会誌-「サークル水月会誌 第8回」

■ 氷炎  【協力:ほなサイババ/文:但馬 晴】


 物見櫓の眼下に陣取るスィスニア軍を眺めながら、口にくわえた煙管をぶらぶら揺らす。こんなことを、もう三日も繰り返している。他にすることがないのだ。
 考える期間を与えると油断させ、スィスニア軍が強襲してくる……という心配はしていない。どう考えても、優劣は明らかだ。そんな小細工をわざわざ用いる必要がない。それでも壕を掘って柵を巡らし、鹿角(ろうかく)などの防御陣の配置にぬかりはない。邑兵の布陣も滞りなく済んでいる。騙されてから卑怯だとわめいてみても、どうにもならないことを知っているからだ。
 シーランの兵吏丞を務めるアークライト・アーヴィングは、スィスニア軍に向けていた視線を外した。
 いままでシーランがまがりなりにも平和だったのは、友好関係にあったスウィズの存在があってこそ。かの邑を統治するライル社は施術宝器の大量生産を行い、その力はスィスニアをも恐れさせた。だからこそ、平和は守られていた。
 それがいま、うち砕かれようとしている。穏健な邑宰をクーデターの末に放逐し、新たな支配者となったナグモ・リューンが牙を剥いたのだ。いかな手だてを用いたかはわからないが、スィスニアはスウィズを攻め落とした。シーランは単独でその牙と対峙せねばならない。
 スウィズ陥落から半節も経たぬうちに、牙は迫ってきた。スィスニアが誇る八武衆、シュラとエレニス・メロウリンクに率いられた六千もの軍勢がシーランを包囲したのだ。
 迎え撃つシーランはというと、軍勢は三千にも満たない。限界までかき集めたとしても、スィスニア軍の三分の二以下。さらに、防衛戦で効力を発揮する城壁を持たないため、数の不利は補えなかった。
 アーヴィングも、討ち死にを覚悟した。が、スィスニアはいきなり攻めてはこず、まずは降伏を促す使者を送ってきた。使者は誰あろう、主将のシュラ。護衛も連れず、ひとりでやってくるなり開口一番、彼女は言い放った。
「五日間だけ時間をやる。降伏か死か、好きなほうを選べ」
 あまりにあからさまな恫喝だが、力の差をまざまざと見せつけられたうえでは、この上ない効果を発揮する。アーヴィングでさえ呆気にとられ、斬りかかって討ち取ろうという思考に至らなかったほどだ。邑宰以下、ただただ呆然としてシュラが引き上げるのを見送るしかなかった。
 ようやく事態が飲み込めて、会議が召集されるまでに一刻は要した。結論が出るまでには、いかほどかかるかわからない。幾度も中断されながら、会議はいまだ続いていた。
「スウィズと同盟を提携するから、このような事態を引き起こしたのだ!」
 それ見よとばかりに主張するのが、かねてよりスィスニア派であり、その領袖たる邑宰丞。失墜した発言力を取り戻す好機だとばかりに、スウィズ派に非難を浴びせる。
「何を言う、暴虐なスィスニアになぞ従えるものか! 貴殿はかの邑に幾度となく苦汁を舐めさせられたことをお忘れなのか!」
 邑宰丞に真っ向から挑むのは、スウィズ派の外吏長。スウィズとの同盟も、彼の懸案によるものだ。己の政策を頭から非難され、少々冷静さを欠いていた。
「スィスニアは我が邑を侮り、いつも無理難題をふっかける。その屈辱を忘れたとは言わせませぬぞ」
 外吏長に同調し、訴えかけるのはスウィズ派に属する庫吏長。無理難題を押し付けられるたび、金銭的なしわ寄せを受けるのは邑民なのだ。財務を司るものとして、スィスニアに服従することは認められなかった。
「では、貴殿らは勝ち目のない戦をせよと申されるのか。そのような命令、邑兵たちに下せようはずがなかろう」
