会誌-「サークル水月会誌 第9回」
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■ 【作者:高砂キカ】 新 生 の 星 「我は隠れたる財宝にて、知られんと欲す。それゆえ我は知られんがために創造せり。」 その題詞にトゥー・ラスカの青紫色の瞳はしばし捕らわれていた。手の中には、薄黄色の板が乗っている。彼の指が透けて見えるほど薄く、艶やかな感触が伝わった。その色は鼈甲に最も近いが、材質は彼の記憶では殆ど見られないものだった。 秋の日の、最後の余波が彼に降り注いでいた。早朝の雪を思わせる白銀の髪が光る。それはどこか柔らかい冷たさを秘めた光だった。冷え込む早朝の凍えた湖のような色を滲ませている。 「塩樹の森で発見したのです。」 彼の脇から、穏やかな声が忍び込んだ。それに、ラスカの瞳は沈んだままだった。脇の男もそれを見取っているのか、声と同じく、空気に溶け込むような様で立っていた。 秋風が彼らの髪を、冷たい手で撫でていく。紅葉が一片風に泳いでいた。 「面白い言葉だね。」 静謐な響きが落ちる。秋の風と同化して、神殿の隅の空気に溶け込んだ。琴の弦も僅かに震えたようだった。 「隠れるために、創ったなど…。」 学者もその言葉に頷いた。 「はじめに見つけたのは妻でした。ルナが気づいたそうです。…塩の大樹の枝に。」 「盗掘者が残したのかな?」 「それは違うでしょう。」 力の無い否定の言葉。彼が本当の答えを分かっているからこそだ。 古い、古いことば。そこには、現在、セルフィアーで人の口にのぼる言葉のなかの、一つの要素だけが存在している。魔術めいた言葉の羅列が続いていた。その中で唯一、彼らに訴えかけてきたのが、『隠匿の言葉』だった。─決意の表明のような。謎掛けのような。一つの奇体のことばだ。表面に刻まれる言葉でそれは既に読める。ラスカは見据えているだろう。 「神王の言葉なのだろうか?ガンダルヴァの言葉とは全く違うが…」 「さあ…。しかし、あれは完璧な芸術の邑だったといいますから、強く信仰されていたとしたら技芸の四友なのは確かでしょうね。…そこの言霊人にとって、神の王はどのような存在だったか分かりませんが。」 ラスカは、視線を空に巡らせた。胸に生える思いは新鮮でいて、どこか追憶の形に近い。それは音を愛し、曲を創り、絵を描くことを、政治と同じに定めた邑。伝説という大地に咲く美しい花のような存在だった。 「トゥルニアのひとたちに、よく許されたね。」 学者はひたとラスカを見つめた。朝の海色の瞳が堅さを孕んでいる。 シュナフの風が一塊、開いた窓から流れ込んだ。まだ風は柔らかさを失わない季節だ。ラスカの愛する季節だった。自分が生まれた季節でもあるが、一秒毎変化していく空気の放つ匂いが好きだからだ。雪に閉ざされようとする世界のものだ。 「隠してきました。─申し訳ないと思っています。しかし。」 「言霊の文化を知るため?」 「…はい。」 彼の眉は揺るぎもしなかった。中年には差しかかる程の容貌だが、どこか齢を殺した雰囲気がある。彼の心に眠る意思の強さは、生涯の中ほんの僅かにしか現れないだろう。そしてそれは、彼の人生で既に半ば使われていた。 シュエルの歴史学者のフレイとは友人だった。先輩と称した方が良いのかもしれない。彼は、音の世界─に全てを没入しがちなラスカに、人々が渦巻く世界の変化や、それが奏でる様々な物語りを教えた。例えば旧バルスを切っ掛けにして。 ラスカの瞳の沈んだ濃い青色の陰は、すでに彼の瞳にもとから宿っていたようだ。 やがて、その瞳が困ったように曇っていく。あくまで優しい響きで、ラスカは彼を注意した。 「あの…その口調は止めてほしい。…わたしはただの楽士だよ。」 「そうですか。」 ルーキ・フレイは微笑した。 初秋の空は透明だ。遙か高くに、冷ややかさの風を孕む空は、そのまま純粋に人々の上に上っていた。元々冬が早い、セルフィアー西部の大地はいま僅かずつだが、雪を迎える準備をしているようだった。湖たちに近いこの邑では、それは真っ先に風が伝えている。 ひといきれはしかし、熱っぽい空気となり、街中に満ちていた。人の脚、声、車輪の廻る音が舗装されたばかりの街道を通り、見下ろす蒼天へと駆け上がっていく。 切り出されたばかりの、香気を放つ木材を乗せた車が絶えず路を走っていく。包みを抱えた商人も負けず流れて行く。街頭を飾るのは、芽生えたばかりの建造物だが、皆独特な様の片鱗を見せていた。丸窓、角の小塔、テラス。道行くものは皆珍しさに目を見張る。色が塗りかけの壁が陽光を透かして輝いていた。浮かびかけているのは何の姿か。ただ、両手を広げた人間にも見える。 旋律が流れる。 路を流れる人々の頭は漆黒の色と銀白の色が交じり合っている。この邑が初っ端から行ったある大事業のためだが、それは島中に響き渡った伝え話となった。それが切っ掛けとなったのか、流れ込む部族の多様さで、この邑は辺りで随一のものだった。 並ぶ家々を物珍しそうに見上げたトゥー族の親子がいた。典型的な、銀の髪と蒼紫の瞳をしている。夫婦は互いに手を差し出し、その間には子供がぶらさがっていた。子供の服に付けられた毛皮の飾りがふわふわと揺れている。 また、小さな包みを抱え、黒髪を風に揺らした男もいる。 新しい木の香りがなんとも心地よく、懐かしかった。ダルティークは包みを置き、漂う新しい匂いを吸い込んだ。それは遠き森の放つ空気まで孕んでいて、心のどこかを目覚めさせる薫りだった。丁度、窓から流れ込む光も白昼の清らかさで、こぼれた黒髪が紫の光を含む。 光は、土が踏み固められた土間全てを照らしていた。土間と通り路は広めで、その上の座敷も3間ほど。垂れた布で遮られた小さめの部屋が幾つか続いている。無理を言い多少奮発して、土間を広めに取ったのは今のところ成功のようだった。 取り敢えず、たたきに座る。 「と、ここに台を置く…ああ、どうせ計算仕事は要らないのだから、文机はいらんか…諸々を入れる棚と、椅子を散らして…。椅子は一つ何粒だったかな…」 ぼそぼそと取り留めのないことが口を突く。深い緑の目はひどく切れ長で、思考の色を滲ませていた。倡優じみた、すらりと高い鼻がぴくりと動いた。 その時木戸が鳴った。垂れ布で隠されていない格子から、見えるのは色華やかな─野菜の山だ。 野菜の化け物と一瞬ダルディークは思う。彼の腰は浮かばず、端に、髷を結ったトゥー族の男が見える。それを捕らえた瞳は揺るぎはしなかった。商人は声を張り上げた。 「お引っ越しさんですか。」 「まぁ…ね。」 返す言葉も平然のようだ。その面に柔らかい笑みが浮かんだ。人の視線を明かに、魅了をもって捕らえる微笑だった。 商人は、日差しを受け生き生きと光る野菜山の一角を指さした。光を水と共に吸い込んだことが分かる、内から放つような生気に満ちている。そうすると、山を越えた辺りに立つ二本の見事な角に気づく。それはほんの僅かに上下していた。牛車だろう。 「ウチの野菜、良ければ買ってきませんか?おそらく最後の新鮮なヤツです。安くしますよ。」 牛の引く車に積まれた野菜や穀物の山を軽い薮睨みで見とる。唇から滑らかに言葉が生まれる。 「有り難う。でも、まだ越したばかりで色々と忙しいんですよ。後にして頂けませんか?必ず買わせて頂きますよ。…いい色をしていますし、滋味がしそうですね。」 「そうっすか、残念ですねぇ。」 商人も笑いを含んだままで言った。繰り返された問答の一つなのだろう。しかし決して悪くはない空気は満ちていた。それはこの邑が成すものなのかもしれない。─足が、この地を踏んで数刻。その実感は予兆をもって滲み出していた。 落ちかけの野菜を整えつつ、背を向けた商人からまた声が聞こえる。 「バルスで何をするんです?前に来た人は金細工とか画家とか学者とかでしたけど。」 「ええ。医者をしようと…」 「医者?でもここは星薬会の分かれ家があるんすよ?」 分かっている。格子から覗く人影には、結構な割合で独特の衣装を身につけた妖人が見えた。大体、小規模な邑に一人、または流れの集団が一つという存在だが、この地に踏み込んだ途端数が増えた。それがこの邑に華を与えるひとつとなっている。 広い肩が軽く竦められた。 「私は医者ですよ、薬は妖人の方に任せて、私は医師業に専念しようと思います。…一言で、癒しの業といっても様々ですしね。」 そうですか、と軽く返して商人は出て行った。また、喧噪の中、木で遮られた小さな沈黙が生まれる。ダルディークは、生まれて初めてそれを知ったかのようだった。慣れと忘却は恐ろしい。それだけで世界を変えてしまう。一つ言葉が落ちた。 「さてと。