きを見せないためにライラ達も動けないでいる。できれば兵士達がある程度、外に出払ってからの方が行動しやすい。

 霧が晴れたのは一刻後である。アズルードは周りに援軍らしからぬものがいないことを確認すると、自ら兵を率いて出陣した。
「ウォウルの犬共にスィスニア兵の強さを見せつけてやるのだ」
 それに対しパズーは出来るだけスィスニア軍を北蛮関から離すために、徐々に戦線を後退させることにした。
「密集しながら、ひたすら守りに徹せよ。持ちこたえれば、面白いショーが見れるかも知れんぞ」

一方、ランギヴァラーハ・ライラはアズルードが千五百の兵を率いて出陣したことを知り、いよいよ行動を起こそうとしていた。ライラ達が北蛮関に火を放ち、城内が混乱したところでシュナイダーが女子供達を連れて西門より脱出する。
「ドレイク、バスクエス、ハドソン、ヒックス、お前達の分隊は私が合図をしたら一斉に所定の場所へ火を放て」
「はっ」
 異口同音に声を発した後、ライラ配下の者達は己の持ち場へと向かった。
ライラは数名の手下と共に中庭へと向かう。北蛮関の中庭は六つあるのだが、彼女が向かったのは中央庭園と呼ばれる場所である。ここは全階層四方より眺め見ることができる。詰まり、北蛮関内で同時に出火させるための合図をするには、もってこいの場所なのである。
 ライラは矢を番えて、それを上へと向けた。
「さて皆の者、宴を始めよう。・・・アズルードが言ったように〈盛大〉にな」
 矢を放ち、中庭に蝉の鳴き声のようなものが響きわたった。彼女の放った矢は普通の矢ではなく、戦場でよく使う信号矢であった。

 厨房、執務室、納屋、武器庫から出火し、他へと飛び火していくのにそう時間はかからなかった。火をつけたライラの部下達は、城内で流言を撒き散らしている。
「既に北蛮関はウォウル軍の工作員の手によって陥落されたぞ」
「ヴェルーダの災厄の再来だ」
「外のアズルード将軍は討ち取られた。間もなくここでもウォウル軍による虐殺が始まるぞ」
「総員、東門より退避せよ」
「同盟軍の内通者の仕業らしいぞ」

 虚言が虚言を呼び、今や城内では何が正しい情報なのか、皆把握できなくなっている。それに追い打ちをかけるように、人々をより錯乱させているのは、至る所で発生している火災である。火は人に対して本能的に恐怖心を与える。
 ライラは錯乱する兵達をよそにシュナイダーの元へ向かった。
「シュナイダーよ、今が好機だ。逃げ惑う者達に紛れて脱出しろ。私はもう少し派手に散らかしてから、行くことにする」
 シュナイダーは三百人以上の女子供を率いて、西門から脱出する。それをライラは見届けると、次に正門の方へ向かった。そろそろアズルードが気付く頃である。再び城内に入られては厄介なことになる。

 案の定、アズルードはこの異変に気が付いていた。北蛮関からいくつもの煙が出ているのが見えた。城壁を守る兵達の様子も何やら慌ただしい。兎に角、何かが起こっている。何よりも、守り一辺倒のウォウル軍の出方が気に入らない。
 アズルードは徐々に撤退を始めた。

 アズルード達が撤退し始めたのを見て、門番が正門を開けようとする。だが、その門番の首筋には、次の瞬間には矢が突き刺さっていた。門番は血の泡を吹きながら絶命する。「バスクエス、門を死守しろ。絶対にアズルードを城内に入れてはならん!!」
 ライラは、筒から次の矢を取り出しながら、正門近くにいた己の部下に怒鳴りながら命令した。
 ライラの背後で「ドサッ」と、何かが倒れる音がする。
「あぶねえなぁ・・・俺様がいなければ、お前は百回は死んでいるぜ」
 振り向くと、そこにはデュオが立っていた。彼の前には剣を持ちながら腹部を貫かれた男が倒れている。
「余計なことを・・・」
 そう言ってライラは矢を番え、デュオに向かって狙いを定めた。
 ライラは不敵な笑みを浮かべている。
「オ、オイ、一寸そりゃーねーだろ」
「動くなデュオ、動けば・・・・・死ぬぞ」
そう言いながらもライラは矢を射た。
 ああ、さらば俺の人生・・・。責めてアッシュより大きな女性の胸の中に抱かれて死にたかった・・・。
 放たれた矢はデュオの極楽鳥頭を通り過ぎ、遠くから彼を狙っていた兵士の眉間に突き刺さる。
「ならば、お前は百一回は死んでいるな・・・」
「洒落になんねーぞ、そりゃ。まったく巫山戯た女だぜ」
「なんの、お前の頭ほどではない・・・。それよりデュオ、早速だがもう少し城内を燃やしたい。手伝ってくれるな」

