会誌-「サークル水月会誌 第10回」
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■ 楽土はどこに
【作者:高砂キカ】 徴 幾万もの雪のかけらを孕んだ空は、藍色に近く、静かに邑の上を覆っている。浮かぶ厚い雲の位置は僅かにも動かない。限りなく深い濃紺の青と、雲の純白とその下に滲む影はくっきりと際立ち、宏大に地の果てまで続いている。 石畳の上の人々の足音も、馬車の輪の音もどこか押さえられていた。近づく冬を感じているのか、肩を竦めがちに歩く。風は停止し、刻々と、水が乾いた布に染み込むように空気は冷え込みを増していっている。 路の所々に置かれた丸炉からは炭の熱気が滲み出て、炉の上部が揺るいでいた 周囲に座る者たちは、時折通行人を見るか空を眺めるかするが、すぐに沈黙して目を落とす。膝の間に突っ込まれているような頭は、殆どが黒髪だった。 歌声が、どこの角からでも舞っている。琴や笛の音を従えて、螺旋を描くようにして空に伸び上がった。 「トゥー・ラスカを向こうに持っていかれただと?」 薬師ダナスは肩を竦めた。 その時、空は蒼いというのに雲から下の空気は暗く、長い影が石畳に広がっていた。星薬会の急拵えの本部でも、長い蝋燭が無ければ影に埋もれてしまうようだった。 エルフたちの金の髪がくすんでいるように見えるのは、晩秋の天気の為ではなかった。一様に表情は浮いていなかったのである。 「空気に流されちゃいました。」 幼いとさえ見える笑顔で応じられ、エルフの医師団は息を付いた。 柔らかい風に靡く草の色をした眼で、ダナスは。 「その場にいたのに、ですか?」 薬品を詰めた袋が、影に溶けている。ブラスマーの聖なる樹の線画も、広げた枝の何本かだけが覗いている。葛籠が眠るような様で影と溶ける合っている。 「眼前の怪我人を保護できないなど、我々星薬会の名前が疑われてしまいますこと?その上、あの無粒医者さまの元にラスカ様がおられるなんてね。何てことかしら。」 椅子に細い腰を降ろして、眉を寄せているのは星薬会売薬部部長シフレンだった。蜘蛛会の支根の一つである。臈たけた貴夫人のように、たおやかな姿勢の持ち主だが、目には明るく、若々しい光が跳ねている。 「ちょっとねー、こまっているんですよねー。」 背を弓に曲げ、巨大なありくいのように床に接近しながら、ダナスは声を上げた。草が絡まる微かに音が立つ。彼の万年ずた袋の中をまた弄くっているのだろう。大地のサンダルやら彼しか知らない薬草を使った眠りの丸薬など。 「全く。」 エルフたちのバルスに星薬会の分かれ屋を造り、戦乱の時代を擦り抜ける拠点の一つとするという目的は、出鼻を挫かれたと言って良いだろう。それも殆ど不条理な方策で。 「かんこどりって程ではないのが救いですけど。バルスってアヴィーナより回転率高くなりそうだねぃ。」 「何を言ってるのよ?」 がす、と木の卓が下から鈍い叫びを上げた。続けて、卓の上のカップが低く飛び上がる。湯と香草の匂いが立ちのぼった。 一瞬、艶のある爪で口を押さえて、シフレンは息を上げる。裾の下で足が組まれていた 医師達は指数本分は後ろに下がっていた。平気な顔をしているのはダナスだけである。視線が直面しなかっただけだが。 「まぁ、私たちも、ここで暮らす限りは、こちらの律に従わないと…ね」 瞳が僅かに揺れる。石の床を通して、冬の寒気は伸び上がってくる。 「ねぇ、…何をやっているの?」 さらりとした麦藁色の金の髪−略してサラ金を床に垂らす青年に対し、シフレンの視線が突き刺さった。それを跳ね返す積もりか、ダナスは明け放ったような笑いを見せた。 泥で汚れた指が、円卓の下から顔を出す。 石畳みの上に撒き散らされた水が、飛沫の後も大袈裟に広がっている。それが空の群青を鏡のように写していた。 広場に流れこむ人々の流れは変わりない。大道芸の呼び声、具される軽食の匂い、幾多の旅の話。そこだけが寒気が薄らいでいる。しかし、一点、水たまりの周囲だけは人の足を拒んでいた。 