 冷ややかに言い放つのは、スィスニア派の兵吏長。個人的武勇も指揮能力も持たぬ、ただ名門の生まれというだけでその地位に居座る人物だ。当然、戦をする気などさらさら持ち合わせていない。
「我が方の兵力は三千にも満たない。それに対して、シーランを包囲するスィスニアの軍勢は六千。さらに、五千以上の予備兵力が控えている。一度や二度は勝てようが、それ以後どうなるかは火を見るよりも明らかなこと」
 己の怯を覆い隠すかのように、兵吏長は数の優劣を持ち出す。
「それゆえ、ここは涙をのんでスィスニアに服従するべきかと」
 兵吏長の追従に気をよくし、邑宰丞は邑宰に決断を促した。
「そうだ! スウィズの連中は口当たりのいいことを言うが、ただ言うだけだ!以前スィスニアに攻め込まれたとき、すぐに援軍を寄越さなかった。なぜ、スィスニアが引き上げた後にのこのこ現れたんだ! 故意に遅らせたとしか考えられない」
 優秀だが気弱な人吏長が叫ぶ。この非難はいささか的外れだ。スウィズの援軍が到着する前に、スィスニアが引き上げた。それだけのことだ。引き上げたのを見計らってやってきたわけではない。第一、非難する相手はもはや消滅している。
「いま、スウィズのことは関係なかろう。この会議はシーランがスィスニアに降伏するか、徹底抗戦するか、そのことを決める会議のはずだが」
 会議参加者のなかで、唯一中立の立場にある回吏長が両派をなだめると、邑宰の提言で休会となる。このようなことを、もう四日もの間繰り返されていた。
 本来なら、アーヴィングも会議に出席しなければいけないのだが、一向に建設的な議論がなされぬ会議にうんざりし、とうに放り出している。
 それに、兵吏丞の職責は戦になったとき、邑兵を率いて敵を打ち破ることにある。降伏か徹底抗戦か決めることは、政治的な問題だ。兵吏丞に関わることではないと思っていた。
 正直なところを言えば、スィスニアに、いや、リューンに膝を屈するなどもってのほか。徹底抗戦することを望んでいる。権利と尊厳を侵害されようとしているのだ。黙って見過ごすことはできない。
 だが……炎の如く燃え盛る闘志の底に、なぜか冷めた部分もある。徹底抗戦して、どうなるのかと。奇策を用いて、こたびはスィスニア軍を撃退できるかもしれない。しかし、戦に勝つということは相手に「負けた」と痛感させねばならないのだ。ナグモ・リューンという男、たかが一度撃退されただけで、敗北を認めてしまう脆弱な精神の持ち主ではない。敵を叩きつぶすまで、けっして諦めぬだろう。そうなれば当然、戦は長引く。長期戦になれば、国力・兵力ともに劣るシーランがスィスニアに勝てる道理はない。
「どうするべきか……」
 負ける戦は避けるべきだと、冷静に判断する氷と。
 一兵残らず討ち死にしようとも戦えと、激情する炎。
 相容れぬふたつの存在が、アーヴィングの心に巣くっていた。

「兵吏丞どの」
 そう呼びかけられたのは、光の勢力と闇の勢力が混じり合うウシャスの刻。
 アーヴィングが振り返ると、シーラン外吏丞であり、恋人でもあるユークリッド・ラプラスの姿があった。長時間に渡る会議の疲れも感じさせない、元気な姿だった。
「なんだ、ラプ……外吏丞どのか」
 名前で呼ぼうとして、慌てて言い直す。恋仲にあるとはいえ、公私の区別はきちんとしておかねばならない。いまは公務の時間だった。
「はは〜ん、会議にも出席せず、このようなところでサボリですか」
 いたずらっ子のような口調で、ラプラスが言った。
「兵吏丞としての職責を果たしていただけだ。いつ、スィスニア軍が攻めてくるか、わからないからな」
