会誌-「第9回会誌別冊 ナーラダ戦記」

■ ナーラダ戦記・リアクション・上巻・独立暦402年人の月


【人の月・スィスニア】

 カーリー 悲しまないで
 人生は狂っているの
 人生は狂気の沙汰なのよ
 怖がらないで
 カーリー 悲しまないで
 それがあなただけの運命
 チャンスは今だけ
 つかまえて、しっかり手で掴むのよ

 ENIGMA:Age Of Lonelinessより


 闇の中に浮かび上がる蝋燭の炎。
 炎の形は女の吐息と共に時折乱れた。
 微かに乱れたかと思えば、元の形へと戻る。そして制止しているかと思えば、突如として激しく乱れた。
 リューンの配下には八武衆と呼ばれる将達が付き従っている。いずれも力を認められて配下となった剛の者達である。その中でリューンの身辺警護や諜報活動を任務とする、隠密衆と呼ばれる者達がおり、それらを率いているのが、八武衆の一人で、名をライゾウと言った。
 ライゾウはリューンの寝室の天井裏にいた。ライゾウの目は片時もリューンの姿を捉えて離れない。如何なる時であろうと、如何なる場所であろうと、如何なる状況であろうと、リューンの身を護るのが己の役目であると心得ていた。そのために外回りの情報収集などは、専ら部下に任せている。隠密衆の頭領たる「雲隠れのライゾウ」・・・。その片腕であり、副頭領でもある「疾風のカエデ」が実際は隠密衆全体を統率している。
 今宵、リューンによって抱かれている女はシーランに従っていた小邑の邑宰の娘であった。
「・・・ライゾウ」
「・・・ここに・・・」
 ライゾウは間を置くこともなく、天井より降り立つ。そして主の言葉を待った。
 女はシーツで胸元を隠し、リューンの背中の後ろに消えた。
「ライラはどうした・・・」
「数刻前に動き出したようです」
「そうか・・・」
 リューンは顎に手を当てて、何やら考えている。


【赤い彗星と呼ばれた女】9日:清竜殿→?

 昨夜未明。
「閣下、こたびの盟約の使者。この私めに務めさせてください。閣下の東邑への版図を広げるに後顧の憂いを絶つというお気持ち、必ずや叶えてご覧入れましょう」
 ナーラダは現在ウォウル王国、イレーヌ=リビュニア姉妹王国、東邑同盟、そしてリューンの支配するスィスニア勢力圏の4つに分けられている。正確に言えばナーガ大司祭ルシャナ・シルキーヌが築いたレスフィーナも加えられるべきであるが、戦争をするほどの軍事力を保持していない点で、ナーラダは実質4大勢力のミリタリーバランスの上に、一時の仮初めの平和が存在しているといえた。昨年の「セルファニア湖の戦い」以来、ウォウルとは険悪な関係が続いており、東邑同盟とも小競り合いが絶えなかった。そのためリューンは的を絞るべく、ウォウルと敵対関係にあったイレーヌ=リビュニア姉妹王国に使者を出し、ウォウルを牽制すべく、同盟もしくはそれに類する条約を結び、来るべき東邑同盟との戦いに備えようとの考えであった。
 その使者として、八武衆の一人であるランギヴァラーハ・ライラが名乗りをあげたのであった。
 彼女の容貌を説明する上で、最も特徴的な部分を挙げるとすれば、まずはその髪型であろうか。ショートヘアを朱色に染め上げ、ややカールしている。黒髪のナーラダ族の中にあっては極めて異端的存在であった。戦場では「赤い彗星」として恐れられ、自らも赤い馬を駆り戦っている。しかしながら、彼女のセンスが受け入れられるには、余りにも時代が早すぎたといえる。特に熟年者達からは彼女はすこぶる評判が悪かった。そのために、
「お前のような奴が使者では、結べる盟約も結べぬわ」
「そうでござる。ここはそれがしにお任せを・・・」
 というような反対の声が、ブラフ老とアズルード辺りから出たのであった。
 リューンがいくら型破りな人間でも、メロウリンクやライラを使者にするには流石に、疑問を感じた。「オカマ」や「ショートカットの紅い髪の女」を公式の使者にしては笑い者となるのは目に見えているのである。
 結果から言えばブラフ老が選ばれた。ライラに好意的なシュラなどは彼女を使者に押したが、他の者達が反対したことと、常識的に考えた上でリューンは無難なブラフ・トルメキアを使者としたのである。

 ライラの姿が清竜殿の執務室にあった。通常は北蛮関と呼ばれる関所が彼女の勤務地であり、当然そこで執務を行うのであるが、会議が中央で行われる日だけはここ清竜殿で執務を行わなければならない。執務と言ってもライラの仕事はサインをする程度であり、書類の作成や雑用などは、彼女の有能な配下であるヒューバートやレリューコフがやってくれていた。
「残念だ。閣下はブラフ老を使者に立てられた。ならんな、ならん。あの男の野心、あれには適度な歯止めが必要なのだ。ここで姉妹王国と盟約を結ばせるわけにはいかんのだよ」
 ランギヴァラーハ・ライラという女性は他の八武衆達とは違い、忠誠によってリューンに仕えているわけではない。今まで付き従っていたのはリューンに正義があると思えばこそであった。三邑平定に至り、その後の治世を見るにつけこの男が思い描く未来像というものに対して、ライラは疑問を感じるようになった。その手始めが膨大な人的資源を浪費する後宮の建築であった。このようなリューンの態度からは理想に燃える革命家ではなく、己の野心にのみ証を立てるきな臭い独裁者の匂いが感じられる。
 ライラが求めたのは王の道である。しかしながら、リューンが歩んでいるのは覇の道であった。徳による統治。武による支配。この二つが相容れることはなかった。
 旧体制の破壊と新たな秩序による再生。リューンは前者を行ったが、後者については、このままでは、ライラの考え得る理想像とは遠く離れたものになりそうであった。再生する人間は正しい道を歩まねばならない。その正しさとは、個人の正義ではなく、大衆や民衆にあるものである。ランギヴァラーハ・ライラはそう考えていたようである。
「二正面に敵を迎えても、いや迎えるぐらいがその覇道とやらにはあっている・・・・・。ではヒューバート、いくぞ、使者の足止めをする!!」
「御意、どこまでもお供いたします」
 赤毛の美貌の女将軍と、それに付き従う黒衣の衛士は日が昇らぬうちにスィスニアを発った。

「ライラよ・・・未だその時ではない・・・その時ではないのだ・・・」
 旧秩序の破壊は、未だ終わっていない。地ならしは未だ終わっていないのだ・・・お前のような者が必要とされるのは、その後だ。何故それを理解しない・・・或いは知っていても尚、動かざるを得ないのが人の業とでもいうのだろうか・・・。
 ライラ・・・・・。
 リューンは顎に手を当てて物思いに耽っていた。
「ライゾウよ・・・・・・・一つ頼みがある」
「何なりと」

 スィスニアへの唯一の進入路、竜の道。その両脇を小高い山に囲まれた街道の出入り口には巨大な関所があった。
 北蛮関(ほくばんかん)。
 リューンが外敵の侵入を防ぐために建築した関所である。関所というよりは、寧ろ要塞という言い方の方が相応しいかも知れない。ここには最大2万人の兵が長期にわたって駐留できるほどの設備が整っており、通常でも3000人ほどの兵が駐屯している。
 この北蛮関を預かっているのは八武衆の一人で、イバ・アズルード、そして駐留軍を預かっているのはランギヴァラーハ・ライラであった。

「姫様・・・」
 老兵は城壁の上から、二人が馬を駆って行くのを眺めていた。
 レリューコフは代々ランギヴァラーハ家に仕えてきた男である。ライラを生まれた頃からを知っており、娘のようにも思っていた。
「倅よ・・・姫様を頼んだぞ・・・」
 ライラは配下のヒューバートを従えて、姉妹王国へと向かった使者の足止めへと向かった。アズルードはレリューコフの息子である。そのために彼も又、父同様ライラに対して忠誠を誓っている。ライラがリューンに反目するのであれば、彼らは喜んでそれに従うのであった。

【ウォウルの女狐】11日:清竜殿・リューンの執務室

 人の月11日。
 この日、リューンの執務室にウォウルから一人の女性が訪れていた。
「・・・今日は私をお抱きにならないのですね・・・」
「お前は、いや貴女は私用で私に会いに来たのではないのであろう? ならば、私もそれなりの態度で望まねば非礼というものだ・・・」
「そうですね」
 ウォウルを拠点としてナーラダ地域を中心に商業活動を営む営利団体『リレイル商会』。主に宝石を取り扱うことでその利益を上げているが、最近では多角化への道を歩みだそうとしている組織である。また、後に記す機会があるかも知れないが、今日でいう先物取引をセルフィアーで一番最初に行った営利団体でもある。その代表のリレイル・リレイアは18の時に創業させ、10年の間にウォウルでも屈指の資本力と売上高を誇る組織へと成長させた。
 彼女がリューンの元に訪れたのは、商業の都であるスィスニアへの事業進出と、後宮造営に伴い必要とされる装飾品やその類の独占的販売を目的とした、交渉のためであった。本来であれば、スィスニアの執政官たるリューンの腹心であるシュラを通すべきなのであろうが、リレイアは敢えてリューンに直接面会を求めた。
 リレイル・リレイア、そしてナグモ・リューンは互いに知った仲である。
 出会った頃、リレイアは事業を創業させたばかりであった。リューンも又、一介の流浪の者であった。どのような因果か、二人の奇妙な生活は半年に渡り続いた。そしてある時、リレイアは男を利用することを覚え、リューンは女のしたたかさを学んだのである。
 リューンがスィスニアにてクーデターを起こし、その実権を掌握した時、リレイアはリューンへと再び近づく。今度は一人の女性としてではなく、商人としてである。そしてクーデターを巨大な資金力で支えたスィスニア三大商人を失脚させ、今度は自らがリューンの信を得るために画策していった。
 商いに境界線はない。利を得る機会があれば、自国の敵にすら近づく。何故ならば営利団体の究極的な目標は利潤の極大化であるからだ。少なくともリレイアはそう考えている。組織が大きくなればなるほど、その様な色は濃くなってくる。例え創業者の考えがどのようなものであろうと、組織が巨大化してくると、そのような一個人の考えなどは反映されにくくなる。営利団体の究極的な目標とか存在意義などについて、頭の固い学者連中は、様々な答えを導き出すに違いない。しかしリレイアにとってその様なものは何ら興味を引くものではなかった。
 リレイル・リレイアは聖人君子ではない。この世界で生き残るために様々なことをやってきている。その中には人として後ろ指さされるようなことも含んでいた。そんな自分に疲れたときに、親友のナーラダ・ルーシに会うことにしている。ルーシは彼女の幼なじみでウォウルの兵吏長である。リレイアは彼女の前では仕事のことは忘れるようにしていた。彼女にとってルーシは心の安息をもたらしてくれる真の友人であった。
 商人としての自分、ルーシの友人としての自分。この二つの仮面は、どちらも彼女にとって演じるものではなく、既に限りなく完成された一人格として彼女の心の中に形成されていた。そして二つの仮面を眺めているもう一人の自分の存在をリレイアは最近になって意識しはじめるようになった。その存在はリレイアが商人として大きな存在になっていくと共に、また時として冷徹な判断を下すような状況と共に、より大きなものへと変容していくのであった。
 それはルーシに対する一種の後ろめたさである。利潤の極大化こそが組織の目標であるならば、これまでのようにウォウル一国だけを視野に入れて商売をするわけにはいかない。ナーラダ、いやセルフィアー全域を視野に入れなければならない。ともすれば、ウォウルにとって、即ちルーシにとって敵対しうる勢力とも手を携えなければならないのである。
 こんな私を貴女は軽蔑するでしょうね・・・。
 リレイアのそのような思いは日に日に強くなっていくのであった。

 リレイアはリューンとの交渉を終えて執務室から出る。交渉自体は順調に進んだ。風の月をめどにスィスニアを中心に中小規模の邑を含めた15地域にて事業展開を認められ、後宮造営に必要な装飾品の販売の方も独占とまではいわないまでも、優先的に注文を受けられるよう確約してくれた。リューンはリレイア同様、己の利を優先させる傾向が強い。そんな男の約定など、どの程度当てになるか甚だ疑問であったが、利用価値があるうちはそれを最大限に使うが、約定も違えない男であることをリレイアは知っていた。
「相変わらずね、リューン坊や・・・」
 リレイアは人差し指で形の良い唇にそっと触れてみる。
 その時であった。
「何を考えているかは知らないが・・・」
 リレイアはふと後ろを振り向いた。
「・・・もし閣下に害を成す女狐ならば私の剣が貴女の美しい顔を斬り刻むことになる」
 そう言ったのは、リレイアの後ろにいつの間にか立っていたリューンの腹心、シュラであった。
「せいぜい覚えておきましょう」
 気配を感じさせず現れたシュラに驚きの表情を見せることなく、リレイアは柔軟な対応を見せた。
「ではシュラ様、私は仕事がありますのでこれで失礼いたします。ごきげんよう・・・」
 リレイアはシュラにペコリと頭を下げると、彼女の元から早々と立ち去っていくのであった。
「・・・女狐め・・・」
 シュラは毒づいた。