その変わりか、何人もの視線がそこに吸い込まれていた。彼らは目を落とした後、連れの者、あるいはわざわざ人を集めて語り出す。それが幾度も繰り返されていた。 噂は急速に、潮が満ちるように広まっていった。 石畳の感触はひんやりして、時に足に冷たい。土の路に踏み込んだ途端、リュイは知らず溜め息をついた。新しいブーツの筈だが、冒険の末に底はすっかり薄くなっている。 リュイは、喉元に迫ってきたものを飲み込んだ。そうするとやや大袈裟に音が上がる。鼻の下を小さな手でぐしっと擦ると白い毛皮の飾りがふわと揺れた。 林檎色の唇や頬は健やかなままだが、彼女の心は震えている。 「リュイ」 澄んだ声が流れる。青深い空を背後に、振り向くのはセフィルだった。厚い雲の間から、どこからか漏れた陽光が、彼女の濃い銀髪を錫のように白く輝かせた。 今までぽてぽてと付いてきたのだ。しゃくり上げそうな様子で。 倒れた銀髪の男の人。優しそうな、しかしどこか遠い瞳をしていた人。その衣服に飛んで開く赤い粒がはっきりと見えた。 痛そうだ、という感じだけは生々しく、それは彼女の胸に小さい針が刺されたような印象を残していた。 リュイは先に見た風景ははっきりと認識しておらず、幼い目にはそれは巨きすぎた。彼女の豊かな五感は、見た様を心の襞に鮮烈に投影させていた。 見上げるリュイに対し、セフィルはちいさく微笑した。膝を曲げ、軽く顔を傾ける。指輪で飾られた指が額に触れてくる。 静謐で穏やかな笑みを見せた。 「セフィル、リュイ、大丈夫かい。」 ヴィーシアの声が聞こえる。 「ええ、大丈夫です。」 「そうならいいのだけど…。」 バルス邑宰、ヴィーシアは軽く首を振った。辺りは人通りの途絶える土の小道で、商館街の透き間にある。そこは彼女らの抜け道になっていた。のっぺらぼうの白い壁は、高く連なって彼女らを覆い隠そうとしていた。 「…シア」 指が止まっているのを、リュイは気づいた。瞼の上、長い髪が擽る。 「…シア、わたしが、あれを無くしさえしなければ…。」 セフィルは青ざめた顔で俯いた。リュイには、唇が白くなるほど堅く噛み締められているのが見えた。 「セフィル。」 リュイは飛び上がった。とん、と音が鳴る。短い白銀の髪が舞った。 「セーフィルっ。」 名前を呼ぶと、驚いた視線が注がれる。 「リュイ、怖くないの。ケガした楽士さんをお見舞いいくのっ。セフィルもシアもお見舞いに行ったら、楽士さんすぐに元気になるの。」 街中だというのに、辺りに木の葉々が波打つ音が聞こえてくる。街の雑踏だろうか、無から沸き出ては流れていく。 ダルディークは頬杖をついて椅子に腰掛けていた。丁度陽は傾き、窓からの光は失せて影を生んでいる。視線の先にはトゥー・ラスカの寝顔があった。セルフィアー一の楽士と謳われる青年だ。トゥー族の中でも、特に物静かな、青白く透き通るような青年だった。 神手と謳われる楽士。その腕の一部となる、黄銅の20弦である竪琴が無いのが気になったが。 入れ変わりに、彼の元に在ったのが一つ。 ダルディークは懐を弄った。そこに収めたものを取り出す−鈍い光が目に入った。微かな堅い重み。金属が擦れる音。ダルディークは把を抜いた。 二つの合口を見比べてみる。己のものは、鈍い銀色で、縁の零れは、研ぎを重ねてみても消えはしない。それで良いと思っている。一つは血脂の汚れさえ知らないように、浄い玻璃の薄青だった。 鮮血が斑となる包帯がとぐろを巻く上で、彼は目を落とした。ざわめきがそっと高まったような気がする。 幻聴か、耳の奥、また弦の音が鳴った。 どくん、と右手が波打った。魚を掴んだような感触が起こった。 ダルディークは手に目を落とす前に振り返った。その眉が一瞬寄った。呟きが漏れる。「日照がすぎたのかな?」 ただの錯覚さえ心に苦みを持っていた。何ともいえない不快な味が滲んでくる。 錯覚だーそこに女が眠っていたなど。布の膨らみがそう思わせたのだ。金属の光を思わせる程白明るい陽光が部屋を半分照らしていた。 