先ずは…」 艶やかな、という表現が最も合う新緑の目元に触れる。炉からの暖かな温気が部屋を染め始める。それはゆるやかな流れをもって、彼の体を包んだ。呼応するように、欠伸が生まれる。最後の言葉は地面に吸い込まれるようだった。 「何をしようかな。」 そう考える間に、ダルディークは己の瞼が落ちて行くのを感じ取っていた。 「いきなさい。」 高い声にリュイは振り返る。 声の響く所からは、母親と父親が柔らかい視線を持って見つめていた。この二つの存在に囲まれて、リュイは歩いている。もう一つ、いつも水玉のように透明でふわふわ浮いているもの従われて。 辺りは人いきれに包まれている。雑踏は川の流れのようで、小さな彼女の身体はもう、揉まれて泳ぐ小魚のようだ。しかし、それは楽しい遊泳だった。 新しい、首の回りに毛皮が誂えられている着物はいい匂いがした。この邑で買ったばかりだ。仕立ててくれた奇麗なお姉さんが、こっそり握らせてくれた小さな林檎も裏の袋に隠れている。 あらゆるはじめてのことが、彼女の心に流れ込んで行く。これまで7年間、彼女がいた世界とは全く違う色、音、空気。贅沢な甘いものの包みのようにホンの僅かしか得られなかったものが、ここでは洪水のように溢れている。空色の瞳はくるくると光り続けていた。 「だめ、もうちょっといるの」 両親はその言葉に微笑した。すぐ歩きだし、リュイの腕を両方から取る。逆光に隠されていても、彼らの瞳の色は滲んでいた。同じやさしい空の色だ。 上から、澄んだ声が落ちてくる。回りの雑踏に少し押され気味な為か僅かに揺らいでいた。小さな手を綿に包むように握る手は暖かいままだ。 「とうさまたちは、少し働きにいかなければならないんだ。…すぐ帰るけど。それまで泣かないね?」 「ん。」 反対側からも声が落ちる。低めだが優しい響きが聞こえた。「かあさまたちに約束してね。」 「ん。」 リュイの右脇で、白を基調とした吏衣の裾が靡いている。それと共に、ゆっくりとした速度で路が開けてきた。図書倉、造舟所、商館。─皆、それぞれ異なる色彩や構築で魅せながらも、共存していた。息をしているように自然な様だ。リュイが今まで居た街と、その匂いは良く似ていた。ただ、この街の方が優しくて、建物が皆低い感じがする。きっと、ゆっくり作られて行くのだろう。そして水の匂いが余り漂っていない。 内の木組が露出した建物もあり、人々がその上で立ち働いていた。黒髪が主だが、白や紅の髪も交じっている。遙か向こうに見える、青磁色の円屋根は、バルスの治政の中核となる議事堂だ。幾何学模様の黄金と、紺色が交じり合う円屋根が薄青い空に輝いている。 「これは皆バルスが出したらしいな。」 「大した財力ですね。支援者は多岐に亘っているらしいですが…。」 「商人も集まっている、あの商館を見ましたか?大きいのが4つはありますね。それと舞台堂まで。」 「新しい邑では最も最後に造られるものなのにね。創造されないこともあります…羨ましいことです。わたしたちもこのような仕事をしていきたいのですね。」 リュイの耳の中に流れ込み、そして去って行く言葉たち。彼女の心に跡を残さず、一つの優しい旋律となって消えていく。リュイにとっては、それは音楽と同じだった。 「奇跡のようだな。」 空を、父親が顧みて呟いた。歌声が聞こえてくる。人の雑踏の声と同じくらい、さりげないのが美しい。 道を曲がると、途端に混沌の空気に包まれる。駕篭に積まれた果物と、巨大な円皿の上に放射状に広げられた魚たち。その脇に、小さな卓の上に巣くう、穴熊のような金細工師がいる。天井一面に、布が張られた街路だった。商館区画に生まれたバザールだ。 「リュイ…ガマンできるね?」 色とりどりの飴に気をとられていたリュイはあわてて顔を上げた。ぷ、と頬を膨らます。 「んー、分かってるの。大丈夫、リュイはぐずらないの。」 この邑はバルス、正式に表せば新生バルスという。 元の由来は遙かな歴史の中に生まれた邑の名だ。栄華を極めた美しき邑。争いよりも対話を、芸術を愛した邑だった。アフネリア邦国に属した地域だというが、かなり特異な存在だったという。言霊人の邑でありながら、五種の民とナルスを受け容れた邑であった。その理由は、彼らが芸術の卵を抱えていたからだ。 しばらく、時の車輪が回り、バルスは、あらゆる部族が共存する社会となっていた。奸計の言葉より詩を、剣の柄よりも絵筆を。争いよりも会話を。全ては皆が平穏に生きることを望み、そしてそれは成り立っていた。─どれ程異端視されたのだろう。 「独立戦争」という言葉がある。神人の情はこの島を、圧制の言霊人から独立して得たものだと信じ、この島に住む神人たちの誇りの源泉としている。どんな真理よりも、人の情はすべてに賢る。人と生まれた限りは情で動かされ、情が世界を造る。 その為かこの邑を再来させたのは、神人とは異なる存在であった。 邑宰ヴィーシア=アプシーズの髪が風に流れていた。豊かな黄金色が、きらめきを幾つも放っている。ほぼ同色の環飾りが華を与える耳は、鹿のもののように尖っている。波打つ金の髪の中に若草の瞳が光っていた。 冬の気配が少しずつ空気に融け込もうとする時期でも、彼女の色合いは春の気配がした。 「やっぱり寒くなるね。空はひどく高くて蒼いけど。」 胸を膨らませて、空気を吸い込む。氷水を飲み込んだように、空気は溶け込んで行く。心身の気に融ける清冽な味がした。彼女の髪が、耳飾りを滑って軽い音を立てる。 路行く人々は自然なものを見るような視線と、純粋な驚きに二分されていた。 彼女の服装は平服と変わらないデザインだった。ただ、普通の平服とは僅かに違う色合をしている。湿原から取ってきた染料と、シュエルの染め物職人による絶妙の配合である。そして、ふと人々は感じる。彼女の内から芽生えるような光が。 すたすたと、軽い足音が聞こえた。薬師の衣装を身につけた。ヴィーシアと同じ色合いの青年が近づいてくる。どこか雲の上を歩むような雰囲気だった。 「ご機嫌ですねぇ。」 ヴィーシアは振り返った。柔らかい蕎を思わせる髪を微妙に光らせた、同じ後期妖人の薬師ダナスがそこにいる。薬師の衣装に、片手に小袋。眉間は少々困ったように寄っていた。「薬師はこれからしんどくなるのですよ〜。分かっているんですかぁ。」 「ごめんごめん。」 彼女はウィンクを返す。しかし、内心の昂揚は隠しきれていないようだ。心の中の鏡が少しずつ変化する冬、そして雪の匂いを映しているのだろう。ごきげんな空気が心臓の辺りから生まれているようだ。 「でもさ、たくさんの奇麗な冬の絵が増えるし、好きなんだよ。冬越せる目処はどうにか立ったしね。」 へぇ〜と言葉を落として、ダナスの目は丸くなる。どことなく、彼女の放つ陽気な光に照らされたように明るくなったようだった。 トゥー族の住む土地は、冬の存在が強い土地だ。その時期は純白の舞い散る粒に幽閉される。トゥーの邑々がその季節を越す方法の必要性を強く認識しているように、バルスもそれに従っている。特にこの邑は湖に隣接しており、氷交じりの風が吹き込んでくる。 そして、ヴェルーダ。再来バルスの活況と共に必ず話題に昇る邑だ。今や廃邑だが、気功術師の邑宰によって、あらゆる場所の熱を奪われた。冬が空気の一粒にまで宿り、それが人に変わり邑を支配したのだ。 今バルスはその廃邑の民を受容していた。天下の愚策か、慈善か。乱世の時代の法則をも突き抜けたその政策に、島中にしばし噂が躍った。廃民の彼らの上にも、季節は巡る。ナーラダの人々には、簡単な手続きで厚い布と毛皮、炭の交付表が支給された。寒さの種が再び目を出さないように、星薬会も派遣する人々を増やし、街のあちこちでは焚き火用の丸炉が造られている。 「ね、ダナス薬師。」 「はい?」 ヴィーシアはふ、と言葉のトーンを落とした。 「何か暗いよ、久々に戻ってきてから。」 何故か、そう持ちかけられると、人は心の箱を開いてしまう。ダナスの面が、引きずり戻されるように、僅かに影が帰って来た。沈鬱なものではなく、ちょっとの憂鬱といったところだ。声のトーンが僅かに落ちた。 「うーん、ちっと悩みがあるようなんですね。その…ショウバイカンケイ、ということですか。」 「は?」 ヴィーシアの瞳は丸くなった。腕を組み、草色が、宝石のようにきらめく。 「ナーラダ人のお医者さんが来ているんですよ。その人が滅茶苦茶繁盛してて、僕ら星薬会はちょっぴりおざなりなんです。」 「ふーん。」 「それがまた男妓なみのいい男なのだそうですよ。」 「ああ、色かぁ。はは。」 分かっているのか、いないのか。ヴィーシアの諧謔的な明るい笑い声が響いた。ダナスがぷ、とむくれる。大人の男性の姿だが、妙にしっくりきている。