【Ciel】11日:スィスニア・エルヴァ通り→喫茶店

 さて・・・かくしてカルナ・シェルセラヴの読んだ通り、リレイル・リレイアはリューンの支配するスィスニア勢力圏へ事業の進出を図るべく画策していたのである。
 先見の明というか、或いは時勢を見る目と言うべきなのだろうか、リレイア同様、ユディトの商人であるカルナ・シェルセラヴは、この商業の邑であるスィスニアに新たに店を開くことを考えていた。
「さあ、着飾ってスィスニアへ!」
 そのような言葉が生まれるのはもう少し先であるが、この言葉を人々の間で口ずさませるような文化のすべての始まりは、カルナ・シェルセラヴのスィスニア入りを起源としていた。 独立暦400年代を代表する芸術家、後にバルス建国者ヴィーシアと共に四大芸術家の一人として数えられるカルナ・シェルセラヴ。彼女の名にちなみ、これよりスィスニアを中心に栄える自由奔放な芸術文化を歴史学に於いては「シエル文化」とも呼んだ。商人としてではなく芸術家として名を残したのは、偏に彼女の何者にも束縛されない自由な生き方があったからである。芸術とは常にエゴであり、そこには如何なる者も立ち入ることはできない。そして、多くのものは他人の心に触れることもなく、創作者の自己満足の領域から抜け出すことなく失われていく。しかし、彼女の独自の芸術センスはこの時代の人々の心に、何かしら形を変えながらも干渉していくことになる。例えシェルセラブ自身にその様な野心がなく、自由気ままに生き、どんなにいい男が好きでも、である。
 すべてはシェルセラヴの出すことになるお店「カルナ・シェルセラヴ・ファンシーショップ・スィスニア店」から始まる。一文化として成り立った理由をいくつか挙げてみると、まずリューンが後宮を造営したことによって、装飾品や芸術品の類を扱う商人やその制作者が集まり、彼女の作品を目にする機会があったこと。次にそういった人々が地元へ帰り、口コミで噂が広がる。そして戦乱の世となり人の流動化が著しく進む中、ナーラダ中に噂は広がり、その噂を聞いた人々がスィスニアに訪れるようになる。その様な人々の中に芸術の才を誇る者がおり、そういった者達が次々に影響を受け、同じような作品が作られるようになる。次第に作品の数も増え、人々の生活の中にまで影響を与え出すようになるのである。
 そんなことになるとは知らないカルナ・シェルセラヴ。彼女は今、リレイル・リレイアと共にお茶の時間を楽しんでいた。
 何故シェルセラヴがリレイアとお茶の時間を楽しんでいるのか。この話は時間を少し遡ることになる。また、彼女自身について話を進める上で、筆者はあらかじめ一つだけ断っておかなければならない。現在、彼女について伝わる資料の中には忠実にシェルセラヴについて伝えようとするものと、様々な彼女についての逸話を更にフィクション化し記したものとがあるのだが、時が経つにつれて、やがてそれらの資料の境界線が不明瞭になってしまったために(フィクションを元に彼女の伝記を著した史家達が後に多く現れたため)この膨大な資料を前に、筆者自身どこまで実話なのか判断することが出来ない。その中には明らかにオーバーテクノロジーなものを使う彼女の姿があったり、それでいて妙に違和感がなかったりするのである。筆者は彼女らしい彼女を描くために明らかにフィクションであると思われるものも、取り入れようと思う。まずはその点を理解して頂きたい。

 スィスニア。この邑に来るのは実に久しぶりであった。
 すれ違う男達の視線は、必ず彼女で固定された。統計を取ってみれば100人中99人の男が振り向いたであろう。残り一人は同性愛者である。女性同伴のある男は、彼女に見とれていて頬をつねられたりもしていた。
 以前来た時と異なる点は、兵士や傭兵達の姿が目に付くこと、邑内の区画整理が進んでいること、行商人達の数が増えていること、などであろうか。そして何よりも以前より、活気がある。シェルセラヴはもう少し殺伐としたものをイメージしていたが、実際は異なった。
「乱世の都っていうのは、こういうものなのかしら」
 邑全体が動いている錯覚を受ける。
 カルナ・シェルセラヴ、21歳、花の独身、グラマラス・スリム・バーディ、トップと2打差で絶世の美女、ついでにスリーサイズは両目で1,4、薬指7号、足のサイズ0,23米、トドメで肌の色は雪白という、この女性は元はユディトに店を構える商人である。そして彼女がこの地を訪れたのは第二号店をここで開くためであった。
 しかし、来てはみたものの、具体的にどのようにすればお店を開けるのか・・・。
 ユディトでお店を開いた時は、手っ取り早いスポンサーがいた。他ならぬ兄、ティン・トレストである。彼はトゥーの一邑、ユディトを治める邑宰であった。トレストは愛する妹のために喜んで資金援助してくれたが、今回はそういったコネがない。
 シェルセラヴは肩に乗せたラルアークと共に、大変困ったという表情をしていた。ちなみにラルアークというのは彼女を主人と仰ぐ鳥である。
「やっぱりコネよねぇ・・・コネ、貴方もそう思うでしょうラルアーク?」
 ラルアークは「うんうん」と相槌を打っている。
 そんな時、シェルセラヴの目は一人の女性の姿を捉えるのだった。彼女は反射的に建物の陰に隠れる。何もやましいことはないが、如何せん盗賊に近い日頃の行いが、自然にそうさせていた。
 ・・・・・あれは、ウォウルのリレイル・リレイアさんではないかしら。スィスニアに来れば、もしかすると、会う機会があるかも知れないとは思っていたけれど。こんなに早くその機会が訪れようとは、何という幸運かしら。
 そうだわ、リレイアさんなら出店の相談に乗ってくれるかも知れないわ。でも突然「こんにちわ」では芸がないわね・・・。どういう再会のシチュエーションがいいかしら。
 うーん。
 シェルセラヴは真剣に考えている。そう、彼女の思考は常人の考え得る領域の遙か上空にあるのだ。

 結果、彼女の望んだ「再会」のシチュエーションは次のようなものとなった。
 リレイル・リレイアは明日ウォウルへと出立する予定であった。リューンとの交渉も滞りなく済み、取り敢えず現在スィスニアでやるべきことは全て終わったからである。今日は息抜きのために、何をするわけでもなく、ただ思いのままに、町中を歩き回っていた。言い寄ってくる男達をのらりくらりとかわしながら、である。
 リレイアはすれ違った女性がハンカチを落とすのを確認した。その女性はそれに気付かず過ぎ去っていこうとする。
「もし・・・そこのお方、これを落としましたよ」
 リレイアは落ちたハンカチを拾って、女性を呼び止める。
 その女性は振り返り、そして互いの視線が絡み合ったとき、二人は思わず(いや片方は意識的に)驚いた(振りをした)のだった。

 リレイアとシェルセラヴは面識があったらしい。それがどういう場に於いてどのような出会いだったのかは、資料が不足していて確認できないが、二人の再会は上記のようなものであった。
「そう、貴女もこの邑に店を出すんだ。すごいわねー、ユディトにお店を出してから2年も経っていないのに」
 リレイアはティーカップを皿の上に置いた。
「ええ、それでどうすればよいかと考えていたのよ」
「でも今ね、実は貴女のように出店したい商人達が、このスィスニアには山のようにいるのよ。だから普通に手続きを踏んでいるようでは、いつまで経っても認可は降りないわよ」
「それは困ったわ・・・」
「私の名前でどうにか出来るのなら助けたいのだけれども、役所を統括している女性に私は嫌われていてね。それこそ永遠に認可が降りないかも知れないわ」
「絶望的ね」
「でも、直接リューン坊や・・・じゃなく、閣下に頼めば貴女なら鶴の一声で、認可は降りるでしょうけど」
 それがどういう意味かは理解できる。何だかんだ言ってもリューンは女性には甘いのである。
 会えれば、か・・・。まあ、いいわ、やってみるだけの価値はあるかも知れないし、いざとなれば逃げるだけだもの。
「まさか、貴女、清竜殿に忍びこもうなんて考えていないでしょうね。あそこは四六時中、衛兵と忍び達が守っているのよ・・・いくらリューン坊やが、寝る前の数時間は必ず書庫に籠もることを知っていても、そこに辿り着く前に確実に捕まっちゃうんだから」
 と、そんな内情までリレイアはシェルセラヴに話してしまうのだった。

 リレイアとは「またお会いしましょう」と約束をして別れた。彼女からはお店の出し方ではなく、屋敷への忍び込み方を習ったような気がするが、聞いてしまったからにはやってみたくなるのがカルナ・シェルセラヴその人である。
 作戦の決行は今晩に決めたわ。
「リューン様のもとへ行くわよ、ラルアーク」
 カルナ・シェルセラヴの前代未聞の奇襲作戦が今始まろうとしていた。

【ゴ*ゴ13】13日:街道

「姫様、私は本当はシリアスが好きなのですが」
「何を訳の分からないことを言っておるのだ、ヒューバート」
 ライラとヒューバートが姉妹王国へ使者として向かったブラフ老一行に追いついたのは、スィスニアを発ってから4日後のことであった。ライラは丘の上からブラフ老をはじめとする外交使節団を眺めていた。余談であるが彼女はここに来るまで、街道沿いによく見かけた宮女募集の立て札をことごとく破壊している。その数17。
「ひーふーみー・・・・・・・60人くらいか」
「はい、二人では少々(意訳=かなり)厳しいかと・・・」
 二人の表情は確認できない。黒いフードを被っているからである。
 ライラは少し考える。当初、彼女は使者を監禁し、盟約の締結を妨害する予定であった。しかしながら、ここに至り、それが困難であることに気が付いたのである。彼女はこのセルフィアーでは屈指の弓使いであったが、剣術の方は残念ながら屈指の腕前ではない。そのことは彼女も重々承知している。しかも相手は「二槍候」の異名を持つ歴戦の強者と60名の兵士達である。
 ヒューバートは主の言葉を待った。
「・・・狙撃する」
 使者であるブラフ老が動けなければ、それで終わりだ。
 ライラはスィスニアで二番目の弓使いである。一番の弓使いはもういない。兄は死んだ。たとえ今はその技量が兄のものを越えようとも、それを証明する手段はない。だから彼女は自分は二番目なのだと思っている。
「姫様、仕留めるのならば矢尻に毒を塗ってみては如何でしょう」
「私を誰だと思っている」
「はっ、失礼いたしました」
 ヒューバートは畏まりながら矢をライラへと渡す。
 ライラはブラフ老を狙いながら弓を絞った。
 貴方を今行かせるわけにはいかないのだ。老人は老人らしく、大人しくしていて欲しいものだな・・・。
 焦点を絞り、彼女は矢を放つ。
 矢はギュンという音と共に風を切り、ブラフ・トルメキアの左肩へと突き刺さる。
「二射目だ」
 彼女が手を出すと共に、ヒューバートは矢を手渡していた。
 再びライラが矢を放つまでの時間はほとんどない。それはまさに神技と言えた。
 二射目はブラフ老の左太股へと吸い込まれていった。ブラフはライラから見て、馬上にて左半身をさらしていた。そのために彼女は左肩と左太股を狙ったのである。そこならば運が良ければ死にはしない。
 ブラフの護衛達は、突然の出来事に驚いていた。どのくらい驚いていたかというと、ダラスでジョン・フィッツジェラルド・ケネディが狙撃されたくらいと言えば分かって頂けるだろうか。しかしながらケネディは絶命したが、ブラフ老は意識がしっかりしていた点で状況は異なる。
「狼狽えるでないわ!! この程度の傷は怪我のうちに入らぬ!」
 ブラフ・トルメキアは兵の動揺を抑えるために強がってみせたが、実際には傷の方はかなり深刻であった。何よりも出血が多い。ブラフは十分にそんなことは分かっていたが、まずは、この外交使節団を襲った者達を見つけなければならない。
 この儂一人を狙ってきたということは賊の類ではない。明らかに儂が使者だということを知って狙ってきたのだ。
 その時、ブラフの目が丘の上の二人を捉えた。
 奴らか・・・。
「賊はあの丘の上じゃ、行くぞ!!」
 ブラフは止血もせず、すかさず追撃を開始した。

「・・・オイオイ、ブラフのとっつぁん、あんな怪我でマジに追いかけるつもりかよ!」
 男はブラフの率いる使節団を遙か後方から眺めていた。その手には望遠鏡と呼ばれる知り合いの交易商人から手に入れた筒が握られている。
 丘の上のねーちゃん達二人だけじゃ、60人相手に踏ん張れないだろうしな・・・。
 ライラもヒューバートも一騎当千の将である。しかしながら使節団の護衛として付けた兵達も又、ブラフの選りすぐりの猛者達であった。
「しゃあねぇな、早速オレの出番てわけかい」
 言うや否や、男は馬の腹を勢いよく蹴っていた。