「おいしゃーさまっ」 高らかな声が響いた。 その瞬間、ダルディークはそれまでの意識を捨てた。素早く血で汚れた布を影に押しやる。 放ると同時に、広場で出会った少女リュイが笑って駆け寄ってきた。小さな手には、どこから見つけたのか竜胆に似た花が握られている。 ダルディークの丸くなった目を覗き込むことで挨拶としたのか、身を翻して近づくはラスカの寝所である。 「お疲れ…そっちは大丈夫かい?」 続いて張りのある声が聞こえた。戸口にヴィーシアが笑顔で立っている。肩に白い光が落ちている。後ろには、邑宰丞が慎ましく立っている。 途端に室内は華やかになった。主人も充分に目を引く人間だったが。 「いらっしゃいませ。」 声をかけると少し歯を見せて入ってくる。陽光の熱気を放ちそうな豊かな金の束が揺れる。ダルディークは目を細めてそれを見た。 彼女の手の中に乳白色に微かに紅が滲んだ花弁の枝があった。花びらは一片ごと床に落ちる。微かな甘い匂いが鼻に届いた。 「おすそ分けだよ。」 「珍しいですね…この辺りに咲く花ですか?」 「うーん…花はちょっと疎いな…。柵に咲いていたので一本貰ってきたンだけど…」 眉を寄せて花を見下ろした後、一言。 「櫻かな。」 「まさか。」 ダルディークはまた目を丸くした。 「それは季節ではないでしょう。花は時間とともに開き、咲き誇り、やがて枯れてしまう、それが世界の律というヤツですよ。」 「そうか、そんな事は聞いてなかったんだけどね。」 邑宰の声に気を悪くしたような響きは無かった。普段とも彼女は人と話をすること自体が楽しそうなのである。ダルディークは、心のどこかで張った糸が妙に解れてしまう気がした。 「ラスカさん、大丈夫なのー?」 リュイは頬杖をついて、小さな顔が布団に埋もれてしまうようだ。大丈夫ですよ、とダルディークは声を掛ける。 そして、同じ問いを視線に浮かべる二人に、囁きとほぼ同じ響きで伝える。 「抜くのは楽でした。傷は浅いです。」 後ろで息を吸い込む音がした。セフィルである。卓の上に置いた二つの合口を目に入れたらしい。ダルディークは肩を竦め、己の合口はそっと懐に戻した。購入して幾日も立たないのに、既に黒ずんできた卓には、蒼の刃物の美しさは不釣り合いな程だった。 「知っているのですか?」 「ええ…。蜘蛛会の商人の方から売り付けられたものなのですが…。」 舞わせる視線に躊躇を感じる。ダルディーには妙に新鮮だった。 トゥー・ラスカは息も立てずに眠っている。肺の辺りの病持ちだと聞いたが、それらしい呼吸音は聞こえなかった。そのまま水底に沈んでしまうような穏やかさで。 セフィルはそれに悲しげな視線を投げかけたままだった。寝所に近づき、額を撫でる。 「蜘蛛会、ね。」 ダルディークは小さく呟いた。ナルスの者たちは、神人たちには図り知れない心理を持っていると思われている。その為、いつか何らかを持ち出されるか判らないというのが殆ど、神人たちの意識の底流として流れていた。反面、その思いは遠慮と、脅威と、微かな罪悪感から醸造されたものだともダルディークは判っている。 真理であれ、それぞれの意識が絡み合って出来た虚像であれ、商人の心は何処でも読み取れないものなのだ。 その時、空気が全て声を上げたように、ざわめきが高まった。もう黄昏の時刻ではあるまいに、部屋の中が薄くなっている。 「−おや」 菱の格子の間から黒、白、時に赤の山が取り囲んでいるのが見える。口々に、何かを訴えている。ダルディークは肩を竦めた。 顔を上げ、目を丸くしているセフィルとヴィーシアを脇に 「ーいくさのようです。」 と呟いた。 その場の空気を読み取ったのか、リュイは振り返った。ラスカの眠る布団を掴む。 「ここにいるの。お医者さまともお話し、したいのっ」 「また今度ですね。もなかも用意しておきましょう。」 「ラスカの手当をするのっ。お手伝いもするの、数を数えるのならリュイはとっても上手いんだから。」 確かにその通りだ、と思いつつもダルディークは断った。いくら何でも10にも満たない子供を抜擢するには気が引ける。