 アズルードは炎上している北蛮関の前にまで戻ってきている。しかし、近くに来ても門が開かない。もっとも今中に入ったらバーベキューになるだけである。
 兵達にも動揺が見られる。このままでは戦いなどできない。だが、それをより決定付けさせたのは「羅」と書かれた軍旗がうち立てられた時であった。
国王旗が降ろされ、その旗が風に靡くのを目にした時、それは北蛮関の陥落とアズルードの敗北を決定的なものとした。
 この時になって初めて、アズルードはライラがその首謀者だったことに気が付いた。自分は、すぐにでもライラをスィスニアへ送りつけるべきだったと後悔した。
 アズルードに率いられていたスィスニア軍は離散し始めている。こうなれば最早どうすることもできない。
 ライラは北蛮関が紅蓮の炎に包まれたことに満足すると、配下達を引き連れて脱出していた。

 その報告がリューンの耳に入ったのが火の月31日の夕刻である。ちょうど夕食をとっていた彼は、それを聞いて杯を叩き割った。

 ライラ達は、しばらく落ち着くまでウォウルに身を寄せることにした。ライラだけならば兎も角、彼女に付き従ってきた兵達の家族には生活がある。何よりも兵吏丞セルビオ・パズーの強い要望があったこともその理由の一つである。ヴィレクは、ライラをウォウルに迎えられるならばよし、だが、そうでなき場合には、これを亡き者にせよとパズーに密かに命じていた。過去に何度か、ウォウル軍はライラの率いるスィスニア軍と戦っており、苦い思いをさせられている。そういった者を我が陣営へ迎えられるならば、心強いことはないが、他国へ赴く意志をもし持っているならば、将来的に敵対する可能性もあり、それならばこれを機に葬ってしまおうという腹である。これはジグトがヴィレクに献策したものである。ヴィレク自身はまだ若く、時として理想を追い求めて、現実を見失いがちである。そんなヴィレクをしっかりと現実につなぎ止めているのが、ジグトであった。無論、ジグトはヴィレクのために汚れ役でも何でも引き受ける。
 しかしながら、幸運にもライラはこれを承知した。パズーはこの事に安堵した。出来ればライラを斬りたくはなかったからである。
 ライラやシュナイダーら約二百名の兵とその家族達は、ウォウル軍と共にウォウル王国へと向かった。
その中にカガト・デュオの姿はない。

 北蛮関を焼き落とされ、這々の体でスィスニアへ戻ったイバ・アズルードは、そのことをシュラに報告すると、王が戻るまで自室で謹慎をするようにと彼女から申し渡された。
 しかし、アズルードはリューンがスィスニアに凱旋する二日前の火の月34日に、自室で首を吊って自殺した。

「己の殻を破ろうとしないヴィレク、ただ己の利のみを優先させ大局を見ることができないガルボア、血の気が多いだけのリミイ・・・きっと、陛下は彼らを恐れていない。あの方の心を揺さぶるような者がいるとすれば、今は、ライラ将軍だけでしょう」
「では、ウォウルのアッシュには・・・」
「ええ、将軍の出方をよく見ておくようにお願いしてください」
「はい」

