会誌-「ザラスMCPG 諸英伝」
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木の葉が、降りそそいでいる。 枝から離れ、地に かわいた石の上にはかさかさと音を立てて砕け散り。 しめった土の上には音もなく降り積もり朽ちてゆく。 雨明けの青い空から抜き出した、 いくすじもの 無数の葉が掴み取られ落ちてゆく。 たとい風が弱くとも、免るることなき 風が強ければ強いほど、たくさんの葉が風にあおられ舞う。 そして黄金色のかがやきだけを残し消えてゆく。 (……時流、か……) トゥー・ラスカは窓から外を眺めて大きくため息をついた。 枝から舞い落ちる木の葉。それは、むろん今眼前に映っている光景ではない。人の月ももう五週目である。いくらトゥー族が寒冷気候に適応しているといっても、彼の住んでいる城邑シュナフは、最も暖かい北方に位置している。窓外の木々には深緑の葉が重く茂り、晩春の風情を にもかかわらず、ラスカの目の中の風景は、未だ木の葉舞う空の月のままなのだ。 決して忘れ得ぬ、あの日のまま…… (メルナ……お前は今、どこにいるのだ?) 小さい頃から体の弱かったラスカは、体力をつけるために母に護剣を仕込まれた。剣の腕は中の上くらいであり、そのまま官に就く道もあったが、ラスカはそれを拒否した。彼は剣を嫌っていた。いや武器すべてを、戦そのものを忌避していた。トゥー族は元々そういう部族だ。ラスカはガンダルヴァ神殿に入った。 楽師神ガンダルヴァは、楽器と楽師の守護者である。竪琴を学んだ彼はめきめきと腕を上げ、わずか二年後にはシュナフで一番の楽師と呼ばれるようになっていた。 彼には四つ歳下の妹がいる。名をメルナという。彼女はラスカと共に母から剣の手ほどきを受け、ラスカよりもはるかに腕が上であることを示した。素質もさることながら、健康な肉体と、そして何より剣を好み、争いごとを好む性質は、ラスカが母の胎内に遺してきたものを全て吸い取って生まれてきたのではないかと思わせるのに充分であった。 メルナは、自分にないものをすべて持っている。ラスカは、そんなメルナが可愛くて仕方がなかった。「憶病者は大嫌い」と公言してはばからない彼女も、兄ラスカにだけはよく懐いていた。 ところが昨年の秋、落ち葉を踏みながらやってきたメルナは、開口一番、ラスカにこう告げたのだ。 「兄様、私、もう兄様に会えなくなるかもしれないわ」 ラスカは驚いて、琴を落としそうになった。 「メルナ、いきなり何を言うんだ」 「私、旅に出ることになったの」 メルナはむしろ敢然として言った。 「どこに行くと言うんだ。それに、何でこんな急に?」 「私が、邑兵になったことは知っているでしょう?」 邑兵とは、城邑の内外の警備を行うための常備軍で、警察官と自衛官を足したようなものである。ラスカ兄妹は邑宰の一族であるが、だいぶ血筋が遠いので、幹部になるためには一般の邑民と同じ手続きを踏まねばならない。現在のメルナの地位は、一般の邑民よりは上だが組織の中では一番の下っ端だ。 「邑兵になって、やっと分かったのよ」 「何を?」 「時流。…四百年間止まっていた時代が、また流れ出したのよ」 時流、か。 ラスカもむろんシャル族の事変については耳にしていた。邑兵にならなかったのも、これから起こるであろう流血の気配を感じとってのことである。これまでの邑兵は、城内の警察と、城外の賊の撃退をしていればよかった。だがこれからはそうはいかない。邑兵は文字どおり兵として、他国と戦うための駒にならなければならない。 それを、メルナは『時流』だと言う。 「その時流を、自分の目で見て来たいのよ」 メルナの目が輝いた。対照的に、ラスカの瞳は沈んでいる。 「時流を……って、お前どこに行く気なんだ」 「まずは、キーサ王都カノール」 メルナは白銀の髪をかきあげた。 「その後は、何か起こったところに行くわ。キーサだけじゃ終わりっこないもの。せっかくこの時代に生まれてきたのよ」 「危険だ、メルナ」 ラスカはメルナの肩を掴んだ。 「好んで渦中に飛び込む必要がどこにある。殺されるぞ!」 「あら、兄様、私の腕は誰よりも兄様がご存知でしょ」 メルナは嫣然と微笑んだ。 「それに死んだら死んだで、本望というものよ。邑に閉じこもって、一生を貝みたいに過ごすよりは、鳥みたいに世界を飛び回りたいわ。何よりこの腕を眠らせておくのは勿体ないもの」 ラスカは大きくため息をついた。 「止めても無駄、ということか」 「ええ」 「じゃあ、せめて、これを持って行け」 ラスカは懐から何か取り出し、メルナの手に握らせた。 メルナが手を開くと、そこには水晶の首飾りがあった。 「きっと役に立つ筈だから、肌身離さず持っておけよ」 「ガンダルヴァ神の護符ね」 メルナはしげしげとその首飾りを観察した。手指の関節一つ分くらいしかない小さな水晶の塊に、精巧な彫刻が施されている。竪琴を抱いた女神の像。ガンダルヴァ神その人の姿の写しに違いない。それが、金具で絹か何かの白い紐に結ばれている。 メルナはそれを首にかけ、服の下にしまった。そして少し笑うと、剣環を鳴らしながら出ていった。 彼女の背には、絶え間なく落ち葉が降り注いでいた。 時流、か…… ラスカは落ちてゆく葉を目で追いながら呟いた。 何と、せわしないのだろう。 風のないこの邑の中でのんびりと暮らし、散っていくことがなぜできないのか。 自ら朔風の中に身をさらして散り急ぐ……それがお前の言う『時流』なのか? メルナ…… |
[セルフィアーにかつて栄華を極める邑があった。その邑にある全ての家々は、鮮やかな壁画と美しい彫刻で飾られ、その邑に住むどんな人々も思い思いの華やかな衣服を身にまとっていたという。邑民は全ての美しい物を愛していた。ある者は琴の名手であり、ある者は希代の歌い手、またある者は壮麗な画を描く、といった具合で、他のどの邑より一芸に秀でた者が多かったと言われている。それも当然かもしれない。争いの無かったこの邑では、奸計の言葉より詩の言葉に、剣の柄より画筆に触れて子供達は育つのだから。彼らは優れた文化を生み、育て、それらの美しい品々を交易によって各地に広め、また新しい文化を持ち帰りもした。ところで、この地域はもう長い間、言霊人のみが住んでいる地であった。ある時、一団の神人(中には人間もいた様だ)がやって来て、この邑へ住みつこうとした言霊人達は動揺したが、結局彼らを受け入れた。彼らの内に、優れて美しい装飾品を作る者と、自分たちの続けてきた旅を洗練された言葉で詩う者がいたからだと言われている。そして、長い年月の間、分け隔てすることもなく全ての種族がそこで暮らし、やがて邑は最盛期を向かえた。そして…帝国暦三〇一年、言霊人排斥を叫ぶ神人達が外から押しよせ、ついにその邑は滅びた。抵抗など、無きに等しかったに違いない、邑民は、武器らしい武器も、それを扱う技術も持っていなかったのだから。しかし、邑民の内の三分の一を占めつつあった神人、人間も、この時共に邑を守ろうと戦ったのだという。だがやはり、それもむなしく、栄華を誇ったその邑は、美しいその全てを歴史の闇に沈めてしまったのだった。 その邑の名をバルスという。 ヴィーシア=アプシーズは、妖人でありながら医薬よりも芸術にひかれ、バルスの再来を目指して動き出す。その矢先、ユディトにてティン・セフィルという銀の髪の剣士と巡り会う。ユディト邑宰家の者であり、軍事の才を持つ彼女は、ヴィーシアの夢に共鳴し、ヴィーシアと共に行くことを決意するのだった。 ──第一回・第二回会誌に掲載・三純るく氏の寄稿より] 「これが、シュナフか……」 今の世に芸術の都を作ろうとしている者にしてはきわめて凡庸な台詞を、ヴィーシアは口にした。理想への第一の足がかりにしようと、相棒と道々話しながら来た、その大邑が目の前にある。 「きれいな城壁だな。ウォウルとかと同じで、昔の城壁の形がそのまま残ってる。城壁の石の形も組み方も、最近建てられたのとは違うんだ。見てごらん、それぞれ形も大きさも違うだろう?」 ヴィーシアは説明する。最近は、箱形の同じ大きさの石を積んだものが多いが、そういう形のものは、石自身の重みでいつかは崩れてしまう。その点、このシュナフの城壁は、石ひとつひとつの形を大切にしている。 「だから、四百年間も崩れずにいられたんだ」 そう言われて見直してみると、初めは一枚の岩のように見えた城壁が、肩車をした人のように見えて、セフィルはくすと笑った。 「私達の邑に城壁を作るなら、こちらにしたいですね」 ヴィーシアは力強く頷いた。 ガンダルヴァ大神殿とカラヴィンカ大神殿は、邑のほぼ中央に並んで建っている。邑宰邸よりもこちらの方が大きくて立派だ。 「思った通りの邑だね。政治より、芸術の方が優先されてるんだ」 街並みを見ればその邑の性質はあらかた分かるものだ。ヴィーシアは二つの大神殿を見上げ、道に沿って建つ建物を見た。 