とびきりの優しい笑顔を作ったが、空色の目は不満がありありだ。セフィルが手を握って宥めている。 「なんだい、あの人々の数は。ちょっと大すぎやしないかい?それにナーラダ以外の患者の人も集まっているみたいだ」 「…星薬会に問い合わせておきましょうか、こう一つの所に集まってしまうと、患者さんも満足な治療は受けられないでしょう。ラスカさんも…。」 リュイから顔を上げて声をかける。指を柔らかく握った手が離れた。 リュイは、す、と垂れ布を抜けた。小さい体は素早く通り抜ける。 壁に、黒の中に紅が滲む花が二輪程咲いている。垂れ布のすぐ脇に、四角に開かれた窓がある。そこはリュイだけの隠れ路らしい。主人である医者もよくよく通らない。 リュイは気づいた。そこにトゥー族の少年が屈んでいたのだ。窓の下に張り付くように目を光らせている。 取り敢えず、いざって近づき裾を引っ張ってみる。シャラン、シャラン、という甘い弦の音が聞こえ、リュイは顔を輝かせた。父さまが時折つま弾いていた楽器の音である。 山猫のようなきつい視線がその上にあった。紫が少し浮かんでいる。 空気が凝固したような一瞬。 「うわっ」 「む?」 諸手を上げた状態の少年に、リュイは首を傾けた。 「な…何でここにガキがいるんだぁ?」 「がき?」 回りを見回す。不思議とその辺りは人通りは絶えていた。医者が反対側の方へ出た為らしい。彼らのすぐ脇を、枯れ葉が滑っていく。 騒ぎに気づいたのか、セフィルが出て来た。少年に気づき、眉を潜める。 「何かこちらに用がありますか?」 目線の先は、少年の腰に括りつけた短刀と、懐の中のディントがある。短刀は刃が獣の牙のように波打っていた。 「ずっとお医者様の部屋見てたのね。」 見事な位表情を変える。下からのリュイの視線に更に青くなった。鏡のように眼の前に風景を映し、まっすぐに光っているのだ。 「う…」 土を蹴った。細かい飛沫。少年は足音だけは軽やかに逃げ出した。 「待ちなさい。」 セフィルの掛けた声も引っ掛からなかったようだ。彼女の眉が潜められていた。 「ヴィーシア、リュイをお願いします。…気の遣いすぎだと良いのですが。」 出て来たヴィーシアに確認するのもそこそこに、後を追い滑るように駆け出した。 「…どうしたのかなぁ…。やはりラスカの件がショックだったのか…。」 呟きが落ちる。ヴィーシアは天を仰いだ・湖の水底に似た濃紺の空を写した眼。ただ深い靜かな陽光が存在する空。雲を掠めて小さい闇の月が見える。その路は不思議と人通りは絶え、表の騒動はそこの沈黙を強めさせていた。 「でも、ここで乱れてしまうと、邑が揺れてしまうよ。」 腰の辺りに起こった風に気づかなかったようだ。 ほんの数秒。ヴィーシアは、見事な金髪を端まで波打たせて顔を落とした。 「あれっ」 そこには、最近いつも下に揺れている小さい頭が消えている。 気づくと同時に、先程の足音より可憐だが元気の良い音が遠ざかって行く。 「おーい…リュイー!」 枯れ葉が吹き飛ばされる。手を降り声を上げるヴィーシアか目に入らなかったのか、リュイは追ってちょろちょろと追っかけだしたのだった。兎のようだ。 「待ぁ〜てぇなの〜!」 先は道が開けた、雑踏の中。人が造る迷宮の中だった。 ヴィーシアが飛びだした瞬間、歓声と共に彼女は覆われた。 丁度旅人たちが多い路だったらしい。石畳の上、幾重もの足音が集って行く。セルフィアー中を沸かした英雄−「百年邑」の建立者に、人の目は自然引き寄せられていく。 そのまま、鉄の砂と血鏡のように、人々は眼を輝かせて殺到した。 「お…おいおーい。」 中心は手を振り、 一瞬、右腕に柔らかく触れられたと感じた瞬間、別の方向へ引かれた。あくまで自然と吸い込ませるようにして、壁の透き間に誘い込まれる。 顔を上げると、ずた袋を肩より提げたダナスがにっこりと笑っていた。 「おや、どうしたんだ。」 「敵情視察。ぬぁーんちゃって。」 「…冗談?」 響きは確認だ。困惑の色は浮かべず、二人とも呑気に言葉を重ねている。 