【盟約】
 リビュニア邑宰丞、エル・ラートリーは報告書を見ながら疑問の声を発した。
「何故、今月に入ってからこれ程までに邑内の治安が悪化しているのです。棒叩き30回以上の刑罰を適用する犯罪だけでも、先月より三倍以上に増えている。警吏長、これはどういうことですか」
 ラートリーは厳しい声で警吏長のクライガ・エダムという男を問いつめる。
「は、はあ・・・夏ですし、皆、暑さのためにそういった気持ちも高まるのではと・・・」
「では、もっと気温が上昇すれば、邑民達が反乱でも起こすとでもいうのですか」
「い、いえ、決してそのようなことは・・・」
「兎に角、原因を突き止めて、この異常な犯罪発生率を来月までに下げなさい。よいですね、それが貴方の仕事なのですから」

 霞岳のナヴィス達爆裂団にリビュニアの方から異様な仕事の依頼が舞い込むようになったのはここ一週間のことである。
 何人かのリビュニア商人達が用心棒として爆裂団を頼ってきたのである。ナヴィスは咄嗟にこれはリレイアの策謀であることが何となく分かったが、皆には敢えて黙っていた。
 リレイアは浮浪者やゴロツキ共を大量にカネで雇い、リビュニアへ送っている。浮浪者達には毎日、何をするわけでもなく店に屯させた。当然、万人に者を売る商人にとってみれば、追い出すわけにもいかない。買うつもりもないくせに商品を手当たり次第に眺めたり触ったりする。少しでも店の者が注意しようとすると、身なりで客を差別するのかと開き直る。他の客達の足が日に日に遠退いていく。警吏に頼もうとしても、何も悪いことはしていないのであるから、頼めない。リレイアはリビュニアでも特に有力な商人達の店に、彼らを配置していた。
 ゴロツキ共には実力行使で店を荒らさせている。捕まったら保釈金で出すとの約束を交わしているが、彼女自身は全くそのつもりはない。使い捨てである。しかし多額の報奨金に目を眩ませて引き受ける馬鹿も多かった。
 商人達には、警吏が駄目なら別の手段で解決するよう情報を流していた。目には目を、歯には歯を、悪党には悪党を、ということで爆裂団が頼られることになったのである。

 リレイアはリビュニアの有力商人達をナヴィスに近づけさせるために、こういった演出をした。たとえ如何にイレーヌ・リビュニアの民達が好戦的な気質であっても、限度はある。およそ有力商人達にしてみれば、戦乱の世などは望むべき事ではない。戦が続けば、経済は傾く。現在の王に対する不満を持っているのは、数こそ少ないがこういった人種である。
 爆裂団を頼ってきた商人は五人いた。いずれも財界では名の知れた者達である。中でも特に現在の政情に不満を持っている者はアレド・ガストンという商人であった。

「つ、つまり現在ある王権をひっくり返して、別の王を立てよ。私の気が狂っていないのなら、たしかに貴公が口にしたのはそういうことだ」
「閣下は気は狂っておりませぬ。先程、私が申し上げたのはまさしくそういうことです」
「だが、何故この私に話したのだ?」
「王と王座を、この世をしのぐところにいる者は王権をひっくり返し、王をつくる話を誰にしたっていっこうに差し障りがないからです」
「で、では貴公は全能の存在だというのか」
 ガストンは大声を出した。
「それについては今申し上げました。もう一度繰り返してもよろしいですが」
 ナヴィスは目を輝かせて、そのように答えた。
 人は力を持てば大胆になれる。それを奢りと言う輩もいるかも知れない。だが今のナヴィスにとってはそのようなものはどうでもいいことだ。父のいうことも何となく理解できる。青臭い精神論だけでは戦いに勝利することなどできない。戦いはヒト・モノ・カネ・情報を多く持ち、それをより有効に使った者の勝ちである。商売だろうと戦争だろうと、そう大差はない。裕福な者と貧乏人をつくるか、生き残った者と死体をつくるかの違いだけだ。
 自分はリレイアや他の商人達を利用して、リビュニアを独立させる。そう決めたのだ。誰のためでもない。自分がそうしたいからそうする。