「うーん、惜しいなぁ。あの辺の屋根の色。カラヴィンカ神殿に合わせて青に塗れば、もっと映えるのに」 「そうですね……いくらシュナフが芸術を重んじているといっても、完璧ではありませんね。ここは、バルスではないんですから」 セフィルはきわめて穏やかに言った。 「ここは、バルスではない……確かにな」 ヴィーシアは相方を見返した。そういえばヴィーシアのつけた注文は、ここがバルスなら、という仮定に基づいている。バルスならこうするのに、と。 でも、ここはバルスではなくシュナフだ。不満があっても、正すことはできない。だからこそ、「バルス」を探し求めるのだ。 「まず、ガンダルヴァ神殿だ。セフィル、よろしく頼むよ」 「ええ」 セフィルは頷き、にっこりと笑った。 トゥー・ラスカは司祭ではない。セルフィアー一の楽師と呼ばれ、資格は十分にあったが、彼は司祭となるよりも神官のままでいることを望んだ。司祭となれば雑務が増え、自由が失われる。一介の神官であれば、ずっと竪琴を手放さずにいられるのだ。 一介の神官だから、会うのも簡単だった。覚悟していたような面倒な手続きも呼び出しもない。あそこにいるのがそうですよ、と指さされた先に、セフィルと同じ銀の髪をもつ青年がいた。 竪琴を抱えて窓枠に腰掛け、ずっと窓から外を見ている。何を考えているのだろう、と思いながら、二人はその青年に近づいた。 「トゥー・ラスカさん?」 ヴィーシアが声をかけるまで、ラスカは二人に気づかなかったようだった。声で我に返り、窓枠から下りてこちらを振り向く。一瞬、目をみはって、そして軽くため息をついた。 「うん、私がトゥー・ラスカだ。私の琴を聴きに来たのか?」 沈みがちな色をしていた瞳がやわらかく和んだ。 「それもあるんですが……」 言いかけたセフィルを、ヴィーシアが制した。指で一の字を作って示す。一曲聴いてからにしよう、の意だ。セフィルは涼解のしるしに頷いた。 「だけど、私の琴は無料では聴けないよ。対価を払わなきゃ」 金を取るのか、とヴィーシアは興ざめしたような表情をしたが、ラスカは笑った。 「金では駄目さ。どんな大金を積まれたって、私は弾かない。いや、弾けないんだ。私の心を動かすもの、たとえば無垢なるおさな子のほほえみ、山野の妙なる風光、天女の歌声、失楽園のありし日の幻影……」 要するに、即興なのだ。だから、彼に何か感動を与えることができれば、素晴らしい演奏が返ってくるが、そうでなければ彼の竪琴は沈黙したまま、そういうことなのだろう。 ヴィーシアはセフィルと顔を見合わせた。……天女の歌声。失楽園の幻影。どちらも、我々の持っているものではないか。 セフィルはヴィーシアに目で合図すると、大きく息をすいこんだ。ラスカは興味深げに彼女を見た。 この木々も風も知らぬ悠久の昔 今となりてはいずことも知れぬ栄えたる邑バルス その名はヴァーユの筆よりこぼれしもの 技芸神に愛されし美しき街…… ヴィーシアは聴き入りかけ、ふと気づいてラスカを眺めた。彼は瞳を閉じて聴いているが、まるで指そのものが意志を持っているかのように、弦の上をすべりはじめる。よし、とヴィーシアは心の中で呟いた。いいぞ、セフィル。 セフィルはバルスの話を切々と歌に綴っていく。もとは言霊人の街だったが、神人たちを受け入れ、共生し、さらに発展してゆくバルス。そして、滅びの時がやってきた。 芸術の落とし子は剣を持たずして筆を握り、 弓を引かずして琴を弾きし者 やんぬる哉、常闇の中に没す 灰燼は風に吹かれ土に還り 今は語る者とてないはるか昔の青史…… 最後の和音を弾き終えたラスカは、弦に掌をかぶせてて余韻を消しながら、セフィルをしげしげとながめた。 「……素晴らしい ヴィーシアに目を移す。 「まさか、貴方が見ていたというのではないだろうね?」 ヴィーシアは噴き出した。 「いくら 「夢……?」 「バルスを、現代に復活させることだ」 「……これは、途方もないことを言う」 ラスカは瞠目した。しばらく沈黙し、二人を見比べる。 「不可能だと思うか?」 ヴィーシアの若草色の瞳が、生気に満ちてきらきらと光った。ラスカは首を横に振った。 「世が乱れようという時には、必ず英雄が現れるもの。あなたには英雄の資質があるようだな」 「そんな大それたことは思っていない。私はただ、文化と芸術を破壊から守りたいだけだ」 「剣を振るって戦場に立つ人間だけが英雄ではない。守るべきものがある人間が、最も強くなれる。あなたも護剣の剣士なら、きっとその邑を立派に守り抜くことができるだろう」 後ろの台詞はセフィルに向けられたものだった。 「そうでしょうか?」 セフィルは穏やかに笑っている。ヴィーシアは更に言った。 「我々は、そのための協力者を探している。平和を愛するトゥー族なら、私の考えてる事、分かってくれるんじゃないかと思って」 (平和を愛する、か……) ラスカは考え込んだ。大多数のトゥー族はそうだろう。例外もいる……たとえば、妹メルナのように。最初、この長身の女性を見たときは、メルナの類かと思った。だが、そうではないようだ。 「まず、技芸神の司祭たちにかけあってみたらどうだろう。我がガンダルヴァ神殿、カラヴィンカ、ナタ、ヴィシュヴァカルマン、ラーダー。マンジュスーリー神やユガ神の神殿も協力してくれる可能性はある。トゥー族の人々、といっても色々な人間がいる。誰しも人間は自分の利のために動くもの。世俗の利をめざして動く人よりも、神の寵をめざして動く人の方が、あなたの夢の助けになるだろう」 道理と言うべきであろう。ヴィーシアは目から鱗が落ちたように世界が開けてゆくのを感じた。夢は、手の届くところにある。 「それに……」 ラスカは続けて言った。 「あなたは運がいい。来月、トゥルニアで大規模な音楽祭が行われるのだが、知っているか?」 「いや……」 そういうものがあるということは知っていたが、トゥルニア、来月、とまでは知らない。 「ガンダルヴァ・カラヴィンカ両神王の司祭すべてが集い、その他の技芸神の神官たちも多く集まる。私が紹介状を書こう。そこで呼びかけてみるといい。きっと、協力者が見つかるだろう」 |
トゥルニアはセルフィアーでも南方の半島の先端に位置する。風は強く冷たい。シュナフを出たときにはまだ半袖でも過ごせたものなのに、こちらに着いたときには厚い外衣が欠かせぬほど寒かった。ちらちらと雪さえ舞っている。 「こんなに寒いとは思わなかった」 と言ってから、ヴィーシアはくしゃみを一つした。 「大丈夫ですか」 と問いかけるセフィルは、まったく平気そうな顔をしている。元々トゥー族は五種の民の中でも一番寒さに強いのだ。 「うん、別に風邪ひいた訳じゃないと思う。心配しなくていい」 笑ってみせ、ヴィーシアはトゥルニアの城壁を見上げた。 「シュナフと同じつくりですね」 ヴィーシアの考えていたのもまさにそのことだった。嬉しそうに頷いて、石に手をかける。 その手に雪の一片がかかり、やわらかく融けていく。 ガンダルヴァ神官見習い、サーズ・ロアは、大きくため息をついた。音楽祭の五日間、この邑は他邑の神殿関係者やその他の客でいっぱいになる。その人達をさばいて行くべきところへ送るのも立派な下っ端の仕事なのだ。 十五年間も見習い、というのが要するに才能がないという意味だということは分かっていないわけではないのだが、それでもまだ夢は捨てていない。それを知っている筈の司祭様もこの仕打ち……やれやれ。 「ガンダルヴァ神官の人だね」 女性の声に顔を上げると、金髪と銀髪の鮮やかな二人組が目の前に立っていた。不機嫌なようすはみせず、ロアは応じる。 「ガンダルヴァ神殿に用事ですか?」 「うん、連れていってくれると嬉しい」 ヴィーシアはセフィルと頷きあった。ロアの広い背中について歩き出す。ロアは道々訊いた。 「どこから来たんですか?」 「シュナフから。音楽祭があるって聞いたから」 ヴィーシアは弾んだ声で答えた。道を行く人の約半数は荷や手に何か楽器を携えている。シュナフでさえ、こんな光景は見かけることはなかった。 (まるで、バルス──) セフィルはそんなヴィーシアを見て静かに微笑していたが、 「そうですか、シュナフから……」 返答するロアの声色を聞いて、おや? というように彼の顔を窺った。冬の海のような青灰色をした瞳が、やや沈んでいる。 「私も二節前はシュナフにいましたよ」 「シュナフに? シュナフの大神殿に行ってたの?」 ロアは答えた。シュナフの大神殿に行き、トゥー・ラスカの元で竪琴を学んでいた、と。 「あなたも竪琴を弾くんだ? 彼のみたいに即興で?」 「いえ……ええと……」 ロアはしゅんとした。ヴィーシアはいぶかしげに問う。 「どうした? 何か私、悪いこと訊いたかな」 「いえ……私、音痴なんです……」 「はあ?」 ヴィーシアは思わず間抜けな声を上げたが、すぐにロアの心中を思いやって声を低めた。 