【進軍】13日:ターヌ平野南西・野営テント

 ちょうどその頃、スィスニアからはシュラ率いる3千の軍が東邑同盟領であるターヌ平野南に位置するウルクへ向けて出立していた。
 ウルクはターヌ川上流域に広がる肥沃な穀倉地帯を中心に栄える中規模の邑である。農業中心の邑であるが、リューンと東邑同盟にとってこの邑は戦略上最も重要なポイントであった。ウルクは東邑同盟の二大拠点であるリュシー及びターヌという大邑へ攻め込む上で、リューンにとっては是非とも確保したい中継地点であり、東邑同盟にとっては対リューン軍に対する最後の防波堤的役割を担う存在であった。リューンなどはウルクを落とすために、スウィズ北方、即ちスウィズ川がターヌ平野に流れ込む地点の両岸に、竜角関と呼ばれる、双子の塔を持つ要塞を築いている。
 軍団の編成は、シュラを大将とする軍団中核が1千2百、八武衆の一人であるエルファ・ザドゥは副将で先鋒8百を率い、邑兵尉であるマ・ゲドは6百を率い後曲をとり、同じく邑兵尉のブグル・ザンが遊撃部隊として4百の兵を率いてシュラの部隊と共にあった。
 ウルクには城壁がない。それは即ち籠城戦というものを想定する必要がないことを意味する。必ず戦場はこのターヌ平野、平地での決戦になるとシュラは考えていた。そのために、彼女は軍の編成を皆騎兵とした。
 従来までは将のみが騎乗しその周囲に徒歩の兵が付く形が一般的であったが、リューンにはこのような編成が無駄に思えた。騎兵の利点とは速度を活かした突撃能力の一言に尽きる。即ち部隊に騎兵と歩兵を混合させることによって、利点が活かしきれないのである。平地での決戦であれば間違いなく騎兵主体の編成こそが最も戦果を上げられる。リューンは騎兵部隊を弓と軽装をもって先遣に任じる軽騎兵と、白刃と堅い革鎧と共に敵に突撃する重騎兵に分割するよう考えていた。
 以前、リューンからこのような編成案を聞かされていたシュラは、平地での決戦となることが予想された今回、その案に基づき3千の兵を皆騎兵としてそれを実行に移してみせたのである。但し、当初5千を予定していた遠征軍の兵数も騎馬の不足と兵士の練度の低さのために3千という規模まで小さくせざるを得なかった。リューンはこの事に懸念の意を示したが、シュラの説得と、彼自身の彼女に対する上下関係を越えた感情が出兵を許してしまったのである。そして、シュラにとって不運だったのは東邑同盟に属する一軍である「黒竜旗軍」の中に、リューン同様、皆騎兵による軍編成を考えていた者がいることであった。
 その者の名はヴァシュナ・シリル。元スィスニア邑宰丞であり、後にルシャナ・シルキーヌのいたっての願いもあり、また血縁であることから、スィスニア邑宰となり、流浪の民を率い東邑同盟へと導いた者である。詰まりは、400年続いたルシャナ邑宰家最後の邑宰であり、清竜殿に邑宰として一度も足を踏み入れることがなかった唯一人のスィスニア邑宰である。現在は東邑同盟に於いて結成された「黒竜旗軍」を束ねる者として、その腕を振るっていた。
 シリルの武の器量については、後世の史家達はそれほどの評価はしていないが、実際はルシャナ家で邑宰の剣術指南役としてシルキーヌやその親族に手ほどきをしており、また後に兵法書なども記したことが記録に残っていることから(彼が著したその兵法書自体は現存していないが)、同時期にヴィレクやリューン、そして黒竜旗軍内にクラウ・ハデンなどの存在があったために、過小評価されてしまったものと思われる。また、彼自身の人柄と、武人としてよりは文人肌が強かったことも一因となっているといえよう。
 また、彼自身を評価する上で、学者達はシリルの経歴をある時点で大きく二つに区切っている。前半はリューンのクーデター前まで、後半はそれ以後である。クーデター前までのシリルはシルキーヌの補佐に徹しており、その力量が発揮される場が何処にもなかった。また、彼自身ルシャナ家の血縁ということもあり、どちらかというと何不自由なく育ってしまった。知識はあれどもそれを事実と結びつける術を知らず、過去の因習の中に育ったことが、彼本来の器を小さなものとしていたのである。しかしながら、邑を追われ流浪をし、何よりもシルキーヌという存在に距離を置いたことが、彼自身の本来の能力を開花させたといえよう。これを平和を望んだシリルが、幸運と思うか歴史の皮肉と呼ぶかどうかはともかくとして、彼は今、シルキーヌのためではなく、自分の目でナーラダを眺め、自分の頭で時代の行く末を考えていた。そんな中で彼自身が軍団編成について見直しを図り、ハデンと共に皆騎兵による新たな「戦の形」を考え出したことは、彼自身の能力と先見性を十分に裏付けているといえよう。
 エルファ・ザドゥの元に、放った斥候が戻ってくる。
 その情報によるとミュール、ナヴァル、リュシーより各々2千の援軍が発ったようであった。現在シュラ率いるこの遠征軍は、ウルクより3日の所にあった。しかしながら、これはあくまで歩兵を含んだ行軍速度で計算した距離であり、実際にはもう少し早くウルクには着く。
「おそらく連中はウルク近郊のエレンの丘辺りに集結するだろうな・・・」
 ザドゥは顎を撫でながら口ずさむ。彼は考えるとき顎をなで回す癖があった。
「ガイ!」
 ザドゥは信頼する副官の名を呼ぶ。
「はっ、ここに」
「今日はここで休む、兵達に野宿の用意をさせておいてくれ。私はこれより御大将のところへ行き、今後のことについて話してくる」
「御意」
 部下の返事を聞き届けると、ザドゥはシュラの元へ馬を走らせた。

 ここでこのエルファ・ザドゥという人物について若干の説明をしておこう。シュラ達が古参のリューンの配下であったのに対して、彼は元々スィスニアの武人であった。代々ルシャナ家に仕え、彼自身は邑兵尉の地位にあった。ザドゥ、ライラ、ヴァルの3人はリューンはスィスニアに来てからの付き合いである。ザドゥはリューンのナーラダ統一という野望を支えるべく、彼に仕えるようになった。元々文人肌の多いスィスニアの将とも折りが合わなかったようで、そのことも武人としてのカリスマを強くもつリューンの元に仕えるようになった原因の一つであった。また昨年、最愛の妻アイリと結婚し一児をもうけており、ちなみにその赤子の名付け親となったのがリューンである。その一児の親となったザドゥは今年三十路へと突入してしまった。本人はそのことを少々気にしている。

 野営テントの中にはシュラ、エルファ・ザドウ、マ・ゲド、ブグル・ザンら4人が今後の方針について話し合っていた。
 ザドゥはシュラにミュール、ナヴァル、リュシーから援軍がウルクに向かって出立したことを報告した。
「そうか、了解した。で、ザドゥよ・・・お主ならばどのように戦う?」
「そうですな、やはり騎兵の移動力を活かし、敵が集結する前に各々これを撃破していくのが上策かと」
「それがしも同意見です。まずミュールの軍を叩き、返す刀でナヴァルの軍を叩く。そして最後にエレンの丘にてリュシーの軍を仕留めるべきかと・・・」
 そう言ったのは邑兵尉のマ・ゲドである。
「ザン、お主はどうだ?」
 シュラはブグル・ザンに意見を求めた。
「はっ、これで問題はないかと」
「ならばよし。明朝日が昇り次第、各部隊は我が本隊に合流し、速やかに移動した後ミュール軍に奇襲をかける」 
 そしてシュラは剣を抜き、高らかに声を上げる。
「我が主のために勝利を!!」
「我が主のために勝利を!!!」
 一同声を揃えてそれに倣った。
 後世、「ウルクの戦い」と呼ばれた戦いが今まさに始まろうとしていた。

【SURPRISE ATTACK】
   12日:一流ホテルの一室→清竜殿・書庫→メロンの私室


 火の刻。
 リューンは休む前に書庫に籠もるのが日課となっていた。今日もリューンは雑魚寝をしながら様々な書物を読み漁っている。
 この時、少なくともナグモ・リューンという男にとっては平穏な時間であった。

 とある一流ホテル(宿屋)の一室。
「いくわよ、ラルアーク」
 カルナ・シェルセラヴとラルアークは巨大な鏡の前に立っている。この巨大な鏡は、空間操作の大元締めシャリヤーティ神王の力を込めて生み出された恐るべき魔法の鏡である。どういう原理か筆者には分からないが、セルフィアー内の何処へでも行けてしまうのである。もともとはダサイ装飾の鏡であったが、後からシェルセラヴが独自のセンスでこれを直している。こんな反則的な道具はファン・フェイロンの飛竜号以来である。この道具の名前をシェルセラヴは「虹」と名付けた。「ドコデモドア」も真っ青なこの「虹」があれば、清竜殿の書庫に忍び込むことなど造作もないことであった。

 何も知らないリューンは読んだ書物に注釈などを入れている。異変が起きたのは、そんな時であった。書庫の天井が円を描くように光を放ちだしたのである。
 リューンは既に刀を手に取り、いつでも動けるように身構えていた。
 ウォウルか東邑同盟あたりの刺客か?
 光は次第に強くなる。
 そして突然、天井から絶世の美女と、ついでに鳥が降ってきたのである。
「なっ・・・」
 リューンは反射的に絶世の美女の方だけ受け止めた。鳥は悲しくもそのまま床に叩き付けられる。筆者はラルアークがどんな種類の鳥か知らないので、鳴き声が分からないが、ラルアークはこの時、呻き声を上げていた。
 シェルセラヴは気を失っている。魔法の鏡「虹」には致命的な欠点があった。確かにセルフィアー内ならば何処にでも行けたが、その移動の際、膨大な精神力を必要とするのである。大抵の者はその疲労のために気を失う。或いはよくても丸一日は動けない。
 シェルセラヴは衛兵に捕まることなく、見事、清竜殿の中のリューンの元へと辿り着くことに成功した。リューンは何度なくこの清竜殿に於いて刺客に襲われそうになったが、唯の一人も彼の元に辿り着いた者はいない。全てその前に、ライゾウ率いる隠密衆等に排除されているからである。それを考えると彼女の成したことは快挙であった。たとえ気を失っているとしても、である。
「しかし・・・この女は一体何をしに来たのだ・・・」
 リューンは腕の中のシェルセラヴを眺めている。
 ・・・美しい女だ・・・衛兵共に突き出すには少々惜しいな・・・。
「閣下、外の兵がこの書庫より妖しげな光を確認したと申しておりますが、何か異変が御座いましたか」
 部屋の外から衛兵が声を掛けてくる。
「いや、何もない・・・ああ、それよりお前は、メロウリンクを呼んでこい」
「はっ」
 シュラが遠征軍の大将として留守にしているために、現在メロウリンクが三邑の政治を統括していた。代わりにシーランは現在メロウリンクの片腕であるサマール・クゼという者に任せている。
 取り敢えず、面倒なことはメロンに任せて、明日改めてこの女と会ってみるか・・・。

 翌日、シェルセラヴの目が覚めたのは日が暮れてからであった。
「あらあら、お目覚めのようですね」
 シェルセラヴはベッドに寝かされていた。部屋を見渡せば赤い法衣に身を包んだ女性がこちらを眺めていることが確認できる。それから目にはいるのはブラーヴァ派の開祖ディウェインが描いたであろう壁画、独立戦争期の陶芸家エルウィーンの手によるものと思われる壺、マール商会のバーゲンで売っているような淡い青色のカーテン、それから・・・。
「大丈夫かしら?お嬢さん」
 エレニス・メロウリンクはシェルセラヴの顔を心配そうに覗き込む。
「ここは・・・」
「ここは清竜殿の中にある私の部屋。貴女は昨晩リューン様の書庫に突然現れて、そのまま気絶して、私が看病して、そんなわけでここにいるの。理解できて?」
 そうだわ、昨晩は書庫に忍び込もうとして・・・。
 はっ、そういえば、ラルアークはどうしたのかしら。
「あの、美しいお姉さま、私と一緒にいた鳥は何処に行ったか知りませんか」
 シェルセラヴの「美しいお姉さま」という言葉の響きに気をよくしたのか、メロンの表情が緩む。シェルセラヴはまだ知らないのだ、メロンが男=漢=♂だということを。彼女の慧眼を持ってしても、メロンを男と見抜くことが出来なかった。
「そういえば・・・リューン様が連れていったわね」
 ああ、大丈夫かしらラルアーク・・・まさか酒のつまみに焼き鳥にされているなんてことはないでしょうね・・・。
「さて・・・と、貴女はユディト邑宰ティン・トレストの異父妹、カルナ・シェルセラヴ・・・相違ないわね」
「ええ、そうですわ。でも、どうして・・・」
「甘く見てもらっては困りますね。我々はセルフィアー中に間者を放って常に情報を集めているのです。例えば貴女の兄上がどんな女が好きか、誰と寝たか・・・なーんてことも時として情報となって入ってくるのですよ・・・」
「リューン様にのぞき見の趣味があったなんて意外だわ」
「これも勝つためよ。でもまあ、黒髪に紫紺の瞳の女性なんて大陸中探しても貴女だけですから、すぐ分かりましたけど・・・それでもトレスト殿の妹じゃなければ我々の情報網に引っかからなかったでしょうねぇ」
 あぁ、私はあの兄と血が繋がっているために、自分が思っている以上に有名人なんだわ。
「ではカルナ・シェルセラヴ、我が主より、目が覚め次第連れてくるようにとの命令を受けております。ご同行願えるかしら」
「喜んで同行させていただくわ。私の方も話があるので」
 シェルセラヴはメロウリンクに連れられ、リューンの私室へ向かった。

【逃走】13日:街道

 ライラとヒューバートは必死に馬を走らせていた。
「なかなかしつこい老人だ」
 ライラは馬を全速力で走らせながら、両足で落馬せぬようにしかと馬の腹を挟み、上半身だけをくるりと後方に向けて矢を射た。このような芸当をやってのける者はセルフィアー広しといえども、まずいない。彼女の弓術に於ける技量は、他の追随を許さないのである。
 ライラの射た矢が、また一人、その命の灯火を容赦なく消していく。
 彼女はこのようにして、既に10人近くの兵を仕留めていた。しかし・・・。
「・・・・・・・のう・・・・ヒューバートよ・・・お前は予備の矢をもってはおらんか」
 そう言ってヒューバートに向かって背中の空になった矢筒を指さしてみる。
「申し訳ございません姫様・・・・・残念ながら・・・」
「そうか・・・」
 次からは袋詰めにでもして弓矢を持ち歩いた方がよいかもな・・・。
 さて、これからどうしたものか・・・。
 ライラがその様に考えているとき、隣で馬を走らせていたヒューバートが突然手綱を引っ張り、馬を反転させるのであった。
 早まった真似を・・・。
 それを見たライラも急いで馬を反転させる。
「ヒューバート、貴様、英雄にでもなったつもりか!」
「何をしているのです、姫様。今のうちに早くお逃げ下さいませ」
「馬鹿を言え、お前を置いていったら私は、レリューコフにどの面を下げて会えばよいのだ」
 ヒューバートは剣を抜いていた。ライラも細身の剣を抜く。最早追っ手を振りきることは無理そうであった。
 ブラフの兵達がライラを囲んでいく。
「・・・手こずらせおって・・・貴様・・・一体何者じゃ。そのフードを取って正体を現せ」
 ブラフの表情は青白い。矢傷によって大量の出血をしているためである。
 今ならばやれるか・・・?
 兵の一人がライラに剣を突いてくる。
「ちっ!!」
 鋭い突きである。寸分の狂いなく急所を狙ってきていた。だが彼女はそれを受け流し、相手がバランスを崩したところを見計らい、容赦ない一撃を加える。馬上での戦いは非常に難しい。特に剣を突く場合や大振りする場合は、足場をしっかり固定させないと体勢を崩しやすいのだ。
 兵は落馬し、ライラの馬に頭を踏まれ脳漿をまき散らす。
 しかし、兵達の勢いは止まらない。次々にライラとヒューバートへ襲いかかってくる。うち一人の剣がライラのフードを切り裂く。
「しまった・・・」
 その一瞬の動揺が、ライラに不覚をとらせた。鐙から足を滑らし、兵の剣を受け止めることが出来ない。ライラのマントが朱色に染まった。兵の剣が彼女の肩を斬りつけたのである。
「くっ・・・」
 フードの中に隠れていた、ライラのトレードマークである紅い髪が、皆の目にさらされる。
 ブラフ・トルメキアは驚愕した。

 ミュール付近の農場。
「今日もいい天気だべ」
 ガリクソンさん(47)は呟いた。
「んだなぁ、父っちゃ、お天道さんにゃ感謝せねばなるめぇよ。なんせオラ達が生きていけるのは、お天道さんの恵みのお陰じゃからなあ」
 ガリクソンJr.(19)はそれに応える。

