会誌-「サークル水月会誌 第9回」
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■ 楽土はどこに ナルス 編 1
【作者:高砂キカ】 砂のごとき雨が降る 雨音が空気を包んでいる。どこか乾いた肌触りさえ感じられる音が、ここ数刻都を支配していた。深い灰色の空を見上げて、住民の口をつくのは呪祖の声しかない。 島内の総数は少ないが付属物の多いナルスを詰め込んだアヴィーナは肩を縮めて、闇色の雨に臥せっていた。水捌けが悪く、下の路は既に小河と化していた。塵芥、排泄物、商品の切れ端、屑が流れ巡っている。 変わらず単鈍で美しいのは雨音だけだった。 どこかで騒ぎが起こったようだった。積み上げられた荷物に水が入り込んだのか。地下倉庫に汚水が侵入したのか…雨音の中、声は掌に包まれたように隠されている。水面を滑って行くのは、修繕の道具を積んだ小舟だろう。 この街は、水との相性はとことん悪い場所だった。重力に逆らう木組みの針山たち。色彩と文字が交ざり会う楼閣の壁には小さな混沌が塗りたくられている。水気をぎりぎりまで含んだ空気の粒が、昇華される場所を無くしてそこここに張り付いている。 黒い雲に隠れたセレネの明かりをかすかに感じ取るのか、雨は一粒毎微妙に光っている。しかし全体の夜闇は薄墨に近く、建造物たちも同色に染められていた。 それらの向こうに、8ツの尖塔に飾られた円天井の神殿があった。円天井はそれぞれの塔の下で八ツに別れ、蓮の花のように広がる形をしていた。 この島の者たちは、ほんの僅かなものしか飛翔することは出来ない。天空は未だ神王の座だ。しかし、その、ほんの僅かなものたちが、もし神王の眼を一瞬だけでも貸りることがあれば、蓮の花は一つの生き物とその造成物の形に酷使していることが分かるだろう。舞踏神ナタ神殿。この街の中核をなそうとする存在だった 元来アヴィーナは廃れた湾岸の近くに立つ街だ。結界で綴じられる前は、街のそここに海の匂いも満ちていたのだろう。しかし今や、アヴィーナの主人は海の記憶より生きる糧の方を選んでいる。海はとうの昔に亡くされたのだ。変わりに選んだのは情報、金。皆人がなくては生まれぬものだ。そしてそこに棲まれる神も同調している。 ナタ神殿の反対側、遥か向こうに見据え立ち上がる、巨大な楼閣がある。それは木造の壁に空中通路を幾つも生やしていた。その中の一本は楼閣を繰り返し通り、広く狭く変化しながらナタ神殿へ続いていた。 揺れ動く影が一つ、その路を移っていっている。雨に煙る暗い景色の中でそれはすぐに忘れ去られそうに頼り無い。まるで幻のようだった。 氷のように滑りやすい通路を軽やかに駆ける。微かに布が揺れる音か聞こえた。雨に濡れた布は、重く空気に揺れている。そこだけは濃い紺色に光っているようだ。布の間に、跳ねる細い足首がちらり覗く。それは、灼けた肌で、絡みついた銀糸が踊っていた。そして、もう一つ、水滴を滴らせてきらめくのは細い把だった。 斜め下に、一つ下階の通路が見えた。単純な木組みの上に樹脂塗料を塗っただけの細い道だ。そこは上の、その又上の通路から滴る水を受け、小さな流れを作っている。 微かにそこから布が鳴る音がした。もう一つの布影が舞うように現れる。殆ど雨に泳ぐように、動きには重みのかけらも無かった。色は同色で、進む足音は布の下に隠されている。微かな水音が立ち、橋上の流れに波紋が広がり消えた。 二つの橋。それぞれの上に小さな影がある。その影たちは元は一つの存在であるかのようだった。同じ衣の揺れ、同じ足並み、同じ刃。 布がまるで羽根のように、雨空の中はためいた。 地帝沙上神殿 雨音は絶えず空気を支配している。 目を閉じると、潮騒のようだった。セルファニア湖に落ちる雨音と、外海を叩く雨音は同じ音なのだろうか。結界で綴じられた島の中では、海の遠くの波音は聞こえない。 今、天から落ちる滴は、かつては至宝のものだった。限りなく蒼い空が時に絞り落とす水の粒。ここに住むのは、それに依って生きていた一族だ。 サイダバード。ラミニース砂漠の民を始祖とするナルスの一族。雨の滴は血と同じ。然し、今彼らを地に結び付けるのは、水を含んだ妙の大地だった。粗い砂の上では、雨水は醜く溜まり、足を掴む。 鈍闇の中、巨石が立ち上がっている。何かもっと巨きな岩から、一掴み奪い、貧しい砂丘の上に置いたかのような立様だった。雨に包まれた夕刻では、そこは大きな影のかたまりに見える。幾百年と変化の無いその壁はかたちのない歴史を写されているようだった。 石の脇に、幾つかの建物群が立っていた。前に櫓が組まれ、雨に抗うかのような煙りを生み続けている。降る雨も、それを包んでいるかのようだった。雨音も沈黙のひとつとして含まれそうな、時間が過ぎている。 「司祭、司祭ッ」 悲痛な声が雨の幕を破る。それは軋みのように響いた。 声は黒く塗られた正方形の建造物の中から響いてくる。特に大きく、正面の上に、黄金の稲妻の紋が掲げられている。方形の中からも、煙が二筋雨雲へ伸びている。その黒い不定形は、僅かに櫓の煙と違っている。ひとの悲しみも燻らせ生み出される為だろうか。 漏れる声はどこか押さえられているが、感情の波は押さえるべくもない。 黒い方形の中、石の壁に遮られた雨音よりも悲しく、その波は部屋に満ちていた。 天窓から吊り下げられた灯りが室内を揺るがせていた。灯り皿と、それを繋ぐ獣皮の綱の影が、自ら生み出す光によって巨大化し、床に映えている。壁にモザイクで描かれた微細な文様が浮かび上がった。 皿に中る影の下に老人が横たわっていた。身体は黒布が包まれている。 「今は─、生命の子の宮でもある、闇炉の中に司祭の魂魄が誘われることを。」 中年の女性の声が、訥々と漏れる。全身に長い布を巻き、顔だけを出している。彼女は老人の手を柔らかく握り続けていた。ふくよかな手のひらの中の手は、黒い木の枯枝を思わせて、浅黒い中でも凝固しかけた血の存在を感じさせた。光の当たらない闇のどこかに、ヤマの影が宿っているだろう。 女性の外、狭い間には幾つかの影があった。中年から子供の姿まで、一人の人の成長の順に並べたように、色、姿は皆同じだった。色素の薄い琥珀の瞳と、闇色の髪、浅黒い肌。そして身を覆う黒い衣。沈鬱な表情で、老人を囲んでいる。 布が、ぱさ、と微かな音を鳴らした。同時に香木を焚いた匂いが飛び込む。錫杖が緊迫した音を立て空気を切り裂いた。 黒い布に包まれた一団が顔を上げた。乱れない足音が石の床を叩く。黒布を羽織った人が、また一つ、増えた。 ただ、纏う黒の外套は、明かに際立っていた。布の端まで織り込まれた糸は金色。直角が主な文様は、剣の乱舞を思わせた。細い糸が微かな灯りを跳ね返している。 最も幼い影から高い声が響いた。叫ぶ寸前の、悲しげな少女の声だ。 「 雷の紋を飾る錫杖を携えた人は、彼女に頷いた。 この場所はサイダバード邑。黒い肌、黒い髪、琥珀眼の一族が成す邑だ。始源は大陸のラミニース砂漠の歩みの民だった。彼らは独立戦争時、独立戦線を弾いたセルフイアーの神人たちに呼応し、移住した民たちの後裔だという。 現在、彼らは羊や駱馬を飼いそのままの暮らしを続けている。政治に確固とした機構を必要としない規模の、邑とも呼べない群れだった。ラミニース砂漠での生きる糧をそのまま続けていたに過ぎず、砂漠を歩む遊牧民たちの始源を、形だけでも残しておこうとしたのだろうか。 サイダバードの中、唯一大きさを誇れるものは、黒石と尖塔のインダラ神殿だ。セルフィアー中最大の、地神系統の神殿のものである。元々、ラミニース砂漠には巨大な暗黒雷帝神殿が存在しているといわれる。─漆黒の石で築かれた、ひとつの山ほどある神殿に、雨では消えぬ橙色の炎が焚かれる巨塔。 サイダバードのものも、その形を模していた。神殿の後方に据えた塔は常に煙りを発しつづけている。それは、時折訪れる地神の信仰者たちの神秘になっていた。 しかし、今彼ら信仰者たちの祈りは鎮魂のかたちをしている。数節前から、司祭が病で倒れ、それは死病だという噂が広がっていたのだ。 カリフ・ナビーユは、代理として祈祷を捧げて来たばかりだった。彼女は司祭の孫であり、インダラ神殿の神官だ。先程声を上げた幼き少女は末の妹だった。身体を包んでいた神官衣を外すと、精悍さを滲ませながらもしなやかな女性の姿態が現れる。苦い煙りの匂いが張り付いた髪を整えようともしない。 この民の者が持つ外貌の特色を、最も美しく強調された姿の持ち主だ。琥珀の瞳は正真の宝玉のようで、髪の黒は艶が生きているように蠢き、浅黒い膚は香油を塗ったように滑らかだった。際立つ目鼻立ちに、灯りが光を落とす。 「司祭…収まられましたか。」 声の響きは柔らかかった。しかしその中心には、拭いきれない堅さがある。 重く閉じられた瞼が微かに震えたようだった。待っていた者が訪れたということが、彼の思念を引き起こしたのだろう。乾いた唇が動く。 「ナビーユよ。…」 「は。ここにおります。」 人々の群れから一身抜け出し、脆く。それより柔らかな動きで、錫杖を老司祭の腕に戻した。鋭い尖端で飾られた杖は、今主人の手に戻った。 干からびた喉から、きしんだ声が漏れ出る。 「見えるか…ディヤウスが制裁を使うた。」 一族の面に、影が滲んだようだった。 膜の張ったように濁った目は、何も映してなかろう。