 ナヴィスは活動拠点をこの時期からリビュニアのガストンの屋敷へと移している。彼自身は現在の政情に否定的な有力商人達を懐柔していくことに精を出した。部下の爆裂団の連中達は商人達の元で用心棒として働いている。リレイアはナヴィス達の状況を見ながらリビュニア商人達に適当に嫌がらせをしている一方で、いつ内乱が発生してもいいように物資の準備をしていた。ルクア・ヒュリィはリビュニア邑内の情報収集をしている。ナヴィスが情報戦を展開する上であまりにも情報が少なすぎたからである。

 その頃、イレーヌではスィスニアから一人の使者を迎えていた。シュラの陪臣であるリオン・リオンという女性将校である。滞在中、彼女を接待したのはエル・ラートリーであった。
「イレーヌは貴女の目から見て如何ですか・・・」
「そうですね、流石は武門の誉れ高いイレーヌ邑宰家の治めている地とでも言えましょうか。自らの力を高めようとする者達がたくさんいらっしゃいますね。ここに来る途中にも、七つか八つくらいの男の子が棍の練習をしておりました・・・」

 リオン・リオンはスィスニア王国と姉妹王国との間に盟約を結ばせるためにやってきた。正王のリミイは三日以内に返答するとして、リオンにその間は邑内の見物でも楽しむようにと、勧めるのだった。
 この件については宰相のアモン・ガルゲイユに一任されている。唯一つ、リミイが提示した条件は「リューン王に嘗められない程度に盟約を結んでちょうだい」というものだけであった。

 果たして火の月38日、スィスニア王国とイレーヌ・リビュニア姉妹王国に於いて同盟が結ばれることになった。同盟の調印式は来月にスィスニアの雲徳殿に於いて行われる予定となった。その代表として副王のウェス・ユミイが赴くことになっている。

「スィスニアと同盟?」
「うん。どうもお偉いさん達の話では、そうなるって話だよ。調印式には例の副王が行くんだってさ」
 ルクア・ヒュリィは壁にもたれ掛かりながら、そう答えた。ナヴィスは腕を組みながら考えている。
「うーん、一応、分かる範囲内でいいから調べて欲しいな。日程や護衛の数とかね・・・」
「じゃあ・・・」
「いや、まだやるとは決めていない。よく考えてから決めるよ。でも情報だけは集めておいて欲しいんだ」
「・・・分かったよ。ナヴィスが決めることだ。あたしはどんな選択をしようと、あんたについていくから・・・」
「ありがとう」

【女神】
 よお、俺はシリアスよりギャグの大好きなカガト・デュオってもんだ。今俺はスィスニアにいる。え、どうしてライラのところにいないんだって? よくぞ聞いてくれたな。ライラの奴ひどいんだぜ、お前といると私の品性まで皆に疑われるから、百米以内に近づくな・・・なんて言いやがるんだ。それにアイツの側にいるシュナイダーって奴が、どうも俺のことを目の敵にしているようなんだ。そんなわけでライラの近くにいづらくなった俺は一人、旅に出ることにした。ま、ライラの奴も俺様の力が必要になったら、頭を下げて戻って下さいと泣いて頼んでくるに違いない(←馬鹿)。それまでは自由気ままに旅をしようと思っていたのだが・・・俺は何故かスィスニアにいる。思えば、カネも食料もない俺が、旅をしようとすること自体が間違いだったのだ。当然、途中でその重大なことに気がついた賢い(?)俺は、もっとも近いスィスニアへと向かった。基本的に、人並みな生活を送っているヒトがたくさんいる場所に行けば、カネも食い物もなくてもどうにか生きていけるというのが、俺が長い人生体験の中で学んだ貴重な教訓だ。だが、俺のそんな「キング・オブ・サバイバー伝説」も今まさに、崩れ去ろうとしている。おこぼれに与れもせず、仕事も見つからず、一週間以上も水以外のものを口にしていない。
 詰まり、そうだ。俺は、腹が減って死にそうなんだ。

 その日、マラーイカは上機嫌であった。ロアンに新作の原稿を少し読ませてもらったからである。基本的に彼女は完成しない限り原稿を他人に見せたりしない。しかし、マラーイカがどうしても少しだけ読ませて欲しいと頼んだところ、これを承知したのであった。
「ロアン先生の原稿を夢中になって読んでいたら遅くなっちゃった・・・エリシュさん、先に夕飯を食べていてくれればいいけど・・・」
 マラーイカは宿泊先の「千登勢屋」へと向かっていた。