 一同呆然としている。
「な・・・なんたることじゃ、ライラよ、貴様どういうつもりで、この儂を狙った!!」
「知れたこと、最早あの男に正義がない今、私が付き従う必要がなくなっただけのこと。世界は正しい方向に導かねばならん、あの者にそれがつとまるとは思えないだけだ」
 ブラフは槍をめぐらし、突風の如き風圧がライラを襲う。
「最期に一つ聞く、あの男とは誰のことじゃ・・・・・」
「無論、貴様の主、ナグモ・リューンのことだ。それすら分からんほど耄碌したのかな」
「・・・・・よう申した・・・逆賊ランギヴァラーハ・ライラ、主に代わりこの儂が貴様を排除する」
 二人の間に緊張が走る。
 その時であった。
「姫様には指一本触れさせん、まずはこのヒューバートが相手だ!!」
 ヒューバートが単身ブラフに突っ込んでいく。
 奴め、また早まったことを・・・。
 ライラがヒューバートを止めようとすると、一人の男によってそれは遮られた。
 いつの間に現れたのか、男はライラの横に轡を並べていた。極楽鳥のような緑色のヘアスタイルの男はライラに唐突に言う。
「馬鹿野郎、姉ちゃんはこっちに来るんだよ!!」
 そしてこれまた不意打ちで鳩尾に一発。
 ライラの意識はそこで途切れる。
「悪く思うなよ兄さん、この姉ちゃんはまだ死んじゃいけない人種なんでな」
 極楽鳥頭の男はヒューバートを後目に、ライラを馬に乗せてこの場より離脱した。

【リューンとシェルセラヴ】13日:清竜殿・リューンの私室

 男は煙管を口にくわえ、刀の手入れをしていた。武辺者の噂に違わず、その刀は柄に革を巻いているなど武骨な様相を呈している。鞘の色は胴金色、表面には精緻な彫刻が施されていた。
「来たな、不法侵入者」
 リューンは苦笑しながら言った。だが目線は刀身を睨んだままである。
 メロウリンクはシェルセラヴをリューンの元に案内すると一礼して去っていった。
 部屋はリューンとシェルセラヴの二人だけとなった。
「で・・・俺を殺しに来たのか、それとも抱かれに来たのか?」
「そのどちらでもありませんわ」
 リューンは呆気なくそのどちらも否定されたことにやや自尊心が傷ついた。否定するにしてもワン・クッションおいて後、もう少し柔らかな形で否定されるものと考えていたからである。
 目の前にいる女性は彼が考える以上に難物であった。
 噂には聞いていたが、これがティン・トレストの妹・・・。兄にそうであったように、今度は俺に集り(たかり)にでも来たか・・・。
「このスィスニアへ出店させていただきたく思い参ったのです」
「お前の兄と同じように美しい女に弱い、俺をこき使おうというわけか。とすると、自分が美しいという自覚はあるわけだな」
 勿論よ・・・何を当たり前のことを言ってるのかしら・・・などとは思っていてもシェルセラヴは決して口に出さなかった。彼女はリューンに対して極上の一歩手前の営業スマイルを向けている。
 ところで、とリューンが再び切り出し、
「俺の後宮に入らんか」「嫌です」
 そのように両者が声を発したのは同時であった。
 リューンは一瞬険しい表情をしたが、その表情はすぐに彼の笑い声と共に崩れていった。
「はっはっは、そうか、嫌か・・・ならば・・・俺も断る。お帰りはあちらだ」
 そう言ってリューンは扉を指さす。そしていじけたように再び刀の手入れを始めた。
「一人の男性に縛られるのは嫌なのです。分かってはもらえないでしょうか」
 リューンがシェルセラヴに視線を移す。
「俺も一人の女性に縛られるのは真っ平御免だ。その気持ち、痛いほどよく分かる
・・・しかし俺はお前に惚れたのだ。だから傍らに置いておきたい。この気持ちは理解してもらえないかな」
 両者ともぬけぬけと言う。
 これは脈アリかしら・・・。押せばすぐにでもパトロンになってくれそうね・・・。
「これはこれは、私などに勿体ないお言葉ですわ。ですが、それならば尚のこと、見返りを求める男性が女性に尽くすのは、通るべき当然の試練かと思いますが・・・それとも正攻法では自信がありませぬか? 或いは力にものをいわせてでしか私を手に入れられませぬか?」
 リューンは黙って聞いている。
「続けてくれ」
「私は何もリューン様を嫌っているわけではありません。ただ、より良い男性と出会う機会を一人の男性のために失いたくないだけですわ。それに私は貴方のことについては風評でしか知りません。どんな男性か分からないのに、それに付いて来いという方が無理です。もしリューン様が私の出会った男性の中で最もいい男であれば、そのような縁もありましょうが、現時点では何とも・・・」
 これほどリューンに言葉で自己主張をした者は、最近では姉のロゼッタくらいなものである・・・。兵を持って自己主張した者はウォウルにもう一人いたが。
「詰まりは、まず俺がお前が店を出すのを全面的に支援する。それからなら考えてやってもよい。そういうことか」
「まあ、根も葉もない言い方ですが、その様な事になりますわ」
 正直シェルセラヴは、考えることを考えることについて、考えてやるくらいにしか考えていない。
 リューンは迷っている。
 ここで力で自分のものにするのは簡単である。しかし、その後どうなるか。この女はただの市井の女ではない。ユディト邑宰ティン・トレストの妹である。彼女を無理矢理自分の女にすればトレストとは義理の兄弟になる・・・・・とは、リューンは間違っても考えなかった。トレストは間者の報告によれば近親相姦願望の危険なヤローらしい。そのお気に入りの妹を奪われたとあっては、タダでは済むまい。下手をすればウォウルや東邑同盟の他にユディトまで敵に回しかねない。勿論リューンは負けるとは思っていないが、敵に回す必要も感じられない。
 だが援助を断れば、用済みとばかりにスィスニアを出ていくだろう。それだけは避けなければならない。彼女と接点を持ちつつ機会が訪れるまで待つ。そのためには・・・。
「・・・ふむ、まあいいだろう。資金やその他に必要があれば俺が面倒を見てやる。その代わり・・・カルナ・シェルセラヴよ・・・お前には、このリューンの御用職人となってもらう」
「と、言いますと?」
「聞けば、お前はその独自のセンスを活かし様々な物を作り、それで商いをしているとのこと。そこでお前は、時折俺が注文をした物を作るのだ」
 ふふ・・・素直じゃないわね・・・。まあ、いいか、そのくらいだったら・・・どんな注文がきても「運針10米/分」の腕に掛かれば、ちょろいもんだし・・・。
「そのようなものでしたら、いつでもお作りいたしましょう。ですが、よろしいのですか」
「ああ、エルヴァ通りに店を作ろう。あそこは人通りも多いからな・・・それから店のデザインなどは・・・」
 リューンは美女に甘い。・・・・・無茶苦茶甘い。
 シェルセラヴは美しい自分を生んでくれた母に少なからず感謝した。
 そういえば、今頃はどうしているだろうか・・・。
「・・・では、早速だが、俺の服を作ってくれ。一国の王に相応しい、愚かな者でも見ることが出来るすばらしいものを頼むぞ」

 かくしてカルナ・シェルゼラヴ・ファンシーショップ・スィスニア店は、スィスニア一の商店街であるエルヴァ通りにその姿を現すことになる。
 そうそう、筆者はラルアークについての記述を忘れていた。
 ここからは余談である。

 ラルアークはシェルゼラヴと共に例の鏡を使い、精神力を使い果たしていた。リューンはシェルセラヴの介抱をメロンに任せ、自分はラルアークの面倒を見ることにした。
「目を覚まさぬと焼き鳥にして食ってしまうぞ」
 そんな声が聞こえたかどうかはともかく、ラルアークが目覚めたのはリューンの臥所であった。
 ああ、ご主人様以外と一夜を共にしたなんて、何と言い訳すればよいやら・・・。
 主人に似てどこか変わった考え方をするラルアークは、その後、再開したシェルセラヴの顔を丸一日、面と向かって見れなかったという。

 また、シェルセラヴはリューンから「清竜殿侵入及び面会御免状」というものをもらっている。ようするに、いつでも俺の所に来てよいぞ、という意味であろう。シェルセラヴが「いい男」が好きなように、リューンも又「いい女」が好きなのである。

【ウルクの戦い】15日〜20日:ターヌ平野南西

 くそったれ、このままじゃ死んじまうぞ!!
 ハヤは敵兵に組み敷かれていた。敵はここぞとばかりに短刀を抜き、ハヤの首を狙っていた。
 や、殺られちまう・・・。
 もう駄目かと思ったとき、ハヤを組み敷いていた敵兵の首が一刀のもとに両断された。
「何やってんだい、ここは戦場なんだよ。あんたみたいに、ちんたらやっていたら幾ら命があったって足りないよ。あたしについてきな!!」
 ハヤの窮地を救ってくれたのは、同僚のカーリーという女だ。元々傭兵上がりで、ハヤなどより修羅場をくぐっている分、腕が立つ。
「助かるぜカーリー」

 シュラ率いる軍がミュールの軍と衝突したのは人の月15日風の刻であった。この時、ミュール軍は野営しており、丁度昼時だったことから食事をとっている者が多く、また敵との遭遇はあり得ないとの考えから、士官も兵も皆安心しきっていた。
 そして突然の敵の来襲に浮き足立ち、編成もままならぬまま、ミュール軍は壊滅したのである。

「なあカーリー、何でお前は戦っているんだ?」
 ハヤは轡を並べて唐突に聞いた。
「別に・・・ただ私を女だからといって馬鹿にした男達を見返してやりたいだけだ。戦場で男達と剣や槍を交え、あたしが生き残っていれば、自分が正しいということを証明できる。だから戦い続けているだけさ・・・・・・・・・で、そういうあんたはどうなのさ?」
「俺は・・・」
 ふと幼なじみのライサの顔を思い出す。
(ハヤは私の幼なじみだからな、いつでも私の手の届く場所に置いておきたい)
「約束なんだ・・・大事な人との」

 兵は神速を尊ぶ。
 シュラはミュール軍を撃破すると、すかさずナヴァル軍を討つために行軍を開始した。二度の短い休憩を挟む強行軍であったが、流石に選び抜かれた者達で編成した軍だけあり、また、将の首を獲った者には例外なくリューンの衛士に取り立てる事と、多額の恩賞を約定したことも相まって、兵の士気は非常に高かった。
 ナヴァル軍と対峙したのは人の月16日地の刻。夕暮れ時である。
 シュラ率いる3千の騎兵が突撃し、ナヴァルの陣を真っ二つに裂いていく。
 歩兵の目から見る騎兵とは、それは恐ろしいものである。まず長槍でもない限り、その勢いを止めることはできない。そんなものが3千の群を成して突撃してくるのである。
 突撃し、突き抜け、旋回しながら再び突撃を開始する。起動力を活かした騎兵のみの編成軍だからこそ可能なことだった。
 ナヴァル軍の大将、ランデ・バースは起死回生を図るために、一騎打ちでこの局面を乗りきろうとした。
 シュラは当然これに応対したが、
「小賢しい」
 と、5合も打ち合わずにバースを討ち取ったのだった。
 勝敗は結局これで決した。

 ミュール、ナヴァル両軍を敗り、ますます兵士の士気も高まり、今やその勢いたるや天まで届くのではないかと思えるほどであった。

 ライサ・・・お前は今頃何をやっているんだ。「偉くなる」だなんて言ったって簡単になれるわけねーだろうがよ・・・まったく・・・。
「どうしたハヤ、故郷に残してきた女の事でも考えていたのかい?」
「馬鹿ヤロー、そんなんじゃねぇよ」
「ふふ、かわいいねぇ、耳まで真っ赤にしちゃってさぁ」
 カーリーはよくハヤをからかう。今やハヤはカーリーにとっては弟みたいなものであった。同僚という意識から肉親意識へと変わるのにそう時間はかからなかった。彼女には生きていれば丁度ハヤくらいの弟がいたからである。
 ジャラジャラ音を鳴らしてやかましいカーリーの首飾りがハヤの目に止まった。
「ん、これか?いいだろう、これはあたしの大事なお宝だよ」
「最高に似合わねーぜ」

「リュシーの軍はやはりエレンの丘辺りに布陣するな・・・」
 シュラは図面を目の前にして副将のザドゥに言う。
「敵は例の黒竜旗軍とかいう者達で編成されております」
 シリルめの子飼いの者達か・・・。さてさて、どれほどの者達か。我が軍は練度、士気共に問題はない・・・どのような奇策を用いられようとも勢いで食い破れよう。
 この時のシュラには明らかな心の奢りがあった。ミュール、ナヴァルに快勝した自信がそうさせていたのである。もしこの場にメロウリンクかライラがいれば、この戦に於ける敗北などはなかったかも知れない。しかしながら、両名ともここにはいない。ライラに至ってはリューンから離反しているが、シュラはこの時点ではその事実をまだ知らない。ここにいるのはシュラと同質の、血気盛んな将であるエルファ・ザドゥである。
「それともう一つ、黒竜旗軍も全ての兵士に馬を与えている模様です」
「ほう・・・皆騎兵による編成か・・・。連中も広大な平地での戦いを想定しているのか。ならば正面から挑んでやるのが礼儀というもの」
 起動力を活かした戦いこそが騎兵の戦い方の基本的な姿勢である。突撃し、離脱し、再び突撃する。乱戦になれば指揮系統は乱れる。あくまで騎兵はヒット・アンド・アウェイの形で戦うことが望ましい。
 乱戦は極力避けなければならなかった・・・。