その中には光色の波が見える。数節前、突如湖を越えた東方に現れた光か。その時、光の余波が、齢で擦り減った彼の体のどこかを窒息させた。その光は、恐らくこの小さな邑には気づいていないだろう。しかしこの邑の中、すくなからずの信仰者がその光によって、身体の気を、海辺の砂の城のように揺るがせた。 「読めました。…しかし、この地は、至高大神の力はそう強くはないはず。闇黒雷帝の御力と、ほぼ同じくの筈です。神殿は東方に作られましたか…。それらは天神を奉ずる輩の仕業です。天神自体ではない。」 女性の声が、低く室内に流れる。僅かに軋んではいるが、耳傾ける者の心に、そのまま染み込ませるような強さは変わりない。武人の魂が、その軽い髪の波で飾られた褐色の面に滲んでいた。 何処からか、輪唱が聞こえて来た。暗黒雷帝に捧げる唄だ。かつて砂漠に流れていた筈の、死に逝く魂を送る唄だった。いつしか室内の影が減っている。 迎えられようとする老人の唇が、また動いた。瞬時にナビーユは顔を寄せる。 外で絶え間無く続く雨音に覆いかぶされる位の、微かな音が耳を捕らえた。瞬間、それ以外の音は消えた。 「…儂は、見たのだ。何らかが、この島を動かした。」 カローンの船が待つ冥土の河まで、彼の目は捕らえているのだろうか。濁った琥珀は、何かを受容したように凝固していた。死の水が、彼の体に染み込んでいく。 言葉が切れた。ナビーユは、自らも眠りにつくように瞼を薄く綴じていた。揃えた髪が、老人の頬に落ちている。沈黙が包んだ。褐色の指が、司祭の心臓の上に落ちた。 長い吐息が、生まれた。 振り返り、ナビーユは背後の者に事実を伝える為膝を立てようとした。その時、衣擦れに掻き消されされそうに背後で、また言葉か聞こえた気がした。は、と振り返る。 再び唇が動いている。覆いかぶさっるようにして、耳を唇に近づける。彼女の黄金の円盤の耳飾りが、しゃらりと鳴った。それは僅かに音を生んだ後、柔らかく揺れていた。 「…否、動いているのかもしれぬ。この島自体が。」 「司祭?」 「ナビーユ。司祭を継承しよ。闇黒雷帝が選ばれたのは、そちだ。」 琥珀の光が取り戻されている。 八ツの輪を並べた錫杖が地に落ちた。 「砂漠へ…。純然たる闇と光が立つ場所へ…。疾く…。」 隊商詰所 「ぶぁわっ」 引っ被った重い布を掴み降ろし、口から出たのは獣の泣き声だった。 「何だその声は。」 隣の商人が眉を寄せる。 「すげぇ雨っ。気もちわりいったら。布か水含んじまって…」 白昼の雲に覆われた空から細い雨が降り落ちている。太陽の光は厚い雲に遮られ、白の色合いを与えているに過ぎない。 少年は犬のように頭を降った。水滴が舞った。疲労の為か、途端にくらりと頭の中に靄が生まれる。その髪は短かかった。 テントに立ち入った瞬間、雨の変わりに身に降りかかったのは、雑多な人いきれと商品、酒、軽食の匂いだった。いくばくかの視線が投げ込まれてくる。僅かに空気が揺らいだ。それは、少年の頭の辺りに集まっている。 短髪は子供か罪人の証しだった。セルフィアー島では、現在少しずつ短髪に市民権が与えられているが、まだ日影の存在にすぎない。彼は少年の要素がより高い容貌で救われている。彼にとっては屈辱だが、後数年年を重ねていたら、まともな邑民として扱っては貰えなかっただろう。 そういった、外界のことに目が行くには、彼はまだ幼い年齢だった。自分の中で生まれた様々なものごとに対応していくのに精一杯な微妙に幼い年頃に入っていた。先の視線も気づかない。 「はい、ただいま戻ってまいりました、と。まだここらは温いねぇ。」 商人は、幼児一人分程度の大きさの袋を肩掛けした格好で、軽やかに机と人を通り抜けて行く。足の速度は先を歩む少年と殆ど変わりない。少年が無意識に蹴り遣った石が飛び込んでもだ。 ここは蜘蛛会商隊本部だ。蜘蛛の巣のごとく、島中に広がる、複雑に組み合った細い道たちの中心である。落とされる言葉も、セルフィアー島の情報が凝縮されたような様を見せている。そこは管理組合というものも兼ねている為、大店舗持ちの行商人ものここに立ち寄らなければならなかった。 管理組合とはいえ、それは机一卓に、今にも死にそうな婆さんの陣容だが。しかし、彼女は裏で「冥土の奪衣パパア」と悲鳴まじりの陰口が焚かれているのを、護衛歴三カヶ月の少年は知らない。 机を確保した少年は、その上に降り積もった塵芥を払いのけた。蝋燭のカスが中空に飛び散ると同時に、商人は荷物を投げ出す。紐を解き、中から木箱を取り出す。 「…ちっと待てよ。」 商人は机の上に木の小箱を放り投げ、蓋を開いた。乾肉とか、汚れの元を知りたくない布を放り出しつつ、小箱の底をつつく。体の形がどこかアリクイのようだ。前に掛けた少年の目が丸くなった。自然と口元がぴくぴくと緩んでは閉まるを繰り返す。唐突に小袋が放り出される 「ありがとさん。」 受け取りつつ、唇は解き放たれたように左右に広がった。布を透かした中に、堅いお馴染みの感覚があった。内から鳴る音も、変わらず嫌う奴はいない良い音だ。 紐を解き、覗き込んだ目が丸くなる。 「おっ…なァおっちゃん。俺こんなに貰っていいの?」 「おお、ヒラキは頑張ったからな。ま、頑張ったのは俺たちだけど。」 猫科の獣のような笑いを滲ませる。 「まあそうだけど、今回は賊も出てこなかったしなー。」 「何だ珍しく殊勝だな。返すか?」 「やーだね。」 口を曲げつつ、ヒラキの眉間の辺りは微妙なものがあった。幼さが抜け切れていないようだが、その面には成熟に似た影が浮かんでいる。 賊とは略奪を働き、強姦種切り何でもござれの、質の悪い賊のことである。質の良い賊というのもいるにはいるが、少年の頭の中では、彼らは別のいきもので、ヒラキは、悪い方ははある程度は自由に斬って良いと考えていた。─心の底で、剣が求めていたのだ。 「ま、奴らやっぱ雷雨の時にゃ出てこねぇんだ。ドーブツと一緒でさ。」 回りのものたちも嘲笑が感染する。皆、野盗に困らされ、時には指一本持って行かれているような者たちだ。その絵みにも凄みかある。 長くなった髪が、睫の辺りをつつく。霧雨のせいか、髪は雷雨の下を擦り抜けた時よりも湿っている気がした。それを弄くりながら回りに視線を走らせる。 半裸に近い格好で、腹布に蜘蛛会印を着けた姿の荷夫が擦り抜けて行く。それに続く、女の商人のぎりぎりで全貌を表しそうな豊かな胸元に、ヒラキの眼は吸い込まれそうになった。ほぼ肉体仕事の商隊では、自然人々も機能的にならざるを得ない。 飲み物や軽食を運ぶ饗者だけが、華やかな色彩を纏とっていたが華やか過ぎて蝶々か蛾の様だった。 彼らの頭上は、油布を上に張った天幕だった。垂れ下がりそうなのを柱で下から突き上げ紐で引っ張っている。今は霧雨だが、強くなると、細かく揺れるわ音は響くは、外に出た方が居心地の良い様となるだろう。足元に流れ込む濁り水は何が原材料なのか?─この近くって、厠はなかったよなぁ。ヒラキの頭の中に常に浮かぶ言葉だ。 商隊の本部は、曾ては脇に立つ蜘蛛会の楼閣の中に収められていた。しかし、取り扱う商品とキャラバンの人数の増加に伴い、収まりきらなくなってきたのだ。 戦の炎が島中に飛び火しはじめた現在では、それに扇動されるように物品の交流も激しくなっている。その上、至る所でその路は閉じられ(商隊に拘わるものたちは、それを路が死ぬと呼ぶ)、また短期間で大きく肥大化した路もある。 一節前に書かれた地図が燃やされる。神人どもの要求も日々、太陽が一日に空を一回転するように変わって行く。ナルスたちも時代の乱流を別の位置で感じざるを得なかった。 ヒラキの腰もとにある、新品の軽い剣もそのささやかな余波だった。レダの東精会が売り出した剣である。東精会とは、レダで生まれたばかりの商人の協力団体である。その辺りの大商人が皆腕を出しているからか、値段はずっと安いし、人手もしやすい。恐らく刀匠も大量に抱えているのだろう。 商人は顔を上げ、幾つかの頭の向こうにいる饗者に声を掛ける。 「おーいリンリィ。酒と肉でも持ってきてくれや。」 「あ、俺そのままで。」 「バーカ。俺の酒は死ぬぞ。」 大した時間を待たず、前に出された瓶には、果実液と水がたっぶりと注がれていた。商人の前には、馥郁たる麹の匂いが漂う瓶が置かれている。ヒラキの顔に、小さい不満の色が浮かんだ。16の齢としては、些か物足りないものだ。 それを見たのか、給仕の娘が、鈴音のような笑みを漏らした。大してヒラキと年は変わらない。 「なぁおっちゃん。」 「ん?」 酒にくぐもった声が返される。 雨音が強さを増したようだった。雨音が固まりとなり、天幕を包んでいるように錯覚してしまう。商人たちの顔に些か忌々しい色が浮かび、油布をる為小男が駆け出していく。 ヒラキは瓶を手に取った。唇につけると熱を持つ甘苦い味が滲む。ライチらしい旨みを味わうと同時に、顔に赤みが上った。 給仕役の娘の鼻歌が、右耳を撫でて行った。雑多な場所に、突如紛れ込んだ花びらのように、中空に浮かび消えていく。 ヒラキは息を吸い込んだ。 「一つ聞きたいことがあんだけどさぁ。」 「何だよ。」 「蜘蛛会の間諜方ってさ、…たいっていのものは教えてくれるのかな?人の居場所とか。」 目だけを向けたまま、商人は言葉を返した。その響きは通常の、ヒラキを付き合わせていた旅中と変わりない陽性のものだった。 「できるよ。