「それなのに、ガンダルヴァの神官やってるのか? 音楽が好きじゃない人間に、ガンダルヴァの神官ができるわけがないじゃないか。単に自分でそう思いこんでるだけとかじゃないのか?」 「いえ……だから、いつまでも見習いなんですよ。司祭様にははやく神官にしてくださいって、いつも頼んでるんですけど……」 「音楽は好きなんだね? 神官になりたいとは思ってるわけだ」 ロアは力強く頷く。ヴィーシアは考え込んだ。 「提案なんだが、ガンダルヴァ神殿に行くのは後にして、どっか静かなところに行かないか? 私とこのセフィルが、あなたが本当に音痴なのかどうか、確かめてあげるよ。セフィルは特に耳がいいし。そうそう、私の名はヴィーシア。あなたは?」 「サーズ・ロア」 「じゃ、ロア、どっかいい場所を知らないか?」 三人と一匹は、サナ岬にやってきた。少々風が強いが、その風を避けられる洞窟のような場所があり、その中はまったく静かだった。靴音の反響だけでもうるさく聞こえるほどだ。 「さ、何でもいいから弾いてみなよ」 ヴィーシアに促されて、ロアは竪琴の弦に指をふれた。繊細な響き、美しい協和音、音のはこび、どれをとっても申し分ない。 「なんだ、上手いじゃないか」 言いかけたが、歌い出したとき、その言葉は宙に浮いた。 ……駄目だ、これは。思わず言いかけ、あわてて言葉を飲み込む。どこがどう下手というのではない。よく通る美しい声なのだが、全然、合わないのである。彼の中で、音に対する感性はきっと別の感覚形態を築いているのだろう。 「わかったよ、ロア。あなたは少なくとも歌わない方がいいな」 ヴィーシアが珍しく慎重に言葉を選びながら言った。 「でも竪琴は、素晴らしいと思いますよ」 セフィルがフォローしてくれた。ヴィーシアは腰に差された 「こっちの方はどうなんだ? 聞かせてくれないか」 笛なら絶対に声を出すことはない。そう思っての言だったが、 「……神技、だ」 ヴィーシアはセフィルと顔を見合わせた。先刻の竪琴の弾き語りと同じ人間が奏しているとは、とても信じられない。 「絶対横笛一本に絞ったほうがいいよ。すごいよ、ロア」 ヴィーシアはやや興奮気味に言った。隠された宝を引き出したような気になった。 「そうですかねー?」 ロアは嬉しそうに言った。 ラスカの紹介状を見たガンダルヴァ司祭は、話を通してくれるだけではなく、音楽祭でヴィーシアとセフィルが訴える時間もつくってくれた。これで、評価員をしている各地の技芸神の司祭たちと、一般の人たちと、その両方に話を伝えることができる。 具体的な方法については、既に二人の間では打ち合わせが済んでいた。ラスカに対した時と同じだ。セフィルの詩で聴衆を引き込み、ヴィーシアがたたみかける。 だが、そのためには伴奏があった方が映えるだろう。ラスカが来ていれば彼に頼みたかったのだが……。 「そうだ、あのロアっていう神官見習いはどうしただろう」 ヴィーシアは辺りを見回す。すぐに見つかった。評価員にお茶をついで回っている。 「おーい、ロア!」 大声で呼ぶと、彼の方でもすぐ二人に気づき、仕事を放ってやってきた。 「呼びましたかー?」 「うん、呼んだ。ロア、横笛持ってるか?」 「今ですか? まあ、ありますけど……」 「じゃ、吹いてくれ」 「えっ? 舞台で、ですか?」 「君の実力を見せるのは今しかない。セフィルが詩を詠う。それにあわせて吹いてくれ。神官になりたいんだろう?」 ヴィーシアは楽しげに笑った。ロアも頷いた。 邑の中央には邑宰邸とクリシュナ大神殿、それにガンダルヴァとカラヴィンカの神殿に囲まれた広場がある。そこにしつらえられた舞台と客席、それが音楽祭の主となる場所だ。 式次第は進み、各地の有名無名な腕のある音楽家たちが次々と音楽を奏し、聴衆の耳目を楽しませる。今日はガンダルヴァの日であるから、歌曲よりも奏曲の方に重点が置かれているようだ。 昼の休憩の前、セフィルは一人舞台の上にあがった。大きく息を吸い込み、ちらりとヴィーシアのほうに目をやると、あの詩を歌い出す。 この木々も風も知らぬ悠久の昔 今となりてはいずことも知れぬ栄えたる邑バルス その名はヴァーユの筆よりこぼれしもの 技芸神に愛されし美しき街…… ロアが笛を口にあてた。静かな、ひかえめな音色が筒から流れ出て、セフィルの美声と溶け合う。バルスの盛衰の物語。 芸術の落とし子は剣を持たずして筆を握り、 弓を引かずして琴を弾きし者 やんぬる哉、常闇の中に没す 灰燼は風に吹かれ土に還り 今は語る者とてないはるか昔の青史…… 歌い終わると、これまで寄せられた誰よりも大きい拍手が注がれた。そこへヴィーシアがそっと出る。 「皆さん、バルスは夢ではありません。これを現代に復活させようと、私は考えています」 そんなことを五日間続け、バルスを復活させるとは具体的にどうするつもりなのだ、と訊いてくる人々が出てくるにいたって、ヴィーシアは成功を確信することができた。ここでわれわれの訴えを聞いてくれた人々は、各地で音楽活動を行っている人が多い。われわれのあの詩は、全土で歌われることになるだろう。 「バルスとはトゥルニアのことじゃよ、妖人のお嬢ちゃん」 トゥルニア円卓会議の議長を務める老人はそう言った。 「バルスはトゥルニア? 本当ですか?」 ヴィーシアはあまりの驚きに叫んでいた。ここが、今私のいるここが、バルスであると? 老人は首を横に振った。 「バルスの正確な位置はここではなく、ここよりやや南の『ネヴェの森』の中であったといわれている。お前さんたちの詩を聞いて思い出した。昔、婆さんから聞いたことがある。昔、栄華を誇った邑が海辺にあったが、結局滅びたと。その邑の名が、たしかバルスだった」 ネヴェの森は、セルフィアーで唯一の塩樹の群生地だ。当然、管理も厳しい。発掘などしようものならおそらく塩樹は絶滅してしまうだろう。ひょっとしたら、唯一このネヴェの森にだけ塩樹が生えているのも、バルスと何か関係があるのかも知れない。 「……分かった。それが本当なら、新生バルスはどこか別の場所を探そう。だが、一つだけ、頼みを聞いてくれるだろうか」 「何だね?」 ヴィーシアは熱っぽい瞳をして言った。 「バルスがあったというネヴェの森に、ぜひ行かせて欲しい」 老人は頷いた。 「ここです」 ロアに連れられて来た場所は、森というより林と言った方がふさわしく思えた。足許は海水でぬかるんでいるのを想像していたのだが、意外にも土は固かった。ただ、やはり塩気が強いのだろう、塩樹の他の植物は生えていない。 海に沿った台地状の土地で、確かに邑が建っていたとしても不思議ではない場所だ。足許の土を掘り返してみたら、城壁の石の一つも出てくるのかも知れないが、それはできない。 「バルス……」 かすかに呟くヴィーシアを、セフィルは気遣わしげに眺めている。この、木の生い茂って跡形も見えないかつての芸術の邑に、ヴィーシアは失望の念を抱いてはいないだろうか。 塩樹の幹を透かして南の海を見る。その果てには何があるのか、海の結界のある今となっては確かめることもできない世界。 「セフィル、私たちの邑は……」 呟く。海風にさらわれて、ヴィーシアの言は相棒にはほんの微かしか届いていない。ヴィーシア、と言葉を返しかけたセフィルに、ヴィーシアはおもむろに振り向いて笑う。 「私たちのバルスは、もっと北につくろうな。こんなに寒くちゃ、木の楽器や筆が傷むだろう?」 心配する必要もなかった。ヴィーシアは常に明るいところを見つめている。旧バルスを諦められたのはむしろ幸いとするべきなのだろう。これで、きっぱりと割り切って動くことができる。 全面的にはガンダルヴァ神殿、カラヴィンカ神殿、クリシュナ神殿、トゥルニア円卓会議。それにこれは非公式ながら、ナタ神殿、ヴィシュヴァカルマン神殿、ラーダー神殿トゥー族居住地域の司祭たち、それにトゥルニア付近を拠点にしている商人たちがバルスを援助してくれることになった。それに、ロアも同行する。 援助者の中に、サーズ・ヒリアという名があったので、ロアは眉をしかめた。 「親戚か?」 ヴィーシアが訊ねると、ロアは頷いた。 「父親ですよ、ごーつく商人として有名で、自分の利益にならないことは絶対にしない。だいたい、私の母が亡くなったとき、私を神殿に押しつけて、育てようともしなかったんだから」 「そうだったのか……」 ヴィーシアは考え込む。 「でも、援助はありがたいよ。……それに、バルスを昔の場所に再建することは出来ないということが分かった以上、一刻でも早くいい場所を見つけたいね。地形的にも天然の要害で、大邑が近くになくて、でもちゃんと人の住める環境にあるところを」 「近年、コネック周辺で、大規模な野盗団が出没しています。彼らの組織を壊滅させてくれる勇気ある人材を募ります。謝礼、耳鹿のなめし皮一年分。」 こんな高札が、南方一帯に掲げられるようになったのは、今年の風の月のことだった。 