 そう言って、視線をスィスニア軍の陣へと向ける。おそらく炊事によるものだろう、何条もの煙が立ち上がるのが見えた。攻めてくる様相はまったくない。ばつが悪くなり、わざとらしく咳払いするアーヴィング。遠慮なく笑うラプラス。
「……ところで、会議のほうは?」
「全然」
 ラプラスが顔の前で、手をひらひらと動かす。
「進展してませんよ。あいかわらず、過去の政策をあげつらい、相手を罵ってばかり。特に、邑宰丞と外吏長。互いに相手を論破すること以外、眼中にないという感じで……」
 いい加減、ラプラスもうんざりしていた。が、アーヴィングのように放り出そうとはしない。混乱するばかりの会議をまとめようと、必死に奔走している。
「回答期限は明日だというのに、なにを考えているんだか」
 直面する危機に対して、何ら方策を編み出そうともせず、責任のなすり付け合いをするばかりの首脳部。アーヴィングは暗澹たる気持ちになった。
「降伏するにしろ、徹底抗戦するにしろ、これからのシーランの命運を左右する重大事ですから、たやすく結論を出すわけにはいかないのでしょうけど」
「それは……わかっている」
 ラプラスの言葉に、アーヴィングはうめくように答える。五日やそこらで答えの出せる問題でないことは、わかっている。だからといって、過去のことを論ずる必要はないはずだ。いまどうするのか、それが重要なのだ。
「責任問題など、後でやればいいだろう。シーランが消滅すれば、そんなことをとやかく言うこともできないことがわからないのか」
 そのあたりのことを、邑宰丞や外吏長は考えていない。シーランは恒久に存続するものだと、思い込んでいるのか。地位を失うことはないと、信じて疑わないのか。しょせん、自邑の危機さえも、権力闘争の場としか見なしてないのではなかろうか。
「兵吏丞どの……ううん、アーヴィングはどう考えてるの?」
 ためらいがちに、ラプラスが尋ねた。あまりに沈み込むアーヴィングを気遣ってか、官職ではなく名前を呼んで。これは珍しいことだった。アーヴィングは邑宰と兄弟のような間柄にあるため、公式の場でも時折名前で呼んでしまうことがある。そのことを一番厳しく咎めるのが、ラプラスだった。恋仲になっても、公私の区別をしっかりさせていた。職責上、秘密にしなければならないことが出てくる。うっかり漏洩させてはいけないと、神経質になっていた。
「……おれ、そんなに落ち込んでいるのか」
 アーヴィングは質問には答えず、独語した。ラプラスにそこまで気遭わせるほどに……。
「ひとりのおれとしては、戦うべきだと思っている」
 しばしの沈黙ののち、アーヴィングは腰に帯びた愛刀、大刀巻霞の柄を握りしめた。眼光鋭く、スィスニア軍の陣を睨め付ける。
「ナグモ・リューンという男、確かに有能だ。個人的武勇、指揮能力、政治能力、カリスマ性……どれをとっても当代にふたりといない人傑だ。それは認めるしかない。
 だが、あの男は自らの考えのみを絶対とし、一方的に人々へ押し付ける。自らの意に添う通りに行動するよう、強制する。これでは牛馬と同じ、いや、それ以下だ。
 おれは、そんなことは我慢できない。己の頭で考え、行動したい。だから、戦うべきだと思う」
 ここまで言って、一息つく。視線を自軍の陣へと移した。
「兵吏丞のおれとしては、降伏するしかないと考えている。彼我の戦力からして、シーランに勝ち目はない。たとえ、いまひとたぴはスィスニア軍を撃退しても、戦は終わらない。そうなれば邑兵だけじやない、数多くの邑民が塗炭の苦しみを味わうことになる。