一介の邑宰と、ヴェルーダの廃民たちに対する治療の立役者として、実力を注視されている医者が語り合う様でもないが。妖人独特の、柔らかい透明な雰囲気が彼らにも備わっているのだろうか。ただ少々、一般より生気のコシが強い。 少しまじめに、ヴィーシアは表情を戻した。 「うーん。残念だけど、やっぱりヴェルーダ出の人達は、同じ部族の人に診て貰うほうが安心だろうし、ダナス達は薬師だろう?医者と薬師、一緒でいて微妙に異なっている。多分、そのうち二つは全く別業になってくンじゃないかな?ここの星薬会には西部の人々が遠くからも来ているんだろう。その人々への治療を優先して欲しいと思うんだ。」 人間にとっての一年が、ほぼ十年に値する時間軸を持つ彼らにとっての「そのうち」がどれほどのものだろう。 「そーなんですよ、そーなんですけどね。」 珍しく眉を寄せた顔で、ダナスは呟いた。謳うような響きが流れる。 「そのお医者さんなのですが、ただなんです。」 「困りましたね…私たちにどうしろというのです?」 眉を寄せて、ティン・セフィルは呟いた。 絹に包まれた刃物がその前にある。たおやかなセフィルの手にもしっくり納まる細い合口だ。持つものの手の力を十分に絞り出させる形態。セフィルは直観した。氷柱を折り、誰かの手の中にしばらく持たせたようなかたち。 薄青にじみの透明が、彼女の象牙色の肌を透かしていた。放つ精気が違う。生々しい。意識のどこかを撫でるような艶気があった。虫を引き寄せる可憐な花の匂いのようだ。表面に文様のような文字が刻まれている。強い武器とは刃の切れ味だけではない、人の─原始的とも言える、意識の隠れた脈を撫でる無形の手を備えている。そしてこの合口は、その肌合いみたいなものがより感じられた。 資材、布、燃料、火の気を保つための食料品を更に。凄腕と歌われる財務長官の手腕もあり、商人たちの好意もあり、予想されていたよりも早く達成できた。それどころか、ある種の重宝すべきものとして、彼らの間では存在しているようだった。 ヴィーシアの元には、今挙って島中の芸術品が流れ込んでいた。その中には生身の人もいる。 しかし、今セフィルの手の中に収まり、澄んだ晴天の日を反射している刃は、それら贈答品の一部ではない。南から手と手を経てわたって来たもの。 それは、流れ込む贈答品よりは、この新しい邑と関わりはある。あるいは非常に関わる綱は強い筈だ。ヴィーシアに知らせたら、草色の目を丸くして驚くに違いない。しかし。セフィルはため息をついた。雪のような白銀の髪が揺れ、石畳の路に影を落とす。 蜘蛛会の商人が、その前で無表情で眺め続けていた。感情の生々しい流れが消えている。このような時には、余計な情による圧迫は必要ないということを知っているようだ。 「私たちが買い上げなかったら?」 「蜘蛛会の方にひとまず収めます。…一つほどは持っていた方が箔づけにも宜しいと思いますよ。そのうち、トゥルニア円卓会議が閉鎖してしまいますでしょう。」 彼の懐で、蜘蛛会商方役の環印が微かに揺れている。上層部に近いものの証しだろう。 セフィルはまっすぐに商人の目を捕らえた。綺麗な響きが、その唇から落ちる。彼女の声は、カラヴィンカが祝福しているのだろうと思わせる程、心を引き寄せる。 「2日ほどお待ちください。邑宰の意見も伺わなくてはなりません。─それと、この件は決して口外しないこと。ここでも、アヴィーナもです。」 意外な程簡単に商人は了解し、商館の方へと歩いて行った。その背中を見つめていたセフィルは、軽く眉を顰めた。口約束がどれ程腐敗せずに続くのだろう。 何処で、得た情報が漏れているか分からない。ナルスがそれを知ったなら、情報は共有すべき宝物となるからだ。ナルスという部族の生きるための方法だとはいえ、外の地域にとっては、薄情なだけだった。ひとの情というものは、難しい。バルスが急速に一つの邑として芽吹き育って行く中で悟ったものだ。 そこまで考えの綱を巡らせた時、セフィルは小さく目を開いた。 腰の辺りすぐ下に、白銀の小さな頭がゆらゆら揺れていることに気づいたのだ。慌てて絹の包みを懐に隠す。 「子供は危ないですよ。」 その声の美しさが、薄い皮を剥いたように明らかになった。 子兎が音に反応するように、子供は頭を上げる。毛皮の首回りに埋もれたような小さな顔が見えた。リュイである。 剣持つ聡明な聖女、それこそ相応しいような表情を浮かべ、セフィルはそれを見下ろした。圧迫感は不思議に零と化す、雨のような視線だ。 リュイは上目遣いで見上げていた。長身のセフィルの視点からでは、自ら光る蒼の宝玉のような大きな瞳と、赤が飾るほっぺたと髪しか見えない。 リュイは精一杯考えていた。まずは、あの美しい透明な金属に触ること。人と人の間を擦り抜けて一息ついた時に見えたのだ。透明の、宝石がこちらを見つめてるように輝いているのを。セフィルはその時、気づいた。合口はまだ我が手のひらにある。 ふわ、と手が差し伸べられた。金の指輪で飾られた、白い、華奢な指が見えた。 磁石に吸い付けられるように、思わずリュイはその手を掴んでしまう。 「みたいの。」 「何をですか?」 「あの、きれいなの。」 その目は、純粋な好奇心と喜びに溢れていた。 「あれは内緒のものです。ごめんなさいね。」 リュイは、ん〜〜?と唸ってちょっと頬を膨らませた。鳥の鳴き声のように透き通って甲高い声が響いた。周囲の人々が目を丸くして視線を向ける。 邑宰丞セフィルは、困ったように微笑んだ。 二人は雑踏の中だった。先ほどの蜘蛛会の商人も幻のようだった。落とし物を渡されたように、あの合口を手渡されたのだ。「ここには、もっときれいなものがたくさんありますよ。」リュイの不満な顔は続いている。セフィルの手を掴んだまま、左右にふわふわと体を揺らしていた。向けられる大きな瞳は、期待に染まり、何かを欲しがる想いに満ちていた。 セフィルは空いた手を唇に触れさせて考える。 「何か、見ていきますか?」 「うん!」 落とされた言葉に、リュイの言葉はより高くなる。光を当てられたように、小さな面は明るくなった。今に飛び上がりそうだ。笑顔が溢れ、零れる。 手が引っ張られた。セフィルの白い裾に纏わり付くようにして、子供は笑った。 「ね、ここ、新しいバルスなのね。」 放たれた言葉は、セフィルの耳に飛び込む。─この子は知っているのだろうか。胸の中の包みがわずかに熱を持った気がした。 「あのね、とうさまがね、昔のバルスもあるんだよって言ってたの。んーとね。ずぅーーっと前にあった邑だって。そこではみんなお歌とか歌ったり絵を描いたりして仲良く過ごしていたの。」 声は楽しそうに踊っていた。その軽やかさに、思わず微笑が伝染する。 子供の方がすぐに、何の障壁もなく理解してくれるのかもしれないと思った。旧バルスの存在は、御伽噺の呼び名が最も相応しい。 「ご両親はどちらにおられるのですか?」 「後で、あのおひめさまの神殿で会うの。」 「おひめさま?」 「羽が生えてかんざしをつけたおひめさまなの。」 「カラヴィンカの神殿ですね。後から行きましょう。」 「ね、ね、バルスは神様の神殿が一杯なの。いろいろあって迷ってしまうの。」 中空で、リュイの指が回る。自然と彼女の体に引っ張られる形になった。 鐘の音が波紋のように広まるのは、どこの神殿からだろう。トゥー族領域には、信仰者が非常に多かった。芸事と信仰とは根は同じものなのかもしれない。そして、バルスにはそのかなりの数が集っている。多様な色彩と構造を持つ神殿たちは、旅人の目を楽しませるに充分だった。 リュイは、足に羽が生えたように走り回っていた。バルスの神殿巡りは楽しかった。歌神のような声を持つ詩人のこと、白い石の壁に、一つの世界を創造できる絵描き。 夢の世界、眠る寸前に、両親が教えてくれた話と道が続いているような所のような気がした。そして、目の前に次々に広がる風景も、そのお話と同じものだということも。夢が芽生えたような気がした。 セフィルは、話ながらまた別のことを考えていた。 今は青白い塩の樹々が生い茂る森で、それ以上ではない。塩の存在自体が特殊で、護るべき宝庫だった。そして、卵を衛る母鳥のように存在するトゥルニア円卓会議がある。 円卓会議は、バルスがまだ種の存在だった時に、その過去の場所を教えてくれたこともあった。時に不思議に思うこともある。─今だと、遙か昔の御伽噺の場所を教えてくれるだろうか。 「…今度、お礼に、その、昔のバルスがあった所に行きたい、友達と話しているのです。」 リュイの目が丸くなった。小さな手がまた舞う。 「えー、リュイも行きたい、行くの!」 太陽がそこにあった。 手を伸ばし、遮ると、指の間に血の色が透かした。