 目が霞む、ひもじい、腹と背中がくっつきそうだ。道端で行き倒れになってこのまま地獄に逝くってのは、思えば少々間抜けすぎる。ドイツもコイツもシカトしやがって・・・天下の往来に飢えで苦しんでいる俺様がいるってのに・・・この邑には赤い血の通った奴らはいないのかよ。基本的に豊かな邑の奴らってのは、そうじゃない奴と壁をつくりやがる・・・。やっぱスィスニアじゃなくてディヤウス神殿のあるスウィズにでも行くんだったかな。でも罰当たりが服着ているような俺が行っても、坊主達が助けてくれるとは限らないしな・・・。
 う・・・やばい・・・マジで・・・意識が・・・もう・・・。

 デュオの意識が遠のきそうになった時、道端に座る込んでいる彼の前をマラーイカは通り過ぎようとして、足を止めた。
 誰だろう・・・宿の前で座り込んで・・・もしかして「おこもさん」かな・・・。エリシュさんはそんな人に会っても相手にしちゃいけないっていうけど。
 でも、そういった人がいるってことは、良い国造りが出来ていないってことで、その責任は王様にあるのであって、この人にはないはずよね。
うん、やっぱり助けてあげなきゃ。
 あれこの人、口をぱくぱくさせて何か言っている。
「め・・・・・し」

 マラーイカは千登勢屋の中に一度入って荷物を置き、エリシュを連れてきて、デュオを自室へ運ぶのを手伝ってもらうことにした。
「本気かい、マアリちゃん。このグランジでマッドな匂いのする男を部屋に運び入れるのかい」
「この人はお腹が減って死にそうなんです。助けないわけにはいかないじゃないですか」
「でもねえ・・・」
「じゃあ、いいですっ。私が一人で運びますから・・・」
「ふう・・・分かった分かった。手伝うよ」

 翌日。
 気がついた時、俺は布団で寝かされていた。目を覚ますのを見透かしていたかのように、部屋に一人の女性が入ってくる。どうやら俺に飯を食わせてくれるらしい。後から分かったのだが、この女は宿の女将でマリアという名だ。最初はこのマリアが俺を拾ってくれたものと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
「夕刻には帰っていらっしゃいますよ」
 野垂れ死にそうになった間抜けな俺を、助けてくれた奴は今はいないらしい。マリアは卓袱台に料理を並べながらそんな風なことを言った。
「ちゃんとお礼は言うんですよ。あ、それと着ていた服は洗濯しますから、この浴衣に着替えていて下さいな」
「あ、あぁ分かった、世話をかける」

 八日振りにまともな飯を食った俺は、その後、何をするわけでもなく、ただ窓から空を眺めて、ぼーっとしていた。
 そういや、ライラの奴は今頃、何やってっかな・・・。

 ライラ達がウォウルへ着いたのは、火の月42日のことである。彼女は熱烈的な歓迎で迎えられた。四度に渡ってウォウル軍が落とすことが出来なかった北蛮関を、攻略したのであるから、それも頷けた。
しかし、ライラが最も恐れたのは、このままウォウル軍の一部に自分達が組み込まれてしまうのではないかということであった。確かに自分に付き従ってきた者達にとってみれば、このままウォウルに移住してしまうのも悪いことではない。スィスニアが嫌で彼らは自分に着いてきたのであるから、ウォウルに移るのも確かに一つの手ではある。しかし、ライラにしてみれば、ヴィレクが自分が仕える価値のある存在だという保証は何処にもないのである。もし自分の眼鏡にかなう存在でなければ、すぐにでもウォウルを出て行きたい。そうなると他の者達はどうするであろうか。彼らが厚遇されるのは、自分がヴィレクに仕えることがその条件となろう。シュナイダー自身もこのままウォウルに居座ることに気持ちは傾いている。
 ヴィレク王はライラ配下の兵達にウォウル軍への参入を認め、その家族達には、生活の場、即ち、家まで用意させた。
 それだけ自分を買ってくれるのはありがたいが、気持ちの整理もできていない。ライラは、ヴィレクには来月までその返事を待って欲しいという旨を伝えていた。

