会誌-「ZARASU-2002 夏 -ユージュ-」

■ クリシュナの章  【砂の山】


 スィスニア武王に宮廷医師からの報告があった。
 「お妃様には残念ながら……」
 苦い役目は終わったとばかりに医師はそうそうに引き下がっていく。
 「……で、あるか……」
 庭園を見つめる武王にそれ以上の言葉はなかったという。


 大きな星の看板に蛍の光舞う薬局店がアプシーズにある。
 薄暗い店内に雑然と山積みされた得体の知れないものどもが精霊灯の仄かな光に照らされている。
 いつも頬杖をついている店主と、いつ訪れるのか見たことがない客人。
 物言わぬ聴衆の彼らは、そこで交わされた話し声のすべてを、静けさという空間の沈寂によってひたひたと滲み込ませながら微睡んでいた。
 女と女がカウンターを隔てて面と面を会わせている。
 重なる吐息がお互いの産毛をくすぐる距離だ。
 ランギヴァラーハ・ライラはアプシーズに来てから三度目の決まり文句を唱えた。
 「基礎待遇は、三食昼寝付き」
 薄紅丹に染まった斬髪の彼女に迫られたシフは、目を丸くしたまま固まった。
 「あの、その……あの、その……」
 「冗談ではない、本気だ」
 「……あたし、その……そういうシュミってないから……ゴメンね」
 あまりの丸い瞳と、驚きの硬い口にライラは襟を正した。
 「すまない。誤解があったようだ。将来あなたに恋してもらいたいのは、わたしではない。わたしの主君だ。もちろん、殿方であるからその点だけは安心めされよ」
 「……正気なの?」
 「残念ながら」
 若草色をもった瞳の店主はカウンターに頬杖を付いて天井をみあげた。

 店を追い出されたライラは湖の岸辺に立ちすくみ、ひとりごちていた。
 「顔を洗って出直してこい、か……」
 湖面を覗き込む自分と似ている顔は頬が腫れて歪んでいた。手に掬う水が冷たかった。
 世を忍ぶ仮の姿とはいえ率直に言えば、只今”ヒトサライ”であるライラの本来の職は、スィスニアの将軍であり、主君である武王ナグモ・リューンの側近中の側近である。
 一個の戦士としても弓使いとして戦場に名を馳せた、無能からはほど遠い優秀な腕前を持つ人物なのだ。
 あの君命―後宮の妃を手配してはくれぬか?―を受けるその日までは。
 言外にそれは、自分を差し出してもいいのだぞと、そういうことを言っている「命令」だとライラは思った。
 何事にも無感動であり、盲目的に忠良であったことから、同僚からはドールとあだ名された自分に湧き起こる久しぶりの感情は不愉快なものであったが、それはまた、自分が失われていないという証でもあるような、そんな気がした。
 無気力を気取っていた自分への嗤いが苦い。
 ライラはスィスニアを出た。
 せっかく外遊を公認されたのだ。どこまでも旅して見つかるはずもない幻の妃を追い求め続けるのも一興であった。
 南へ、南へ。辿り着いたアプシーズはエルフの邑。
 異界より舞い降りた妖人たちのなかには、天女のひとりも紛れていることだろう。

 「どうしたのです、こんな寂しいところにひとりで」
 よほど物思いに耽っていたのか、背後を取られる気配はまったく感じなかった。寝ている時でさえ懐剣を枕元に置き、人の気配が近づくたびに目を覚ます習慣が身に付いている彼女は、こんな距離にまで気がつかなかった自分の不覚を恥じ、命まだあることに小さな祈りをナーラダに捧げた。
 耳に心地よく響く魅惑的な男性の声に振り向き、ライラの周りから音が再び消えた。
 「……あ、兄上……」
 その眼差し、その黒髪。
 霧霞む異境の湖畔で、なぜ死んだはずの兄に会えるというのだろう。
 混乱する硬直のつかの間を危ぶみ、相手が小首をかしげる。
 「あなたのお兄様に似ていましたか、私の顔が」
 ライラの目は見開かれたまま、頷くのがやっとだった。
 ―私が殺してしまった兄が、生きているはずはないではないか―