メールリンクス・メールディングは、件の高札を見てコネックへとやってきた。若者と言うには少々老け顔である。ディリーパの神官衣を着ているが、少年や女性が着ることを考慮してつくられたのではないかと思われるこの衣、鼻下に髭を生やした男には似合うはずもない。 コネック交易組合長ヴィナフ・ケライエはこう言った。 「組合員たちが野盗の被害に遭っている。この奥の部屋にいるから、好きなだけ情報を仕入れていってくれ」 イルク・バハル (男)三〇代「いやー、死ぬかと思った」 ヤズ・サール (男)二〇代「荷物とりかえしてくれ」 バルフ・バード (女)二〇代「……。」 サーニエ・ファルス(女)一〇代「奴ら、二十人だったよ」 マーヘ・シャハル (女)生後四ヶ月「だあ。あー。」 有用な情報はない。どうするべきかと思っていると、トゥー・メルナと名乗る女戦士が、アジトの場所を知っているという。 「どう、私と一緒に来ない? ディリーパの神官なら、治癒の術はお手の物でしょ」 「あの、ぼくも一緒に行っていいですか?」 二〇代前半ほどの青年も、おずおずと声をかける。腰に剣があるが、外貌からするとどうもあまり頼りになりそうではない。青年はエルリークと名乗った。 野盗団のアジトは、コネックの南方、アレシア黒森の中にある。距離的にはそんなに遠くないが、山道であるから、徒歩で三日ほどかかった。その間、焚き火をし、乾肉をかじりながら野宿をして夜を明かし、また歩く。メルナと、そして意外にもエルリークはまったく平気そうな顔をしているが、ふだん神殿で安穏と暮らしているメールディングは少しやりにくそうである。ただ疲労を訴えるなどということはなく、三日目の夜を迎えた。 「この近くの筈よ」 メルナが薪に火をつけたとき、ひゅっと風を切る音がした。 飛びすさった彼女の目の前の木に矢がサクッと突き立つ。 「狙いはお粗末ね」 剣を抜き、焚き火の光の向こうに浮かび出す影を見透かす。一、二、……十人か。 「お前ら、コネックから来た奴らか?」 いわずもがなのことを訊ねてくる。 「だからどうした」 隣にいたエルリークが、低い声を出した。メルナはぎょっとして彼を見直す。俯いた彼の顔はちょうど陰になっており、その表情は見ることができない。 「ならば、死んでもらう!」 野盗は一斉にとびかかった。メルナはメールディングを庇いつつ剣を振るう。元々護剣とは人を守りつつ戦う剣だ。二人を一人で受けとめ、順に斬り倒した時には、他の敵の姿は既になかった。 「まさか……あなたが倒したの?」 半ば呆然と立つエルリークに、メルナは声をかけた。焚き火が赤々と彼の顔を照らしている。その顔にはすでにいつものおどおどしたような表情が浮かんでいる。 「全員殺しちゃったかな?」 賊を一人一人見て回ると、絶命しているのは五人だけで、あとは息があることが分かった。 「えーっと、一応、私、ディリーパの神官なんで、縛ってから傷治してやってもいいですか?」 メールディングが申し出る。 「いいわよ。……訊きたいこともあるし」 賊どもからアジトの正確な場所を聞き出した三人は、夜が明けるのを待って、賊どもの本拠へと向かった。森の奥、小さいながらも立派に砦の形をしている。 「どうする? 裏から乗り込む?」 メルナは問う。 「……えーっと、別に小細工を弄する必要はないんじゃないでしょうか。すでに十人、倒してるわけですし」 「中に何人いるかによるだろうね」 「それは分かってるわ、たった十人かそこらよ。さんざんこの辺を荒らしたにしては、小さな野盗団だけど、それだけやり方が巧妙だったんでしょうね。でも腕の方はどうかしらね」 戸口の前で、わざと大声で相談する。声を聞きつけて、中から二人出てきた。ナーラダ族の太った男とメール族の大男だ。 「てめえら、何だあ? まさかこんなひょろひょろの奴らが、俺達を倒しに来たのかい? やめとけ、今のうちに引っ返すんなら手はださねえぜ。行った行った」 黒髪の男が言うと、 「ふん、意気地なしめ。姐さんに逆らう奴ぁ、たとえ子供だろうとブチ殺すのがこの俺様の役目よ。さあ、かかって来いや」 赤髪の男はこう言う。どうも仲はあまり良くなさそうだが、それでも二人で一緒にかかってきた。メルナは黒髪の方と対峙し、エルリークは赤髪の方に向きなおる。 二十合ばかりの撃ち合いの末、メルナは黒髪の剣をはねとばした。エルリークの方はというと、どうも手加減しているようである。メルナは木漏れ日に浮かぶエルリークの表情をまじまじと見た。先刻までのあの青年とは思えぬほど、いやな表情をしている。まるで血に飢えた獣のような。 「影身」 呟くと、必死で剣をふりかざした赤髪の剣刃はエルリークの影を割いて地に突き立った。その間に背後に回ったエルリークの剣が、男をまっぷたつに切り裂く。 「エルリーク……君、一体……」 「乗り込みましょう」 エルリークの表情の変わりように気づいているのかいないのか、メールディングは砦の中を指さした。 「ほほほ、よ〜くここまで来たわねえ。褒めてあげるわ」 砦に踏み込んだ三人に、高笑いが浴びせられた。色気バンバンの鎧に身を飾って、豊かな胸を反らして立っているのは、絶世といっていいシャル族の美女であった。 「あんたが首領か?」 メルナは冷静な声で訊いた。 「いかにも私が首領のドバル=ロトファンよ。あなたたち、どれほどの腕の持ち主なのか知らないけれど、これからおねえさんがたっぷりとかわいがってあげるわゥ」 「いよっ、姐さん!」 合いの手を入れる野盗ども。ドバルはますます胸を反らせた。そこへ、メルナは言う。 「……おねえさんなんて歳か? おばんじゃないか」 この手のナルシストにはありがちの禁句である。パターンである。メルナはパターンを忠実に実行してみた。案の定、ドバルは火のついたように怒った。 「おばん、と言ったね? この美しいドバル様を、おばん、と?」 「事実じゃないか、ヒステリー婆あ」 「……ようも言った」 ドバルは腰の曲刀を抜いた。 「よほど命が要らないようだね。そのぴちぴちの肌を、この刀で切り刻んでくれるわ! 覚悟なさい」 「やれるもんならやってみれば」 メルナは護剣を抜いて斬りかかった。 「エルリーク、メールディングを頼む」 返答はなかったが、気にせずドバルの刀の動きを目で追う。一合、二合、三合……きっちり十合目に、宝石の首飾りのかかった首をはねとばす。そして振り返ると、エルリークは残党のすべてを切り倒していた。 |
バルス建邑計画は至極順調に進んでいる。 すでに金銭的には全く問題ない。人材も続々集まっている。 問題は場所くらいのものだ。いちおう候補は三つある。 第一候補は、ジュシーとリーダの中間。第二候補はアカドゥとフェト、ユディトとフェガルを結んだ線の交点にあたるところ。第三候補はユディトとアカドゥの双方から等距離の、海岸沿いにあった邑フェリアの跡地。邑の設計は一応ヴィシュヴァカルマン神殿の方に頼むが、その他に公募もし、集まった作品の中から最も相応しいと判断したものを採用する。判断基準は、ヴィーシアの趣味。セフィルらの助言も考慮に入れるだろうが、原則的には邑宰のお気に召したもの、ということになる。 つい二週間ほど前までは、このジュシーの主道で演説に明け暮れていた。ヴィーシアとセフィルの二人、いや、伴奏のロアも入れて三人で、懸命に人々に訴えかけていた。バルス建邑計画について語り、詩い、協力を呼びかける。 「我々は、武芸のできる者、美術家、商業家、建築家などを募集しています。我こそは! という方は、どうか我々に力をお貸しください!」 その甲斐あって、現在は協力者も増え、借りていたもと食堂「銀のたてごと」亭だけでは収容しきれないほどになり、現在、商工会議所の二階を借り切って事務所として使っている。 ロアは、ジュシーまでヴィーシアとセフィルを護衛した後、しばらくはそこにとどまっていたが、やがてヴェルーダへ向けて旅立っていった。「大いなる災い」──内紛が起こり人口は激減、生き残った人々は厳寒に苦しめられているとの噂が遠くトゥーの居住地域にまで流れてきたのである。 「ならばバルスへ誘ったらどうだろう」 とロアが申し出、ヴィーシアやセフィルも同意したのだ。 途中、湖賊に襲われることもなく、何とかヴェルーダまでたどり着くことができたが、 「聞きしにまさる──とはこのことですか」 ロアは銀狼ポポチと共に立ちすくんだ。 城壁の半分以上は吹き飛び、崩れている。家々の屋根も原形をとどめているものはほとんどない。爆発の中心にあたる邑宰邸のあった場所は、大きなクレーターになっていた。これでは、二万人もよく生き残ったものだ、との感想が先に立つのも不人情とは言えまい。 「トゥルニアのガンダルヴァ神官見習い殿ではありますまいか」 背後から声をかけられた。カラヴィンカの神官衣を着た男だった。音楽祭に行っていたため自分は助かったが、帰ってみると家も神殿もこのありさまである。 「ご高齢の司祭様もお亡くなりになりました。