 そうなることを避けるなら、膝を屈して頭を垂れ、リューンに従うしかない」
 己の意思を貫徹するべく、燃え上がる炎。
 シーランすべてのことを考え、己を凍らせる氷。
 ふたつの相克に、アーヴィングは苦しめられていた。
「どちらを選択するべきか、おれには決断できないんだ……」
「アーヴィング……」
 自分には救えない、とラプラスは思った。炎を消すことも、氷をうち砕くこともできなかった。それができるのはただひとり、邑宰ブレイブ・シュウのみ。
「……忘れていたわ。邑宰様が兵吏丞どのをお呼びだったってこと」
 ラプラスは、口調を恋人から外吏丞のものへと戻した。
「……シュウが?」
 アーヴィングは邑宰を名前で呼んだ。ラプラスはわざと答めようとはせず、黙って頷く。
「ありがとう、ラプラス」
 礼を言い、アーヴィングは物見櫓から降りていく。
「どういたしまして、兵吏丞どの」
 にっこりと微笑んで、見送った。

「兵吏丞アークライト・アーヴィング、お召しにより参上致しました」
 通されたのは謁見の間ではなく、邑宰の私室だった。そうするように、邑宰からお達しがあったようだ。
「どうぞ」
 侍従ではなく邑宰直々の言葉に、アーヴィングはほっとした。堅苦しい礼儀作法は得意とするところではない。先の口上にしても、最近ようやくつっかえずに述べられるようになったほどだ。さすがにくわえ煙管はまずいので、懐にしまった。
 扉を開け、入室する。邑宰以外はだれもいない。邑宰はゆったりとした椅子に腰掛け、くつろいでいた。目の前にあるテーブルには酒が数瓶置かれてある。シーランの名産、銘酒『神殺し』だ。
「ぼくとアーヴィングしかいないから、鯱張った儀礼はなしだよ」
「それは助かる。シュウを邑宰様だなんて、おれはうまく言えないからな」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
「とりあえず、飲むかい。今年の銘酒『稗殺し』は例年になく極上の出来映えらしいよ」
 シュウ手ずから酒の封を切り、グラスに注ぐ。何とも言えぬ豊潤な香りが漂う。銘酒『神殺し』という名の由来は、その香りだけで神王さえも酔っ払ってしまったという逸話からきたものだ。
「遠慮なく」
 シュウの向かいにある椅子に座り、アーヴィングはグラスを手に取った。グラスを鼻先へと近づけ、鼻をきかせる。香りの充分に堪能したのち、一気に飲み干す。酒はけっこういけるくちだ。
「うまいっ!」
 アーヴィングはふうっ、と息を吐き出す。
「ほんと、アーヴィングはいつ見てもいい飲みっぷりしてるね」
 シュウはというと、酒はからっきしダメ。香りを嗅いだだけて、頬が桜色に染まってしまうほどだ。
 ありふれた世間話を肴に、しばらくの間ささやかな酒盛りが続く。
「スィスニア軍の動向はどうだい?」
 話題がシーランの現状が及んだとき、アーヴィングはすでに銘酒『神殺し』を一瓶空けていた。シュウは湯で何倍も薄めたお湯割りで、まだ一杯目をちびちび飲んでいる。
「いまのところ、攻めてくる様子はなさそうだ。よっぽど余裕があるんだろうな」
「余裕……か。それはそうだね。あちらは将から一兵卒に至るまで、行動は完璧なまでに統一されている。しかも大軍だ。
 対する我がシーランはというと、てんでバラバラ。降伏するか、徹底抗戦するか、二者択一さえも決められない。おまけに兵力は少ないし……いやになるよ、まったく。
 こんなことならウォウルとかスィスニアとか、もっと大邑の邑宰家に生まれたかったなあ。そうしたら、姉さんを救うことができたかもしれないのに」