途端に、隣から大袈裟なくしゃみの音が聞こえた。続いて鼻を啜る音。二つの音はどちらも大きい。妙な愛嬌が滲んでいる。ヴィーシアは、笑いを含んだ眼で横を向くと、隻眼の男が鼻を擦っていた。少々煤けた漆黒の外套が柔らかく揺れている。 「忙しくないかい?」 「大丈夫だぞ。」 豊かな低い響きが風に揺れる。バルスの守護部隊、「銀狼の牙」の一人、ゼオ・マキスである。織布を巻き付けた長い槍を抱え、その布も、紅色に旗めいていた。 「…まあ、ヴェルーダの仕事さえ無くなればな、もっと楽になるのだがなあ。」 「あ」に力を入れた声に、ヴィーシアは申し訳なさそうに表情を霞ませる。淡い色の睫が影をつくる。最近の彼は、事あるごと「ヴェルーダ担当員の積もりではないのだが…」とブツブツ呟いている。当人は、抱えた邑がそれなりに自立したというのに、ふわふわと散歩を続ける邑宰の護衛の積もりである。 しかし、ナーラダ領域のもう一つの廃邑の出身というレッテルを与えられた彼にとっては、それは幸運な選択ともいえた。 「そういえば、今の土地の方を知っておるか?」 「何?」 「財務長官から教えてもらったのだが、今ヴェルーダには賊やら生活破綻者が集まっているらしいぞ。」 目が丸くなる。なぜ、クーレーンが知っているんだろうという疑問が胸の隅に跡を残したが、それは好奇心の光に霞んだ。細いが、しなやかな指を丸め、鼻先に持っていく。彼女が、何らか邑の流れに考えを及ぼす時は常に一瞬だ。 「…まぁ、一邑分の土地がまるまる空いたということは確かだしね。ロアが連れてった直後、スィスニアとかが手を出そうとしたらしいし…。」 ちら、とゼオの顔を見上げる。彼の眉には揺らぎの影は無かった。紅色の布が高く叫ぶ。暖かさが一つ、若草の石の中に落ちた。 「とてつもなく寒いことを除けば、あそこの土地条件はいい。元々ヴェルーダは大邑の一つだった。…ここは平和で良いな。」 「そうかな?…そうだといいけどねぇ。」 道行く二人の頭上に、正六角形の図紋が彫られた壁が現れた。その中には一匹の蜂が刻まれている。ヴィシュヴァカルマンの神殿だった。 蜂の作る巣の形は最も完璧な形だとされている。温度を保ち、子を育て、外敵から守ることができる形。この神に従う獣として蜂が選ばれているのは、それが理由だった。藍の衣服を着た神官が、突然天から降った強い風に呪いの声を上げている。 「…そういえばさ、移民の中に、タダで患者を診る、ヘンな医者がいるんだって、行かないか?」 「…。」 沈黙が突然降りた。骨張った拳がいつの間にか形作られた。彼は霞が罹ったような空に引っかかる太陽を、隻眼で射貫くように見つめる。そして、一喝。 「医者は嫌いだっ。イヤな思い出が多すぎる。」 「そー?」 笑いを含んだ瞳で見返し、ヴィーシアは笑みを零れさせた。「ゼオは強い身体しているから、きっとありがちな薬草は効かなかったんだね。」 途端に顔に朱を上らせたゼオである。ヴィーシアは風を産むように身を翻し、手をひらひらと舞わせた。石畳の上をひとひら、枯れ葉を走っている。 「じゃね。私は行ってみるよ。」 「一人は危険ですぞ。そろそろそーいったことを考えといて…。」 投げかけた言葉は届いているのか、金色の波は角を曲がって行った。一雫の静寂が心に落ちる。おれは夢を見ているのか。時々浮かび始めた言葉がまた、頭を擡げた。 この、目の前に光りかけている太陽を、曇らせたくはない。その想いはより切実になっていった。それは無邪気なもので、手元の華が涸れると哀しいとか、そういったものだ。この邑はどうなるのだろう。─この世界で完璧に新しいものは無い。廃れた邑たちに根付いて、この邑は生まれたのだ。 その時、きつい目付きで睨んでいる巡視のナルスの少年に気づいた。ナルスの蜘蛛会からやってきた、「商売道」とかいう呪文みたいなものを使うオヤジの孫だ。ゼオは横目でちらりと眺める。 取り敢えず槍を投げてみた。 「ヒマなら持ってみろ。ふん、重いだろう。」 「やかましいッ。」 蒼天に高らかな声が上がった。 街路の視線がある場所に吸い込まれた。それ位、放たれる声に満ちていたのは無形の力。 粗末な格好をしているが、それが霞む程の色男だ。明らかなナーラダ族の容貌をしている。ざわり、街路の声が底から高まったようだった。 足音が聞こえる。土の道を駆ける音。それと共に、人々の頭が、一筋、波のように大きく揺らいだ。そこは、余りに人の流れが多い為、路にはまだ石は敷かれていない。土の路は既に、石より堅く揺るぎなくはなっていた。 ヴィーシアの耳がぴくりと震えた。足が早まる。 喧噪は別の音と化していた。波が激しさを増す。秋の日差しが、人々の頭に肩に落ちて乱れ光った。土埃が舞い始める。その中心に、仁王立ちした医者が立っていた。黒い髪は秋晴れの陽光に、青紫を滲ませている。噂の無粒医者だということは、どことなく読めた。それが一瞬後に静かな容貌になった。 声を上げると、その顔がこちらへ向く。 「どうしたんだい!」 「盗っ人です。」 返される声も素っ気ないものだった。しかし不思議と心差す響きがある。 ヴィーシアは駆け出そうとしたそうとした。その背中を、先と同じ声が叩く。 「追っても無駄ですよ。また罪を犯すでしょう。」 片手のものを、弄ぶように軽く投げる。卵程の大きさの香炉だった。翡翠の冷たい光を一つ放ち、また彼の手のひらに落ちる。 「そうか…最近多いんだ。貧しい人が流れてくることもよくあってね。」 ヴィーシアの声は、前の素早い動きとは対照的に、耳を撫でる、静やかな響きを孕んでいる。 「どうだか。明かに彼は自分で食えるほどの体力はもっていましたよ。」 喧噪は収縮していっている。人々は荷物も取り落とさず、また、それぞれの目する路へと戻った。あっけない程にそれは早く、人いきれの中に戻される。 変わりに、無形の視線の数々が、生まれてはヴィーシアに注がれていた。「邑宰だ。」「あの…噂の?」そんな言葉が、人いきれの中に微かに響いている。好奇心や珍獣でも見つけたような、珍しげな色が殆どだったが、その中の熱をダルディークは嗅ぎとった。その頬を、微かな風が撫でる。 太陽の光の渦巻きがある。驚く程しなやかに腰を曲げて、ヴィーシアは頭を下げていた。金の髪が土の上に触れている。二人の間だけの、円形の沈黙が一つ降り立った。 「住まないな。」 声が下から生じた。 「邑を纏めるべき私たちが、人々の気持ちや、求めることをしっかり見極めていないから初めて訪れた人々に迷惑をかけてしまうことになるんだ。─もっと、邑の人々に目を向けていかなければいけないね。責めるのは、責任者である私たちにしてくれ。」 医者は手を差し伸べた。その手は柔らかく、ふわりと泳ぎ軽く肩に触れる。 「お茶でも飲んでいかれますか。」 ダルディークの豊かな声は、甘さも含んだものに変わっている。鬼扱いでもするような刺交じりの視線も、慣れているかのように気にはしていないようだ。 顔を上げたヴィーシアと目が合う。無垢でもないが、ひどくまっすぐな視線だった。それを知ってか、ダルディークは微笑した。 「私は、ダルディークと申す、一介の町医者です。」 「どうしたの?」 リュイは大風に襲われた。それは、小さな彼女がくるりと一回転しかけしてしまう程の勢いだった。 上げた目にちらりと通り過ぎたのは、黒い艶のある髪だった。それが風の中心らしい。その後のざわめきの波紋は、リュイも感じ取れた。顔を上げると、人々が大きく乱れている。風の人の素早さが僅かに勝ったようだ。 「!」 隣のセフィルの体が緊張した。波一つ無い湖のような穏やかな瞼が凍りつく。 「セフィル?」 リュイは覚えたての名前を口に出した。優しさが滲んだまま微笑する。銀色の長剣は、裾に隠されて把の鳴る音は響かなかった。柔らかい髪に触れる。 「少し出掛けていきますから、静かにしていてくださいね。」「んー。」 唇がちいさいへの字を作る。眉が少し上がっていた。そういうことばは聞き馴れている。けど。上から振り落とされる言葉は、優しくても無体なこともあると知っている。後ろで堅く組んでいる、白い指は鍵が解けない。 その複雑な色に気づいたのか、セフィルは困ったように微笑した。泉のような瞳が曇る。 「…すぐ、戻りますからね。」 身を翻す。その後を独特の衣装を着けたひとたちが従っていく。視点の低い彼女には、足と帯しか見えない。銀色の帯が目に眩しかった。銀色の狼のひとたちだった。 リュイは柱に凭れた。屋根を支えるそれは、タイルが一面に貼られている。ブーツの踵が、青い花柄のタイルとぶつかった。透明さと、雑多なものが融け合わず漂う空気を吸い込んだ。菱形の屋根の間から、青い空に雲が泳いでいる。 くらげのようなふわふわしたものが近づいて来た。