 その娘が帰ってきたのはマリアの言ったとおり、夕刻になってからだった。カリフ・イーマーン・マラーイカと名乗る少女はナーラダの民ではなかった。サイダバードという邑から来たらしい。まっ、ナーラダの、それも今のスィスニアの民が物乞いを助けてくれるはずもない。大抵そういう人情味溢れる奴ってのはよそ者だろう。
「大丈夫ですか」
「御陰様でね。ありがとよ、嬢ちゃん」
 彼女は連れのルイセルク・エリシュとかいう男と、スィスニアに商売をしに来たという。ついでに行方不明の兄貴を探しているとか、なかなかの苦労人らしい。
 何かしらの形で受けた恩は返したいが、生憎と今の俺には何も返せるようなものはない。何よりも、職にあぶれているというのが致命的だ。
「嬢ちゃん」
「マラーイカです。呼びにくかったらマアリと呼んで下さい」
「じゃあ、マアリ嬢ちゃん、君は命の恩人だ。受けた恩はきっちり利子を付けて返さなきゃならない」
「そんなこと、気になさらないで下さい」
「うーん、俺も本当は気にはしたくないんだが、そういう事を気にしてしまうんだ」
「はあ」
「俺は多少、腕に覚えがある。道中の危険から君を守るから、旅に同行させてくれ」
「でも、私達はまだスィスニアにいますよ」
「なーに、その間は俺もこの邑でテキトーにやっているから、旅に出る際に呼んでくれ」
「と、言っても・・・」
「絶対に商売の邪魔はしないからさ・・・」
 マラーイカはデュオの押しの強さの前に、思わず頷いてしまう。
デュオはそれを見て飛び上がって大喜びした。
 なんて感情表現の豊かな人なのだろう・・・だけど、僅かに漂うこの危うさはなんだろうか・・・。

 翌日、デュオは千登勢屋を立ち去った。
 今は葵屋というお店で用心棒の仕事を引き受けているらしい。

 侍医のダルディークから、兄の手掛かりらしいものを聞いたのは、それから数日経ってからのことであった。
 スィスニアから南蛮関を越え、南へ30キロ程行った辺りに「帰らずの森」と呼ばれるところがある。ここは三年前までは、ヴェルーダの木材資源の供給地として、有名な森であった。だが、ヴェルーダの災厄以来、その生態系が変化し、誰も足を踏み入れることが出来なくなってしまったという。「・・・しまったという」といった断定的な言いようではない理由は、噂などでしか、事実を捉えられないからである。入った者は誰も出てこないのであるから、真実など知りようはずもない。但し、ヴェルーダの災厄以降から、おかしくなったことは紛れもない事実であった。
「君の兄上かどうかは分からないが、サイダバード出身であると思われる男が、先月その『帰らずの森』へと足を踏み入れたらしい。あそこに足を踏み入れようという者はまずいないから、そういった者が出てくると、すぐに噂になる。その男も帰ってきてはいないらしい」
「ナザフ兄様が・・・」
「そうだとはっきりしたわけではない」
「・・・助けに行かなきゃ」
「馬鹿を言うな。入ったら最後、二度と出て来れないんだぞ。それに、あそこに行くには南蛮関を通らねばならない。君だって分かっているだろう、南蛮間が何のために存在しているのか」
「王様に言って南蛮関を取り壊してもらいますっ。北が無くなったんですから南も無くしましょうって」
「そんなことを言えば、間違いなく斬られるぞ」
「どうしてですか。ヴェルーダの人達が可哀想じゃないですか」
「ヴェルーダ地方の難民達が一気にスィスニアへ流入すれば、国家経済が破綻してしまう。スィスニアの民達までヴェルーダの災厄のとばっちりを受けなくてはならない道理などは何処にもない」
「人の不幸の上に築かれた幸福など、何の価値もないことにダルディークさんは気が付かないんですか」
「・・・きれい事だけで片付けられないのが、大人の社会だ」
「ずるいです、そんな言い方って!」
 マラーイカの頬を小さな滴が伝っていく。
「・・・ごめんなさい・・・今日は私、帰りますね・・・」
 そう言って背を向けてマラーイカは立ち去った。
 彼女の姿をリューンはしばらく眺めていた。