 シュウは先邑宰のひとり息子であるが、兄と姉がいる。幼い頃より守り役だったアーヴィングが兄であり、スウィズの統治者だったライル・ナタケが姉である。スウィズが攻められたとき、シーランに余力があれば自ら助けにいきたいと思った。もとよりそんな余力があるわけもなく、断念する他なかったのだ。
「アーヴィングだって、ウォウルとかスィスニアとか、もっと大邑で兵馬の権を掌握したら、大活躍できたはずだよ。それだけの才能はあるんだから」
 邑宰との関係ゆえ、アーヴィングは出世できたのだと、陰口を叩く者が上層部には多くいる。確かに、シュウが邑宰に就任するのに従って、アーヴィングは兵吏丞まで昇進した。目覚ましい活躍を遂げた功績として、昇進したわけではなかった。
 それは、シーランが平和ゆえのことだ。戦がなければ、軍事の才をまざまざと見せつけることなど、できようはずがない。もし、戦乱をもたらそうとするウォウルやスィスニアといった邑でならば、その才能は必ず認められただろう。
「おれは、ヴィレクやリューンなんぞに臣従する気はないよ」
 いかに酒に強いとはいえ、銘酒『神殺し』を一瓶空けていたとあっては、いささかほろ酔い気分になる。アーヴィングの偽ざる本心が表に現れた。
「そりゃ、もっと兵力があったならとか、考えたことはある。そうしたら、いまいるスィスニア軍なんか、あっという間にぶちのめしてやれるのに……ってな。
 でも、おれは戦がしたいわけじゃない。シュウを、ラプラスを、そして、シーランを守るための力が欲しいだけなんだ。ウォウルやスィスニアにいたら、なにもしやしないさ。あんな奴らの薄汚い野望のため、力を尽くそうなんて考えてない」
「じゃあ……お別れだね」
 シュウは突然言った。
「お別れ?」
 呆けた表情で尋ねるアーヴィング。
「うん。まだ誰にも言っていないことだけど……ぼくはスィスニアに降伏することに決めたんだ」
「…………!!」
 弾かれたように、アーヴィングは立ち上がった。叫んだ。
「降伏したら、どうなるかわかっているのか! 命までは奪われないにしても、それ以外のすべては奪われるんだぞ! 邑宰としての権限も、由分で考え、行動する権利も何もかも!」
 アーヴィングはなおも何事か言い募ろうとするが、腹の奥底からこみ上げてくるものをこらえるため、手で口を覆った。
「わかってるよ、それくらいのこと」
 シュウの声音はあくまで冷静だった。
「でも、ぼくが邑宰としての権限を、自分で考え、行動する権利を守ろうとすることで、どれほどの人が苦しむか考えると……降伏するしかないんだよ」
「シュウ……」
「ナグモ・リューンは、確かに危険な野心家だ。だけど、邑民を虐待するような暴君ではないよ。そりゃ、いくらか不自由はあるだろうけど、邑民は守られるんだ。シーラン邑宰家が統治しなくても、シーラン邑と邑民は残る。それでいいと、ぼくは思う」
 力無く、アーヴィングは崩れ落ちた。反論など出来なかった。
「だからアーヴィング……ここでお別れだよ」
 悲壮な決意とは裏腹な、爽やかな笑顔が浮かんだ。
「…………」
 十四歳のとき、守り役を命じられてから約十年間。いつも一緒にいた。主従という垣根を越え、兄弟同然の間柄となった。いつか別れる日がくることは、わかっていた。それは誰にも平等に訪れる「死」の瞬間だと考えていた。こんな形で訪れようとは予想だにしなかった。
 シュウはリューンに従う。ならば、おれも従えばいい。そうすれば、一緒にいられる。だが、己を押し殺してでもシュウと一緒にいることが、おれの望みなのか?
 違う!断じて違う!