「さあ、有名人になっちゃって、大変ですねぇ。」 振り向き、後ろを指さす。木壁が並び、路は穀物入りの袋が占拠していた。斜めに、光と影がくっきりと別れている。影の存在が強めなのか、冷気が足元からはい上がってきた。雑草の緑は濃いが。開いた窓から煮物の匂いが漂ってくる。 「ここ、区画のためかどうか分からないんですけど、抜け場所がたくさんあるんですよ。ほら。階段も多いし。」 「…あ、約束事とは違うよ、ココ。」 「はは…アヴィーナのように何がなんだか分かンなくなっている位じゃないから、いいんじゃないですかぁ。」 声の調子を落とさないダナスは、ヴィーシアの話を聞いても 「チビさんの為、銀狼部隊出動!ですねー」 と、優しい目で一言言っただけだった。 「なら、伝書鳩飛ばさなきゃな。早く。…あんたもついてく?丁度星薬会に寄ろうと思ってたんだ」 「今日は拙院に来て頂き、誠に有り難うございます。」 豊かな声が小路を叩いた。艶を含んで、中空に伸び上がる。小さな花を突っ込んだ湯飲みの置かれた子窓を後ろにして、ダルディークは立っている。 そこに視線が集約され、切れのある容貌がより光を帯びて見える。眉一つ揺るがせない姿に、妙に胸の辺りを擽るような熱意を帯びた視線を送る女性もいた。一種の高揚感が、冬の染み入る空気を昇華させている。 「風邪の人達はこちらに薬草がありますので、匙に二杯まで取ってください。」 大きく口を開いた壷へと人々が引き寄せられて行く。混乱が起きそうな雰囲気だったが、人人々は背中を押されるように集っていた。 ほぼ軽傷だった者や熱意の視線を送った女性が、薬を手渡すのを手伝っている。一言で誘いを掛けたのだ。 「いいですね。この包帯を見てください。二の腕の辺りに、指二本程離して…」 手元に白い布を取り出して実演してみる。的確で、伝わり易い言葉だった。 流れるように伝えた後、一息を付く。息が白く膨らんでいる。それを目で追っていると、背後から声が聞こえた。 「医師のダルディーク殿…ですね。」 トゥー族の男だった。灰色の外衣が小さく揺れている。風一つ無い冷たい昼だというのに。 年の頃は三十代頃だろうか。今の青天のような、表情の流れを見せない目。 「トゥー・ラスカ氏の見舞に参りました。星薬会に伺うと、こちらで休まれていると…」 波の無い低い響きと共に静かに頭を下げる。 「ルーキ・フレイと申します。」 その言葉と共に外衣を外した。細面の半分を影が仮面のように覆っている。 中年なのだが、影の次第で老いても見え若やいでも見えた。学者の顔だ、とダルディークは読み取った。 「ならば、どうぞ。こちらで眠っております。」 すっと、入り口へと誘う。乱れのない、自然な様だった。 「流石に落ち着いておられますね。これ程の人というのに。」 鋼が陰鬱に軋むような声だった。どちらかというと涼しく清冽な印象を受けるトゥー族の外見とは対照的だった。 ヴィーシアとセフィルの送った花が活けられている。といっても、貰ってきた素焼きの壷に無造作に突っ込んだだけだが。専念すると時間を忘れそうなのでそれ程度にしている。 トゥー・ラスカは眠り続けていた。彼の枕元に、曙色の花弁が一、二枚落ちている。 「よく来られましたね。」 「幸運でした。今、ナーラダ域から新しい商人組織の会長たちが訪れていてね…まぁ、背後にはナーガ神殿がいるとのことなので確固としたものでしょう。人が膨れ上がっています。易々とは銀狼の部隊も通してはくれなくなるでしょう」 部屋の中は、唯一の熱源の炭壷がゆっくりと点滅しながら燃えている。ダルディークはその前に腰を下ろし、椅子を勧めた。質素な医師の服の裾が、小さな熱気で旗めいている。 舞手並みの外貌の頬が朱く照らされる。 「ラスカ殿とは友人で?」 「ええ、つい数日前まで滞在していました。」 ほう、と息をつく。 「…その後、惨いことになってしまいましたが。」 声が、ほんの微かにひびわれたように聞こえた。 「バルスは、ラスカ殿がぜひ向かいたいと言われていました。私も同様だったのですが、手放せない仕事がありましてね。」 