向こうの内情はさっぱりだが、とにかくセルフィアー中に、虫のように入り込んでいることは確かだかんな。頼めば探してくれるさ。」 蜘蛛会は、情報と商売で生きる組織だ。そしてナルスたちを纏める機関としての役割。しかし、それらは融合しているとは言えず、常につかず離れずを繰り返しているようだった。蜘蛛会の商人として長く努めていても、間諜たちの内情は伺えず、自分の部族を支配する存在としては空気のようなものとしか知れない。 大雑把すぎる区分をすれば、情報に生息する間諜はほぼナタ神殿が管理している形となる。ここの者たちはクベーラ神殿、また、隊商たちの守り神としてヒラキたちの近くに木組の祠が据えられているパーンドゥか宗神とされていた。 「その…個人的にマズいことでも?」 やがて、周囲の雑音はす、と消えていた。商人の姿自体を吸い込んでしまうような雰囲気で、ヒラキは彼を見つめる。商人は日焼けした肌の中の黄色に濁った眼で視線を受け止めた。アリクイのような背をすくめて、笑いを漏らす。 「おいおい、エラそうな言葉を吐くな─そりゃできるさ、ナルスは皆蜘蛛会会員だし。まぁ金さえあれはな。」 ヒラキは、ふん、と鼻を鳴らした。 「程々しか金持ってなくては?」 殆ど賊のように汚れた歯を剥き出して、彼は笑う。 「そいっは聞き手の性格さ?」 「そりゃそうだよなぁ。…でもさ、何だっけ。おっちゃん、聞いてねぇか?」 「言ってくれんとわからん。少なくともお前よりはものを聞いているけどな。」 あ、と間抜けた声を上げた。結局は仲間を欲する噂話のレベルだ。 「ここ来るまでに聞いたんだけどさ、前の蜘蛛会長さまを、今のエイラが殺そうとしたんだけど、絵局失敗したんだとか。でも前の会長は行方不明で…」 彼の言葉に忍び込むように、す、と商人の声は低くなった。 「余り言わねぇ方がいいかもしれねぇな。」 一瞬、ヒラキは唇を半開きにしたが、すぐさま瓶を掴んだ。中の液体を僅かに流し込む。その目には悔しげな色が浮かんでいた、少年らしさを残した頬も強ばっている それを商人は、濁った細目で眺めている。その前には、肉寸前で、かつ生命を持っていた時期の顔が不明の炒め物が煙りをより出していた。ヒラキもそれに箸を突き刺す。 「…ちっ、これ味付けは辛草かよ!?たまには塩出してくんねぇかな。腐った肉でもそれなりに上手くなんのに。」 「何だ、ドロボウネコが、どっかでネコマンマのふりかけにでもしたのか?」 「しっつれいだな。俺これでもマトモに食ったことあんだぜ。」 その時、黒い風が起こった。錯覚だった。しかし、ヒラキの眼を捕らえ奪う存在感は強かった。 それは男だった。肌が驚く程黒い。魚げたような、しかし艶のある褐色だ。その上、質素な頭布と、背中まで仲ばされた髪も漆黒だった。彫りの深い目鼻立ち、眼前のもの全てを捕らえるように開かれた眼は、麦種酒に水を注いだような薄い金色。 ヒラキは目を丸くした。噂で聞いた色彩と合わしてみる。あれが、東方ナルスの顔か。注ぐ視線は純粋な物珍しさの眼だ。 彼の表情を見たのか、商人は呟いた。煙管の煙りが、僅かに揺らぐ。 「サイダバードだね。時々いるよ。」 「へエ…真っ黒だ、初めて見た。」 「そうかぁ?結構見るけどな。まぁ奴らは殆ど工芸人か馬飼いだからここら辺には出てこないけどね。」 「へ…え?」 引きしまった胸板に躍る黒髪の流れを眺めて、ヒラキは小さく唸った。 懐に短刀らしきものが隠されている。大きさは合口位だが包丁のように分厚く、力でねじ断つ形であることか想像できた。それがまた自然に、懐の中収まっている。 異質感が、少年の胸に落ち込んだのはその時だ。頭の端の 火口箱が、火花を散らした瞬間だった。 駱馬牧場 礫地か続き、やがて、それが砂へと化した辺りに、その小さな邑は息づいている。全景が目に人ると同時に、駱馬と羊たちの鳴き交わす声が砂山の上を走ってくるだろう。 砂山から見下せば、黒の巨石があり、その脇には石で造られた建造物と、周囲に円形の家々が点在している。 家々は奇態な形をしていた。壁はなく、木を組み立て、その上から毛を織った幌布を掛ける形式だ。地面に突き刺さる何本かの細柱に依って立つ姿は、臥せられた椀に似て、地面にふわりと落とされたように頼り無い。 その名はコスーン。セルフィアーに僅かに張り付く遊牧民たちの家である。組立も解体も容易に出来るもので、馬の背に一式を乗せて移動も出来た。 家々は今は薄灰に沈んだ湿った空気の中、身を縮めて立っているかのようだ。細い雨の音が重なるたび砂の地にも水たまりが出来上がって、至る所に泥の固まりが形成されている。全て薄灰の色に満ちていた。 唯一、漆黒の色は巨石近くから沸く黒い小河だ。透明の雨水の下、淀んで生黒く、しかし流れてはいるもの。流れは数十米ほど続いた後、砂の中へ消えている。 獣の鳴き声が、どこかから聞こえた。 この小さな砂丘は、今砂より細かい雨に包まれていた。白灰斑の天より長い時間をかけて落ちてくるもので、天幕や巨大石はしっとりと濡れている。そこには、アシュラの刀が天より地より突き出す炎獄─ラミニース砂漠の面影は既に無い。人の節になると、草原の方が相応しくなってくるのだ。 少年は、椅子の上腰掛けて、僅かに首を傾けていた。漆黒と緑の布を頭から纏い、溶け込むように彼はそこに居た。額から鼻先へ、滴が滑り落ちている。性の区別がはっきりとしない容貌に見えるが、確かに少年だった。線の細い顎に、細い腕。サイダバードの民の持つ堅さから、精気だけを抜き取ったような雰囲気だ。腕に 彼の周囲には、時折低みから高みへ、男の喉からの歌声のような音が巡っている。獣の匂いは、今雨の為か沈んでいるガ、鳴き声は確実に雨の中でも響いていた。 そこは駱馬牧場だった。駱馬という、サイダバードの者達が連れてきた生き物が放牧されている。駱馬とは、砂漠の生き物駱駝と馬の合いの子のような存在で、瘤が背中に生えた馬だ。もう一種頚、別種の駱馬も居るが、それらは柵の奥にひっそりと飼われていた。 「ミアラジュ兄さま。」 雨の中声が転がってくる。それより僅か前、少年の口元が柔らかく緩み、微笑みかけていた。少年より幾らかは幼い少女が近づいてくる。小走りで、泥が飛び散るのも気にはしていないようだ。息を乱しつつ柔らかい響きで話しかける。 「夕食の時間ですよ。早く行きましょう。」 「そうだね。」 少女は少年の手に触れたが、彼の腰は椅子からしばらく離れなかった。少女─妹の顔に一滴の不安が落ちる。その澄んだ声が少し堅くなった。 「どうかしたのですか?」 「… 口元のほのかな笑みは消えなかった。彼はその指で、纏うマントを摘まむ。中から水が滲み上がってきた。 「あ!ごめんなさいっ。」 その幼さにしては器用な手つきで、慌てて兄の衣から水滴を拭う。大丈夫だよ、という囁きのような声が落ちても、その手は止まらなかった。仕方無く兄の方も自分の衣を搾りにかかる。 天から落ちる、細かい水の粒は二人の髪の表面に艶を与えるだけだ。どれ程良くこの椅子に一人掛けていたのだろう、衣の冷たい重さが不安を呼ぶ。 取り敢えずじっとりとした水気を捨てたあと、妹は兄の手を軽く取り歩き出した。外は既に夜の狭間に躍っている。篝火が集う場所に向かい歩を進めた。 「兄さま…ナビーユ姉さまが今夜皆にお話しされるんです。」 「そうなんだ。葬儀も殆ど終わったからかな。…祖父…前司祭さまも中の丘に収められたしね。」 砂丘の奥、ひときわ高い丘に囲まれた所に「沈黙の塔」がある。魂の保管、あるいは補完の時期に入る者たちか運ばれる石組みの小塔だ。葬場鳥たちも出て来ないだろう。 インダラ神殿の首を長年努めていた老司祭、カリフ・ラーシドゥがヤマに召されてから未だ一節だ。あの時も雷を伴わぬ雨が絶えず小さい群れに流れ込んでいた。 幼い二人もカリフ姓を継ぐ、司祭の血族だった。少女の、小さな身体が萎んでしまうほど泣いた記憶はまだ意志を持つように流れているが、少しずつは癒ってきていた。しかし、邑全体も未だ喪に服す時期の中だ。衣からは抹香の匂いかまだ取れない。 「大切なお話しがあるかもしれないね。」 「ええ…。」 沈んだ表情を滲ませた。妹の日が、雨が降る寸前の雲のように煙っている。微妙な年代に差しかかる彼女の心には、激しい変化の予兆はどれほど不安なものなのだろう。細い項の辺りを、ミアラジュの綴じた瞳は捕らえ続けていた。 サイダバードの群れは揺らぎはじめていた。 足音を聞き取ったのか、産まれたばかりの一匹の駱馬が近寄ってくる。未だ乳飲み子だが、友人は既に見つけているようだ。喉奥で鳴きながら、纏わるように付いて来る。少女は背を軽く撫でた。 歩みが止まった。ミアラジュの足も、ふ、と静かに止まる。砂の中に沈むように、彼の足音は消えている。 「隊商が…」 少女から呟きが落ちる。 駱馬牧場の柵の門に、蜘蛛会の商人が、2、3人立っていた。雨を避ける為に笠を被り、滴を落としていた。有るか無しかの風に外衣を揺らす姿は幻のようだ。 荷馬に最適とされる駱馬は、よくナルスの商隊に駆り出された。小規模な羊や山羊たちの柵に比べて、先を尖らせた柵で囲まれているも、駱馬泥棒や略奪から衛る為だった。放牧する駱馬を蜘蛛会の隊商に貸すのもサイダバードの生業の一つだ。 迷いの言葉が出る前に、ミアラジュは微笑んだ。 「マラーイカ、お手伝いだよ。僕は先に歩いていくからね。」 小さく頷いて、少女は慌てて駆け寄った。