そこだけ、水がたゆたっているように見える。それは精霊というものだと父親に言われたことがある。彼女には、それを見る眼が備わっていると。しかし、それがどんな存在なのかは分からない。─リュイが名を定めること、そう教えられたのだ。ただどちらかというと、匂いとかかたちとかが母親に似ている気がする。 今になって水が溢れて来た。リュイは鼻を啜った。とうさまやかあさまがいないという事実が、大きい黒い穴となって口を開けている。 その時、懐かしい匂いが鼻先を擽った。白い木綿の服の裾が揺れるのが、眼に飛び込んだ。その余韻が頬に伝わる。 顔を上げると女の人がいた。白銀の髪、青紫の瞳、どこか華奢な雰囲気。典型的なトゥー族の女性だった。その腹が見事に膨らんでいた。子供なら大抵が反応してしまう生気みたいなものが、暖かな予感を持って存在していた。藍の羽織りも隠せそうにない。 その女性は商人たちの流れの中に消えて行った。 「およ?」 彼女が丁度消えた所に、濃緑の垂れ布が風に揺らいでいた。 「噂の邑宰に出会えたのですからね。」 垂れ布が上がり、ヴィーシアは目を丸くして見回した。小ぶりの棚と、薬品の入った壷が並んでいる。それらは、多少薄汚れてはいるが新鮮な匂いを発していた。流行っている、という事実は間違いなく存在しているのだ。隅に出来た影に、細長い把が静やかに収まっている。金の光だけが炎のように一筋きらめいている。 「さて、私が侍医の役を勤めさせて戴きましょうか。」 ダルディークはにこやかに話掛ける。唯一粗末な木椅子に、どこからか取り出してきた朱雀の刺繍が施された腰掛けをふわりと乗せる。 「最近、肩が痛いんだ。働きすぎでね〜。」 同じように、にこにこと笑いながら、ヴィーシアは声を返した。その容貌は派手やかだが、血の流れを感じさせる、微かに少女に似た面影を残した女性の姿だった。ただ鮮烈な存在感の雰囲気がある。 「バルスの成長は見事なものですね。ほんの一年程なのに、ここまで区画が整理された上に、あらゆる所で楽曲が響き、商人達が大挙して訪れる街になるとは…。」 「んー、そうだといいんだけどねぇ。…私たちもここまで大きくなるとは思ってみなかったよ。うん。」 「これからも設営を続けるのでしょう?」 ダルディークは、湯気を浮かべる椀を手渡した。 「少し滞ってる。ユディトの邑とかでたくさんの資材が要るようになったんだってさ。…治水の為だと思うのだけど、この前も法吏がわざわざ断りにきてくれてね。援助もしてくれた手前、こちらの希望を優先することは出来ないんだ。…それに、木材も限りがあるし、育つ期間ってのも必要だろう?」 「そうですね…刺激になっているのではありませんか?」 笑顔を浮かべると、彼女も同じようにして応じた。心の全てを開け放っていることが分かる表情だ。天性のものか、これが鳥なら、羽ばたいて踊っている様子である。 ヴィーシアは、茶を一息で飲み干した後、椀を目の高さに持ち上げた。熱情的な目で眺める。 「…これ、七宝だろ?すごいねー。」 「はぁ…」 その時、雷鳴のような轟音が狭い部屋を貫いた。風邪をおっぴいたというメール族の男が、数秒に一度は部屋が揺れるような嚔を盛大に放っている。先程の騒ぎでもその調子は変わらなかった。 「大丈夫ですか?そろそろ薬草が効いてきたはずですが…。」 「たまらんな。」 邑宰をちらりと眺め、彼はまた布を引っ被る。 「…忙しそうだね。その上、貴方は金を取らないっていうけど」 「それは…秘密です。こうして人の息の中にいて、話をしているだけでも安らぎになっていますよ。生来こんな方が性にあっているのでしょうね。」 部屋は静けさが落ちていた。ダルディークにとっては数日ぶりだ。治療を求める人々に流されたように揉まれ、時間の感覚はほとんど失せていた。買い集めた文書を読み耽る暇も無い。色気を精一杯放っているというのに。この数日間、感謝のことば、喜びのことば、誹謗の言葉、悲しみの言葉が幾重にもふりかかった。無粒というのは、流石に力を持つ。その恵みを求める人は後を立たなくなり、影響は星薬会にまで現れている。その末は、あの財務長官から注意書が回って来た。懐にそれは収まっているが、愉快なものだ。 一つの存在が回りの世界に影響を与え、それが巡りに巡り考えてもいなかった面から響きが帰ってくる。ダルディークはそれを実感した。やがて邑宰ヴィーシアにまで出会えたのだ。 邑宰とはいえども、人であり、ものを食べ、幾千もの言葉を語り、子を繋げる。それが、歴史のある種の形の元となっている。しかし、彼女はそうではない。その藤黄色の肌色、並の妖人とは少々異なる、黄金が燃えるような光を称えた髪は微妙に揺れる。 その命の刻は人の十数倍はあるという。その大きな距離感。しかし、逆に、ほぼ一年の間にひとりから、一万近くの邑民を抱える邑を創造したという奇跡の導き人でもある。 そう。それはある意味で何かに似ている。 丁寧に煎られたことがすぐ分かる薫りが部屋に流れる。ダルディークは、その香りを楽しみながら考えを巡らせていた。思考さえも、茶を嗜むと同等になってしまう性癖は、ダルディークという人が備えたものなのかもしれない。 「何か、邑で行われる政などありますか。」 「そうだね…周囲の邑々を集めた会議みたいなものもしたいんだ。あと美術展も!祭りは色々やるよ〜、ここって神殿が多いからさ。一節に一回は祭りがあるようなものだけどね。そだ。」 ヴィーシアは軽くウィンクした。睫が瞬く。 「今度、小さな祭礼をやろうと思っているんだ。」 しばし茶を味わった後、手を振って、またヴィーシアは去って行った。残り香のようなものが浮かんでいた。 ダルディークはため息をついた。心でその残り香を吸い込む。 患者は寝付いたようだった。今度は地鳴りのような鼾がとぐろを巻く。 据えたばかりの棚に近づき、浮かし彫りの戸を引く。甘い匂いが鼻を突いた。そこには皿があり、上には、バルスもなかが居座っていた。現在のバルス名物の一つである。それを発明したのは、どこかの邑宰家から解雇された菓子職人だったという。紅豆の一種を、砂糖大根の液と柔らかくなるまで煮たものに、同じく五穀の米の粉を水で溶いて焼いた殻を被せる。茶と共に食すると、味が益々芳醇さを増すことは知っていた。口の中で、その殻が解けるように崩れるのが上質の証らしい。 「出すのを忘れてしまったな。…」 呟き、取り出す。皮は手触り良く乾いている。ダルディークはそれを口元に持っていき、口内に運ぼうとした。想像される甘みを、舌が待ち受けようとした瞬間。 「おいしそうなの。」 鈴の音のような声が、彼の耳を突いた。 ダルディークは口を僅かに開けたまま、時間を止める。微かに緊張した首筋。殺気にしては軽すぎる気配。 少女と示すにも幼すぎる子供が、そこにいた。裏口に垂らした布から顔をちょこんと出している。彼女の短めの髪が、陽光をうけてきらりと真珠のように光っていた。 視線の先に、狐色に焼けた薄皮の物体があった。 しばし、二人は沈黙する。 「…食べますか?」 言葉だけは柔らかい。その言葉─いや、響きを聞き取ったのか、少女の顔に笑顔が花開いた。 「ありがとうなのっ。」 既に貰えることを予知していたような顔で、駆け寄りもなかを受け取る。敗将の旗を奪い取るような勢いだ。ダルディークは諸手を上げた。 そのまま、ぱくぱくと、口を動かして食べる。兎みたいだな。感想を浮かべていると、白い、細い喉の動きが僅かに変わるのが見えた。緩慢になっていく。 顔色が変わるまえに、ダルディークは手早く一回り小さい椀を取り出した。次の茶を、かなり薄く入れる。椀の底が揺らいで映える程。 屈み込み、目線をひたと合わせた。土間の砂粒が、草履を通して足の裏に突き刺さる。薄い湯気が低い場所から立ちのぼって行く。手の力を抜くと、小さな手が椀を受け取った。そのまま、一気に飲み込む。小さな椀とはいえ、彼女の顔の半ばは覆われる。素焼きの其処しか見えなくなった。 全てを飲み干した後、リュイは、多少赤くなった顔全体で息を吐いた。青さが滲む位白い歯を光らせ、咆哮のように。 『ぷはー。』 目が丸くなった。その大して長くはない時間の後に、ダルディークは、喉奥からため息のようなものが出てくるのを感じた。咳き込むのと殆ど変わらない感覚で息の固まりを吐き出す。途端に、顔中の筋肉が緩んだ。 本日の客連中の派手さに、笑いたくなっただけだ。 歌声が響く。高らかに、青色の冷たさを蓄えた天空に駆け上がる。 トゥー・ラスカはその白い面を軽く上げ、風の匂いを嗅いでいた。 「バルスにいこうと思う。」 「どちらに?」 「トゥルニアに呼ばれたんだ。今度こそ音楽祭に出ないと。そのついでにね。」 