 一緒にいて、何になるというんだ。それでシュウが救えるとでもいうのか。
「だから、別れる……」
 呟いてみて、アーヴィングは悟った。シュウが別れるといった、その真意を。己が進むべき途を。
「わかった、ここで別れよう」
 きっぱりと言い切った。そして、懐から煙管を取り出し、シュウへと差し出す。
「おれの帰る場所はシーランしかない。だから、必ず帰ってくる。それまで預かっていてくれ」
「……これ、アーヴィングがいつもくわえている煙管だろ? 唾がたっぷりついてて、なんだか汚いなあ」
 シュウは顔をしかめてみせた。
「うるさい! 黙って預かってればいいんだよ!」
「わかってるよ……まったく、アーヴィングはすぐ怒るからイヤなんだ」
 笑い掛けながら、シュウは煙管を受け取った。

 独立暦四百一年水の月三十八日。シーランは無血開城し、スィスニアに降った。

 降伏から三日後、アーヴィングはシーラン北方にある森林に潜んでいた。リューンに従う気など、木の葉一枚分もない。よって、秘密の抜け道を使い、シーランを脱出したのだ。
 では、なぜ森林に潜んでいるかというと……。
「兵吏丞どの!」
 ふたりの邑兵が旅支度を整え、槍と手荷物を携えてやってきた。
「きてくれたか」
 立ち上がってアーヴィングは出迎える。
 シーランを脱出する際、アーヴィングは軍全体に通告を下していた。
『兵吏丞アークライト・アーヴィング、暴虐なるスィスニアには従わぬ。シーランを正当なる統治に戻すため、いかなる辛酸を舐めようとも断固戦う。
 我に従わんと思う者、かの地で邂逅せん』
 それから三日間、自分に従ってくれる邑兵たちがやってくるのを待っているのだ。現在までに、軍全体の二割弱の約四百名が集まっている。
 もちろん、大挙して脱出したわけではなく、三騎五騎と少数で秘密の抜け道を使い、続々と脱出したのだ。
「これ以上、兵は集まらないでしょうな」
 兵数を調べていた初老の男が告げた。前任の兵吏長を務めていた人物で、名はリュムトラム・ライエルという。七年前、三十年間に渡る宮仕えを引退し、悠々自適の余生を送っていた。そこへ、スィスニアの侵攻とシーランの降伏という事態が起こったのだ。楽隠居を決め込んではいられないと、アーヴィングの挙へ参加する運びとなった。穏やかな性質の持ち主だが、それだけにいざというときの勇気と度胸には目を瞠るものがある。刀槍の腕前もかなりなもので、いまだ若い邑兵数名が一斉に掛かってもかなわないほどだ。
「やはり、そう思いますか」
 アーヴィングがシュウの守り役となったのも、当時の兵吏長ライエルの推挙があってのことだった。他にも刀槍の訓練をしてもらったことや、軍学の教授を受けたこともある。自然、態度は恭しいものにならざるを得ない。そのようにさせてしまう、ライエルの雰囲気もあったのだが。
「それがしはとっくに引退した身。そのように気遣われなくとも」
「いや、それでは……」
 渋るアーヴィングだが、結局はライエルに押し切られた。とはいえ、部下とするわけにはいかないので、身分は相談役ということにした。
「エレニス・メロウリンク……あの女は怪しげな術でも使うのか、瞬く間にシーラン軍を取り込んでしまった」
 アーヴィングの顔が苦渋に歪む。
 話が戻った。
 入城したスィスニア軍が真っ先に行ったことは、シーラン軍の取り込みである。どのような手段を用いたのか、アーヴィングにはわからない。兵吏丞の身分はそのままだったが、軍から隔離されていたのだ。
 翌日、隙を見てアーヴィングが軍のもとへ赴いたとき、すでに大半の兵が取り込まれていた。それを実行したのが、エレニス・メロウリンクという美女……と見まごうばかりの男だった。当然、「あの女」といったアーヴィングは気付いていない。
「もっとも、そればかりが原因ではなかろうが」
 スィスニア軍に取り込まれ、シーランを離れる気のない兵が大半ではあるが、父母、妻子、恋人……そういった大切な人がいるために、シーランを離れることができない兵も多くいた。