 ディグ・カイル率いる黒竜旗軍との遭遇戦は人の月20日、空の刻と記録されている。シュラ率いるスィスニア軍は陣形を調えている黒竜旗軍の虚を突いて、一度目の中央突破を行う。しかしながらこれはカイルの策であり、シュラはその誘いに乗ってしまったのである。一見スィスニア軍が編成ままならぬ黒竜旗軍を分断しているかのように見えたが、シュラ自身は手応えのなさを感じていた。それもそのはずで、カイルは予め、シュラが中央突破を狙っていたことを読んで、自らこれを割っていたのである。決して敵の力に抗うことなく、柳の如く、その勢いに任せた。その様にして極力損害を小さくして、カイル自身は次の一手に備えた。カイルは突破し、旋回しようとするシュラの後背を取ろうとして、全騎兵を反転させた。もしカイルが受け身でなかったとすると、直ぐさま反転してシュラの後背を突くことはできなかったであろう。彼は騎兵の長所を逆手に取ったのである。
 シュラは直ぐさま後悔したが、後悔の念に浸る前にブグル・ザン率いる4百の兵を捨て駒とし、追撃してくるカイルへの押さえとすることによって、いち早く体制の立て直しを図った。――だが、
「なにっ?!」
 シュラの前方を駆けていた騎兵が次々と転倒していく。そしてそれが障害となり後続の騎兵もがさらに巻き込まれていく。草原に張り巡らされた幾重もの網・・・スィスニア騎兵の機動力を奪うため黒竜旗軍が予め仕掛けていたものだった。
「くっ罠とは・・・小癪な真似を!」
「左翼、斉射!」
 黒竜旗軍の左翼シェル・ラティアの部隊が一斉に矢を射かけ、混乱に拍車をかける。そこへ黒竜旗軍の右翼アークライト・アーヴィングの騎兵部隊が突進してきた。
「突撃!」
 アーヴィングの部隊は混乱したスィスニア軍の脇腹から真っ二つに駆け抜け、バラバラに分断した。だがそれは罠の無い道をシュラに教えることにもなる。シュラはすぐさま兵をまとめ、敵陣を突破した。
「やるな・・・」
「どうやらハデン殿の策が当たったようだな」
 シュラとカイルは各々別の場所で馬を駆りながらそう言葉を吐いた。
 ブグル・ザン率いる押さえの4百の騎兵は、シュラの本隊が体勢を立て直すまで、よく戦ったが、彼自身は黒竜旗軍のカルブネース・ルドルフによって討ち取られた。
 最初の突撃でかなり数を減らしたとはいえ、スィスニア軍の方が多勢である。両軍共に攻防を繰り返しながらも決着の機会はなかなか訪れず、時間だけが過ぎていき、既に日は沈もうとしていた。

 人の月20日、地の刻。シュラはこの戦いで4度目の中央突破を図ろうとする。既に両軍共にその疲労が限界であり、これが最後の一手であるとシュラもカイルも考えていた。
 全軍突撃の号令の下、スィスニア軍は黒竜旗軍へと文字通り突っ込んでいった。練度や士気が高くとも、疲労度が高ければ力を遺憾なく発揮することはできない。また、兵の損害も少なからずあったことから、スィスニア軍全体の勢いも衰えていた。
 スィスニア軍は突破できず、黒竜旗軍との乱戦となったのである。

 シュラは黒竜旗軍との戦いが長引いた時点で、撤退すべきであった。何故ならば、スィスニア軍にとって勝利とは、リュシー(黒竜旗軍)、ミュール、ナヴァルの三軍を敗ることではなく、ウルクという戦略上重要な要所を攻め落とすことにあったからである。黒竜旗軍との戦いが長引き、兵の疲労も限界となった時点でスィスニア軍の敗北は決定的であったのだ。しかしながら、カイル率いる黒竜旗軍と決着を付けずにいられなかったのは、偏に彼女の武人の血が引くことを許さなかったからである。冷静なメロウリンクやライラがいれば事態が変わるかも知れなかったという理由はここにある。

「後ろだ、カーリー!!」
 ハヤの声に気が付いたカーリーは敵の剣を払いのけ、返す刀で叩き伏せた。
「助かったよハヤ」
 そう言う彼女の顔は返り血で真っ赤に染まっている。
「大丈夫か」
「勿論さ、それより乱戦になっちまった。生き残りたけりゃ、あたしのそばを離れるんじゃないよ。間違っても一対一で戦おうと思うんじゃない、そういう英雄願望は命を落とすことになるからね、常に二対一で戦える状況を作り続けるんだ」
「わかったぜカーリー、俺とお前はこれからしばらく運命共同体ってわけだな」
 勇猛であれば勇猛であるほど、己の武の器に惚れ込み、そこに奢りが生まれる。事実スィスニア軍と黒竜旗軍の多くの者達は、自らの手で自らの命を捨てていった。自らの命を拾う術を知っていた者が身近にいたことはハヤにとって幸運だったといえよう。

 この男、相当やるな・・・。シュラは一合で瞬時にそう確信した。
 同じくルドルフも似たような感覚を得ている。
「貴様がリューンの妾のシュラか!!」
「さがれ下郎!!!馴れ馴れしいぞ!」
 二人の剣が交錯する。その度に金属と金属がぶつかる激しい音と火花が飛び散った。
「えーい!」
 シュラが意味のない叫び声をあげて剣を振るう。
 ちっ、このようなところで遊んでいる暇はないというのに・・・。
 その時、シュラはルドルフに気を取られていたために背後にいた敵に気が付かなかった。
 背後の兵士はシュラの背中に一刀を斬りつける。
「くっ・・・」
 激しい痛みがシュラを襲い、そのために一瞬ルドルフの剣を避けるタイミングがずれてしまう。
 ルドルフの剣はシュラの左腕を斬りつけ、思わず手綱を握る左手から力が抜け落ちた。彼女は馬から転げ落ち、そこで彼女の意識は途切れた。
「とどめだ!」
 ルドルフは刀を振り上げる。

 ハヤとカーリーはこの乱戦の中、まだ生き残っていた。互いに助け合いながら、一人の敵を確実に二人で打ち倒していった。カーリーが敵の左側に馬を進めれば、ハヤはその右側に進める。敵が左側のカーリーの相手をしている間、ハヤが背後から仕留めるのである。
 二人の近くに物凄い剣裁きで激闘を演じているシュラとルドルフの姿があった。
「あれはあたし達のお頭じゃない?」
「・・・ああ、ん?」
 ハヤはいち早くその異変に気が付いていた。シュラの背後へ近づきつつある影。
 まずい!絶対に気が付いていないぜ。あの眼鏡ヤローの方だけで手一杯なんだ・・・。
「いくぜカーリー!!」

 ルドルフの刀は確実にシュラの心の臓を貫いていた、はずであった。
 火花を散らし、ハヤの剣がルドルフの刀を止めていた。
「眼鏡ヤロー、あんたの相手は俺だぜ」
「後悔するぞ少年」
 勢い余ってルドルフに勝負を挑んだハヤであったが、すぐに防戦一方となった。ルドルフの剣を受ける度に手が痺れてくる。ハヤは決定的な力の差を見せつけられた様な気さえした。
 な、何だこの眼鏡ヤロー、一体何者だよ・・・。
「馬鹿野郎、どいていなハヤ。そいつはあたしが仕留める。あんたはお頭を連れて他のお偉いさんとこに逃げな、今回は悔しいけどあたしらの負けだよ」
「うるせえ、この眼鏡ヤローは・・・」
「ぎゃあぎゃあ、うるさいね、行くったら行くんだよ」
 カーリーは強引にハヤとルドルフの間に入る。
「ちっ、分かったよ・・・テキトーに眼鏡ヤローの方は蹴散らして、後からすぐに追ってこいよカーリー」
 ハヤは急いでシュラを担ぎ上げ自分の馬の後ろに乗せた。
「じゃあ先いくぜ」
 そう言ってハヤは去っていく。
 これがハヤとカーリーの今生の別れであった。
 カーリーは剣を構える。
「待たせたね、眼鏡の色男さん。今度はあたしとデートしておくれよ」
「望むところだ」

 乱戦の最中、部隊としての統制がとれていたのはエルファ・ザドゥ率いる部隊であった。ザドゥの率いる部隊がぶつかったのは黒竜旗軍左翼の比較的兵数が薄い部分だったからである。
「この戦い・・・完全に我が方の負けだな」
 ザドゥは口ずさむ。
 ハヤが気を失ったシュラを連れてきたのはそんな時であった。
 シュラ殿は無事だったか・・・これがせめてもの救いか・・・。
「撤退する」

 スィスニア軍が撤退し始めたのは日も暮れた水の刻頃であった。殿を務めた邑兵尉マ・ゲドは討ち死にし、多数の死傷者を出したこのウルクの戦いは幕を下ろした。

【極楽鳥】15日:小邑ミデア・デュオの家

 あれは・・・兎・・・。あれは私の標的・・・。
 ライラは馬に乗りながら矢を番え、その兎を狙っていた。
 ギリギリと耳元で弓がきしむ音が聞こえる。何度なく聞いた音である。この無機質な音の後「ギュン」という音と共に貯められた力が一気に解放される。
 矢は兎の頭部を貫く。兎は絶命した。
 ・・・あれは・・・・・・・・・・・何だ・・・・・・・・・・・兎?・・・・・・・・いや・・・あれは違う・・・・・・・・・兄上?
 兎はライラが一瞬の瞬きをする間にその姿をライラの兄へと変えていた。
「兄上!!!」

 ライラが目を覚ましたのは、日も既に高くなってからである。彼女は全身汗だくであった。まだ心の動悸が治まらない。
 嫌な夢だ・・・。
 彼女の視界には見慣れない風景が広がっていた。窓からは陽の光が入ってきていた。そこは小さな部屋で、彼女の寝ているベッドの他には小さなテーブルと椅子が備え付けているだけで、生活感の全くない無機質な空間であった。ただ一つ、窓辺に木彫りの人形が飾ってあり、それがライラの興味を引いた。
 その時扉が開いた。
「ようやく目が覚めたみたいだな、傷の具合はどうだ」
 ライラは左肩を触れてみて、初めて気が付いた。
 手当されている・・・。
「大分いい・・・手当は貴公が?」
 緑色の極楽鳥頭の男は頷いた。
「一応礼は言っておく」

 極楽鳥頭の男の名はカガト・デュオといった。職業は「かぶき者」と本人は言っている。どうして自分を助けたのかと聞くと、たまたま通りかかって美女の悲鳴が聞こえたから、とデュオは宣うのだった。得体の知れぬ男である。そして、どこまでもふざけた男だった。極楽鳥が翼を開いたようなヘアスタイル、その色。全体は緑色に染め上げているが、部分部分に金色のメッシュが入っている。額の三日月模様。この男の内面がどんなものであろうと、外見だけ見ればライラの存在が霞んでしまうほど、より不良的である。
 ライラは深く考えることはやめた。考えるだけ無駄であると感じたからである。この眼前の緑色の極楽鳥頭の名はカガト・デュオ。そして「かぶき者」で、自分の悲鳴を聞いて助けたに来た男。今はデュオとやらが宣った事実だけで受け止めていればよい。
 それよりもこれからのことである。ヒューバートはたぶん死んだだろう。レリューコフも下手をすれば・・・。スィスニアには当然戻れない。さて、これからどうやって生きていくか。金がなければ生活が出来ないのだから・・・。
「どうすんだよライラ、まあ俺は何処にでもついていくけどよ」
「何でお前が私と一緒についてこなくてはならないのだ」
「まあ、気にすんなって」
 デュオはそう言って馴れ馴れしく背中を叩いた。

【スィスニアの武王】50日以降:スィスニア

 人の月50日、ナグモ・リューンはスィスニア王を称し、スィスニア、スウィズ、シーランの三大邑、及び中小規模の数邑を含めるスィスニア王国の建国を宣言。また、自らの尊号をスィスニアの武王と称した。彼は各邑を支配するにあたって、従来までの曖昧だった統治機構を見直し、完全なる中央集権体制の確立を目指した。王都をスィスニアに定め、各邑に執政官としての太守を派遣し、それらを束ねる者としてシュラを任じた。彼女は敗戦後、謹慎を命じられていたが、それが解かれた翌日に宰相という役職に任命されたのである。
 民なきところに国は成り立たないが、統治者なきところにも戦乱の世に於いては国は成り立たない。スィスニアの邑宰ルシャナ・シルキーヌ、スウィズの邑宰サイク・ミナ、シーラン邑宰のブレイブ・シュウはそのいずれもその地位をリューンによって追われ、各邑の事実上の支配権は彼の元へと移ったが、形式的に言えば未だその三人が各邑の統治者であるはずであった。その異常な統治形態を、国という枠組みでまとめ上げ、自ら王と称することによって一応の解決を図ったのである。また、このことによって支配者が代わったという民衆意識の改革につなげた。しかし同時にこのことは、ちょうど一年前「北伐出師の檄」によってウォウルの王国制を否定したことと完全に矛盾する。とはいえ、もともとリューンの支配のやり方は「ウォウル王国以上に“王国的”」と言われていただけに、王を称したことでむしろ旗色が鮮明になったというべきであろう。
 もう一つ、前のウルクの戦いに於ける敗戦ムードを看破するために、この10日間に渡る即位の祭典を利用したのであった。スィスニアの邑内は連日お祭り騒ぎであり、この間、清竜殿には数多くの名士や有力商人達が招かれた。

 カーリーは戻ってこなかった。生還者の中にあいつの姿は何処にもなかった。ついこの間までお互いに憎まれ口を叩いていた奴の姿がなくなっている。
「・・・・・これが戦か・・・」
 ハヤの記憶はあのカーリーと戦場で別れたところで止まっている。初めての戦、気兼ねなく話せた友人と呼べた存在の突然の死、眼鏡ヤロー・・・すべてが夢のようだった。
 それからずっと兵舎に籠もっていた。数日前から町中はお祭り騒ぎだ。
 そんなある日だった。呼出がかかったのは・・・。

 ハヤはシュラの執務室にいた。
「よく来たな・・・・・・・ん、少し臭うぞ」
 シュラは眉間に皺を寄せながら鼻をつまんだ。
「はあ・・・・・あれからずっと風呂に入ってませんので」
「・・・そうか・・・ところで、まず礼を述べなくてはならないな。私を助けてくれたのはお前だろう、ハヤ・・・」
「・・・俺一人じゃありません」
 シュラは首飾りを机の引き出しから取り、それをハヤに渡した
「この者も一緒か」
 この首飾りは紛れもなくカーリーのものであった。所々血痕が付いているが間違いなかった。
 これを手にとって、ハヤはようやく彼女の死を現実として受け止めていた。
「・・・カーリー・・・」
「・・・カーリーというのか・・・彼女を討ち取ったのは、おそらくカルブネース・ルドルフとかいう男だろう」
 ルドルフ・・・それがあの眼鏡ヤローの名前か・・・。
「ハヤよ・・・戦場に於いては勝者も敗者も存在しない。あるのは生き残った者と死んだ者だけだ。まして善や悪という概念なども存在しない。彼女を討ったのは偶々その男だっただけのこと。忘れろとは言わないが、あまり恨むのではないぞ・・・」
「分かっていますよ」
 そう言いつつ、首飾りを強く握りしめる。
 シュラがハヤを呼んだのにはもう一つ理由があった。彼を自らの配下に加えたかったからである。自分を戦場で助けた男の行く末を見てみたいと思ったのだ。動機は単純であった。
 さて、どこまでこの子が大きくなるやら・・・。