違和感が顔を擡げた。この者は小さく誤解をしている。ダルディークは息も乱さず立ち上がり、湯呑みを差し出す。 「ラスカ殿は、バルスに大きく惹かれていたようです。恐らく、この新しき邑が建てられる以前から。彼は、この島に降りた神手と讃えられる者ですが、心が波打たないと琴が唄わないそうです。山野に注がれる光、幼児の笑顔などと言っておられましたか。その中、失楽園のありし日の幻影というものもありました。」 「そうですか…」 心が歓ばないと謳えぬというのか、快楽的だな。多少身近に感じる。 「彼の言葉から、邑宰と邑宰丞が唄を創り、この新しい邑への路を築かれたことは、既に島に巡る話となっています。」 卓の上に、視線が動いた。合口がある。人形使いの戯奴の扱うクグツのように、固い動きだった。特に驚きもしない顔で合口を見つめる。 「変わっていますね…が術の匂いも、ジンの匂いもしません。」 「ジン?」 「精霊の呼び名です。私の妻が使っていてね」 「ラスカ殿を刺したものです。」 外の騒動は変わりない。それぞれは意味のある言葉を喋っているだろうのに、耳に流れ込むのは、低い形にならない喧噪だ。 そろそろ、医者の不在を気にかける者が出そうだった。その者が、疑問を口に出すまでが家にいられる時間だろう。言葉は、時に多人数の心に一瞬で流れを決めるのだ。 ルーキ・フレイは手元の袋を取り上げた。中から四角形の物を取り出す。 鈍く光る、琥珀色の板だった。表面に飾り文字が刻まれている。一瞬、蟲の姿でも描いているのかと思ったが、意味ある文字らしい。 翡翠の目が僅かに潜められた。その中の光の泳ぎ加減は、合口と殆ど同質だった。 「これは、あの塩樹の森で見つけたものです。調べたのですが、この島にある殆どの鉱物とは僅かに異なるものでした。」 「…では、この合口も…?」 「そうかもしれません。どこかの盗掘者がね。」 合口の脇に、板を置く。色は異なるだけで、光と影が溶け合う具合は全く等しい。 「まさか、これが遥かに霊力を含んだ石で、勝手に人を傷付け飛んで行くとか…」 「そのようなことは無いでしょう。何も感じません。物質は普通に存在するものです。ただ、この島では皆無なだけで。…この島の外に埋もれるものなのかもしれません。」 「面白いですね」 ダルディークは椅子に掛け直した。 遠い旅の予感がそこに眠っているような気がした。そう、セルフィアーは島なのだ。海に包容されている。隣には幾つかの島たちが存在すると、古い書で読んだ。そこには異なる文化、人々が暮らしているという。そう信じたかった。広大な海の中、この島が唯一生きているものだとは不思議と思えない。 出来るのなら。旅をしてみたい。幻想でないのなら。人の黒い影が蠢く窓を見る。その遥か上の雲。何故動かない。 「フュンディルの豊かな響きからでも答えは隠されていますよ。…はて、ラスカ殿の言葉に染められたのか…。バルスは遥か過去の邑…存在するか人の筆が作ったものなのか答えの無かったもの。しかし、それが後期言霊人の邑ならば、有り得ないとはいえません。」 「今も森に行けますか?」 「いえ、そろそろトゥルニアの眼が厳しくなっています。仕方無いでしょう。盗掘者に汚されてしまった。…その中に私と妻の足も入っておりますが。罪無い稚い詩人もいましたがね。」 「そんなに来ていたのですか。」 「絵かきと奏者などももいました。頑是ない少年少女でしたが。ー手の届かぬ、遥か遠いものを望む心は誰にもあるのです。時に却って足かせとなるものでも。」 医者はどこだ、という声が窓を越えて飛び込んだ。土壁が小刻みに壁が震え、葛籠や壷も動いた。生々しい人の吐息が渦になって聞こえる。 唇の端を上げ、自嘲のような笑みを浮かべる。腰を浮かした。湯呑みを置く硬い音が喧噪の中、独立して鳴った。髪を掻き上げる。 「失礼してしまいましたね。ごちそうさまでした。」 ルーキ・フレイもそれに従った。湯飲みの白い湯気はまだ消えなかった。 「帰られますか?」 外衣を整えるルーキに声を掛ける。 