その夜、リューンはロアンの部屋にいた。
「ロアン・・・最近、お前の部屋に通ってくるマラーイカという少女をどう思う」
「・・・雲徳殿に迎えるつもりですか」
「そんなつもりは全くない。俺は嫌われているらしいからな。強引に連れてきたところで舌を噛み切って死なせるのがおちだ」
「では、どうしてそのように気に掛けておられるのです」
「・・・俺にないものをたくさん持っている」
 他の者達がシルキーヌに神の姿を重ね見ていたように、俺もあの娘に似たようなものを見ているのかも知れん。
「隠密衆にあの娘の兄の行方を調べさせた。そして、それらしい者がヴェルーダ地方の帰らずの森に入ったという情報を入手し、それを伝えた」
「で、探しに行くと言うのですね、あの娘は・・・」
「俺も昨年、調査隊をあの森に派遣しているが、誰一人として戻ってきていない。そんなところに行かせるなど、死にに行かせるようなものだ」
「貴方が人のことを心配するなんて・・・」
「変だと思うか、ロアン。ライアードの民達を虫螻のように殺した俺が、小娘一人のことを心配するのは」
 ロアンはそっとリューンを抱き寄せる。
「そんなことはないですよ、リューン。・・・人とは矛盾の塊なのですから・・・」
 そう言って目を細める。
「しかし、何もしないで後悔するよりは、やって後悔する方が彼女自身も納得できるでしょう。行きたいのであれば、行かせるべきだと思いますよ。あの娘の人生です。あの娘の好きなようにさせましょう・・・」
「・・・・・そうだな、分かった・・・そうする・・・。もし本当に行きたいのであれば、彼女に南蛮関の通行証を発行しよう・・・」

 リューンは大抵、日が昇る前にロアンの部屋を去っていく。それを見計らって侍女のメル・イーナ達がやってきて、部屋の後かたづけなどをする。その間に別の侍女がロアンの湯浴みに付き合うのだった。
 嬪妃ともなると衣服なども実に多彩である。女官の等級によって身に付けられるものの制限などもあったが、第四位の婦人であるロアンは紫を基調とした衣服以外のものを身に付けることが出来た。後宮に於いては、紫は最も高貴な色とされている。そのために、この色を許されるのは三位以上の女官、即ち、正妃、后妃、夫人の現在のところ七人に限られている。
 ロアンにとって邪魔なのは、その七人ということになる。しかし、東后妃アル・エルラーゼ、そして西后妃ライサ・ユウトはロアンに敵する存在ではない。しかもロアン自身は女官の位に拘っているわけではない。執着すべきは権威であり、力さえ得れば、官位などはどうでもいいのである。ロアンにとっての最大の力とは、ナグモ・リューンの後ろ盾である。リューンの寵愛を受けられるうちは、ロアンの力も正妃オフィーリア・ファーナに勝るとも劣らぬものとなろう。
ロアンは美しさや若さだけを売りにするほど愚かではない。それに、いくらリューンがロアンの知性や教養を慈しんでいるからと言っても、必ずしもそれがいつまでも続くとは限らない。最終的に、この宮内で権力を盤石のものにするには、世継ぎを産むしかないのである。自分か、エルラーゼ、ライサ、アリサのうち誰かが子を産めば、間違いなく一大勢力を築ける。もっとも自分以外のものとなれば、ロアンが操作しなくてはならないので、勢力掌握の不確実性が高まるが。だが、このことを考えているのは何もロアンだけではない。皆考えていることだ。だから、ディルや侍女達を使ってどうにか調べさせ、ファーナや彼女の息のかかった者達の「月物の周期」をロアンは知っておく必要があった。危険な日には絶対にリューンを彼女らの元へ行かせてはならない。真、滑稽ではあるがこうでもしない限り防ぎようがない。権威ではファーナに劣るが、イニシアチブはロアンが持っている。それが続いてる限り、ロアンは負けることはない。
 ある日、ロアンはディルにこのようなことを言った。
「今度、薬売りを呼んでくれませんか。色々とこれからのことを考えると、必要になるかも知れませんから・・・」
 その後、薬売りはロアンの元を訪ねてきたが、ディルは何を購入したのか知らされることはなかった。
 実はこの時、最悪の事態を想定して、ロアンは何種類かの毒薬を購入している。