 かくしてハヤはシュラ直属の衛兵となり、彼女の身の回りの世話などもするようになった。四六時中一緒にいなくてはならないので、衛兵と言うより付き人の感が強い。シュラの屋敷に居候し、一緒に食事をし、出仕し、仕事をして、帰途についた。シュラがリューンに直接呼び出されている時以外は常に彼女の元にその姿があった。

 清竜殿西の塔からは後宮内の様子が見える。ハヤが西の塔に上ったその日、ふと後宮の庭を眺めていると、一人の少女がこちらを見ているのに気が付いた。そして煌びやかな装いのその少女が手を振ってきた。
 その少女はライサ・ユウトであった。余りにも美しい姿形をしていたので、しばらく自分の幼なじみだとは気が付かなかったのである。
 ハヤも手を振る。
 よかった・・・あいつは上手くやっているみたいだ。しかし馬子にも衣装とはよく言ったものだ。全然気が付かなかったぜ・・・。

 さて、カルナ・シェルセラヴはリューンにどんな服を作ってあげようかと悩んでいた。彼女に服を作るように言った時点で、王を称することが決まっていたのだ。だから「一国の王に相応しい服」などと言ったに違いない。彼女は最近流行のファッションをチェックするために様々な雑誌を眺めていたが、それにも飽きた。
「いっそ賢い方しか見えない服ですわ、なーんて言って裸の王様を演じてもらおうかしら」 ラルアークがユディトから書簡を運んできたのは、そんな日であった。シェルゼラヴは時折、ユディトの一号店を任せているティエラと連絡を取り合っていた。
 書簡の内容は次のようなものであった。

 前略
 シーちゃんお元気ですか。わたしはたいへん元気です。そちらは開店したばかりで色々と大変でしょうが、頑張って下さいね。私も、シーちゃんがいなくなってからもトレスト様が御来店なさるので色々と大変ですが、最近は慣れてしまったので、へっちゃらです。 朝寝坊はしていませんか。ご飯はちゃんと食べていますか。夜更かしはしていませんか。スィスニアは暖かいからといっても、お腹を出して寝ないようにして下さいね。私も休暇をもらって一度そちらに遊びに行こうと思っています。
 では身体に気を付けて、お店の方を頑張って下さい。
                                    かしこ

 相変わらずね兄様・・・・・。そういえばあの子、休暇をもらってと書いているけど、その間、お店の方はどうなるのかしら・・・。
「あの、シーちゃん、お店の方手伝ってもらえませんかー。私一人じゃどうにもこうにも忙しくて・・・」
 下の階からシェルセラヴを呼ぶ声がする。声の主はキリという14歳の女の子だ。リューンがシェルセラヴの目付とした忍であったが、今では彼女に懐いて本業の方を忘れているようだ。彼女の所に来た頃のキリは表情の乏しい子であったが、シェルセラヴのところで生活するようになってからは、少しずつ変わっていった。
「今、いくわ」
 シェルセラヴは眺めていたMen’sMonmoをほっぽりだして、下の階へと降りていく。

 ライラに矢傷を負わされたブラフ・トルメキアは結局、イレーヌ=リビュニア姉妹王国には辿り着けなかった。出血多量で気を失い、気が付いたときにはスィスニアに戻ってきていた。
 結果から言えば、ライラは一時的にとはいえ同盟締結を阻止したのである。目を覚ましたブラフは憤慨し、直ぐさまライラ討伐隊を編成し派遣した。また、スィスニア王国領内に於いてライラの首に20万粒の賞金が賭けられた。

 この時期、ナーラダ族の者が二人、その短い生涯の幕を下ろしている。
 元シーラン邑宰ブレイブ・シュウと元スウィズ邑宰サイク・ミナの二人である。傀儡として生かされていた二人もリューンがスィスニア王国を建国し、王位に就くと、用済みとばかりに消された。ブレイブ・シュウは泣き叫び最後まで抵抗し、結局メロウリンクに首を刎ねられたが、サイク・ミナは何も言わず毒杯を飲み干し、絶命した。
 二人の死は公表されることなく、その存在もろとも歴史の闇に葬り去られた。

 独立暦402年人の月、一つの王国が誕生した。その国の王は自らの尊号を武王と称した。民衆は誰でもその事を知っている。だが二人の邑宰の死を知る者達は誰一人としていなかった。

【人の月・スィスニア・後宮編】

 カレリア・ロアン、ライサ・ユウト、リマ・アリサの3人が雲徳殿に入ったのは、人の月4日と記録されている。偶然にも同日にスィスニアへ到着した三人は宮女候補として、しばらくの間、同じ部屋で生活することになる。
 ヴェルーダ出身のロアンを連れてきたのは、グーデルという宦官である。グーデルはロアンの妖しく人を惑わせるような美しさと、その希に見る文才を大層気に入り、この雲徳殿へと連れてきた。
 ライサを連れてきたのは、同じく宦官のリョクレイである。リョクレイのところにやって来た最後の女性がライサであった。全く着飾っていないライサをリョクレイは新鮮に感じた。磨けば金剛石にでも化けるやも知れぬ。そう思った彼はライサを雲徳殿へと連れてきたのである。
 アリサは自分の足でやって来た。清竜殿の門番に、
「ねえ、三食昼寝付きの生活ができると聞いてやって来たんだけどぉ」
 と訊ねた。門番は困り、上司に相談し、その者も更に上の者に問うた。そんなこんなで噂がリューンの耳元に入り、
「面白そうな奴ではないか」
 その一言で雲徳殿で生活することになった。

【カレリア・ロアン】4日:雲徳殿

 雲徳殿は百万平方米の広大な敷地にある。中には小川が流れ、季節毎の花や木が植えられている。遅咲きの桜の花が実に美しく咲き乱れていた。スィスニアには水の月に咲く桜と、人の月に入ってから開花する桜の二種類があり、遅咲きの桜は人の月に咲くことから「人情桜」とも呼ばれた。小川では魚達が泳ぎ、花や草木には虫や小鳥達が訪れていた。小鳥の囀りに混じって貴婦人達の笑い声が聞こえてくる。だが、カレリア・ロアンというこの女性にとって、そのようなものは全く興味の対象とはならなかった。彼女は即物的な快楽には興味がない。多くの宮女達にとっての幸せとは、リューンの寵愛を受け、贅沢な暮らしをしながら生きていくことであろう。だがロアンには、そのリューンすらも自分の楽しみを生むための駒に過ぎない。
この後宮から歴史を動かす事。それが彼女の夢であった。
 さて、まずはここでの生活に慣れることから始めなくては・・・。
 彼女の頭の中は知識の宝庫である。しかしながら後宮について、経験としての知識はない。彼女は十分にそのことを理解していたので、まずは慣れ親しむことから始めようと思った。また、手駒もない。
 何にせよ、私の存在をリューン殿は知らないのだから、知ってもらわなければねぇ。

 娥舎(がしゃ)は雲徳殿の南西にある。娥舎とは宮女の宿の意味で、彼女たちは宮女候補として研修の間は、ここでしばらく生活しなくてはならない。ちなみに皆相部屋である。
 ロアンは部屋の扉の前に立っている。この扉を開ければ、全く新しい生活が待っているかと思うと、少し緊張した。彼女にしては珍しく、深呼吸してから扉を開ける。
 それと同時に元気な声が彼女を迎えた。
「いらっしゃいませー!!」
彼女は一瞬呆けてしまった。
 声の主はロアンを直視しながら満面の笑みを浮かべている。ロアンより前に着いた宮女候補の娘だろう。
「アリサちゃんで〜す。19歳で〜す。よろしくー!!」
 女のロマンをことごとくぶち壊すかのような彼女の存在感にロアンは戸惑いながらも、
「私の名は、カレリア・ロアンです。以後よろしく・・・」
 と、自分のペースを守り続けたロアンは流石というべきだろう。
 色んな人種が集まるところですね・・・・・。ロアンはそう感じずにはいられなかった。

【ライサ・ユウト】4日:エルヴァ通り→雲徳殿

 ハヤと別れて二日経った。
 果たしてあいつは今頃何をやっているのだろうか。血の気が多い奴だからあまり無理をしていなければいいが・・・。
 そんなことを考えながら、ライサ・ユウトは貴人用の馬車からスィスニアの景色を眺めている。ふと車窓の向こうを二人組の男が通り過ぎた。白い外套を纏った男と一瞬目が合うが、別段気に留めることもない。街並みを眺めながら再び思考する。
 このどこかにあいつはいるはずだ・・・。
「何を考えているのかね・・・」
 隣に座っているリョクレイがライサに話しかける。リョクレイはライサを宮女とすべく連れてきた宦官である。
「いえ、別に何も・・・」
 ライサは素っ気なく応える。
 リョクレイはライサのこの点が少々心配だった。表情に乏しい事である。
 閣下の機嫌を損ねなければいいが・・・。
「お前には、ナグモ・リューンという御方の寵愛を受けるような女性になってもらわねばならんのだ。努々忘れぬようにな・・・」
 ライサには頑張ってもらわねばならない。リョクレイとて出世はしたいのである。特に事ある度に対立している同僚のグーデルには負けたくない。
 ライサは次第に近づきつつある清竜殿を眺めている。
 あそこにナグモ・リューンという男がいるのか・・・。
「やるぞ・・・ハヤ」
 ライサは隣のリョクレイにも聞こえないほどの小さな声で、一人呟いた。

 ライサはロアン同様、部屋に入るとアリサの元気な声で歓迎された。
「こっちの綺麗なお姉さんは、ロアンちゃんで〜す。見て見てぇ、この胸元すごいでしょう、せくし〜よねー」
 アリサはロアンの緩く着崩した胸元を指さす。
 ロアンは溜息をついた。アリサのこのノリについて行くのに慣れるには、もう少し時間が必要な気がした。
「ライサ・ユウトだ。よろしく頼む」
 ライサはペコリと二人に一礼した。

【ロアンとディル】7日:雲徳殿

 冥界か、監獄か、三食昼寝付きか、実際に行ったものしかそれは分からない。
 俗に、後宮三千人といわれる。三千人もの美女がはべっているという意味である。それほどいたかどうかは別として、宮女候補生としてロアンやライサ達を待っていたのは、後宮内に於ける礼儀、儀式、作法に始まり、性技法に関する具体的な理論や性的な鍛錬法に至るまで、その知識全般の習得であった。
 従来までのスィスニアには後宮はない。リューンがこれから作るのである。そんなところに儀式も作法もないと思うのだが、キーサ王国の後宮学問の知識人階級達を招き、見よう見まねでこれを作らせたのである。こういうところにナグモ・リューンのいい加減さを見ることができる。
「アリサ、こんなん憶えきれないよ〜」
 アリサは頭を抱えている。
「ふむ、なるほど・・・」
 ライサは一生懸命講義を聴いている。彼女は学司の講義内容の他にも、それについて自分の意見もまとめて理解を深めようと努力していた。なかなか勤勉な女性であった。
 講義を進めているのはセト・ルーカンという男である。元々キーサ王国に仕えていたが宮廷との折り合いが悪く、国を出たという。

 唯一人、サボタージュしている者がいる。カレリア・ロアンである。
 ロアンは庭で昼寝をしていた。彼女にとって、それらの講義内容は今さら知る必要もないものだからである。キーサの後宮教育についての知識は既に頭の中に入っているのだ。
「ロアン様」
 ロアンは目をゆっくりと開ける。
「ん・・・」
 そこにはロアンの従者であるディルが立っている。
「どうしましたディル、・・・一応ここは後宮なのですよ。男性である貴方が、おいそれと来てはいけないところなのに」
「大丈夫です、最近ここでは私は宦官ということになっていますから」
 そう言ってニッコリと微笑んだ。ディルはスィスニア後宮に仕えるために宦官であると偽っている。どのような手を使って宦官と偽り通せたのかは知らないが、彼がこの雲徳殿の中にいること自体が偽り通していることの証明である。
「ちゃんと男性のままです」
 ロアンが心配していることを見透かしたようにディルが言う。
「それよりも、近々戦になりそうです・・・」
「東邑同盟あたりとでしょう」
 リューンが東邑同盟領との境に竜角関という要塞を築いたのは昨年のことである。それは来るべき大侵攻の為の拠点としてのものであろう。東邑同盟との本格的な戦をそろそろ始めようとしているに違いなかった。
「まあ、今のところは私が何を言っても仕方のないことです。それよりもリューンに近づかなければなりません。できれば貴方は彼の情報を集めて下さい」
「承知いたしました」
 ディルは一礼すると踵を返す。
「ディル・・・呉々も無理はせぬように」
「分かっております、ロアン様」
 ロアンは大空を見上げた。風に彼女の髪が靡く。そして、普段その絹のような髪によって隠されている彼女の右側の顔が現れる。美しい。しかしながらその右の瞳は光を失って久しかった。しかし、ロアンの右目には見えた。このナーラダの未来が・・・。 
 ナグモ・リューン様、早くお会いしとう御座います・・・。
 ロアンは切れ長の目を細めて微笑んだ。

【眠れない夜】10日:雲徳殿・庭園

 月の綺麗な夜だった。
 その夜はなかなかライサは眠れなかった。どうしてもハヤの事を考えてしまうのである。仕方がなく、彼女は雲徳殿の中を散歩することにした。
 雲徳殿の中は広い。千米四方の敷地にあるのだからそれも当然である。
 東には清竜殿が見える。かつてルシャナ家の邑宰達がいたところだ。今の主はナグモ・リューンという一介の浪人出身の者に代わっている。どんな生まれの者であろうと、力があれば、上へ行けるということだろうか。
 私も上ってみたい・・・・・・・否、きっと上ってみせる・・・。だからハヤ、お前も頑張れ・・・。
 小川の水面に月が映し出されていた。
 ポチャン、という音が聞こえたのはその時であった。
 誰か向こうにいるのだろうか。
 ライサは少し気になり、小川に沿って歩いていった。