 アーヴィングにも、そのことはわかっている。責めるつもりはなかった。大切な人を残してゆくことが、どれだけつらいのか自分がよく知っている。
「そういえば、外吏丞どのの姿が見当たりませんが……」
「ラプラス……もとい、外吏丞どのには一足先にウォウルへ赴いてもらっています」
 共にシーランを脱出した外吏丞であり、恋人のラプラスは、スウィズ陥落を知らせてくれた使者数名とウォウルへ向かっている。そのルートは、セルファニア湖南岸から水路でウォウルに至るというものだ。手筈もあらかじめ整えてあるから心配ない。
「ウォウルには、我がシーランの同盟邑・スウィズの統治者、ライル・ナタケどのが残された軍と共に落ち延びられたと聞きます。我々も、ウォウルに向かうつもりです。外吏丞どのにはシーランがスィスニアに降伏したことを伝え、そして、我々を受け入れてくれるよう、交渉してもらいます。
 スィスニアに対抗できるのは、いまのところウォウルしかなさそうですから」
「ウォウルに協力して、スィスニア打倒を叶えるわけですな」
 たったの四百騎では、一万以上のスィスニア軍と戦うことなどできない。あっという間に踏み潰されることは明らかだった。ならば、スィスニアの敵に合力して戦うしかなかった。
「して、どのようなルートでウォウルへ向かいましょうか」
 ライエルがナーラダの地図を広げた。このまま北上すれば、スィスニアの勢力圏に突っ込むことになる。妥当なところでは、西進してセルファニア湖へ抜け出るルートが安全だ。
 しかし、四百騎もの軍を乗船させられる船が手配できるかわからなかった。それに、鋭鋒のリューナの山脈を越えねばならないため、時間が掛かりすぎる。
 かといって、スィスニアの勢力圏を避け、東へ迂回するルートも時間が掛かる。路銀にも恵まれているわけではない。
 ならば、道はひとつ。
「スウィズ川を破り、スィスニア盆地を突っ切る」
 アーヴィングはあっさり言った。
「スィスニア軍の兵は確かに多い。ですが、いまは大軍ではありません」
 ライエルはすぐにその考えを理解した。
 スィスニア軍の兵力は一万以上。これが一カ所に集まっていたら、大軍である。しかし、現在のスィスニア軍は半数以上がシーランに駐留していた。スウィズ防衛のため、守備軍に二千は割いている。残りはスィスニアにいるが、またそこから頻発する野盗討伐のために兵を繰り出していた。
 さらに、スィスニアは邑という点を押さえはしたが、まだ街道という線までは押さえていない。四百騎が一丸となって薄い部分に突っ込めば、ウォウルへの道は切り開ける。
 集まった兵たちに、アーヴィングは告げた。
「いかに我々が一席当千の勇を振るおうとも、暴虐なるスィスニアの大軍には抗しようもない。ゆえに、我々はウォウルに合力し、スィスニアと戦う」
 地位を保つことのみに固執し、失敗を恐れて何もしない兵吏長に変わり、シーラン軍を事実上統括していたアーヴィングの言葉には、それだけの重みがあった。
「我々が進む途は、労多く、益少ない途だ。もしかすると、報われることがないかもしれない。
 だが、これだけは約束する。いかに苦しかろうと、誰ひとりとして見捨てはしない!」
 アーヴィングは大刀巻霞を抜き払った。
「シーランに栄光あれ!」
 高々と愛刀を掲げると、一瞬の後に喊声が沸き起こり、「シーランに栄光あれ!」という唱和が幾度も鳴り響いた。
「シュウ……この声が聞こえるか」
 身分は邑宰だが、その実は虜囚同然の弟へ呼びかけた。聞こえるはずがないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
「お前を慕う者たちがここにいる。そのことを忘れないでくれ」
 シーラン城の楼閣に翻る、「雲」一字が染め抜かれた黒旗を睨め付ける。リューンが支配者となってからのスィスニア軍旗だ。
「必ずシーランの独立を取り戻してみせる」
 アーヴィング率いるシーラン脱出軍は、ウォウルヘ行軍を開始した。従う兵は四百余騎。兵数こそスィスニア軍に遠く及ばないが、士気は高い。
 これが、幾年も続く戦いの始まりだった。

〜つづく〜   


■ 前のページに戻る