 マラーイカがロアンの部屋を訪ねてきたのは、ちょうど昼時であった。彼女が訪れる時間はいつも決まっていたので、予めアリサと共に食事を用意して待っていた。
「どうしたのマアリちゃん、元気ないね」
「アリサ、口に物を入れながら話すのはやめなさい。はしたないですよ」
「はーい」
「・・・実は・・・」
 重苦しい沈黙を破り、マラーイカはロアンに昨日の話を聞かせたのだった。

「・・・そう、そんなことがあったのですか・・・確かにあの森では、そのダルディークさんがいうように、行かない方がいいかも知れませんね・・・。私もヴェルーダ出身だから分かるんですが、あそこは呪われていますよ・・・」
「・・・では何故、そのようなところに兄は行ったのでしょう」
「・・・・・神酒については、ご存じかしら?」
「神酒?」
「不老不死の妙薬・・・それが神酒・・・。今でこそ、帰らずの森などと名前がついていますが、以前は神酒の森と呼ばれていたのです。ヴェルーダ地方の伝説ですがね。その昔、全能の神ディヤウスの流した涙が池をつくり、その周りに草木が生えて森をつくったといいます。そして、その森に生える草木を特殊な調合法で精製したものが、神酒というわけです・・・。ヴェルーダ邑にはその調合法を記したものがあるとか、そういう類の話は、いつの時代でもありました。でも、それを見つけたものは誰もいませんし、ヴェルーダの災厄以前は、あそこはただの木材資源の伐採地でしたよ・・・」
 神酒・・・不老不死の妙薬・・・果たしてそのようなものが存在するのかしら・・・。でも、あの森に入って出てきた者がいないことは事実なんだし・・・もしナザフ兄様が入っていったとしたら・・・やっぱり放っておけない。
「それでもナザフ兄様が行ったとしたら・・・」
「マアリさん・・・よく考えなさい・・・。入っていった男は、貴女のお兄さまかも知れないけど、そうでないかも知れない。そんないい加減な情報のために命を危険に晒すのは賛成できません。でも、それでもどうしても、あの森へ行くというのであれば、もう一度私に相談しに来て下さい。その時は、南蛮関を通るための許可証を貴女に発行するよう、私が陛下に頼みましょう」
 マラーイカは小さく頷いた。
 彼女にとっては、たった一つの兄の手掛かりである。しかしながら、14という年齢を考えると少々、酷過ぎる選択であった。
 火の月52日のことであった。

 この月、スィスニア王国は国境近くの邑、ライアードを滅ぼし、竜角関に押し寄せてきた東邑同盟軍を撃ち破った。外交関係に於いては、東邑同盟やウォウル王国との関係を一層悪化させる一方で、イレーヌ・リビュニア姉妹王国との友好関係を築こうという動きを見せている。しかしながら、スィスニア盆地の入り口ともいえた北蛮関が、ウォウル軍の強襲を受け陥落、焼失した事実は少なからず人々の心を動揺させることとなった。
 ウォウル王国は東邑同盟と先月に同盟を結んだことによって、外敵による脅威は少なからず減少した。その結果、西の姉妹王国に注意を払いつつ、北蛮関を攻略するための作戦を実行に移した。嘗てスィスニアの将軍であったランギヴァラーハ・ライラの協力もあり、これを攻略することに成功している。
イレーヌ・リビュニア姉妹王国に於いては、表立った動きは見せていない。但し、スィスニア王国との協調路線を進む姿勢を示しており、来月には副王ウェス・ユミイが代表となり、スィスニア王国の雲徳殿に於いて同盟の調印式が行われる予定になっている。

TO BE CONTINUED

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