今我々に残されたのは、あの神像だけなのですが……」 美しい、華奢なカラヴィンカの神像は、瓦礫の欠片をかぶって本来の色を失ってはいたが、こめられた霊力の強さの故だろう、どこも欠けたり傷ついたりはしていないようだ。ただ、危険であるため、近づくこともできない。 「あれは、独立戦争期にカラヴィンカ大神殿に奉納され、独立暦二五〇年に大神殿が新築されるまでの二百数十年間にわたって安置され続けた、由緒ある神像なのです。本殿の新築に伴い、時のナルスの大芸術家イニーナ・カレモナ作の神像と取り替えられて以来、ヴェルーダ神殿で大切に奉ってきたのですが……」 「わかりました、必ず取り出してみせましょう」 ヴィーシアがこの話を聞いたら何と言うだろう。……そして、これをバルスに迎えられたら。 音楽祭に来ていたということは、バルスのことはすでに知っているということだ。ロアはバルス建邑の進行状況を伝え、よければバルスに来ないかと誘った。男は快諾した。ヴェルーダからの脱出者は一万五千人にも及んだ。 色々と幸せな空想に浸りながら、ジュシーの主道を歩いていたヴィーシアは、反射的に足を止めた。どうして立ち止まったのだろうと考え、見回して、ようやく耳を打つ妙なる調べに気づく。 (何だろう──この旋律は) 多弦琴、たぶん十二弦琴だ。今ではほとんど使われないが、一般の弦楽に比べて重厚な表現のできるこの楽器は、ヴィーシアの最も好むものの一つだ。 通行の邪魔にならぬよう道端に寄ってから、瞳を閉じ、全神経を耳に集中させる。いや、その必要もなかった。大道の喧噪もかき消すほどに、透明な音は、彼女の精神に訴えかけてきた。 澄んだ──かぎりなく澄んだ音。涼亮と澄み通り、耳に快く沁み入る。あるいは高くあるいは低く、ゆるやかに連なる旋律は、林中の清流のごとくなめらかでよどみをみせぬ。かと思うと、とびはねるような、躍動的な音のむれを紡ぎ出してみたり、おそろしく破壊的な音をはじき出してみたりという具合で、ヴィーシアはたまらない昂揚感につつまれた。 (これは……こんな音、聞いたの多分初めてだ) しかも、旋律そのものも私の知らないものだ。二百七十年生きてきて、セルフィアーに伝わる芸術の全てを知っている──とまでは自惚れていないが、そんじょそこらの楽師よりは曲を知っているつもりでいる。その私が全く知らない旋律。 (この奏者は、いったい──?) 続いて演奏されたのは、ヴィーシアならずとも良く知っているであろう俗謡であった。今度は歌もついている。いい声だ。十二弦琴の音色の美しさも変わらない。……が、どうも今度の演奏は聴衆に妥協してやっているという感じがしたのは、ヴィーシアの気のせいだったのだろうか。聴衆の受けはよく、大量の銀貨が足許の箱に投げ込まれている。 「ちょっと、いいかな」 聴衆の群れをわけて、ヴィーシアは最前列へと出た。その楽師はちらとヴィーシアの方を見たが、あまり気にとめずに次の曲を弾き始めた。今度はヴィーシアも知っている曲だったが、そんじょそこらの楽師が知っているとは思えない。十二弦琴でなければ弾けない曲なのだから。 黒っぽい髪と瞳はナルスの証だ。服は北方風の平服。まだ若い……二〇を越したかどうかというところだろう。繊細そうな、いかにも芸術家風の顔立ちをしている。なぜこんな腕を持った者が、ガンダルヴァ神殿にも入らずこんなところで流れているのだろう。バルスの噂を聞きつけて来てくれたのだろうか? そうなら嬉しいのだが…… 曲が終わると、その青年は立ち上がった。無言で琴を拭き、ケースの中にしまう。賛嘆の言葉を浴びせる聴衆には目もくれず、銀貨だけを拾って、彼は立ち上がった。 ヴィーシアはその背後から声をかけた。青年は振り返った。 「ちょっと待ってくれ。食事でもつきあわないか」 「ちょっと、訊いていいかな」 出された魚をつつきながら、ヴィーシアはそう切り出した。青年は頷いた。 「どうして、大道芸みたいなまねをしてたんだ?」 「路銀がなくなったから。他に何があるというの」 「そうじゃなくてさ。どうして流れてるのかな、と思って。それだけの腕があれば、ガンダルヴァ神殿に入っちゃえば少なくとも司祭級以上の扱いを受けられるはずだ。路銀に困ることもないだろ。あえて流れてるのは──」 「あんたには関係ない」 青年はつまらなそうに言をさえぎった。 「話というのはそれだけ?」 「バルス、の話は知ってるか?」 「バルス?」 声色がにわかに変わった。 「知っているも何も。トゥルニアで面白いことがあったって聞いたから、まずそっちへ行こうと思って通りかかったんだが……」 「バルス建邑計画の本拠はここ、ジュシーだよ」 「何? 本当、それは」 「うん、本当。バルスの建邑予定地は、ここの近くなんだ」 ヴィーシアは、喜びを隠しきれない。こんな楽師を、手に入れることができようとは。 「何でそんなことをあんたが……。そうか、そういえば首謀者は妖人の女だと」 「それが、私」 「そうか……」 青年はものを口に運びつつ考え込んだ。 「邑の完成はいつ?」 「まだ分からないけど、完成となると五、六年先になるかな。城壁と主要な建物は、一節後ぐらいには着工の予定だけど」 「それまでタダ飯食い、ってわけにはいかないだろうね。バルスに住みたいと思ってここまで来たけど、考えてみればまだ人の住める状態じゃないわけね」 「建邑計画に協力してくれれば、生活費はこっちで出すよ。各地でバルスの宣伝をするとか……何なら、ガンダルヴァ神殿に話を通してもいいけど……」 青年はそれきり何も話さず、黙々と目の前の食事を片づけていく。ヴィーシアが、これは失敗したかな、と思い始めた頃、 「……考えておく」 ぼそりと言って立ち上がった。そのまま去ろうとするので、 「名前は?」 ヴィーシアは訊いた。青年は振り返りもせずに言った。 「イーヴ・セスト」 野盗団を壊滅させたメールディング、メルナ、エルリークの三人は、とりあえずそこらへんを捜索してみた。盗まれた荷物などがあったら持っていってやらなければならない。そう思ったのだが、砦の中には倒した賊どもの衣食住に必要なものと少々の金、それに女首領の宝石類くらいしか見あたらない。 「おかしいわね。……やっぱり、そうなのかしら」 「やっぱり?」 メールディングは聞き返す。エルリークは、自分の斬り倒した死体の群を見て卒倒してしまい、今もまだ青い顔をしている。 「あの組合長、怪しいと思わなかった?」 「そりゃ……思いましたけど」 「だいたい、野盗討伐の売り文句は『大規模な野盗団』を壊滅させてくれ、ってことだったでしょ。二十人ぽっちの野盗のどこが大規模なのよ。怪しいわよね」 「……」 「ま、とにかく戻りましょ。コネックに戻って、組合長に問いただしてみなきゃ」 エルリークを促して砦から出る。 「それには及ばん!」 砦を一歩出たとたん、大音声が浴びせられた。 「組合長!」 メルナはさっと剣を抜く。組合長ヴィナフ・ケライエと、昨晩倒して転がしておいた五人、その他ケライエの部下らしき人間が数十人、遠巻きにこちらを包囲している。 「やっぱり、あんたのたくらみだった訳ね」 メルナは吐き捨てた。ケライエは身体全体を揺すって笑った。 「知っていて罠にかかったのか。頭の悪い女だ」 「……えっと、あの、どういうことですか?」 メールディングが、こういうときにまで丁寧な口調で言う。 「ふっふっふ、教えてやろう」 ケライエは嬉しそうに話し出した。 「そもそも野盗団を組織させたのはこのわたしだ。そんなことをしたら組合の利益も減るだろうって? それが違うのだな。このアレシア黒森の中を通れないということになると、セルフィアー南部西側からの荷がすべてコネックを経由して通ることになる。そこで通行料などをつりあげれば、それがすべてこのわたしの懐に入るという寸法なのだ。お前たちがここで死ねば、アレシア黒森野盗団の危険さは南部全域に知れ渡るであろう。アカドゥの援軍が来なかったのも、わたしが裏で根回ししていたからなのだよ。どうだ、納得いったかね?」 「とーっても良く分かったわよ。あんたの頭がとことん悪いってことがね」 メルナは剣を構えつつ言った。 「あんなに派手に宣伝しとけば、馬鹿な戦士たちが続々集まってくるわよ。いつかはばれるに決まってるじゃない。あんたの思ってるほど、世の中甘くないわよ」 「ふっ」 ケライエは鼻で笑った。 「ご忠告痛み入る。しかしそれは今のことではない。お前たちはここで死ぬのだ!」 ケライエの右手が上がっていく。メルナはメールディングに囁きかけた。 「私の左の方にいて。君を護りながら突破するわ」 エルリークはどうしようか、と目を走らせると、思った通り、あの狂ったような表情を浮かべている。そして、低く呟いた。 「ふん、一瞬でも商人など信用したお前が馬鹿だったんだ……」 「奴等を抹殺しろ!」 ケライエの声が響き、右手が振り下ろされた。周囲中から矢が放たれる。メルナはその半ばを斬り払い、残りの半ばはかわし、残りは当たるにまかせて走り出した。メールディングもあわてて後を追う。刀剣槍戟を掲げた敵が殺到してくるのを斬り払いつつ走る。走りつつ、メールディングを庇う。庇いつつ後ろを振り返って……思わず叫んだ。 「ちょっと、エルリーク、君、何やってるの! 逃げなさい!」 その僅かな隙に、斬り込まれる。反射的に左腕で庇い、鎧の紐が切れて飛んだ。 「エルリーク! この人数差よ。敵うわけないでしょう!」 なおも走りつつ叫んだメルナは、信じられないものを見た。 二十人以上もの敵に、包み込まれるようにして襲いかかられたエルリーク……どう考えても、ずたずたに切り裂かれているべきところだが。 「秘剣……絶影」 声が聞こえたと同時に、その敵どもの部品が、ばらばらになって落ちたのだ。 |