その脇には幾つかの バルスに近い位置にある、シュナフ邑宰家に繋がる極小邑の宰相が死したとか、ある邑では、邑宰と法吏の分断化が進んでいるとか、宰相権争いで幾人かの死人が出たとか。まだ、史実へとは枯れてはいない言葉の列だ。じわりと、幾重にも重なった布に血が滲んでいくような印象を受けた。 乱世の音は、剣鳴らす音だけではない。底から醸成され滲み出してくる微かな音もある。 刺を持つものが、このトゥー族の領域さえ生まれている。氷のひとかけらが浮かぶ柔らかい風の吹く大地をも騒動の土地とするのか。無形の恐怖が心の表面に浮かぶ。 時代は、今大きな扉を開けようとしているのだ。繭を引きちぎり生まれ出る生き物のように。しかし、時々思う。乱世とは、そもそも何だ? ラスカの眼が遠くを見透かす。そのまま、視線は溶け込んで行く。 …だから、メルナが人を殺したことなど、乱流の中に揉まれる、小石に似た出来事に過ぎない。 書板の隅に刻まれた、野党制圧の文字は、心に間違いなく針を落としていた。 愛しい妹の、内には銀のような強さを秘める細い腕が、血脂に汚れることは辛かった。それは身勝手な思いに違いなかった。しかし、心身のどこかを、既にメルナに渡している。それの予感は脳裏に根付いていた。 「大丈夫ですか?」 「…ああ」 ルーキの言葉は常に響きが単調だ。どこか、人を従わせるような力がある。それに押されるようにして、ラスカは苦笑し袂を合わせた。 涼しげだが、どこか消え入りそうな透明な貌が、最近は更に沈んでいた。病の触手の匂いがする。恐らく、それは心の気が養っているのだろう。 「ひとが生きているからには、何らかの罪を背負わねばならぬことがあります。─妹君はそれが、最も率直な形で表れたのでしょう。剣持つものの特性です。」 ラスカは目を閉じた。瞑想に近いが、悲しい表情だった。ルーキ・フレイの目にはそう写った。音と沈黙が融合した神殿の中、唄声が回り巡っている。 ルーキは、ラスカの顔を眺めては、別の男の容貌を脳裏に浮かべることもある。─それは、ルーキにとっての、罪を認め直すことであるかもしれなかった。 芸術の尊重と、他民族との共生、融合。記憶の廃墟に流された邑は、ある日ラスカを尋ねてきた二人によって開かれた。それは、今や一つの巨大な若い樹木となっている。神王たちの元へと、光を呑み込み自ら光る葉々を一杯に延ばそうとしていた。 ラスカはその、幼い頃の樹木の根に、水を与えてやった一番初めの人物と言えた。今も、芸術の邑バルスに強烈に曳かれている。 この世界では、優れた楽士も石や布から生まれた造成物と同じように見られることがある。島中の腕ある唄い手、楽師、また踊り手は時に人でありながら、力あるものに送られる道具となった。哀れなことだが、その場所が芸術の価値が認められれば認められるほど近くなる。最悪の場合愛玩のものとなる─妓芸人、娼子というわけだ。 バルスもその路を作るのではないか。回りがそうさせるのだ。妖人には、艶も効かず、芸術品はその付属物まで相手にしては貰えない。その為、寵愛を得る為本当の芸術品が必要になってくる。その誘惑は、ラスカの元にまで余韻を届け始めた。ラスカ自身は、シュナフ邑宰相やユディト邑宰に琴を奏したこともある。 ─大丈夫だ、彼女たちなら。正しき眼を持つ彼女たちなら。瞳の裏に生まれる光彩を追う。胸の霧から目を逸らせることは出来ないが、小さな慰めにはなった。 高い声が空気を叩いた。目が開かれる。 「セルフィアー一の楽士と謳われるトゥー・ラスカに、歌を奏じたいと願います。」 入り口の真ん中で、少年が胸を張っている。14.5位でトゥー族だが、瞳の中の紫が僅かに強い。その隣に、同じ程の少女が立っていた。寄り添うというより、隠れるような風情だ。 「先の歌い手かい?見事なものだった。」 少年の顔に満足げな笑顔が浮かぶ。幼いが、宝石のように力のある目元の持ち主だった。 歌声は、思考の底に沈んでいた彼の心にさえ届いていた。表面的な旋律だけだが、より深く聞きたいという想いを芽吹かせるほど艶があった。 「後から聞かせて貰おう。…友人との話が終わった後にね。すぐ終わるよ。」 カーテンの向こうにある部屋を指し占めす。少年は、意外に素直にそれに従った。隣の少女もだ。─瞳が寄せられる。亜麻よりも深い茶の髪、目は、対照的に明るい蒼の色だった。手に金の鉦が、紅紐で結び付けられている。細い手のひらだが、痛々しさは感じられなかった。 「…君たちで楽士をしているのかい?」 「いや…いいえ。仲間はあと3人います。」 問いかけに、少年は堅さを含んだ声で答えた。カーテンへ足を向ける。その間、二人の言葉が幾つか落ちたようだった。内容は聞き取れない。 僅かな沈黙の後、ルーキはラスカへと向き直った。 「旧いバルスの方は、もう一度、私が行く予定です。バルスのことを知りたがっている友人はたくさんおりますし。…邑の方から本格的な達しが出る前に、調べてみたいのです。」 「駄目だよ、大切な時期なのだろう?」 視線が柔らかく和む。 「父親でも、『子供を抱える』時があるというよ。」 途端に朱を上らせるルーキに、笑みが広がった。 ルーキの、旧バルスの痕跡を探す仕事はしばし鍵を掛けられるようだ。その間、せめて代理人として立ち寄ってみても良い。 琴の脇に置かれた、琥珀色の書板が目に入る。ルーキに預けられたものだ。表面の題詩をもう一度撫でてみる。バルス─、古代、その響きでは「球」を示された。語源は、卵。 カーテンの影で少年は、むず痒くなる鼻を必死で押さえていた。 「湖虫とは珍しかったなぁ。セイラン湖では余り出てこないんだ。」 「噛まれた時は猛烈に痛かったよぅ」 漁師が声を上げる。袂を開いた白い胸が、格子の垂れ布の間からの光を反射して光っている。 会話に、ダルディークは笑みを絶やさずに聞き入っていた。既にそれはダルディークの貌となっている。手は別の意思を持っているかのように軽やかに動き、薬壷から薬を取り出しては傷口に塗っていた。 漁師の一団が数人、部屋になだれ込んで半刻、その喧噪は世間話の穏やかさに変わったようだ。独特な湖の匂いは相変わらず室内に充ちているが、異臭感は既に失せていた。慣れたのである。湖の匂いは、藻と、微生物たちの死骸の放つ匂いが交じり合いながら、 に残らない透明なものだ。しかし今は人いきれとも溶け合い、中 にコシの強いものになっている。舟の上で吸った空気とも違う。 「湖虫は憎らしいものですよ。ここら辺りであまり見られないようですが、セルファニア湖には季節の変わり目に大量発生します。毒のある刺をもっていてね。」 彼の言葉を興味ぶかげに聞いている。そんな時は、どこか豊かな声が説教の響きになる。しかし、土間をリズム良く歩いている白いかたまりには届いていないようだ。 兎の印象は、銀鼠に変わっていた。いかに珍しそうに青い目を巡らせ、鼻を動かし、ちょろちょろ歩き回る。彼女の羽織った白い毛皮付きの布服の裾がはためいている。長すぎるスカートのようなその衣装は羽根のように波打っている。 それを横目で盗み見て、ダルディークは心のため息を自分で聞いた。しかし唇は笑顔のままであった。 「患者の娘さんを預かっているのかい?」 「ええ…まぁ。」 「大変だねぇ。」 漁師たちは他意の無い笑顔を浮かべた。湖の水を吸い込んだ白銀の髪が揺れている。 狭い空間は、薬壷が乱立し、棚も小道具類で満ちるようになった。取り敢えず清潔には気を配っているが、独り身暮らし程度の様だ。薬壷の蓋となる油紙の上に積もる埃が、陽気を受け真白く光っているのが見える。リュイが動くと、その埃が舞い上がり、しばらく浮かんでいる。 新しい邑バルスに住む定住者は、商人やセイラン湖の漁師や藻取りが多い。あの小さな湖が、周辺諸邑をかなり潤していることが分かり、ダルディークは驚いたものだ。珍しい美味の魚や加工しやすい藻が繁殖し、その上湖畔には鉱物も眠っているという。 バルスは港を整備し、舟作所まで設営している。アヴィーナから来た凄腕の財政長官の仕事らしいのだが。人を産み死なせるまでの、時間を与える邑として成立させる為の尽力らしい。しかしそれが回りの邑にどう受け取られるかは分からない。 バルスに暮らす者は今、雑多の極みだった。夢見がちな者もいるし、明かに、社会人としての通常の生活は出来まいと思われるものも道を歩いていた。 さて、自分はどちらの域に入るのか。その問いかけを時折虚空へ投げかけてみる。 「今度、邑宰が塩樹の森に行くんだって。」 世間話の余波が耳に飛び込んだ。ダルディークは顔を上げる。彼女が落とした話を思い出した。 「祭礼ですか?それとも音楽祭?」 「どちらも、でもトゥルニアの方がいい返事をしていないみたい。