 男は左手に釣竿、右手に杯を手にして小川の辺に座っていた。
 ライサに気が付き、こちらを振り向く。
「眠れないのか」
 男は唐突に声を掛けてきた。
 ライサは頷いた。
「最近、そういう娘達が増えているようだ。昨晩も二人ほど、お前のような顔をした娘がおった。色々と不安になる時期なのだろうな」
「・・・貴方はここで何をやっているのだ」
「美しい月を見ながら酒を飲み、釣りを楽しんでいる」
 馬鹿か、この男は・・・ライサはそう思った。
「・・・というのは冗談でな・・・最近、夜の散歩をする娘達が増えているというので、その顔を拝もうとわざわざ待っていたのだ」
「益々変な奴だな、女の顔を見るのがそんなに楽しいのか・・・」
「ああ、楽しいな。美しいものを見て不愉快な気分になる者の方が少ないと思うが」
 そう言って男は竿を引く。
 釣れたのは小さな鯉であった。男はその鯉を手に取り再び小川へ逃がしてやる。
「お前はどうしてここに来たのだ」
「ナグモ・リューンの正妻になるためだ」
「なってどうする」
「ハヤと競う」
 男は首を傾げる。
「・・・話が見えてこないが」
「ハヤは私の幼なじみの男だ。その者と約束したのだ。二人で偉くなろうって」
「・・・・・上に行けば上に行くほど、失うものも多く出てくるぞ。それが分かっているのか」
「分からんな、頂点に上り詰めれば全てを手に入れることになるのではないか」
 ライサは聡明な女性である。しかしながら、経験としての知識に欠ける面も少なからずあった。それは仕方のないことかも知れなかった。何故ならばライサ自身は人の上に立ったことなど一度もなかったからである。
 男との問答は明け方まで続く。その頃になると、ライサは疲れ果てていつの間にか眠ってしまった。
 リューンは宦官のリョクレイを呼びつけると、彼女を娥舎の部屋まで運ばせた。
「変わった娘だ・・・」
 自分のことを棚に上げ、彼はそう呟いた。

【補習】12日:雲徳殿・娥舎

 この日は講義がなかった。宮女候補の娘達はこの貴重な時間を自分なりに各々自由に使い、有意義に過ごしていた。
 だが、例外もある。
「ねえねえロアンちゃん、こーきゅーしりって何?」
「後宮至理というのは後宮五典の一つで、後宮の成立根拠から、後宮の基礎理論、房中術の論説を示しているものです。講義で習ったでしょう、アリサ」
 後宮五典とは「後宮礼」「後宮律」「後宮軌」「後宮至理」「陰陽方」の五つをいう。それらの内容は次の通りである。「後宮礼」とは後宮内の煩瑣な礼儀、儀式、作法などを取り扱う。「後宮律」では後宮内の法律について、「後宮軌」は後宮の建築関係のことを細かく示しており、部屋数間取りなど建物全般について触れている。スィスニアの雲徳殿はキーサから伝わるこの後宮軌を元に建築されているために、キーサ王国の後宮と造りが酷似している部分が多く見られた。「後宮至理」とはロアンの言うようなものである。最後の「陰陽方」では実際的な性技法に関する具体的な理論を扱っている。
 アリサ達宮女候補はこれらの内容について勉強しなくてはならなかった。ライサのように努力して講義についていける者もいれば、アリサのようについていけない者もいる。アリサにとって幸運だったのは、同室に、講義を行う学司より知識を持つロアンがいたことである。アリサは分からないことはすべてロアンに聞いた。
「なるほど〜そうなんだ〜。さっすがロアンちゃん、だーい好き!!」
 そう言ってアリサは思わず、ロアンの頬に唇をあてた。アリサはスィスニア南西の小さな邑の出身である。接吻はその地域の古俗で性的な意味合いがない場合でも用いられた。ロアンはそのことについて分かっていたが、少なからず驚きもした。
「あ、ごめんなさい。つい、いつもの癖で」
「謝らなくてもいいですよ・・・貴女の故郷では至極自然なことなのだから。でもその事を知らない者もここには大勢いるのですから、気を付けた方がいいですね」
「うん!!」
 ロアンの一日はアリサの家庭教師をすることで終えた。

 ディルが宮内で謀反の噂を耳にしたのはその頃であった。リューン配下の将軍、ランギヴァラーハ・ライラが離反したというのである。謀反かどうかは未確認なので何とも言えないが、北蛮関から配下の者を連れて消えたという事実は本当らしい。また、容疑者の一人として、ライラ配下のレリューコフという老兵が連行されている。
 東邑同盟に出兵したスィスニア軍は、ミュール、ナヴァル両軍を撃ち破り、黒竜旗軍との戦いに備えているようであった。

「報告は以上です、ロアン様」
「御苦労でした。その後ナグモ・リューンについての情報は得られませんでしたか」
「公務を行っている日中については分かっているのですが、日が暮れてからの足取りがまったく掴めません」
「そうですか・・・」
 まったく、どこにいるのやら・・・気まぐれな男は、これだから困りますね・・・。

【開店】15日:カルナ・シェルセラヴ・ファンシーショップ

 スィスニアは暖かい。ユディトの生活に慣れていたカルナ・シェルセラヴには、特にそのように感じられた。
 スィスニア中心部にあるエルヴァ通り。様々な商店が建ち並び、買い物のために人々が最も集まる地域である。エルヴァ通りを真っ直ぐ北上すると清竜殿がある。
 人の月15日。実はこの一等地に四百平方米の敷地を使い、或るお店がオープンしていていた。
 カルナ・シェルセラヴ・ファンシーショップ・スィスニア店である。開店祝いの花が店の外にたくさん飾られた。名前だけ見てもすごい顔ぶれであった。「リレイル商会代表:リレイル・リレイア」「ユディト邑宰:ティン・トレスト」「ユディト邑宰丞:ロゼル・ジェイド」「スィスニア第三軍司令・シーラン太守:エレニス・メロウリンク」「スィスニア大将軍:ナグモ・リューン」などの名を見ることが出来る。その他にもティエラやメイなども送ってくれていた。また、「ティン・ミーシェ」という名で送られてきた花は、自分の部屋に飾っている。何となく他の花と一緒に外へ出すのが勿体なく思われたからだ。ティン・ミーシェはかつてユディト一美しい歌声の持ち主といわれた女性である。シェルセラヴの母であり、彼女が彼女たる記憶を失って久しい。昔の母の心を何処かへ忘れてきたミーシェを見るのが、堪らなく寂しかった。彼女はそのことについて、他人に語ることはなかったので断定はできないが、もしかすると、その事もスィスニアへ来た理由の一つかも知れなかった。
 彼女はオープニングセールとして、『いい男、かわいい子のみ三割引セール』というものを行った。商人が客を選ぶなどとは笑止なことであったが、彼女は商人でありつつも、芸術家としての誇りも持ち合わせている。芸術とは不特定多数の者に受け入れられるべきものではなく、特定のものに受け入れられるものである。いいかげんでミーハー、自分自身とオシャレ、そして、いい男と可愛い子が好きだという、その性格の中から数多くの芸術作品が生まれるのであるから、シェルセラヴが普通の商人のようになってしまったら、彼女が彼女であり続けることはできないのである。

 スィスニア店はユディトのお店より大きい。様々な物を置くことができるし、多くの客を収容することが可能である。しかしながら、それだけに従業員がシェルセラヴ一人という現実は経営の上では厳しかった。少なくとも、あと一人は人手が欲しい。ちょうどそんなことを考えている頃であった。
 彼女は開店初日の夜は、ヘトヘトになって自室のベッドに倒れ込んだ。
「どうしようか、ラルアーク・・・明日もこんな調子じゃ、身体が保たないわ」
 ラルアークもシェルセラヴを今日一日手伝い続け、疲れているようで、隣でグッタリ寝ていた。
 その時、天井からコンコンとノックする音が聞こえる。そして天井が開き、風呂敷を背負った紫装束の女の子が飛び降りてきた。
 その子は片膝をつき、シェルセラヴに臣下の礼をとるような格好をする。
「お初にお目にかかります。手前は隠密衆桃組・桜吹雪のキリと申します。大将軍直々の命により、シェルセラヴ様を御助力すべく、まかりこしました」
 シェルセラヴは呆気にとられた。

 人手に困っていたシェルセラヴには願ってもない申し出であった。リューンが目付として放った者であろうことは、シェルセラヴには分かっていたが、今はそんなことを言っていられないのが現状である。彼女は「キリ」という少女を採用することにした。但し、自分のことを「シェルセラヴ様」ではなく「シーちゃん」と呼ぶことを採用の条件とした。

【艶】23日:雲徳殿・娥舎→娥局

夕刻。
 ライサはアリサに竪琴の奏で方を教わっていた。アリサの邑では年頃の女性は皆、竪琴を奏でることができた。何故ならば男性の求婚に対して、竪琴を奏で、己の気持ちを歌うことでそれに応える風習があったからである。
 流れるようなアリサの指の動きは、美しい音色を創り出し、それに乗るような彼女の歌声は何とも心地よい響きで、大空を旅するような雄大さを感じさせながらも、その中で繊細な乙女の心の動きを描写し、それを歌い上げていた。
 ロアンは日記を付けながらそれを聞いていた。彼女は目を細める。
 驚きましたね・・・これなら歌姫として十分通用しますよ。
 ライサは熱心にアリサの指の動きを観察していた。
 自分の指を見てみる。アリサよりライサの方が細く長い指をしていた。
「ライサ、音楽は心で奏でるのですよ・・・」
 ロアンがライサに言った。
「心・・・か・・・」

 人の月23日。スィスニアにはターヌ平野南西エレンの丘に於いて、シュラ率いる遠征軍が黒竜旗軍との戦いに敗れたとの情報が伝わっていた。
「・・・するとシュラ将軍は無事なのですね」
「ええ。それから副将のザドウ将軍も無事な模様です」
 惜しいことをしましたね、二人ともそのまま死んでくれればよかったものを・・・。そうすれば歴史はもっと面白くなるでしょうに・・・。

 その日の夜、ロアンは宦官のグーデルから呼出を受けていた。
 グーデルはロアンを雲徳殿へと連れてきた宦官である。ヴェルーダ出身の者で、前の災厄で妻子を失った。その後スィスニアへ仕官し、自宮して宦官となった。自宮とは刑罰によってではなく自分の意志で陽根を切り落とすことである。グーデルはまだ30代半ば、もう一度、人生をやり直すこともできないわけではなかったが、新たに家庭を持つ気にはなれなかった。
 ロアンは娥局の一部屋に通された。娥舎が宮女候補期間生活する仮後宮を指すのに対し、娥局とは雲徳殿本後宮のことである。
 グーデルは少々落ち着きがない。そして、
「呉々も失礼のないようにするのだ」
 そう一言残して、ロアンを残し部屋から立ち去った。

・・・ずいぶんと、勿体ぶった真似をしてくれますね・・・権力者とはやはりこうも傲慢なものなのでしょうか・・・・・。
 本当に自分を呼びだしたのは誰なのか、ロアンには既に分かっている。ディルが色々と情報を集めるために動き回っていたために、気付かれたのだろう。
 私に誘惑されるために、自ら動いてくれるなんて・・・・・感謝しますよ。
 ロアンは紅を差した唇の端に妖しい微笑を浮かべた。

 足音が聞こえた。コツコツとそれは近づいてきている。
 その音は部屋の前で止まる。
 部屋の扉が開かれた。同時に部屋を照らしていた蝋燭の灯火がふっと消える。
 静寂と闇が支配していた。微かに人の気配だけが感じられる。
「最近、俺の周りを嗅ぎ回っている鼠がいてな・・・少々、迷惑をしている・・・」
その声はロアンの耳元で聞こえた。
 リューンは背後からロアンの細い腰に手を回し、抱き寄せた。
ロアンはその身を委ねる。
「・・・・・お会いしとう御座いました・・・・・」
「望みは何だ・・・何故お前のような女が後宮に来た・・・」
 そして唇をその白く美しい首筋に這わせる。
「貴方様と同じように・・・この世に生きた証を立てるために・・・」
「・・・生きた証・・・」
 リューンはこの世を変えたいと思っている。古き価値観念を捨て、新たな時代を創造しなければならない。この点に於いてはヴィレクやライラなどと同じである。しかし、それが誰の手であってもよいのかというと、そんなわけではない。それは己自身の手でやるべきことだと思っている。それがすべてのリューンの行動理念の元になっていた。この世界に自分が生きた証が欲しいのだ。自分の生涯が、何の証も立てられぬ虚構であるとするならば、何のために生を受けたのであろうか。虚構とは幻である。自分は幻であったのか、と自問する。リューンは常に胸の内にそのような思いを秘めていた。
 ロアンはリューンの心の旋律を感じとっていた。それを知った上で、わざとそのように言ってみせたのだ。リューンはスィスニアでクーデターを起こし、政権を取ってからは常に孤独であった。シュラとは理解し合える仲であったが、今では彼女は完全にリューンの臣下であり、決して対等の存在とはいえなかった。ロアンはリューンの心の隙間を逃さなかった。自分と対等の存在を欲していることを知っていたのだ。
 悪い女であった。ロアンは己のシナリオ通りに歴史を創造したいと思っている。自分の証を立てたいという気持ちがあることも事実であった。だが、本心であるにせよ虚心であるにせよ、リューンの心を掴む上では、その一言で十分であった。
「名は何という・・・」
「カレリア・ロアンと申します・・・」
 リューンはロアンの艶やかな唇にくちづけした。
 これが獅子が蛇に呑み込まれた瞬間であった。


【赤い信号機】23日:小邑ミデア

「シュラ殿・・・貴公は盲目的すぎる。真の忠臣とは必要とあらば主を諫めることも厭わない者をいうのだ」
 その時シュラは、微笑を浮かべ、だが少し寂しそうな表情をしながらこう言った。
「ライラ殿・・・それは分かっている。だが、これが私の生き方だ」
 ライラはその時のシュラの顔を今でもはっきりと憶えている。今の自分には決してできない表情だ。リューンを想う彼女の心が、シュラをあのようにしているのだ。
 俳優(わざおぎ)という職業がある。それは別人を演じることによって人々を楽しませる者達のことだ。ライラは彼らの姿を見て時折痛々しさを感じることがある。それは、彼らが自身の特性とまったく異なる人間を演じている時である。彼らが心から共感しているわけではない人間を演じている時、それはいかにも白々しく、同情すら感じさせる。自身の特性を嫌い、それを捨てようとしているかのように見えるためだ。
 シュラがそのように見えてならない。それは同じ女性故に感じることかも知れない。だが、これが自分の生き方である、と言った。それ程までに強い想いなのだ。
 一人の男を愛し続けるのも一つの生き方なのだろう。人はそれぞれ違ったことに価値と幸せを見るのだから。だがライラの生き方はシュラとは違う。自らの心と精神で考え、正しいと思ったことを貫き通したい。だからリューンがクーデターを起こした時には、兄と袂を分けてでも反シルキーヌ派についたのだ。だが、その後のリューンについてはライラは納得がいかなかった。
 リューンに弓弾いたのは、自分が正しいと思ったからこそである。後悔はしていない。