理想と現実とは、つねに整合してゆけるものではない。否、その一歩を踏み出す前に潰え、単なる妄想と化すことがほとんどだ。そして最初の山を越えることができたとしても、度重なる苦難への対処に力尽き、やっと叶うと思ったときにはその理想も形を変えていたなどというのは珍しくもないこと、しかしその理想が真に強く揺るがなければ、天道すらもそれを助けるものだ。 ヴィーシアはそう信じている。そのためであればどのような労苦も厭わないと。 しかし、それでもどうしようもないことはある。一万五千の難民を迎えては、ジュシーでは収容しきれないし食糧が不足するだろう。医者も足りない。手は打ってあるのだが、どうもタイミングがずれてしまいそうだなと、ヴィーシアはため息をついた。 「フェルノ・クーレーン氏の方はいつ来るんだ?」 「今日にも到着しますよ」 いちおう外吏長になったロアが答えた。 「ついでに連絡とっときました。何でも、アヴィーナの方は一切引き払ってバルスに移るそうです」 「ええっ? 全部?」 「そのようですけど」 ヴィーシアとセフィルは顔を見合わせた。 「そりゃスゴい。二人揃って出迎えなきゃだね。ロア、水路で来るのか?」 「はい」 「んじゃ、行こうか。港まで」 蜘蛛会を捨て、アヴィーナを捨て、長年拠点としてきた本店を捨てる。思いきった決断であったが、フェルノ・クーレーンに迷いはなかった。サティス・アイセンに先を越されてしまった以上、アヴィーナでは活動の進展は望めないことが明白であった。 「お初にお目にかかる。私がバルス邑宰のヴィーシアで、こっちが丞のティン・セフィルだ。以後宜しく」 そう言って笑ったのは金髪の妖人の女性だった。噂には聞いていたが、とフェルノ・クーレーンは瞠目する。 「銀のたてごと亭」には今は大きな書板が置かれ、積み木のようなものが並べられていた。 「バルス建邑の進行状況です。まず城壁から組み始めているのですが、なかなか進まなくて」 「バルスの大きさはジュシー並ですよね。ならば城壁の建築にかかるのは普通半年くらい。確かスウィズがそのくらいだったと」 フェルノ・クーレーンの輔佐のリヴィットが言う。 「なのにこれだけしか進んでいないということは、よほど凝った作りにされている、と」 「その通りです。そこら辺は徹底的にこだわっていますから」 「こだわるのは分かりますが、これでは他のことに着手できませんよ。とりあえず木の柵でもつくってアタリをつけておいて、後からじっくりと着手なさっては如何ですか」 「そうですね」 「それに、ヴェルーダ難民の住む家は確保できているのですか」 「一応、アカドゥの方に資材の切り出しに行かせていますが」 「そちらを優先させたほうがいいでしょう。急務と言っていい。水の月に入ったとはいえ、まだまだ夜は冷えます。まして怪我人や病人も多い」 「分かりました」 ヴィーシアは大きく頷いた。 「我々が第一に考えていることは、芸術の保護。しかしそれに囚われるあまり、何を優先すべきかの判断がおろそかになることも多いと思う。あなたにはそういう時、我々に指針を示して欲しい。……宜しくお願いします」 こちらこそ、とフェルノ・クーレーンは頭を下げた。財政長官として何をすべきか。貨幣改革でもするか、などと考えていたのだが、どうももっと基本的なところから広範に手をつけなければならないようである。だが、制約は少ない。アヴィーナよりもよっぽど自由な活動ができるだろう。それでよしとすべきだった。 ヴェルーダ壊滅。邑宰丞がクーデターを起こしたが失敗、道士であった邑宰丞はヴェルーダ一邑を巻き込んで自爆したという。それにより地気が大いに乱れた。 アプサラス地方が湿原になったのはティターニアとメルリーラの力を注がれたからだ。乾燥した砂と岩ばかりの大地を、二人は水に溢れる地に変えた。地気を変化させれば、逆も可能だ。 「どうやら火の気を散じてしまったらしくて、気候が寒冷になった。ヴェルーダだけ、ツァンの地のように寒くなって、そして」 「人の体にも影響が出たんだね」 ダナスが言うと、ヴィレールトは頷いた。 「こういう例は初めてだから、我々でもちゃんと対処ができるかどうかは保証しかねる。まして患者は家を失った難民だ。星薬会も利益団体である以上、僕の一存で勝手に助けるわけにもいかない。どうしようかと思っていたら、ヴィーシアから連絡が来てね」 「ヴィーシア !! バルスの!!」 ヴィルザートとダナスは顔を見合わせた。 「……知り合いなんですか?」 「一時期、僕の弟子だった。薬師としても医師としても適性はなかったけどね。とにかく、かかった費用分はバルスが持つから、人と薬を送ってくれってさ。どう? 君たち、行って来ないか?」 ということで二人はバルスへと向かった。先発隊ということでとりあえず持てるだけの薬品と、そして五人の医師がついてきている。中堅どころの、これからという実力派ぞろいだ。 ジュシーに着き、「銀のたてごと」亭にたどりつくと、ヴィーシアもセフィルもロアも留守だった。すでに難民は到着し、その対応のために建設中のバルスに行っているという。そこで彼らはのこのこと歩いてそちらへ向かった。 「この人たち……全員、難民?」 絶句するしかなかった。一万五千人。殆どの人が黒髪だから間違いないだろう。皆、一様に憔悴しきっている。脚を引きずっていたり、腕をつっている人も多かった。 仮の住宅が立ち並ぶ中を抜け、一軒だけきっちりと建っている建物に入る。カラヴィンカの神殿の本殿だった。正面には神王の像が置かれ、ホールには布団が並べられて重傷者や重病人が寝かされている。我々はこちらを診ましょう、と同行の医師達は申し出、ヴィルザートとダナスだけが鑑間へと入った。 「見ての通りの状況なんだ」 ヴィーシアはため息をついた。 「ヴェルーダのえせ邑宰ってのは、よっぽどの霊力の持ち主だったらしいな。体温の低下と、あとは怪我。何となく体調が悪くていらいらしてる人もいる。落ちついてきたら、バルスの建邑を手伝って貰おうと思ってる。だから、星薬会の人達にはそのためにも早くみんなを治して欲しいんだ」 「それだけじゃないですけどね」 ロアが口をはさむ。 「私は、バルスに星薬会の支部を作ってもらおうかなと思っているんですよ。星薬会の自治区はセルフィアーの東の端ですから、こちらにも大きな支部があれば、活動し易いんじゃないかと思いまして。……それに、かきごおりも食べたいですし」 「まだ寒いけどね〜」 ダナスが茶々を入れた。場が和む。 「かきごおりのことはともかく、支部のことは僕たちじゃ決められませんけど、もう一度アプシーズに戻って、聞いてみます」 「やあ、また会ったね」 という声に顔を上げると、黄金の髪をした女が立っていた。 「……お前か」 ちょうど演奏を終えたところらしい。投げられた貨幣を拾い集め、琴をケースにしまう。 「また、食事?」 「そう、つれなくしないでよ。食事もいいけど、話を聞きたい」 「それに、バルスの唄をつくりたいんですよ」 セフィルが後ろから言う。イーヴ・セストは顔を上げた。 「あなたが?」 「お手伝いいただきたいんです。よろしければ」 「そういうことなら、乗ってもいい」 ケースを小脇に抱える。 「『銀のたてごと亭』まで、ついてきてくれるか?」 セストは頷いた。 「別に、あなた方が嫌いな訳じゃない。バルスには興味があるし、音楽は好き。ただ……神殿と近づきすぎるのが、少し気になっただけだから」 出された茶を飲みながらため息をつく。 「何で、そんなに神を嫌ってるんだ?」 ヴィーシアは興味津々といった態である。 「じゃああなたはなぜ神を信じる?」 「別に信じてるとか信じてないとかじゃないんだ。美しいものは好きだし、美しいものを守ってくれる、見守ってくれるのなら奉るのは当然のことじゃないかな」 セストはちらと彼女の面を見て、また目を伏せた。 「神の存在自体が信じられないわけじゃない。ただ、信ずるに足りない存在だ、そう思ってる。信じたからって人を救ってくれるわけじゃない。ただ、どこかにいるだけのものだと……」 深い事情がありそうだったので、ヴィーシアはそれ以上詮索しないことにした。 「で、協力してくれるんだよね」 「しばらく、この唄と琴を持って旅してくる。……期待に添えるよう努力する」 微かに笑って、彼は亭をあとにした。 |