 あれから毎日、うたた寝時の<モルフェウスの時>に、ライラは湖でティーと名乗るエルフと会った。
 落ち着いてよく見れば兄の面影などまったくなかったのだが、故郷で過ごした重なる兄との思い出が寡黙なライラを饒舌にさせた。
 ぽつり、ぽつりと絞り出される胸の呻きをティーは黙って受け止めていた。
 「兄上は戦が大嫌いでな。人を殺すくらいなら自分が死んだ方がマシだという人間だった。私は、死にたくなかった。私は、私の心の声に従って、兄とは喧嘩別れのようになったきりだった。この弓で、兄上を護ってやることもできたはずなのに……私はそれをしなかった……ただ、兄に自分の考えを認めさせようと、護るべき人を護らずに、とんでもない場所で、まったく関係ない人々を殺してきたのだ……それが、私という愚かな女なのだ……」
 「貴女はだから……」
 ライラは小石を湖に投げ込んだ。
 音と共に広がる波紋が、ふたりの映し絵を揺らめかす。
 「だから……?」
 問い促されても、湖面の鏡が再びふたりの像を映し出してからようやく、ティーは続けた。
 「だから、自分の心の声が信じられなくなったのですか。だから、声する誰かに仕えることを選んだというのですか」
 ライラは小石を湖に投げ込んだ。
 「……すまない……ティー、今日は帰ってくれ……」
 湖面の鏡が再びひとりの像を映し出す。
 一滴が湖に混じりゆく。
 静けさと共に広がる波紋が、ひとりの映し絵をぼやけさせていた。

 ティーにはそれ以来、二度と会えなかった。
 ライラはシフの店を訪ね彼のことを聞いてみた。
 彼女が頬杖を握り拳に変えて胸を叩いて力説してくれたのは、”大繁盛している薬局店の店長であるこのあたしは当然アプシーズ中のエルフをひとり残らず知っているわけだが、非常に残念なことにティーというエルフ(♂)なんて見たこともないし聞いたこともないし、でもでも、これから生まれる可能性ならまちがいなく保証できると思います、三年後までのアフターサービスお任せ下さい……”ということだった。
 もしやの期待が脱線していくにつれ、ライラは失意を隠しきれずに嘆息してしまった。
 「アプシーズにはまだいるんでしょ? だったら、これから探し続けなくちゃ」
 シフの若草色の瞳が勝手な揶揄をこめてライラをのぞき込む。
 「いや、帰ろうと……思う……と、そんな、気がするのだ」
 「気がするって、なによ……自分の気持ちでしょ? ヘンなの」
 「まだ、その……久しぶりで、馴染めなくてな」
 なにやら意味不明瞭の照れ笑いを浮かべる女に、頬杖をついた店主は呆れたように天井を見上げ、呟いた。
 (たとえ千年のわれらエルフでさえ、逢瀬は一回ただそれきりなのに……)
 ―それで充分―
 胸に左の手のひらを添えて……セルフィアーの礼を、ナーラダ地方では竜紋をかざす意が込められた簡易敬礼に微笑みをまぜて立ち去る女を、シフは頬杖をついて見送った。

あとがき

 読んでくれて、どうもありがとうございます。
 タイトルにもってきた神王クリシュナの司どりに「弓」があります。黄忠だの、那須与一だのといった歴史に名を残す神弓<アルテミス>の方でして、書いておいてなんですが、このお話のような恋弓<キューピッド>の意味ではありません。わはは。
 快くリューンを、ライラをお借ししていただいたDさん、ハイトくん、どうもありがとうございました。
                           2002年8月 砂の山

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