その頷きは兄は見ないだろうという事実は彼女の中には浮いて来ない。 慣れた様で、妹が商人と一言二言言葉を交わすのを、少年は感じ取っていた。やがて、足音が集落の方へと、一定のリズムを持って離れていく。続いて、子駱馬の四っ足の音と。その音はやがて小雨の中に埋もれていった。牧場の頭領を呼びに行ったらしい。 この数節、サイダバードは動揺の波が生まれていた。この401年間、暗黒雷帝に祈り、家畜の放牧と記憶の縦承を繰り返してきた群れが震えている。 長い齢を重ねた前代司祭が死に、次代として新しい司祭が立った。─信仰の強きものと、心、武の力とも優れたものが司祭になるべきという律がサイダバードにはある。 しかし、今回は再びカリフの家のものが担うことになった。それは400年の間幾度か繰り返されたことだった。カリフの家のものは、インダラの覚えも良いのだろうと思われている。 インダラ神殿は、長姉、ナビーユの手に委ねられた。 それは、カリフの家の家長が変わることであり、インダラの神殿の首が新たに据えられるということだけではなかった。 バウ砂漠。401年地の月に知られた地名だ。そこは、山々の奥にある、打ち捨てられた場所だった。その中のバーミヤという土地には、彫像を乗せた石柱や、浮き彫りを施された回廊など旧い遺跡が僅かに残っているという。忘れ去られて、人の記憶に屑となって失せた末、存在さえ失われるだろうという土地だった。記憶や伝承が人の造成物である限り、それは脱げ出せない宿命だった。 この時期になって、突然その名は大きく膾炙されるようになったのだ。ナルスの隊商が落とした噂からだった。それでは言霊人の帝国の統治に反抗したある創師が建てた街であり、またどこかの神の怒りが生んだ砂漠だといわれていた。前者の噂では、宝魔獣といわれる「人の創った禎」が眠ると、綺羅びやかな言われも加わっていた。 それによってバーミヤは─恐らくはパルスの方の余波を受けたのだろう。バーミヤは宝魔獣の影を求める創師に満ちていた。しかし、水の月にライル社がスイスニアに潰され、創師たちも、いまその命自体が永らえているのか分からなくなった。バウ砂漠は再び無人となった。 しかし、サイダバードの民の心を震わしたのは、その事実ではない。 バーミヤは砂漠だ。ラミニースの雛形のように似ていて、その夜は鴉羽よりも深い闇であるという。サイダバードの民はこの400年近く、同じ島に砂漠があることを知らなかった。 元来、遊牧の民たちは土地に拘らない。拘ると熱針の天光降り注ぐ地は容赦無く命を奪う。乾燥した、塩分のある大地に種を撒いても、小さな種たちは死に絶えるだけだ。 大地─この残酷なるもの。サイダバードのカリグラフには必ず織られている言葉だ。 その為に、彼らは歩む。駱馬や羊たちと共に、ルナの巡る時に従い、水と草を求めて。その土地ごと、生まれる些細な記憶を捨てて。 反面、心の奥に築く律は強い。それは心自体を支配する程の堅さだった。闇が落ちれば恵みが齎され、人が居ても許される時間が生まれ、光が昇ればそこは灼熱の忌々しい陽光降り注ぐ空間となり、この二つの繰り返しを、人間が少しでも外せは苦悶の死が待ち受ける。その自然の掟が、心に刻む律を生んだのだ。 この小さな邑全てに宿るものは、皆砂漠で創られたものだった。─砂漠こそ始源の聖地。たとい何も齎さぬ、ただ黄金の熱砂が無限に広がる大地でも、そこは聖地と等しいものだった。 バーミヤに腕が伸ばされたのは、僅かでもより所を求める心の現れなのか。また、自分らの、血に眠るものがやがて摩耗していくのではないかという無形の焦りも交じっていたのかもしれない。淀みは極力忌避してきたが、その選別は既に神の手のひらの上によるものになっている。 小河が産む毒気によって、彼の瞳から光が消されて幾年。 彼は綴じた瞳を南へと向けることが多くなった。薄い瞼の皮で綴じられた瞳は、何を見ているのか。何かを見ている、ようだ。 八綱楼 蜘蛛会探索、間諜方。ナタ神殿より東隣にある小楼閣にそれはある。巨大な楼閣をも含めた神殿に比べ、それは細長く頼り無い様だった。遠方から眺めると棒きれのようにさえ見える。 しかし、この楼閣は島中の情報、「国」から個人的な戯言まで流れ込む場所だった。一言を漏らした少年が、現会長の耳に入り、武器等の商品と共にウォウルへと送られたという事実さえある。時はウォウルのヴィレク王が称したすぐ後、スィスニアのクーデーターもヴェルーダの災いも、当然としてセルファニア湖の戦いも、目覚めぬ歴史の種だった時期だ。 ヒラキは、その石段を前にして、一つ息を吸った。心を堅くする。それは、山中で賊と遭遇して睨み有った時とは違う感覚だ。 一歩踏み出すと、雨か滑る石肌の冷たさが、草履を通して染み込んだ。 細雨の中でも、手に書板や、布巻物を抱えた人が行き交っている。忙しく石段を上り下りして、その足には危なっかさは無い。頭に布を掛けたり、マントを引っ被たりで顔は影に隠されていた。耳を撫でるのは、砂が流れるような雨音と、会員の微かな足音だけだ。 空は薄墨と白い染料を交じり合わせたようだ。白の部分は僅かだが、光はそこから降り落ち、少し場を明るくさせていた。天から、冷たい自糸が幾つも垂れている。 首筋に滴が落ち、ヒラキは肩を震わせる。堅縫の衣さえ雨水を吸い込み、肌を冷えさせていた。 「…何か、御用ですか?」 通された場所ににいたのは、長身に、緩く流れる小川のような長髪を持つ女性だった。緑の袍に帯をきりりと堅く蹄め、年の割に清冽な雰囲気を凛わせている。首に垂らしたのは、探索役の環印だ。 覚悟が多少外れる。どれ程強面か、はたまた狭い目をしたものが対応してくるか、心の中では幾つかシュミレートしてきた後だった。突っ掛かろうとする刃を、綿の塊が包んでしまったような感覚だ。 「ご商売のお役に立てるでしょうか?」 言葉の響きもたおやかなものだった。笑みを滲ませて、おっとりと柔らかく呟く。 石段続きの床の上に紅の絨毯が引かれ、その上に机と椅子が置かれている。地味な灯籠が並んで垂れ下かり、一見では、大邑の官史の議堂に見える。ヒラキと女性は、その一角に腰を下ろしていた。 歩き回る饗者から茶を注がれる。香ばしいその匂いに押されるようにしてヒラキは背を伸はした。冷えきった身体には、匂いさえ暖かく染み込む。 「…」 沈黙の幕が降りた。喉に蓋をされたようだ。蓋をしているのは、ごまかしようのない自分自身なのだが。 ヒラキはちらりと目を上げ、女性の顔をのぞき込んだ。彼女の黒い目とぶつかる。純粋な黒ではなく、濃い茶色に瞳孔が黒という対照で、すっきりとした一重である。─そんなものを眺めては脳裏に刻み込む暇は無いのだが、こんな時に限って目的の脇にあたる部分に目が誘われてしまう。 「ウズメは、この島のあらゆるものを顧みておられます。」 「え゛…。」 「ナタの別名です。…私の邑の神殿だけに伝わる、マイナーなものですけど。」 遊びの言葉だったのか、はにかんだような響きを聞かせる。その名を言うだけでも、何か秘密の呪言を漏らしているように口元が動く。 しかし、その揺らぎは、ヒラキの遠慮を和らげた。 「人を探しているんだ。」 「そうですか。」 合いの手はさりげない。先の揺らぎは無に帰されたかのようだ。 「どのような方なのですか?部族、外見、出身の邑、仕事など、でき得る限りのことを教えてください」 また言葉が綴じた。一言、一番良い言葉を言ってやれば良いとは分かっている。ただ、胸には柔らかく重いものが塞いできている。この組織に対する警戒なのか、それとも恥らいなのか分かつのは難しいが。 「それ…俺の見ちゃんなんだけど──」 そろそろと指を遠慮しつつ差し出す。探索員の視線はそこに吸い寄せられた。目を丸くして、指先を見る。ヒラキはそれをゆっくりと動かした。いつの間に、胸から発生した熱い水は、指から頬までに昇ってきていた。 その時、ざわりと小さな楼閣は震えた。 ヒラキは頭を上げた。その空間の人間たちは皆、呆けたように口を空け、同じ行為をしている。首を巡らす者もいる。心を掴まれる無形の波が、開けた門から流れ込んできたのだ。 それは幾つもの声だった。何を叫んでいるかは、雨音に埋もれて聞き取れない。然し不思議なことに、その意味は聞き取れたのだ。火事だ、と、その声は訴えていた。 驚きの顔が一様に浮かぶ。既に椅子から腰を浮かせた者もいた。 「おお、被害は出ておるのか?」 「ここからは分からぬのう。」 手で目の上にひさしを造るものもいる。必要の無さを知っているのだろうか。 この楼閣は、石段の上アヴィーナの地面よりも僅かに高く建立されているが、開く門の向こう曇天に煙りが一筋上っているのが見えた。 八綱紋に格子を組まれた白木の内戸の中は明るいが、ひとたび町に降りると、濡れた暗い空気に包まれるだろう。アヴィーナを叩く雨もわずかに強さを増しているようだ。垂れる雨の軌跡は、糸がよられたように太くなっている。 「ここに駆け込んでくる者がいないとなれば、大事ではないのでしょう。」 とつとつとした声は、ヒラキの前の探索員だった。沸き立つ同僚たちを脇に、髪を耳へと掻きあげる。蜘蛛会の探索役は、殆ど口伝だ。 椅子がきしんだ。がたんと音を立て、高い背もたれが後ろに下がる。 腕を突っ張り、ヒラキが立ち上がっていた。耳が立っている。 「あら─…。」 「俺、行ってくる。」 熱情のようなものが雀色の眼─ヒラキの眼の色は独特だ─に露わになっていた。