バルス三法 人を殺さない事。 人の物を盗まない事。 人を騙さない事。 以上。 バルス財政長官フェルノ・クーレーン 「ちょっと、簡便にすぎるんじゃないか?」 ヴィーシアは財政長官の方を振り返った。 「いや、あまり難しくしても意味がないでしょう。細かいことはヴァルナの神官が考えますよ」 「ま、それもそうだけどな」 ヴァルナの神官というのは要するに法律学者兼弁護士兼裁判官と思っていい。ザラスでは法律をつくるのは統治者だが適用範囲を決めるのはヴァルナの神官なのである。 「しかしそうか、法律なんてもんも必要だったんだなあ……」 呟くヴィーシアを見て、フェルノ・クーレーンはやれやれ、とそっとため息をつく。頭の中の八割方は芸術のことでいっぱいになっているのだろう。まるで生活感のない人だった。それが彼女の良さなのだが。 「とりあえずバルスの城壁の位置に柵を打ちおわりました。今資材倉庫が組み上がろうというところ、それが出来しだい、住宅建設にかかります」 「ありがとう」 とヴィーシアが返事をかえしたところで、客が来た。 「どうもこんにちは、ヴィーシアさん」 と気軽に声をかけてくるナルスの若い女性。 「どなたですか」 「ああ、財政長官には言ってなかったね。アヴィーナのリグレス社の社長、チェンバースさんだよ」 リグレス社……聞き覚えがある。日用雑貨を取り扱うかなり大きな組織だ。だが、その社長がこんなところをうろうろしていていいのだろうか。彼も人のことは言えないのだが。 「チェンバースさんは、芸術好きの人でね。私と話が合うんだ。なにせ最初に会ったのがヴィシュヴァカルマン神殿の彫像の前だったし」 「そうでしたね。あれは独立暦二百年代後期風のいい彫刻ですね」 「頭身と服の襞の入れ方に特徴があるんだよね。それでさ、あの目の上の筋の入れ方が──」 もはやクーレーンにはついていけない世界である。要するに芸術マニアということか。彼としてはできるならナルスの大商人には遠慮してもらって、他の種族の商人を育成したいと思ったのだが、まあ、そういうことなら仕方ない。とりあえず、その部門はリグレス社にまかせておこう。クーレーンにはやらなければならないことが他にもまだまだたくさんあった。 セイラン湖岸にある小さな港。その改築が急ピッチで進められている。この港を使えば近郊のジュシー、ファナ、リーダとの交易も楽になるし、フェルノ・クーレーンとしてはツァン族の居住地域との交易にも手を伸ばすつもりである。セルファニア湖回りでダンダカと、エルーブ川回りでフィーブと木材を取り引きし、住居建設に充てる。ダンダカの方面は不穏な空気が漂いつつあるが、フィーブの情勢は安定している。またフィーブはエルーブと共同で大きな港を建設しており、そこから大量の供給が見込まれた。これが当分の交易のメインとなるだろう。 その後はエルーブの銅やラシーの陶石など工芸材料や、通常の交易に切り替えていけばいい。 フェルノ店の特徴である行商を使った交易も以前通りおこなっていた。しかし今はもう二つの目的がある。メール族との交易によって食料品を作り出す技術を習得すること。それにバルス観光旅行の経路の特定である。バルスが完成すれば、ここはあるだけで金の卵を生み出す鶏になるに違いない。もちろんクーレーンはバルスをただの鶏にするつもりはなかった。 ヴィーシアとしては、フェルノ・クーレーンに財政長官の位を与えてはあるものの、彼にすべての利をわたすつもりはなかった。ひとつの組織が利益を独占するのでは健全な発展は望めない。リグレス・チェンバースを招いたのも、フェルノ店とあるていどの競争が起こるようにとの配慮からであった。もちろん突っ込んだ話のできる話し相手が欲しいというのもある。 ヴィーシアはクーレーンが思っているほど世を知らぬわけではなかった。各地から来た協力者たちに順に会っていく。 その中でも新顔は、サーラ・ピナイという老人であった。蜘蛛会の中では「ピナイ老」で通じるほどの名声と手腕の持ち主であったが、文化人としての一面も持つ。商売と人々、経済、文化の振興と融合を説き、思想家としては蜘蛛会では異端の部類に属した。今では隠居生活をしていたが、バルスのうわさを聞いて、孫のタキと共にはるばるやってきたのである。 「噂は聞いています」 と、ヴィーシアは目を輝かせて言った。アヴィーナで、彼の書を見たことがある。老人の腕力で書いたとは思えぬのびのびとした字だった。 「さっそく、お頼みしたいことがあるのですが」 「何なりと申されよ」 「巡視、になっていただきたいのです」 ヴィーシアが言ったのは、こういうことであった。 巡視というのは、いわゆる視察官である。すべての商取引を、商売道徳の上で監視、不正の調査をする。強力な捜査権を有し、不正や道徳上問題のある行動を見つければ更正、指導、事後処理をしてもらう。 「ほほう、それは大任じゃの」 「やっていただけますか」 「喜んでやろうがのう、しかし、わしの『商売道』に基づいてやってしまってよろしいのかね」 「もちろんです。……私は、バルスをただの商売の道具にしてもらいたくはないのです」 芸術は金になる。芸術は金を浪費させる。どちらも真実だが、金のための道具になってしまってはいけないと思うのだ。それがバルス建邑の信念でもあるし、ピナイ老の考え方は正にそれにふさわしいと思った。 「なるほどのう……」 ピナイ老は、身体を揺するようにして笑った。 「ご期待に添うよう、努力するとするかの」 「ありがとうございます!」 そんな間ずっと、ヴィーシアの身辺を警護しているのはゼオ・マキスという男である。もとライル社の壱軍エースであったが、バルスの噂を聞いてあこがれ、駆けつけた。そのライル社の社長ライル・ナタケはバルスへの援助を約束していたが、つい先頃、ウォウルで病死したとの報が入っている。 その他、ティン・セフィル麾下の銀狼四部隊にも続々と人が結集し、バルスはますます勢を増してきた。今はまだ木の柵に過ぎない城壁の内側に、建物が造築されつつある。夢の邑であったバルスは、いまは確実に大樹となりつつあった。 その頃、ヴィルザートとダナスの妖人二人組は、バルス邑内で治療を手伝わされていた。 病人への対策としては、とりあえず対症療法として、薬膳料理を出していた。通称「アシュラ神のビンタ」(闘神擲)とか「フェニックスの爪」(不死鳥爪)と言われている薬草──現実世界で言うと唐辛子──を使って火の気を補っているのである。そしてついでに彼等が食べさせられるのも、同じ料理であった。 「あー、こんなに辛い物ばっかりじゃ、ツァン族の人になっちゃいますよー」 ヴィルザートはひいひい言っているが、ダナスは平気そうな顔をしている。 「これはこれで、味があって良いと思うけど」 「うー、もうだめですー……」 天を仰いだヴィルザートの目に、ロアのうしろ姿が映った。 「ユディトに行くのかな」 と、ダナスのつぶやいた一言で、ヴィルザートははっと思い出した。 「ああっ! ユディトに行かなくっちゃいけなかったんじゃ」 「あ、そうか」 ファルナ=イシャーナがユディト邑宰に納めた金を取り立ててくるのが、彼らのもう一つの任であった。二人はあわててロアの後を追った。 ユディト邑宰ティン・トレスト。いろいろと良くない噂も聞く彼ではあるが、バルスへの援助を約束してくれたからには使者を返すのが礼というものである。そのついでに船の件も調査して星薬会との交渉を有利にしよう、というのがロアの考えであった。 一方ダナスは左右を見回しながら歩いていた。すっかり観光気分である。さっきも、 「ユディトに来たら名物『ユディトライス』を食べなきゃ」 と主張したものだ。もっともそれに乗った二人もかなり呑気なものである。 ユディトは水郷の街である。川の水面は地面よりも少し高く、堤防が街の区画を仕切っていた。 「あ、何か面白そうな店があるよ」 「シエルブランド」と大きな看板が掛かっている。ちょっと他にはないような派手なデザインである。入口には首に緑のリボンを巻いた白い大きな鳥が止まっていた。 店内にはありとあらゆる奇妙なもの、珍品が揃っていた。服や装身具、法具……何でもありである。 「いらっしゃいませ。何をお求めですか?」 店主らしい黒髪の若い女がにっこりと営業スマイルを浮かべながら歩み寄った。かなりの美人である。ヴィルザートなどはどきどきしている。 「あれ、ヴィラ、こういう人が好みなの?」 ダナスにからかわれ、「違いますよー」と真っ赤になって反論しているヴィラを、店主──カルナ・シェルセラヴは面白がって見ていた。妖人の純情な少年かー。かわいいなー。 