 ライラがいるのは、ウォウル南東にあるミデアという小さな邑であった。ここに極楽鳥頭カガト・デュオの家があり、ライラは傷の養生も兼ねて、厄介になっていた。

 デュオが突然、勢いよく扉を開けて入ってきた。
「早くも追っ手が来やがったぜ!」
「思ったより早いな・・・ではこの邑を出るとするか」

 ライラとデュオは裏口から出て通りに出た。家の正面の入り口前には数人の男達が集まっている。二人は知らぬ振りをしながら通りを歩いていく。
「・・・馬がいるな・・・」
「ああ」

 ライラは通りを走っている馬車の前に飛び出た。馬車は彼女のぎりぎり手前で止まった。
「なによ、危ないじゃない!!私の大事なメリーちゃんとエリーちゃんが怪我をしたらどうするのよ!!」
 メリーとエリーというのは、目の前の二頭の馬のことらしい。
「知らないのか、赤は止まれだ・・・。それよりこの馬車に乗せて欲しい」
「ふざけんじゃないわよ、この馬車は私のお友達しか乗せないことにしているのよ!!」
 ライラとデュオは互いに向かい合い。意を決して頷きあった次の瞬間には二人は同時に剣を抜いていた。
 馬車の男はそれを見て顔を青くし、そしてこう言った。
「ご、ごめんなさい、私の勘違いみたい。貴方達とはたった今お友達になったところよ」

 かくして二人はオカマ野郎から馬を奪い、ミデアの邑を脱出したのだった。果たして二人が次に行くのはいったい何処なのであろうか・・・。

【どう思っているの】23日:雲徳殿・娥舎

「ロアンちゃん遅いね・・・」
「うん・・・確かに遅いな」
 アリサとライサの二人は各々ベッドの毛布にくるまっていた。ロアンがグーデルに呼び出されてから二刻近く経っている。
「・・・・・ねえライサちゃん、以前みんなで話していた時に言っていたよね。正妻になりたいって・・・そして幼なじみの男の子と競うんだって・・・」
「言った」
「その男の子のことは、どう思っているの・・・」
「・・・・・・・・・・・」
 ハヤは幼い頃からの大事な友人だ・・・・・・・・・・・たぶん。
「正室になるっていうことは、ううん、後宮に入るってことはあのリューンって人に抱かれちゃうってことなんだよ・・・」
「知っている」
「・・・・・ライサちゃん、男の人に抱かれたことないでしょう」
 アリサが言った言葉にライサは動揺した。正直言ってライサにそのような経験はなかったからだ。
「・・・それがどうしたというのだ」
「好きでもない人に抱かれても、幸せな気持ちになれないよ・・・」
「知ったようなことを言う・・・」
「アリサ知っているもん・・・」
 ということは、抱かれたことがあるということだ。確かに彼女の19という歳を考えると全く不思議ではない。
「でもムーちゃんはもういないんだ・・・」
「・・・ムーちゃんというのは誰だ」
「ムーちゃんはアリサと将来の約束をした人。でも去年の戦で帰ってこなかった・・・」「・・・そうか」
「もし、ライサちゃんがその幼なじみの男の子のことを・・・」
「アリサ、その話はもうよそう・・・」
 その夜、ロアンは結局、娥舎の部屋へは戻ってこなかった。
 ライサはしばらくしてから、ハヤのことを思いながら眠りについた。
「ハヤ・・・」
 アリサの耳にはライサの寝言が聞こえていた。

【雲徳殿】35日:CCF店内→清竜殿→雲徳殿

 リレイル・リレイアがシェルセラヴの店に訪ねて来たのは、開店20日後の人の月35日のことであった。
「まさかこんな一等地にお店を作るなんてね・・・正直驚いたわ」
 リレイアが店に訪ねてきた理由は、開店後の挨拶の他に、もう一つあった。シェルセラヴを後宮へ行くのに誘いに来たのである。無論、宮女になれという意味ではない。一緒に見学をしに行かないかという意味である。リレイアは雲徳殿の建築計画に携わっている。宮内の装飾関係は現在、彼女の組織にほぼ一任されていた。
「どう・・・私と行ってみない?」
「ええ、喜んで御一緒させていただくわ」

 雲徳殿へ行くには清竜殿の中を通らねばならなかった。詰まり、後宮自体に外界と接するための門はないのである。
 清竜殿は、シェルセラヴは以前侵入したことがある。邑宰家であるルシャナ家は必要以上に飾るのを嫌ったのであろうか、極めて質素な造りであった。清竜殿本殿へ辿り着くには建礼門、承明門という二つの門を通る。そこには厳重な警戒が敷かれていた。シェルセラヴは今改めて思った。もし、あの時正面から侵入しょうものなら、絶対にリューンのもの元に辿り着けなかったに違いない、と。その後、清竜殿「竜の間」から西の「松の廊下」へ出てしばらく行き、雲徳門へ辿り着く。ここより先はリューンと学司達意外の男性は入ることはできない。
 門を開けば、そこは後宮である。

 雲徳殿。
 花々が咲き乱れていた。そこは清竜殿とはうって変わり、煌びやかな建物がシェルセラヴの目には映し出されている。宮内の様々な景色は重なり合い、見る者に一つの「美」を感じさせた。
 敷地内には至る所に神王の像が建っている。聞けば、56神王全ての像があるらしい。これらが後宮を飾る芸術品の一つに過ぎないというところにもリューンの性格を伺える。後宮という場に、しかも全ての神王の像を作らせるなどという、明らかに神を冒涜する行為だと言われても仕方がない事をやっているのである。
 雲徳殿の中心にある「金閣」という建物は正妃(正妻)の部屋となるらしいが、これには特に驚かされた。建物自体が黄金で覆われており、その周りは池になっている。部屋というよりは黄金の浮き船といえた。ちなみに后妃(第二夫人)の部屋は「銀閣」という。

 リレイアは仕事の打ち合わせのために、シェルセラヴとは行動を異にしている。
「こんなに広くて迷子になる人はいないのかしら・・・」
 彼女がしばらく宮内を歩いていると、不思議な笛の音が聞こえてきた。美しい音色だがどこか寂しげな気がする・・・。それは小川の方から聞こえた。

 笛を吹いていたのは、カレリア・ロアンである。その周りにはライサとアリサの姿がある。ロアンは二人に笛の吹き方を教えていた。
 ロアンは美しい。同性異性問わず、それは誰もが認めることだろう。だがそれを言うならばライサやアリサ、否、後宮の女達全てに当てはまることである。ライサはここ数日でのロアンの変化に気付き始めていた。以前の彼女とは少し違うのである。外見が変わったわけでもなく、異様な振る舞いをしているわけでもない。しかし、ライサは同性でもあるに関わらず、時折ロアンが見せる妖しげな表情にどきりとさせられた。それはここ数日の事である。妖艶な雰囲気。一言でいうと、その様なものが最近のロアンからは感じられるようになった。

 ロアンの周りにはライサとアリサ、そしていつの間に現れたのか、シェルセラヴの姿があった。彼女は何の違和感も感じさせず3人の中にとけ込んでいる。これも一種の才能だろうか。もしくは3人の方もシェルセラヴを宮女の一人と考えたためかも知れない。

 笛の音が止まると、シェルセラヴ、ライサ、アリサの3人は一斉に拍手した。
 だが、魔法が解け、現実の世界に引き戻されたかのように、次の瞬間には宮女候補三人の視線がシェルセラヴの方に集まっていた。
「え〜と、おね〜さんて・・・誰?」
 アリサが質問する。
「私はカルナ・シェルセラヴ、このスィスニアの商人よ。笛の音に惹かれて、ついお邪魔してしまったの」
「私の笛の音に・・・ですか?」
 ロアンが言う。
「美しい音色だったわ、でも・・・どこかその旋律には寂しさが漂っている。曲自体はどちらかといえば明るい節なのに・・・」
 ロアンは一瞬目を細めた。
「そうでしょうか・・・・・・・いや、貴女の言うとおりかも知れませんね・・・」
「分かるものなのか・・・その様なことが」
「ライサ、以前言ったでしょう、音楽は心で奏でるのだと。気持ちはその音色となって伝わるものなのですよ」
「そういうものか・・・」
 その後、四人は二刻以上も小川の前で話をした。


【歴史の闇】41日:雲徳殿・娥局・床の中

 女の前では男は誰でも子供のようになる。我が儘で、独占欲が強く、それでいて無邪気だ。その様に考えることについて、賛否両論ありそうであるが、少なくともこのカレリア・ロアンという女性にとってはリューンはそのように見えた。そう思うとロアンは自分を抱くこの男が、どこか滑稽に感じられるのだった。下克上の代名詞として、戦乱の世の風雲児として名を馳せているこの男が、自分の胸に甘えてくるというこの状況にロアンは快感という名の喜びを感じずにはいられなかった。
 さあ、リューンよ・・・私をもっと強く抱きしめなさい・・・そして甘えるがいい。そのようにしてお前の身も心も私のものになるのです・・・。

「ロアンよ・・・俺は王位に就くことにした・・・」
 リューンはロアンの絹のような美しい髪を触りながらそう言った。
「王を称するのですか・・・」
「そうだ・・・スィスニア、シーラン、スウィズをはじめとする大小の邑を束ね、国を創ることにした・・・」
「・・・おめでとうございます」
「今の世の中を渡って行くには、現在のあやふやな体制では駄目だ。強力な統治機構による中央集権型の政治体制を築かなければならない」
「・・・恐れながら申し上げます。それでしたら血の絆を心の拠り所にしている邪魔な者達はすぐにでも排除すべきかと・・・」
「と・・・言うと?」
「シーランのブレイブ・シュウとスウィズのサイク・ミナのことです。リューン様が王を称した後、それを快く思わない者達が彼らを担ぎ上げないとは限りません」
 暫しリューンは考え込む。
「分かった・・・お前の言うことが正しかろう・・・かの者達には悪いが死んでもらうことにしようか・・・」
 リューンは再びロアンを抱き寄せる。
「お前は美しいだけではなく、聡明な女だな・・・益々気に入ったぞ・・・」
 このようにして益々ロアンを気に入ったリューンは益々ドツボにハマっていくのだった。
 ロアンのこの発言によって、ブレイブ・シュウ、サイク・ミナ両名はこれより10日後の人の月51日、その短い生涯を閉じることになる。

【再会】52日:雲徳殿・庭園

 ここ数日、スィスニアはお祭り騒ぎであった。
 人の月50日、ナグモ・リューンは、スィスニア王国の建国を宣言し、自らの尊号をスィスニアの武王と称した。
 リューンは清竜殿に文武百官を集め、即位を宣言した。清竜殿ではその後、数多くの名士や有力商人達が拝謁し、祝辞を述べていった。
 その余波は雲徳殿にまで及び、宮女候補の娘達は自ら着飾り、踊り、唄い、さながら祭のような賑やかさであったという。

 ライサもこの日だけは違った。髪を結い、化粧をし、煌びやかな着物を着ている。
「堅苦しくていかんな・・・こういうのは・・・」
 重くて動きづらい。宮女になってからは毎日このようにしていなくてはならないかと思うと、少々気が重い。
 しかし、そのようなことも言っていられないのだ。来月には宮女候補としての研修期間が終わり、その集大成を試験に於いて結果として示さねばならぬのである。
 ・・・・・・・ロアンやアリサと競い、まず勝たねばならない。だが仮にどのような結果になろうと、彼女達との友人としての関係が崩れるなどとは、考えたくはない。ライサは一人っ子である。短い付き合いであるが、この研修期間で二人を姉や妹のように思えるようになった。しかしながら、正式に宮女となれば上下関係が出てくる。正妃や后妃、夫人や嬪妃といった身分という概念が出てくるのである。
 アリサにいびられるロアンの姿など想像はしたくない。が、可能性がないわけではない。環境が変われば人は変わるかも知れない。現に自分がそうではないか。一月前までは後宮については何も知らなかった。しかしここに来て、舞や歌、楽器の奏で方、礼儀や伽の仕方などまで知ったのだ。人は変わる。しかし、内面までは変わりたくない。自分であり続けたいから・・・。
 雲徳殿の庭からは清竜殿西の塔が一際目立って見えた。
 塔の窓辺から、一人佇む青年の姿がライサの目に映った。青年は士官らしく、他の兵卒の装いとは違い、それらしい装飾された服に身を包んでいた。
 その青年の横顔を一瞬、ライサは確認した。
 懐かしい気持ちで胸が一杯になった。50日しかまだ経っていないというのに、ライサには数年ぶりのように感じられたのだった。
 ハヤであった。
 ライサはハヤが気が付くまで、ずっと見つめて待っていた。
 だが、気が付く様子はない。
 とうとうライサは我慢できず、大きく手を振って注意を引こうと試みた。

 ハヤが気が付いたのは、しばらく経ってからである。当初、ライサは髪を結ったり化粧したりしていたので、彼女であることが分からなかったようであった。目を凝らすようにして見て、ハヤはようやく手を振る女性がライサだという事実に気付いた。

 ・・・・・よかった。流石は私が見込んだ幼なじみだけのことはあるな。
 ライサはそう強がって自分に言い聞かせることで、嬉し涙を我慢していた。

【無題】人の月:スィスニア

 ディルはロアンにその命を救われて以来、彼女に忠誠を誓っている。今でもそれは変わらない。彼は誠実な男であった。それ故に主従という関係に苦しむことになる。もし私に力があれば、貴女の望みを叶えられるのに・・・。そのように考えている近頃の自分に驚いた。
 明らかな嫉妬であった。
 ディルの心の中で少しずつ何かが変わっていくのだった。

 この月の終わり、或る一人の女性が後宮に入っている。
 その女性の名はファナ・ロゼッタという。

 絢爛豪華たる王朝絵巻はまだ始まったばかりであった。

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