…なんか塩樹の森に盗掘者とかがふらつくようになってきたらしくて。円卓会議にとってはいい迷惑なんだって。そりゃ、そうだよね。サーズ・ジァルザ邑宰丞の怒りも当たり前だな。」 ヴィーシアの顔を思い出す。芸術家というべき表情だった。善意に満ちてはいないが、押し付けがましくもない。流言、か。もし本当に目指していたとしても、聡明な二人の中核者は口には出すまい。本当は音楽祭もお忍びの積もりだったのだろうが、無形の想念がそれを望んでいるのだろう。「物語り」としては奇麗な形になる。 バルスの噂で、トゥルニアの資産が少しずつ摩耗していることは聞いていた。 漁師、─海女というべきか─は、小さく声を落とした。 「でもさ、あのひとは、怖いわ。ユディト邑宰もだけど。」どことなく、同じ空気が場に生まれた。リュイが顔を上げる。ダルディークとリュイはそれを感じなかったが。 トゥー族応えはどことなく柔らかい。ひとまず、相手の言葉を受容し、吟味した上で言葉を返す。決して強くは示さない。冷たい土地に住むものは、性向が内に向かうという。それ故に優しいとも。ダルディークにとっては新鮮だった。旅する者が味わえる慈味というものを、彼はまた感じた。内向性や閉鎖性に限って言えば、もっと酷い邑はナーラダにも存在している。しかし、時々考えが滲むことがある。やさしい性格というものは、時に烈しいものより残酷だ。 漁師は漁の予定を口々に話ながら、出て行った。緑の目がひたと止まった。視界の端に動く白いものが目に入ったのだ。「あ…あの…」 リュイは振り返った。 「なに?」 考え込むのはダルディークの方だった。7ツの子供に、どこまで話が分かるのか。ダルディークのこれまでの世界には、影も形も無かった存在だ。病の子を撫でる位は出来る。しかしそれは技術だった。 人は不思議に、その時代へと辿る道筋を忘れてしまっている。 「ご両親は…」 言葉の端々に聡明さが伺われる。成長したら、印象に残る女性になるのではとふと思う。バルスは、まだ幼い子供自体少ない。しかし、ある話では、産屋や幼な子たちの預かり家を創るという。 いまのリュイは、座り込んで、壷や瓶を眺めている。こうして見ると意志の強そうな目で、おそらくは壁のように立ちはだかる陶器たちを見ていた。 土の壁に、長箸で文字やら数字やらを描いている。口から呪文のようなことばを紡ぎながら、真剣に土を見つめていた。ちょうど前に、薬を煎じた丸薬の箱がある。格子を組んだ中に、一マスごとに丸薬が収められている。いつの間にか蓋が開いていた。 ダルディークに近づいてきた蜘蛛会の売薬人のものだった。流石にナルスの方が匂いに敏感だ。ついでに、生苦い薬草の匂いが漂ってきた。 逐一確認するのが面倒なので、重ねて床に置いておいたのだった。 丸薬の表面には、ご苦労なことに逐一値段が刻まれている。 「一と、二と。あ、これは二つで5なの。」 大して時間を掛けず、長箸は止まった。息を吸い込み、何かの宣告をするような勢いで元気に言い放つ。 「全部で─、1564粒なの。」 「ふん、大手相手とはかなり差があるな。」 と、ダルディークは思わず真剣に言葉を返した。 ぴたりと静かになる。外の雑踏の音が一際高まり、治療所の中を支配したようだった。 格子は細かく、百幾つに区切られている。値段の設定は規則性があるようだが。細かくは眺めていない。─何か語りかけたかったが、丁度良い言葉は見つからなかった。 「リュイっ」 瞬間、声が舞い込んだ。あー、とリュイは笑顔を見せる。腰を上げ、声に駆け寄る。音より一つ遅れて外気が流れ込む。僅かに温度が下がったようだった。 「ここにいたのですね。」 垂布を上げて、白銀色の髪に、独特の帽子を被った女性がいた。柔らかな表情に、安心の色が浮かんでいる。治療所の中を見回す。自然と、ダルディークが視界に入り、丁寧な礼をした。 「お邪魔致しています。」 一瞬、先のヴィーシア邑宰との光の対照が思い起こされた。妖人やトゥー族は髪色が輝くものだから、当たり前だが。それを際だたせるように、涼やかな印象の女性だった。 「迷い込んできたのですか?」 リュイは眉を寄せた。唇がちいさく動く。 「違うの。」 その後ろで、呑気に声が上がる。丸椅子に足を組み、ダルディークは笑いかけた。漂わせるように感じさせられる紳士的な様は失せてはいない。 「迷子のようですよ。しばらくここで遊ばせていました。」 「そうですか…。リュイ、迷惑を掛けていませんでしたか?」 「そんなのしていないの。」 リュイは真剣に答えた。ダルディークとしては苦笑するしかない。子供の感覚は、大人のものとは別の世界のものだから、真剣に考えてはいけないという気がする。 女性も微笑した。その目にはどこか一粒の曇りがある。 「でも、お医者さまはお仕事中ですから、邪魔してはいけませんね。お茶でも飲みましょうか?」 「んー。」 リュイはくる、と振り返りダルディークを見る。 「お医者さま、また遊びたいの。」 「そうですね。待っていますよ。」 女性も軽く一礼した。滝のような白銀が艶やかに流れた。 「それでは…失礼致しました。」 彼女と少女は雑踏の中に消えて行った。晩秋の陽光が、彼女らの上に降り注いで、白く光らせたようだった。確かここの邑宰丞だった筈だ。文武両道、才色兼備を絵にかいたような女性らしい。確かに、竹のようにしなやかな姿態は目に映える。 まさか娘ではあるまい。─少々下世話な言葉が浮かんで、ダルディークは頭を掻いた。 白鷺が羽ばたいた。凍り付いたように純白の飾羽と共に、クリシュナの神官衣が風にはためいている。氷を含んだ冷たい風が、身を撫でた。 極寒の都は、既に冬の息吹に包まれている。それでも、毎年巡る音楽祭の予兆みたいなものがそこかしこに宿っていた。技芸神の神官たち、各地の音楽家、音を愛するものたち、それぞれに楽器を携え集まってきている。 しかし、彼の目はこの島では希少の鉄のように冷たく、手元の書板を写したままだった。 ぼそりと言葉が落ちる。 「あの…遺跡おたくが。」 存在してしまったのだ。結果を生まないならば、原因の存在自体が知られなかったのだ。表面を雑多なものたちが掻き回していたとはいえ、事実は闇の中に隠され眠っていただけなのだ。身体の中核を、鋭い槍のようなもので突き削られていくような感覚が走った。 「森はどうされます。」 背後から忍ぶ声に声を返す。 「…閉ざせ。」 「御意」 見返す瞳に恐怖と、もっと深い熱情みたいなものが交じるのには気づいている。言葉を出した途端、すぐさま従うものが増えて居ることも。それを売りつけたという蜘蛛会の男の方がずっとましだ。形に鳴らない苛立ちが生まれた。それは、もっと深い暗い所に根を張って居るようだった。 銀の線を基調にした衣服が、人の間にちらちらと光を放っている。 ダルディークはそれを捕らえていた。藤を編んだ小駕篭をぶら下げながら、煙草等々買い物の最中だ。 衣装はよく覚えている。銀狼四部隊という、邑宰丞ティン・セフィル直属の精鋭部隊だ。バルスが刃で攻められる時に、この邑を守る部隊である。平時は舞踏団や、弦楽団を努めるらしいが、今は便利屋の色も強い。 嗅覚というものだろうか、ダルディークはさりげない動揺の流れを感じた。雑踏の中、視線を滑らせる。 「何か騒がしいようですが。」 振り返ったのは、猫のような顔付きをした、アプシ−ズ・エルフの女性だった。明かに、無垢ともいえるよな女性の表情をしている。彼女は、眉を軽く上げた。 「ドロボー。」 「…はぁ。」 「セフィルさんの預かったものが盗まれてしまったんだって。」 世間話をするような感じで、話を続ける。彼女の脚はステップを踏むように軽く揺れていた。 盗っ人づいているな。─と思った。こちらは未遂だったが。黒髪の、視線が上滑らせるような顔をした男だった。それが腹が痛いとか言ってやって来て、丸薬の一つでも処方しようとしたとき、香呂を奪われかけた。それだけだ。 「捕まるといいんだけどね。」 「無理でしょうね。」 若草色の目が、ダルディークを見上げる。 「…確か兄さんは、最近有名な町医者さんでしょ?同じよに泥棒にあったとか。」 肩を竦める。差が多少大きい気がした。 「私は旅人ですよ。使って易の無い言葉は喋りません。」 アプシーズは、ふとその無邪気な様を引っ込めた。その語尾にどこか、意思を押される力を感じたのだ。ダルディークはウィンクした。 「何かと、言うだけなら誰でも出来ますからね。」 蒼天に煙が一筋、描かれているのが見えた。 「騒がしいな。」 焚き火から目を外し、フェルノ・クーレーンは呟いた。 「邑宰丞の品が盗まれたようです。」 木簡の類だというのに、燻るばかりで炎を放たない。記憶の焼死にしては、不安なものだ。 