しかし、僅かな遠慮だろうか、女性に向かって 「さがしてんのは兄ちゃんなんだ。俺に瓜二つだ。双子なんだよ。この一節は週に三度は寄るかんな。」 と言葉を捨てるように言い放つ。 先の、頬から指までを熟した林檎色に染めて惑うたにしたには、あっけ無かった。 か細いながらにしつこく心に絡む問題毎を、とぐろ巻く炎を前にして振り捨ててしまったのか。果たして短絡とも付かぬ決断だった。 兎に角、ヒラキは、四角の闇の中飛び出していった。 「忙しい童子じゃのう。」 隣の机から声が樹かった。山羊髭を垂らした隣の探索員だ。環印を緩い袂に収め、アバラ並ぶ貧弱な胸元を見せている。 唇を左右に上げ、彼女は歯を見せた。 「いえいえ、騒動に割り行って、出来ればその中に己を突き刺したいと願う、否感ずるのは、ナルスの性なのでしょう。」 ふん、と喉音が漏れた。商売道具の耳を、音がこちらまで届くかと思われる程強く掻く。 外の騒ぎは未だ収まっていないが、ただ楼閣の空間の表面を掠める爪に過ぎなくなっている。アヴィーナの町は、下手くそな料理人が起こす火事が多く発生していた。飽きて脅えを無くす程で無いが、一飾の中では数回、アシュラの気が乱生する。野次馬は喜ぶのは変わらないが。 「全く同じ話を、わしもされたことかある。13年掛の探査だったか。」 細筆で引いたような眼が見開かれる。 「長いですね。」 「その時はもう、へっぽこの童子が一介の間諜役になろうてたわ。」 目までもそのような山羊髭の男は、続いて鼻をすすり上げる。その中で、くぐもりと掠れが同時となった声が聞こえた。 「じゃからのう…金はなんぼでもふんだくっても良いぞ。」 飛び出した瞬間、曇天より雨の槍が落ちて来た。いつの間にか空気も水に従ったようだ。冷気が一気に、瀑布の如くに下り落ちる。一回ずるりと滑り、水しぶさが飛んだが、猫のように降り立った。町は既に濃い墨色に覆われている。 不格好な森を思わせるアヴィーナの町を駈け行き、脇道に飛び込んだ。そのまま煙りの根っこに走ろうとするが、途端に老若男女入り乱れての野次馬の流れに食われてしまう。 「邪魔だよっ。」 「うおっ」 肥り肉の中年官史に弾かれる。土混じりの水が飛びちり、足に醜い跡が付いた。 口の中、幾十の罵冒雑言が充満したが、すぐさま飲み込み駆け出した。煙りはさあさあと垂直に落ちる雨にも屈せず、真顔ぐに曇天を突き刺していた。 その様を見る前に、手を伸ばして来たのは、匂いだった。それは微かながら、針のように鼻孔に飛び込んで、それだけではなく喉さえつついた。焦付く匂いなのは間違いない。しかし、その中には、何か喉を内から占める毒気があり、唾が不味くなった。 火の元は、町を横断する小河の一つだった。小さい欄干が据えられて、小舟が幾つか浮かべられている。建物と河との間に、かなり広い路が作られており、それを巨大な樽が幾つも埋めていた。 ヒラキの眉が寄った。緊迫した心が緩む。 雨天とはいえ、生々しい悪臭がじわりと浮かんでいる。人間を詰め込んだアヴィーナが吐き出すものは、奇麗とは言いがたいものも多い。小道具顛、衣類、増築した家の余った材料。幾回の再利用の手には触れられるが、その末疲弊つくしたものがそこに集められる。樽に詰められて。それらは一節に一回ほど、纏めて町の外で燃やす。要するに汚穢所だった。 問題の中心は、人の壁が出来上がっているのですぐ分かった。頭に笠を被るもの、濡らすままにしている者様々だ。引き寄せられるように、人が加わって行く。 「ごめんよっ」 尻と腹との間に頭を突っ込む。 殴りが─つは飛ぶかと思ったか、皆燃える樽の方に目が言っている様だった。炎の小柱が立ち上っていた。 四方の樽を10ツ程黒化させた後、まだ炎は燃え続けていた。樽の上だけの範囲だが、どこからかの些細な風に揺らいでいる。 それを遠巻きで見守る人間は、口を皆押さえていた。幾人かが仰いでいる。ほっとけほっとけ、と声も上がっていた。 炎の周囲は、空気が溶けるように流れ揺らいでいた。雨に冷やされ、水気を一杯に含んだ空気の中では、熱の流れも水になる。 どこからかの異質感が落ちた。純白の鵜を見たような感覚。 「何で消えねぇんだ?」 雨の中の炎の舞踏は続いていた。中に何かの核が存在しているように、橙色の強い芯は揺るぎはしなかった。噂でしか聞かない、アシュラの瞳の如き金の溶鉄の炎はこのような物だろうか。 背後から、怒涛のように咳き込む音が聞こえた。首筋に乱れた吐息か降りかかる。 振り返ると、青紫に顔色を変えた人間がいた。両手で口を押さえ、喉奥から何かを吐き出すかのように震えている。指の間から唾がしたり落ちている。 それを見た時、ヒラキの喉にも黒いものが降りた。苦い、痛い刺の塊が。毒という言葉が浮かんだ。 周囲の人間たちの顔には恐怖よりも浮足立つ驚きが浮かんでいる。遥か背後、逃げ出す人間もばらばらと居た。派手な動揺が人々に宿りかけた。 煙りに噎せる痛みではない。舌を捩らせるような苦みが焼き付けられる。眼球も独りでに回りだすような魔術的な臭いだった。 いつしか、その毒気は広い路の上に染み込んでいた。透明な手で伸ばされたように、柔らかく、雨の透き間を縫っていく。 河に捨ててしまえ、という声が上がった。それが惑う人々の思念を一つの向きに誘い出す。何本もの腕が樽に伸ばされる。ヒラキも、腰を落としそれに従う。 脇に忍び込むもがあった。 彫り物の武神将像のもののような、凄みさえ漂わせた腕が、その樽に手をかけ、河へと投げ込む。指し延ばされた幾つもの手より、その力が樽を持ち上げたことは分かる。 樽が飛んだ。 「あ。」 樽は、軌道を描いて、河に落ちて行った。いやに低い音をたて、水面が呑み込む。 安堵の吐息が、重なりヒラキの耳を覆った。 小河の水は、雨水を受け止め純鼠色に化していた。中の水草も死んだように、水流に弄ばれている。その中、派手やかな橙色の光は際だっていた。 炎は勢いを僅かずつ削られている。いかにも、無理矢理のとっ組み合いで、ぎりぎりの力の差で押さえ付けたような様だった。 河の中の岩にぶつかり、重い音が上がった。樽の木屑が舞う。岸からは些細なものにしか見えないが、水流で押された衝撃は激しかったらしい。樽の蓋が開いた。 ヒラキの口が開く。 漏れ出た黒いものは水草ではない。艶があり、幾重にも細く重なり散らばる糸たちは。また強い流れが樽を揺らし、覆され、目鼻が見えた。 人は恐ろしいさまから目を離すことは出来ない─ヒラキは知った。恐らく動物として与えられた警戒意識のスイッチが押されたのだろう。眼前の不快な事物から、別れる為には目を綴じれば良いのだ。しかし、瞼は強く開いたままで、雨水も流れ込まない。 その様はありふれたようでいて、極端に奇妙だ。濃い雨のなか燃えつづける細い炎のように。 瞼と唇は綴じられていた。─黒い糸で。頑強ともいえる精密さで、縦に横一列、堅く綴じられていた。それを見せたのは一瞬だった。一つ息を吸い込む間に、金色の熱い手が、魂を亡くした身体を包んだ。 呪術的な風景か生まれる。ただ祝祭と異なるのは、今炎に嘗められている五体は血肉があるということだ。舞踏する炎の固まりとなり、その核は図れなくなる。 視覚だけに染まったヒラキの脳裏に、声が飛び込んだ。堅い石を擦り寄せるような声。 「使いでを知らぬものに渡すのではなかったな。」 響きは愚弄まじりだった。そして、その声は間違いなく、己に向かい説かれていた。 呆然とする魂を慌てて掴み寄せ、振り返る。 いつしかそこには、ヒラキとその者しか存在していなかった。降り続ける夕雨。夜の滴が滲み出て、声の主を覆い隠している。人の存在感はあった。しかし、それは踏み出す前に失せていた。 ヒラキは、目を見開きその先を見据えていた。ふと視線を上に向ける。 闇に溶ける寸前の空、雨に煙る鵜が飛んでいく。 紅花回廊 アリトは、整えた衣装を更に気にかけなから、通路を歩んでいた。 通路は既に薄暗く、脇の壁に描かれた図様の華やかさも沈み消えている。元は紅殻で飾られた、サフランのような鮮やかな赤な筈なのだが、今はどこか妖さを漂わす紅色に見える。 光量が少ないのは、小窓の一つ一つが、雨降る夜間に覆われていたからだろう。 そういや、この壁色、血の色に近いな。 そんな言葉が浮かんで、彼の心を、更にリィルの手が撫でていくが、慌てて言葉で押さえようとする。 いや、そんなことは無い。今まで俺は顔と一緒で、平々凡々と生活していた筈だ。誰も傷付けていないし、吐いた陰口の類いも人に比べては少ない。 アリトの中で、それらの独り言を踏み付けて、リィルかステップ踏んで踊り始めた瞬間、 「お前、ここで働く気はないか?」 前方から声が掛けられた。 先に立つのは、この蜘蛛会会堂の中へとアリトを誘った男だった。 山羊のような髭を垂らし、冷雨が回廊の中でもじわりと染みる場所でも、衣服を緩めている。年の頃は40位か。そろそろ体調を気にしなければならない頃だ。彼の鼻の下が湿っているのが見える。 アリトは、しばし沈黙していた。とにかく、沓が床に触れている感覚だけは感じていた。 虚空に近くなった脳裏に、「これは幸運か?」という独り言がどうにかはい上がってくる。 蜘蛛会の会史試験の申し込みを出しにいった途端、内戸の中へ誘われたのだ。 「お前、元々ここを志願していたのだろう?」 声には、やっかみも祝いの響きもない。