「本当にいろんなのが置いてありますね」 二人をよそに、ロアは店内を見回していた。いちおうこれでも技芸神の神官である。 (あの兄と同じトゥーってのがちょっとマイナスポイントだけど……声は良いかもゥ) そちらにもしっかりチェックを入れるシエル。 「どこからいらっしゃったんですか? 妖人の方なんて」 好奇心で目が輝いている。 「バルスからですよ」 答えたのはロアだった。 「へー、バルスって、芸術の邑ってところですよね! どんな感じですか」 「どんなと言われても、まだ建設中ですけど……」 「それで費用の援助を受けるために、邑宰に会いに来たんですよ」 邑宰、の一言を聞いたとたんに、シエルは不機嫌な顔をした。 「あれ、どうしたんですか?」 ヴィルが聞いたその瞬間、扉が開いて一人の男が入ってくる。 「いい店だな。繁盛しているみたいで良かったよ」 かなりの美形だった。シエルの顔が一瞬こわばるのがわかった。しかしその次の瞬間にはにっこりと微笑んでいる。 「ええ、兄様のおかげよ」 「そうか、それは援助した甲斐があったな」 そして店内を見回し、トゥー族の店番の少女──ティエラの肩をつつむ。あまりの早技に、ロア達は呆気にとられた。 「やあ、君の瞳は、まるで水晶のようだね──」 「兄様」 間髪入れずに、シエルは声をさえぎった。 「兄様に、お客のようですよ」 「無粋な奴だ。それとも、妬いてるのかな?」 ぶつぶつ言いながら、男はティエラから手を離した。シエルはふう、とため息をついて言った。 「バルスの方々。これがユディト邑宰、ティン・トレストですわ」 邑宰邸で机を挟んで対面すると、きりりとした好青年に見える。しかし三人は現場を見ているから、はなはだ居心地が悪かった。トレストの方は何ら気負いのないようすである。 食えない男であった。バルスを援助する、というのは本心らしい。何をもくろんでのことかは分からないが。船のことについては、 「たしかにイシャーナ神殿の要請のあった薬も入っていたが大半はうちの邑で使う予定のものだった。こちらも損害を受けたのだからそう簡単に金は返せないな」 ときっぱり言い、さらに金の用立ては自分ではなく御用商人に言え、と言われた。たしかに話の筋は通っている。だが、怪しい。実に怪しい。 結局何ら謎は解けぬまま、三人は乗ってきた船にひきかえそうとして、またあの店の前を通りかかった。 「あら、あなたたち、ユディト・アイスは食べていかないの?」 扉を開けて、諮ったようにシエルが出てきた。ダナスとヴィラは顔を見合わせる。 「そういえば、忘れてましたね」 「私が、売ってるとこまで案内してあげる。ちょうど、食べたいと思ってたところだし」 シエルが言うと、ティエラは不審そうな目で見た。 「逃げちゃだめですよ、シーちゃん」 「あ、ついでに仕入れ行ってくるかもゥ じゃねー」 シエルは走り出す。ティエラは諦めたようにため息をついた。 「やっぱりユディト・アイスはおいしいわねーゥ」 満足げな顔をするシエルの横で、ヴィラは安堵の息をついた。 「久々に辛くない物を食べたような気がします」 「ところで、あなたたち次はどこに行くの?」 「星薬会の聖地、アプシーズまで。ロアが交渉しなきゃならないし、ぼくたちも報告をしなきゃいけないからね〜」 ダナスもさも満足そうに食べながら言う。 「私も一緒に行っていい?」 シエルはにっこりと、極上の笑みを浮かべた。 「えーっ、でも店はいいんですか?」 「うーん、もう飽きちゃった。ティエラもいるし、問題ないわ」 「……」 さすがにあの邑宰の妹というだけのことはある、とロアは胸中ひそかにつぶやいたのだった。 イーヴ・セストは、バルスの唄とそうでない歌を奏でながら、バルス近くの邑をさすらっていた。一応バルスの宣伝に協力を約したものの、彼の心を迷いが支配している。 「違う、だがこの歌は、私の中から湧きあがってきたもの。悲しみも苦しみも、すべて私のもの、その中から生み出されたもの。君は、それを『美しい』と言ってくれる、神の贈り物だ、と。 では──私は、何だ? 美しい真珠をはぐくむ牡蛎は、真珠を取り出したあと、どうされるか知っているかい? そうして、連中は言う──「これは、海の恵みだ!」と。私はね、人をつくった者の手に彼等の栄誉をとりもどすために旋律を集めているんだ !!」「……楽師の神の栄誉のため、ではなく。」 やはり神殿とはソリが合いそうにない。音楽は人のものであるべきだ、と……そう大声で主張はしないが。 「話があるのだが」 とある邑で、一人の男が、演奏を終えて立ち去ろうとする彼を引き止めた。演奏を称えようという雰囲気ではなかった。セストは頷いて男についていく。 「私はバルスについて、少々調べている者だ。財政長官となったフェルノ・クーレーンという男が、スィスニアのクーデターに関わっていた──という情報があってな。それを裏付ける情報を集めているのだが。どうだ、取り引きしないか」 セストは首を横に振った。 「そこまでは、私は知らない。知っていたら教えるのだが。──本当なのか」 「裏の裏の情報だ。ナグモ・リューンの蜂起を支えた三大兄弟という商人に、フェルノ・クーレーンが、ひそかに武器を流していたのだという」 「それは初耳だ。……だが、あり得るような気はするな」 「何故かね」 「バルス邑宰と邑宰丞はきわめて理想主義者だ。だがあの財政長官はそれとは全く正反対な、現実主義者だ。バルスに来たのも、蜘蛛会外部組織をめぐっての闘争で先を越されたからだと聞いた。彼がバルスを発展させることを望んでいるのは間違いないが、それは邑宰たちとは方向性が少し違うだろう」 「成程。充分だ」 「で、見返りは何だ」 「何か欲しい情報があるか?」 「いにしえの名曲の眠っている場所を」 「……」 「私も理想主義者なのでね……」 セストはひそやかに笑った。男は頷いた。 「わかった。ここの蜘蛛会に話をつけておく。明日中に行ってみろ。手がかりが見つかるかもしれん」 それだけ言って、また去っていく。 セストは手の中の十二弦琴を見おろした。平和を売りにしているバルス、しかしその裏にもこんな血なまぐさいものが潜んでいる。人である以上、そしてこの時代に生きている以上、仕方のないことだ。だからこそ人はそうでないものを望む。それが夢に過ぎないのだとしても。 トゥー・ラスカは、いつものように窓際に佇んで竪琴を奏でていた。高く低く、聞く者の心を打たずにはいられない繊細な音。彼の空虚な心を映して、どこまでも澄み通って、もの悲しい。 ふと、手が止まった。何かを感じて、彼は扉を振り返った。 ──鎧甲の軋み、剣の鍔鳴り。 「……メルナ?」 「兄様……!」 走り寄ってくるのは、たしかに妹だ。ラスカは竪琴を置き、しっかりと彼女を腕の中に抱きしめた。 「よく……帰ってきたね、メルナ……」 「ただいま、兄様……」 「今までどうしていたんだ。連絡の一つぐらい、よこしてくれてもよかったのに」 メルナは答えなかった。傷が完治するまで一節半も寝ていた、などと言ったら心配するに決まっている。 「まあいい、こうして帰ってきてくれたんだからな……」 ラスカは妹の長い銀髪をすくった。少し、また綺麗になった。美しい、というより勇ましいという印象は変わらないけれど。 「兄様」 「ん」 「一曲、弾いて」 「ああ」 ラスカは竪琴を手にとった。なめらかに、滑るように弦をなぞる指。先刻とは全然音質が変わっていた。毎日毎日聞いている筈の神官たちも、思わず手を止めて聴き入った。しあわせな音だった。充たされるような、そんな音。 演奏が終わるのを待って、メルナは弦に指をかぶせる兄に言った。 「私、謀になったの」 「謀? 間よりもひとつ上の位だな」 「で、また旅に出るの。今日は、ちょっと寄っただけ」 「……そうか」 ラスカは妹をじっと見つめた。沈黙が流れた。 「……ごめんなさい、兄様」 「謝ることはないよ」 ラスカは強いて笑った。 「そう、謝ることはない。また、こうして帰ってきてくれるなら」 「兄様……」 「次に会えるのは、いつになる?」 「わからないわ」 「そうか……」 ラスカはそっと、妹の肩に手をおいた。手の下には肩当てがあるはずだが、それを透して、兄の心が伝わってくるのがわかった。 「なら、俺はここでずっと待っている。いつか必ず……必ず、帰って来るんだ」 「ええ、兄様。……約束するわ」 「ガンダルヴァ神にかけて?」 「この、ガンダルヴァ神の神像にかけて」 メルナは自分の胸を指さした。そこには、以前出発の時に貰った護符がある。 「この護符にかけて、必ず帰ってくるわ……」 時代が流れる。血が流れる。色々な人と出会って、楽しいこと、辛いこと、悲しいことがたくさんある。それに触れて、……でも、私は必ずここに帰ってくる。 ここだけが、私の帰るべき場所なのだから…… |
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