「もっと警備を強固にしなければなりませんね。」 「しかし巡り流れ込むということもあるぞ。」 それは影の誕生とも言える。幾重にも重なる、邑の建立計画の網の中、それは糸の一つだ。喉の奥から苦いものが浮かんでくる。クーレーンは実感した。冬が近づく。 黒い煙りは、蒼天に螺旋を描くようにして上っていく。喉の苦みが、煙りの味であることを祈った。 「私がしっかりしていなかった為です。」 木組の広い空間に、熱気が渦を巻いている。その中では、セフィルが落とした言葉は、中空に落とされた小鳥の羽根のようだった。 足音が固まりとなって、ドームを染めていた。他部族のものが交ざり合い、会話を交わし行き交っている。唯一の共通点は、皆銀狼精鋭部隊の制服を来ていることだけだった。 魚介類のスープを掬いながら、ヴィーシアは微笑する。 「いや、セフィルのせいじゃないよ。盗っ人の奴、ヘンな術を使ったのではないかなぁ。」 煮染めたような粗末な机に、いかにもどこかから引っかけてきた丸椅子を引き寄せている。芸術の邑としての印象から外れる風景なのかもしれない。セフィルは胸を押さえた。あの合口は、雑踏に降りた途端失われたのだ。消滅したかのように。 「あのダルディークがやられた盗っ人未遂もまだ解決していないし…早く解決しないと彼にも申し訳ないよ。」 「そうですね…」 「見つけたら一回眺めてみようね。昔のバルスの人々が作った芸術品なんて気になるよ、元々バルスを訪れた くすくすと笑いながら、ヴィーシアは声を小さくした。 「あのコもどこから来たのか分からないね。」 二人の視線の先に、小さな体があった。丸椅子に座り、足を揺らしている。戸惑いの視線だけ落とすものもいれば、愉しげな目で見下ろすものもいる。しかし、皆それは一瞬だった。見えない大きな手で包まれたように、彼女のからだが二回り程小さくなった気がする。 ラスカは、踏み込んだ足を確かめるようにしばらく止まっていた。 目の前には、塩の樹々が堅い地に立ち上っていた。どこからか風の鳴音が聞こえる。 塩の樹が叫んでいる。─浮かんだ微かな痛みを、ラスカはそっと呑み込んだ。侵入者の身分だというのに、勝手なものだ。歴史家や盗掘者が、この森を徘徊しているという話をよく耳にするようになった。 しかし、塩は海からでなければ産出されない。一度船を出せば、満ち満ちているものなのに、この島にはそれがない。塩気が無い水の島、それがセルフィアーだ。しかし、自らの足で立ち生きる者は塩が必要だ。─はっきりと、学術的な言葉で認知されていないが、セルフィアーの人々はそれを知っていた。 薄闇に潜むなにものかを知りたいという人の性。そこには何からの力や富が眠るのではと望むのも人の性だ。歴史家ルーキのバルスに対する拘りの理由は他にあり、それは切実なものだ。しかし。 ラスカは、遙か前に身を横たえる海を眺めた。虹色が中央の部分に滲んでいた。沈んだ鈍紫の海の中、微妙な色彩を孕んでいる。遥かに見える岬は愛しいこ、の意味だ。その語源は分からない。昔のバルスは、海を知っていたのだろうかと思う。全てが、薄闇の中なのだ。 竪琴を抱え、木々の間を歩く。少しずつ、自分の中の時間の感覚が麻痺していくようだ。ラスカは、自分の視界が真白に滲んでいくのを感じた。疲れているのか、と思った。彼の体の中の、数年前に封印した病の種がまた手を伸ばしている。 白い霧の中に、影が見えた。 黒い布に包まれたしなやかな体が撥ねる。薄い金の目が火の月のセレネのように艶光る。空気を支配していく苦い匂い。それが私の鼻先を捕らえた。 月の形に反った刃が見えた。暗闇から生まれた石のようだ。わたしに向かって、靡き降ろされる。姿の見えない生き物が生まれた。それは首筋の辺りから体を熱し増殖した。世界が幕を破ったように紅く滲み出した。─左胸の辺りに、冷たい水が、水のようなものが投げかけられる。否、水では無い。どこか、ぬめる感覚。 ラスカは目を上げた。何だったのだ。あれらは。 彼は己の視界を、少し苦労して自分のものとした。立場所があきらかになり、それを受容する。そして、その風景を見た。ラスカは叫んだ。─体が粉のように崩れる感覚があった。視覚も、細かな砂と化し散らばって行く。 リュイが黒髪の医者と出会ったのは、そこで二度目だった。バルスの建都の、様々な計画は如実無いもので、後世の芸術建築家たちの記憶になるだろう。しかし、それでも神王の悪戯か、予想もされなかった空間が降り立つことがある。議事堂から門まで続く中央街路に交差して商路がある。その角から少し入ったところに、商館の間に出来た市場がある。その前に広場が広がっていた。ラーン・ルシュの造ったバルスの会議堂と、各邑の商館が隣り合っている所で、多少上が膨らんでいるが、見事な円形だ。やがて人々が集まるようになり、拳闘、ヘビ使い、政治演説、大道芸、料理屋台まであらゆるものが包括されている。 ダルディークは、僅かに重くなった小駕篭を下げて立ち寄っていた。足下を、微かな風が擽る。 気が付くと足下にリュイがいた。後ろ手を組んで、見上げている。 「こんにちは。」 微妙な表情で笑った。リュイ、と名を呼ぶ声が響く。小兎が餌を見つけたような反応で、そちらに目がいった。 「かわいい……!!」 道に立っていた巨大な狼にふよふよと近づいていく。 その狼はダルディークのバルス到着初日に、自作の弁当を一瞬にして胃袋に入れた生き物である。 「やめなさい。食われますよ。」 届かないと思いつつ声に出して、ダルディークはため息をついた。心の反面では、連れて歩いたら、骸骨よりは見栄えがよいだろうなとかいう思考が踊っている。 小さな腕が、白銀色の見事な胸毛に吸い込まれる。さらさらと銀色の光の粒を鼻って、細かい胸の毛が揺れた。 狼はくんんかくんかと少女の髪の匂いを嗅ぐ。その後数日前豚の角煮を一まとめに喰らった下でべろりと嘗めた。リュイの頬が餅のように震えた。 その、トゥー族の色合いにしては精悍さ漂う青年の顔は、と見たら砂糖菓子のように溶けている。 空気がざわっと鳴った。排出されていたあらゆる音が吸い込まれたように消えた。その場にいたものが皆、押されるようにして一方向を見やった。 そこにはトゥー・ラスカがいた。片手に竪琴を抱いて、歩を進めている。額の頭布は外され、柔らかな銀の糸が風に揺れていた。 著名な音楽家の到来である。 「ラスカ!久しぶりだね。」 声はヴィーシアのものだ。金髪を揺らせ、人々の頭の中から腕を突き出す。 瞳がヴィ−シアを捕らえると、口元に笑みを滲ませる。彼女の方へ足を向けたようだった。 ダルディークは眉を寄せた。─その面は、陶器のような生白さだった。心の隅が妙に高鳴った。静かなままだが。何処からか音が聞こえた。広場のものとは質も、孕む精気も違う気がした。 風のような、また弦の鳴る音に似ていた。空気が光った、気がした。 ラスカは、飛び立つように、足を中空に浮かせた。長い髪が、幾筋虚空に舞う。細かな紅の珠が散っている。 その後ろに少女が居た。彼女の手に金盤の、皿状のようなものが紐で結ばれている。顔を手で包むようにして、震えていた。 「サエッ。」 少年が飛び出した。明るい銀の髪が光を含んでいたのが、目の中に残像を描いた。少女の手を掴む。殆ど押し流されるように、彼女は人の中に埋もれた。 それよりも強い声が鳴った。声の色は覚えている。 「ダルディーグ、頼む!」 言葉を掛けられる前に走りだしていた。ヴィーシアの横を抜け、輪の中心へと躍り出る。嗅ぎ慣れた匂いが鼻を付く。それは透明な腕となり、彼の心の一端を掴んだ。どこかへ引きずり戻そうとする。 ラスカの白い面に、赤いものが色を与えていた。華奢な彼の身体が、2、3度大きく波打つ。それと共に、押し出されるように赤い塊が口から溢れた。 眉は綴じられて、眠っているように静やかだ。口から下だけが烈しく動いている。魂魄の争いとはこのようなものだろうか。 駆け寄り、膝落とすより前に羽織を脱ぎ捨てる。口もとに耳を寄せ、吐息を聞き取ろうとする。その時、堅いものが肘を叩くことに気づいた。 リュイが近づいていた。苦い匂いが鼻に飛び込む。それは彼女の心に異物でありながら溶け込んだ。怖かった。心の底から、脅えの虫が上ってくる。喉の内側が締め付けられた。「とうさまぁ。」 くすんだ金色の皿が、人々の足に隠れる。きぃん、と高い音が鳴った。黒い髪の人が、リュイにぶつかって揺るがせた。 妙に静かになった頭で、ダルディークはそれを眺めた。 薄青色の刃物が、その胸に静かに立ち上がっていた。 天空は、うす青いばかりだった。 |
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