ただ、元から定められていたことを読み取っているような、感情の蠢きを廃した声だった。 「え、ええ…しかし…理由位は伺ってよいものでしょうか?」 「良いぞ。」 壁に据え付けられた灯光が、彼らの影を長く伸ばす。床は薄い織物らしい敷物が長く続いていた。茜色の中に、黒の繊細な模様が描かれた、不思議な様だった。それが更に、この回廊の外界より遮断されたような雰囲気を高めていた。 「ニール・マミエがお前を選んでいてな。」 アリトの目の表情が、変わった。惑いはそのままだが、もっと深い場所が目覚めたような気配がした。 「前代蜘珠会長ですか。」 「ああ、新年節の時以来、聡明そうな少年だと時折褒めておられた。それで、もし彼が成人して職を得る頃には、ここに口利きをしておいてやろうと。」 脳裏の闇の向こうから、まっすぐの黒い長い髪を持つ、女性の姿か近づいてくる。その目は涅色だった。 記憶が遡ってくる。 アリトの父親は蜘蛛会に努めていた。しかし、毎日とは言わないまでも屋敷に帰って飯は食らっていたから、探索員や間諜員などでは無かっただろう。その仕事の内容は読めない。親たるもの、子が育つ内にその生業を心身に染み込まさせるものだが、アリトとその弟たちの場合は違った。 仕方が無いのだ。経済と情報などという、蜘蛛会の生きる糧─それに携わる父親の生業など、子供たちの眼前に差し出して見せられるものではない。 その点は責めない。今、どこぞかに出ていったきり帰って来ないという事実よりは些細なものだ。母の実家が商会を経営している為、生きる糧に困りはしなかったが。しかしその後、アリトの家に神隠しが憑いたのは確かなようだった。 父親に一度祭りに連れていかれた時がある。その年、蜘蛛会とアヴィーナ邑宰家共同の、新年を祝う祭が行われた時、アリトは弟たちと共に見物に行った。目元に、光る紅色の化粧をした舞人たち、唄を詠唱する童子たち。弦と弓の楽器さえ、良い木製の背を伸ばし唄うようだった。 そこで出遭ったのだ。30代半ばほどの蜘蛛会会長、ニール・マミエと。 はっきりした記憶はない。ただ、以来彼の中の不思議な位置を占めている人であり、女性だった。 限りなく遠い場所を眺めるような、また限りなく狭い場所を見つめるような瞳をしていた。そのあとの殆どの性格や、外観は普通の女だった。容貌も醜女とも言い難く、至って静やかで地味。美人とは明かに違う。ただ、濡れたような深い涅色の眼だけが際立っていた。 蜘蛛会会長なのだから、ナルス一有能なのは推し量れるが、総体的に取れば、蜘蛛会という組織を存続する為の一石に過ぎなかっただろう。ナタ・エイラという恒星の輝きの前ではかき消されてしまう存在だ。 回廊は重い静寂に包まれている。聞こえるのは軽い雨の音だけだ。己の心臓の鳴る音さえ、耳元に響く気がした。顔は熱くならない、不思議なものだ。幸運に喜んでもいない。この空気は、感情を黒い手で包んで麻痺させてしまうようだ。柔らかい閉塞感ばかりだった。 口を利いてくれた人は今、この回廊のどこかで潜んでいるかもしれない。 その時、アヴィーナで揉まれている内に耳に飛び込んだ噂が浮かんだ。母の商会の者がこっそり教えてくれたのだ。 蜘蛛会の会長は、40の年になれば、新しい会長となる人間の刃に罹らなけれけばならない。どんな方法でも良い、それで命を失せば良い。命が失せた時、新しく会長となるものに、魂塊から記憶だけが抜け出て、その目から染み込む。身体は器となるのだ。 その噂は、最近新しい言葉が加わった。 しかし、ニール・マミエを葬ったのは、ナタ・エイラでは無い。 山羊髭の男は彼を見つめ続けて居る。いつしか、穏やかな声が口から出ていた。 「受けましょう。…ただ私はひ弱な人間です。逃げを打つことに慣れております。力に沿えないことかありましたら、捨ててください。…甘いことを言うようですが、命はそのままで。」 湿った闇が包んだ。土の匂いか強い。 巨きな灯籠の下、身を起こす者が居る。末っ子の弟だ。顔全体で、苛立ちを示していた。 その顔で、時間を感じさせない場所に居たのだと気づく。あの廊下は、半ば闇の中で、灯火は光る花のように見えていた。閉ざされていたのではないか、と思った。 取り敢えず、ナタ・エイラの元で働くことになったと伝える。 弟の丸い目で、現実感が戻ってきた。 「…長く待ってた甲斐はあったみたいだな。」 大人びた口調を呟く。既に商会の手伝いをしている弟キョウヤだ。愛らしい顔をしているが、兄弟の中でも時機に聡い方だと思う。長兄のアリトの思考の流れより、常に上を速く流す人間だ。 アリトの背中の上に、無形の黒い巨きな石がのしかかろうとしていた。 烈しいと唄われるエイラの性格が浮かんでくる。言葉一つ一つに、刃生やすような鋭さがあるという。ただの烈しさ、なら理解は出来よう。人の持つ感情のそれぞれが色濃いだけだからだ。しかし、エイラの場合、方向性が読み取れない。 珍しいもの好きで、美しいものは更に愛し、美童好きだ。あの若さで、遊びも幾つかこなして居ると言われている。しかし、わがままという悪評が定着しないのは、蜘蛛会会長としての職を、上々以上にこなしているからだろう。エイラが指を動かす場所には、かならず、ルドラの子供らが目を覚ますと、何時しか語られるようになった。 艶やかな花を咲かせ甘い匂いを漂わす花木が、実は刺ではなく、その辺り一帯に張り詰めた根を武器とするように、彼女の真は図れないのかもしれない。 あらゆる政治的なことを排除して、アリトのような性格の人間から見れば、脅威だった。 もし時代が逆で、マミエが現会長だったらどんなに楽か。 「とても俺には扱えないよ。」 思わず情けない顔を浮かべた。 「甘い。」 童子はにやりと笑う。 「あんな女に限って、中は脆いのよ。…その辺り、兄ィはつかんどきゃいいよ。」 沙山斎門 のっぺりとした闇が砂の上を覆う中、一つの巨大な門が、その肌の上、雨を滑らせている。 巨石を切り立てた中に、馬蹄型の口を開ける。その上に、天然石や陶器辺を下地に従い填め込んでゆく。その工程を経て、数節の間に、白石の門は精緻な唐草のモザイクで飾られていた。薔薇を思わせる紅、涼やかな青などが絡み合い、その狭間には金が落とされ、闇の中でさえ人の目を誘うかのようだった。 今でも、滑る水で霞みながらも、門は香り立つ雅やかさを湛えていた。 それはサイダバードに伝わる記憶の一つだ。ラミニースの時代、砂漠の泉を飾っていた建造物の彫石術、装飾術、塗色の術を噛み合わせたものだった。大砂漠の暗黒雷帝神殿は、その装飾が一つに集い花開く壮大な場だったという。海のごとく砂の地が広がるラミニースの中で、それはどれ程美しく映ったのだろう。 門の下、人間が一人立っていた。黒い衣を全身に覆い、頭だけを出している。浅黒いかんばせを、僅かに波打つ黒髪が飾っていた。女性だった。額に雨が幾筋も線を描くのも気にはしていないらしい。金の耳飾りが小さく揺れる。 その面は、インダラ神殿司祭、カリフ・ナビーユだった。彼女の眼は、記憶の表面を辿るかのように中空を捕らえている。 馬の蹄の音が、湿った砂を蹴り近づいてきた。 昨日のことだ。 ナビーユは、目線を己の組んだ指に置いて、自らが吐く息の音を聞いていた。表情は露わではないが、思索を深めていることは読めた。 円座を組んだ場の者は、皆似たような表情を浮かべている。息の音だけか八ツ重なり、天幕の中を繰り返し巡っていた。カップの中の乳脂茶の香りは、既に死んでいる。 光を乗せた浅黒い唇が動いた。 「…行く者の選別はどうする?それと、砂漠に向かうものの指導者を。」 「子らも動揺しているようですね。」 言葉を重ねたのは、神殿の守護役リヤド・アッシャーブだ。脇に、長い三鈷剣を降ろしている。使いこなされた黒い把は、砂で薄白く汚れていた。 「皆の意見を、また聞きたいのですが。」 吐息の音が、僅かに変わったようだった。頬杖をつき直す者もいれば、目的無く袂を合わす者もいる。これまでの様々な意見の照合の中、避けてきたものが姿を表した。物理的な様々なものは、蜘蛛会から買った情報を元に合議を重ねていたが、最も難しいかもしれない問題はいつしか後回しだった 風を容れる為に上げた垂れ布から、人の姿が見える。 「あの者は、邑の者全員の移住を望まぬだろうな。」 その様を指でついと指し、呟いたのは、神官シーラーズ・ナチーだった。 向こうには井戸がある。頭に壷を乗せ、女性がテントへと歩んでいっていた。その足元には木の枝を持った幼児がまとわりついている。褐色の指が小さな頭にやさしく触れた。 サイダバードは、同規模の他の邑に比べ子供が多かった。そこで生まれたものは、若くしていいなずけを取り、親となる義務を背負わされる。血族婚を忌避する為、相手となる者は限られてくるのだ。普段は父親の姓だけ名乗るが、正規には二つの姓を持つ決まりもそれに繋がっていた。 反面、一定の年齢まで育った子供は皆巨石の元の教習所に預けられ、インダラの子供として育てる。増える人数を収められたのは、遊牧の形態を残した生活の為だった。 ナチーは言葉を重ねる。 「400年間、この土地で暮らしてきたのだぞ?我々は外れなく蜘蛛会員だ。蜘蛛会の元、その恩恵を受けているのは否定できない。それらを全て断ち切るのは…。」 「非現実的だ、と?」 ナビーユの声も硬化したままだ。 「それは能く分かっています。