「ここには学者仲間もおりますし、しばらく逗留しますよ…。」 寝むるラスカに対し一礼した。ラスカの顔は微塵にも動かない。薄く閉じられた瞳は今にも開きそうだったが。枕元の花びらの位置も停止したように動かない。 紐を結びつつ、ルーキは声を上げた。 「そういえば…ラスカ殿が目覚められました時に、伝言をお願いして宜しいでしょうか?」 「何と?」 無表情な目にぶつかった。 「琥珀板の文字を僅かに解読できました…『選ばれた、高貴な徴をもつもの』と。」 「粒を取らない医者の噂は、どんどん広がるでしょう。邑を越えて、地域全体に。そしたら人は集まるでしょうねー。」 「そりゃね。今だってそうだ。…だからって、星薬会が従うことはないよ。」 含綬鳥の文様で彫り込まれた上に、漆を塗った天井飾りがあでやかに見下ろしている。垂らされた灯籠から独特の匂いが立ちのぼっていた。柑橘を擦った汁を油に入れている。鴇色と藤色の柱で飾られた室内を、ダナスは慣れた様で見回した。 視線に気づき、慌てる様子も無く答える。膝の間の袋は土に汚れ、彼の座る螺鈿飾りの椅子と大きな格差を見せていた。 「とはいえねー、今閑古鳥になりかけてるんですよ。ほんと。」 「だから患者を選ぶわけ?星薬会は。先に噂と言ったけど、それは星薬会にも働くことだよ。益々、悪い影響が出て来るのではないかなぁ。」 頬杖をついて、語る。 星薬会は、どうしても妖人の医療を望む上にそれなりの財力を持つ者しか受け入れなくなった。今、町医者の元には、ヴェルーダの難民以外の者まで集っていた。 「…いいかい、ダルディークは一人の人間なんだよ。無料で診察してくれるのはすごいことだ。それで救われた人もいるだろうね。でも、やはり個人のものなんだ。星薬会の持つ綱と包括性には適わない。星薬会は、表として医療の役を担ってほしい。それに、星薬会は直に人を癒す役割だけではないだろ?」 態度の変化は、シフレンの意見である。決して、バルスの為を思っての決定ではない。妖人たちがここに集う理由は、己たちと同じ種族でありながらー俗世の流れとは異なる時間軸を持つ者でありながら、一つの場を創造したヴィーシアにあった。 彼女はヴィーシアを憧憬の眼で見つめているのだ。その者でしか感じられないものがある。シフレンの不安を話すべきか、と一瞬迷った。 「しばらく待ってほしいんだ。こちらでも財務長官とかの意見を借りて話し合ってる。 来るもの拒まず、去るもの追わず。 ダルディークにしろ、島中の様々な人物たちにしろ、バルスは一物有りの人材を迎えては場を与えていた。 いつしか迷い込んで、預かっているリュイという少女も、その中に入るだろう。銀狼部隊が親を探しているというが、彼女自身は隊長に懐いている。 しかし、彼らがずっとこの場所に根付くのか、バルスでも彼自身の望ましい姿で居られるのか、未来は図ることは出来ない。それを信じて石を組んでいくしかない。 「話を変えようか…シアちゃん、何で塩の樹があそこにだけザクザク生えているか、 不思議だとは思わないかい?」 窓の外の剪定したばかりの葉々は動かない。書板を乱暴に並べながらヴィーシアはちろ、と相手を見た。 百年、色の変わらぬ若草の眼が覗き込んでいる。自分と同じ色彩だが、向こうの方が淡く、透けている。両手にカップと御菓子を摘まみつつ、ダナスは微笑してている。 「それは、そうかもしれないけど。何か知っているの?」 「うーん、取り合えずね、一本頂いてきて、他のところにも生えるか試してみない?」 先まで星薬会の対応について話し合っていたのが、突如の話題の転換だった。彼が逃げたのではない。今のところ、それ以上の語らいは必要無しと判断した為だ。妖人の語りとは異なるやり方かもしれないが、他種族と特に交わる道を歩む彼らは、そういった技術も得ていた。 「いいかもね。確かに伝説はある。あそこにある特別な肥料が無いと育たないとかね。はっきりと確認されてないけど…しかしトゥルニアとケンカまでして出来な…」 巡らせていた視線が止まった。