…それゆえ、三つの団に分け、行く行くは二つの群れに分けようと。」 三ツの団とは、いやさきに砂漠に向かう群れと、やがての砂漠に移住を定めた群れと、サイダバードに居残り神殿を衛る群れである。司祭継承の業の合間に、ナビーユが考え出した方だ。 「そうだな。然し、邑に住むものは殆どが、バーミヤを見たいと所望しとる。満足に足が立たぬ長老たちまでもだ。」 系譜読みの首がすぐさま言を返した。 「未来か有る土地」─遥か昔、言霊人の支配に抵抗して、島へと移ったサイダバードの民が、島を差した言葉だ。彼らは、出稼ぎの同族の中に交じり、…その時代の名は、アフネリアに向かった。 しかし、そのすぐ後に、海に結界が生まれたのだ。サイダバードの民は皆、故郷に戻ることは望めなくなった。瑠璃の海は、澄んだ牢獄となった。 帰路は無い路だと覚悟していた者たちも居ただろう。しかし、現在でも、血を分けたように育った土地と切り離された民の嘆きが、底流のように存在している。砂漠の様々な文化を辿りつづけたのも、その想いが常に絡まっていた為だろう。 今、「未来の有る土地」は、南のバウ砂漠なのかもしれなかった。群れの者たちの夢に、バウの土地が浮かぶようになって久しい。天輪が、錆びを散らしつつ、巡ろうとしている予感が、邑の底に宿ったのか。 「住処を変えるのは、容易くは出来ないかもしれんな。」 その時、人の耳を誘う、豊かさを感じる低い声が背いた。自然そちらへ、場の視線が集まる。 「先生。」 「長兄…」 円座の、ナビーユのちょうど真正面に、淡い穏やかな笑みがあった。カリフ・カウィード、ナビーユの兄だ。 隣り合う人々の中、彼は一際筋骨遥しい肢体をしていた。東方とはいえ、サイダバードはナルスの部族だ。しかし彼は神人の、それもメール辺りの歴戦の勇士の如く、それ自体鎧を思わせる屈強な体躯をしている。そして、心の勁さは体躯以上のものだと。 強さと堅さを映した目と、智者のゆとりさえ漂わす穏やかな表情は、威圧ではない、年月経た岩の穏やかさだった。 青年に差しかかった頃、 今は教習所の長と、神殿の中の、特に秘匿される文書倉の鍵を任されているだけだが、後々はサナアに続く、サイダバードの指導者だろうと考えられている。 「砂漠に立つものにはひとつの型が必要だ。生きる者も、水も闇も空気も全てな。」 ナビーユは、4つ上の兄を見上げた。インダラ司祭となり、カリフの家の長となった後でも、兄には適わぬと思う時がある。思索も交えた言葉が、彼の口から紡がれる時だ。 「しかし、今はその場所がない。この島では、水場も、駱馬たちの食む草も、何もせずに生えてくる。─生き易い土地だ。我々も、そんな土地に抱かれ、甘え、400の年を重ねた。」 開けた入り口から、湿った風が押し出されてきた。空は白い真綿のような雲に埋もれている。空気に含まれる水気は益々増してきていた。降雨が近いのだろう。地に落ちるルナの影─かつては、砂漠の民たちを護る唯一の慈愛となっていた黒い腕は、今は薄れ外形も捕らえきれない。風に流されて、パルジャニヤの祠から祈りの言が巡ってきた。 「人は、変革せなばならぬ生き物の癖に、慣れで生きるものらしい。…真の変革とは、時間が掛かるものかもしれんな。例えこの邑の精鋭を集めても、それを肝に銘じておかないと、根は張れなくなるぞ。」 「…生半可な変化では、己を低めるだけ。それ故、我々はインダラの元で自文化の継承を行ってきたのです。」 ナビーユの眉が顰められる。充分に美しい面だが、精気は内から鮮烈に彦み出ている。 「カウィード。」 「何だ?」 リヤドか声を上げる。彼女の独特の、琴音のような、硬質でいて優美な声が戻っている。しかし瞳は真剣なままだ。 「その、一の群れを率いる気はないですか?」 彼は口を緩めた。骨太な笑みだった。 「正直、おれは職は捨てたくがないがね。記録を衛っていきたいし、子供らを導いていきたい。それがおれの命業だと思っている。」 「子らも寂しがるだろうが、誇りには思う筈だぞ。」 ナチーの言葉を聞き、カウィードは微かに鼻から息を漏らした。微苦笑にもならない、ささやかな笑みだった。 その眼の深さに、ふとナチーは、己との視線の異なりを感じた。心の隅、距離感が得体の知れないまま静かに、宿ったようだ。 あと僅かで、祈りの時間だ。ナビーユの身の中の時計が訴える。火を焚き、密言を挙げ、暗黒雷帝インダラに報告しなければならない。 これは、世界の中では、はんの微細な邑の出来事に過ぎないだろう。歴史の記憶をなでる一片の風にしかならないもの。 しかし、その風の上には、民たちの宿命が乗っている。どこに吹いていくのか…または、どこで吹き終わるのか、読むことは出来ない。インダラはその先を知っておられるのだろうか。 突拍子の無い響きで系譜読みの首が声を上げる。 「キシンの息子は?まだ帰っておらぬのか。」 円座の中心に、沈黙が生まれた。 「…まだ帰っておらないようです。」 ナビーユの、垂らした髪が、吐息で大きく揺れた。それは、彼女自身も気づかぬことだった。一つの視線以外は。 ナビーユは声を上げた。 「ファリドゥン!」 闇を抜け現れたのは、長い髭と、湾曲した首を持つ蹄の生き物だ。砂金色の毛が濡れて幾千の細かい滴を撒き散らす。鼻を鳴らし、一つ嘶く。鳴き声は空気を切り裂くようだった。 こちらへ駈けてくるのと、ナビーユの足が地を蹴るのは殆ど同時だった。重い砂が鳴り、二つの影が交差する。 手綱を掴み、身を浮かした瞬間、ナビーユは祈りを解き放った。この雨かゴードの手の内のものであらせるように。 雷神は声を上げてくれるだろうか。 クベーラ神殿内室 蜘蛛会会長ナタ・エイラは腰に軽く手を当て、辺りを睥睨した。 「これが売り出す武器の類い?」 木戸から雨音が絶え間無く囁いている。静寂の中の空気も、 どこか生暖かく籠もっていた。その中、静かに沈んだ緑青の色を称える刀たちが並んでいる。 「名うて創師の手のものばかりでございます。」 卸商人兼業の神官が言葉を返す。 「投げて。」 幾つかの躊躇の後、青い刀身が軌道を描いた。指輪で飾られた指がそれを摘まむ。 顎を挙げ、目尻が上がった暗褐色の目で刀身を映した。磨かれた青銅刀は、一瞬彼女を映す鏡となる。 生気に満ちた花、といった印象だ。まだ頬や目元の辺りに少女の影を残している。それは、完璧に開き切れていない大輪の薔薇を思わせる。少女神と呼んでも良い舞踏神ナタの容貌を写し取ったようだった。 ナルスの女だけに通ずる、まろやかさを帯びつつほっそりとした肢体をしていながら、顔立ちや目は刺が生えている。 「駄目ね。」 神官が明かに脅えた顔をする。 「形が土臭いわ。」 戸惑う顔は、会長付きの戯奴の顔にそっくりだった。恐らく、その刀を商売する仕事だけを任された新入りだろう。 それを眺めるエイラの唇には、娘じみた嘲笑も浮かばず、ただ、ひんやりした目線が注がれるだけだった。 「しかし、先程申した通り、名うての刀匠のものでございますし、不精の術に強化の術も通常以上に掛けております。幾つかの検分の末、研ぎ澄まされたる切れ味のお墨付きを抱きました。」 「奇麗なものを奇麗って言うのも、その逆もどこが悪いのよ。まァ、つまんない奴らに渡す量産型にしては良いんじゃない?」 それは観賞する響きだった。 会員や神官たちは、静かに、口に蓋をしている。島中の情報が、小さなかの女の中に集っていることを皆知っている。それは、融合し独立した時間軸を与えられ、彼女の中に鼓動していた。 「…ウォンジュに出した使者はどうしたの?まだデヨンのバカは動かない?」 言葉を合図にして、脇に控えていた間諜役が口を開いた。 「まだ、止まって居るようです。邑の民の反発が強いらしく…。」 「あら、その程度だったの…。砂鉄を手に入れられる機会だったのに。」 「東精会が動いたという詰もあります。いくさはどうしても止めたかったのでしょう。」 その面には、感情の流れが止まっている。 牡丹色に塗られた、小ぶりの唇に、今度は愉快そうな笑みが滲んだ。暗褐色の目線が、中空に止まる。そのまま、彼女は呟いた。 「…ねぇ、戦争ってどんなものか知ってる?」 「独立戦争とこの度のキーサ事変からの戦乱と、意味は別れると思いますが…」 「何呆けたこと言ってんの。」 剣を投げられたかのような鋭さで、間諜役は頬を震わせる。彼女の感情は、ふっくらしたそこに凝縮されているようだった。 「人殺しが増えていくってことよ。今まで平和だったから、初めて人を殺す人間もたくさんいるのでしょうね。」 絶え間無い、強さもどこか抜けた小雨の音が空間を占めていた。何か、ちいさな口を効く生き物たちが幾万も外に張り付き、それぞれが口々に何かを言い合っているようだ。エイラの声が、その中、擦り抜けて通っていく。 「金にはなるわ。でも、人はどうなるかしら?親を亡くした子がどんどん出てくる。社会の彼方此方で歪みが生まれる。そして人はそれの対処法をまだ知らない。─独立戦争からもう400年立っているのよ。いくさの摂理のなど、この島の誰が知るというの。戦わなければ死ぬ、自分一人勝っても、それが自分自身と家族が食っていけることに繋がるか分からない…そんな中、人は心の均衡を保てるかしら?戦は停滞と閉塞を壊すとか唱えるよりも、私はそっちの方が現実的だと思うわ。東精会はうまく考えたのね。不安定な成長より継続を選んだのでしょう。」 「失礼致します。」 戸が開いた。言葉を破ったのは、蜘蛛会の係官だった。 「サイダバードの司祭が訪れているそうです。先程徒歩でアヴィーナへ出たとか。明朝早くにでも、幹部の方に謁見したいと届けを出しておりました。」 小さく、溜め息が漏れる。この新しい会長の、奥に在るものが微かに片肌見せたというのに、些細なことで邪魔される。微塵にしても良い情報だ…との言葉が、その場の者全ての面に出ていた。 エイラは、あの剣呑さを押さえた時に出来るひんやりとした表情で─しなやかな野獣が、獲物を前に一瞬捕われる表情で、それに耳を貸していた。 「妹の方ね。この時間で徒歩…じゃないでしょう。えらくタフな馬を何処かに隠しているわ。」 係官が入ってきた戸とは反対側の戸を押し開く。 風が流れこんだ。水流のように、彼らを包む。雨の音が、一際高くなった。軋みのような音だ。 闇が広がった。戸の向こうには、良い階があるが、灯寵の明かりも無い。 舞うようにして、エイラはその上に飛び降りた。親指が触れるかと思えば、また、反対の指が階に触れる。その度、内室の光に照らされた段の上に、小さな波紋が広がった。 海の歌 夜の雨は黒い滴の世界だ。襟足に落ちた滴が、全身を震わす刺となる。 己の心が空洞と化している。そこに、黒い滴は満ち満ちる。夜が訪れれば、己の身体は完璧に闇に溶ける。 窓の下の娼娘か彼をちらりと覗いた。─妓楼の下だった。流れ娼夫たちもどこかに息を潜めているのかもしれない。櫻紅色の灯籠の灯りが、黒い流れを照らしている。 おれも流れてきたのだ。─そんな言葉が浮かんだ。あの白い、奇麗な城壁の街から捨てられたように落ち、漂い、着いたのは嗅ぎ慣れた生臭さに満ちた街だった。 酒を吸い込んだ体は、柱に覚れかかり、浅い流れに足元を濡らしていた。 精悍さで飾られるだろう肢体が、今は亡霊のようにただ存在している。 また、手の内には何も無くなった。明日には再び、間諜の首から新たな命が下される。 キシン・スルタンは、目線を天に向けた。そこは雨だけを産み出す暗黒の空だ。広大さは、逆さまの黒い海のようだ。朝はまだ綴じられている。 この六ケ月間で伸びた髪の上を滴が通り、指先を滑り落ちて行く。一筋の冷たい感触が、指先で撫でるように通り消えて行った。 外套を全身に巻き付かせる。必要以上に堅く縮め付け、雨幕の中へと歩み出す。雨露の中、吊り下げて歩いたのだ。外套はじっとりと冷気を含んでいた。毛一本ごと、晩秋の雨を吸い込んでいる。その冷たい手は肌を縮め付け、血の流れから生まれる感覚をより鈍摩させる。 刺激の向こうの鈍化が姿を表してくる。それは、死の色で飾られていた。 呪詛のように、心の隅に流れ続ける姿がある。それは彼が、思念を己の物にした時に、必ず激流となって侵食してきた。 その姿は、たおやかで、限りなく強いもの。穏やかな声と、その響きの上下。僅かな態度の変化が波紋を残した。 呪詛は呪詛を呼び、凝り固まり、黴びのように根を張り、そのまま、心を停止させた。だから、頭をやられたように、職に首を突っ込み続けるしか出来ない。 ─何を喘いでいる。 嘲笑まじりの言葉を投げかける。 ─世の中には、目の前で親が死なれたガキもいるというのに。 ─同じだ。重みでは同じだ。 フードを上げる前、髪を掻き上げた。指の間を長くなった髪が滑る。そのまま、己の掌が目に入った。微かに生まれる既視感があった。 雨音が潮騒のように広がる夜だ。闇が、雨と融け合って、何か巨きな存在と繋がっているような気配に満ちた。 この手はもっと小さかった。黒く染まった町の水も、慣れていないものばかりでただ脅威だった。あの時と殆ど変わっていない─軋んだ苦笑が漏れる。頬に涙があっただけだ。揺らぎ、行き場なくさ迷い、湛えられた汚い水を脚で割った後、人と出会った。 ぼやんとした女だった。始めは、流れた家材を拾いに来た洗濯女だと思った。差し伸べられた手のひらの生白さを覚えている。それは、特に美しくもなく汚れてもいず、しかし妙な存在感を感じさせられた。 スルタンの一つの路が開けたのは、その瞬間だった。 雨が一際強くなった。立ちすくむ彼の頭上から、真っすぐに降り掛かってきた。中空から沸く音は、低く高く唄のようにうねっていた。 雨に潰される、と感じた瞬間、背中をとん、と蹴りつけられた。 通路の上で、ヒラキは振り返った。 誘われるように、通路の下を見やる。薄汚れた低い二階建ての楼閣は隊商護衛用の宿屋であるのだが、向かい合った館からの通路が二階に繋がれていた。粗末な屋根が有るので、隣で揃えてきた物資は濡れないのが有り難い。 胸の奥から、熱いものが這い出てくる。どくん、と心臓が、太鼓を一つ打ち鳴らす。 見下ろす先は闇の塊しか無い。しかし、その中に蠢く生き物の匂いがした。降雨の音が乱れている。 ヒラキは身を乗り出した。木の通路か軋んで揺れる。やがて、闇が掌を開くようにして、その中の様が見えて来た。 一人の人間を、数人で針差している。あの三日月型の長刀は何だ? 男が腰に下げている刀が目に入り、眉を寄せた。弓と違うてしまう形状だが、確かに、奇態の刀だった。中央には、汚れた布が巻き付けてあり、そこが把になっている。 胸が、ちり、と灼かれるような感じか浮かんだ。ヒラキが最も嫌悪している形態の争いだ。未だ孺子のヒラキでも読み取れる程、醜い。 ヒラキの口が開くのは、そう大した間ではなかった。 「サラヤ・ヒラキ、義により参戦する!」 手に持つ松明が、まずは先陣を切って道に落ちた。火が闇を燃やし、その場が朱の色に染まる。石壁に浮いた影は5つ。 針刺していた数人は、明かに怯んだようだった。 義なんて関係ないことだ。友人でも何でもない。それは、己に対するものだ。 この不安定な生暖かい淀みが支配する世界から、誓え不格好でも逃れるための。そう、この通路から飛び降りるように。 汚水が飛び散る。剣を構える。鋭剣の型だ。 衣を被ったままの男に叫んだ。 「おい、その刃か泣いているぜ!」 ヒラキの起こした風が、彼の衣を少しだけ持ち上げる。その奥の面を見て、瞠目した。浅黒い肌に、鴉羽の髪に、琥珀の眼─いや、夜闇の為か鈍色にも見えるが、東方ナルス。 昼間に逢った東方ナルスの男だろうか?否、違う。─獣が飯を選り分けるのと殆ど変わらない勘でヒラキは嗅ぎ取った。引き締まった痩身で、あの男に比べて幅が狭い。 「使わねぇなら俺によこせ!!」 吐き捨て、膝を水に捕らわれながらも敵と定めたものに向かい合った。 3人居る。一様に黒い布を羽織って、剣は簡素な合口。しかし、布の影、獣の筋か何かの綱が滴を落とすのか見えた。一際小さい影か見えるのは女だろう。ナルスの女は身体が小さいのだ。 飢えて捕らわれる寸前の黒豹のように、体全体が弛緩している。苛立ちが沸き立った。 これで奴らが逃げたら、あの刀が貰えるかなとふと思った。 噂でしか聞かない旋刃だ。宝器術法は不可欠。三日月型の刃は、繊細さと豪胆さが交わる技術が必要な為、創師は地神の武人系統が僅かに囲っているにすぎない。 獣脂が水と交わる時に生まれる臭いが微かに漂う。空からの雨、下からの浅い水流に、炎が負けるのは時間の問題だ。揺らぐ朱の空間が狭まって行く。 滲む不安を、剣振り争える歓びと咆哮で押さえた時、黒い集団は、糸に引かれるように歩を引いた。 小さい影が風に流れるように、身を巡らせるのが見えた。それも微細な間で、彼らを影が塗り潰した。水の鳴音が遠ざかっていく。湿った風が、天から吹き降りた。 その後を追う考えは流石に浮かばない─安堵でもない、虚空にはっぼりだされた本能みたいなものが戻れなくて浮いているような感触だ。 振り返った瞬間、 首筋に、黒い指が張り付いている。雨に滑る彼の肌も構わず、鉄のような指が的確に捕らえていた。 それを知覚したのと、空気の流れが遮断されたのは、一瞬の内だった。 本能のようなものは戻ってこない。脳裏は、真っ白な空になった。怒るでもない、脅えるでもない。 血が滲んだ琥珀の眼が、光を得ていた。 精悍さが伝わる長い指は、綱のように堅く閉まる。紡め付けようとするのは、皮の下の気管と骨だ。 喉奥から声が軋み出る。 「…ガキが。」 向けられる視線は、ヒラキと同じで怒りではない。それよりもっと源始の感覚に染まっていた。ヒラキのものと同じなのかもしれない。闇の中の生き物としての勘に似たものだ。 雨は怒涛のようになり、天から注がれてくる。叩きつけられる水の粒たち。目を開けるのも苦しくなった。 松明から、炎が消えた。火蜥蜴が雨に失せる。変わりに訪れたのは、ルナの抱擁。 首の戒めは消えた。足音が、反対側へ遠ざかっていく。 力を失い、水が流れ続ける町路に髪が触れた。口の中に、泥水が入る。 最後に掛けられた言葉が、彼の心を苛みはじめた。 スルタンは、足を引きずり、水を掻きわけていた。 心の何処から唄が響いた 砂の上で伝えられた旧い歌だ。低く詠唱する形で、幾度も幾度も舌に乗せる。しかし、自分は、柔らかい大人びた声で謳われるのを聞くのが好きだったように思う。 友よ 黒き髪と眉の旅人よ 君はもうこの町には帰れないのかもしれない しかしいつか時を越えこの町に帰れるように 天よ、水をまいておくれ 突如現れた異物の唄は、心の中巡り続けた。 闇の中だ。雨音の流れは、潮汐のようにうねり続けていた。 |
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