ダナスが常に抱えていた袋を持ち上げたのだ。 「ここにあるのだよ」 麻で編んだズタ袋だ。魚醤で煮しめたように汚れている。その中、翠が滲む白い蔦を持った植物がちらりと姿を表した。肌は堅く、薄い玻璃が皮の変わりとなっているような印象を受ける。 それの光が移ったように、ヴィーシアの眼もキラリと輝いた。 「すごいっ!…んじゃなかった、どうやって、また?」 「うん、それがね、ネヴェの森をうろついてたら捕まってね。追い出されたってわけさ。」 何故か心臓の辺りを撫でて眉を顰める。 「…はぁ。」 「わからないかなー。」 「ぜんぜん」 書板をほっぽり出して、ヴィーシアは頭を振る。取られたままのお茶と胡麻の菓子も気になっていないようだ。 「だーかーらー、オシオキなんだってば!げひゃひゃひゃ、あー、おかしい」 愉快な笑い声が響き渡った。実際、ダナスはお腹を押さえてまで爆笑した。 「…それだけっすか?」 「ウン」 木戸が些か乱暴に開かれた。出て来たのは、銀狼部隊の一人である。大人しそうな顔に一杯の焦りが浮かんでいた。 「失礼致します。邑宰、昇竜会の会長殿がお出でになり、邑宰をお待ちになっております。財務長官さまも視察役さまも集まられました。早く御準備を。」 あ、と呟きヴィーシアは軽く頭を叩いた。しなやかさが滲む動きで椅子から立ち上がる。「ごめんごめん。いや、忘れた積もりは無かったンだけどね。」 その背後から 「ヴィーシア邑宰はまだかのぅ!!」 と、元気の良い壮年の男の声が響いてくる。その下に流れるのんびりした笑い声は、視察役のナルス商人の隠居、ピナイ・サーラのものだ。 「しかし、お前さんそれでも視察役か?何となく…そうだ、ダイフクのような格好だの。」「いやいやそんなことは。」 ヴィーシアは振り返って微笑んだ。相変わらず、生命の力を抱えた花の樹に似た美しさがある。暗く湿った土や陽光の清さを知った上で咲く花のような。 背後の大きい窓からは、抜け行ってしまうような高い冷たい蒼天がある。下には、造り掛けの建造物と急ごしらえの木屋が作る町並みが広がっていた。様々な色の旗が掲げられている。「責任を取る積もりなら良いよ。逃げようってのは駄目。内緒で、やってな。」 ふと彼女は目を窓の下に向けた。自然、ダナスもそれに引かれる。 下は白い石畳の路で、両脇に建物があるため常に薄影に染まっている。緩やかにカーブし、死角がある。そこに美しく刺繍された頭巾を被った一団が現れた。歩を進めると優雅に裾が舞う。 それは幾人かの固まりで殆どが女性たちだったが、中に一際逞しい体格の者が居る。裾の間に刀が覗いた。 一団の中央に、頭巾と外衣の色合いが異なるものが居た。際立って緻密な刺繍が加えられている。歩の進めかたも、水を魚がつうと滑るように乱れなく、強かった。 貌の全ては望めないが、白い顎と薄い珊瑚色の唇が光っているように目に飛び込む。 「竜公主と呼んだが、いいかなぁ。」 一つ呟きを落として、ヴィーシアは身を翻した。 リュイは歩いていた。半透明の柔らかそうなものに従われて。 好奇心が一杯に詰まった宝石のような瞳で周囲を見回す。 同じ位の背丈の樽、袋、どこからか漂ってくる饐えた匂いは生々しい。両脇から、剥がれかけた木の壁が迫ってくる。小さな彼女の遥か高くには空と雲が有る。所々刺を生やしたように見える建物に囲まれて、そこだけが光があった。 壁際には人も居た。何人か、皆黒い髪をしていた。年は様々だが、若いものが多い気がする。「なーらだ」の人々だという事は分かる。黒髪の医者と同じ髪の色、目の色をしている為だ。いつしか、見る人間と言えばそれしかいなくなった。 皆、何かに疲れているようだった。上身を、或いは四肢を体に付けたままのようにして歩み、座している。 「あれー?」 小さく呟く。自分の足音だけが耳に残る。顔を巡らせつつ歩く。土と一体化した布をふんずける。 注がれる視線に気づく。幾筋か、奇妙な色のものが投げかけられる。彼女は小さな異端者だった。 リュイの幼い目にはそれを読み取る深さはまだ無い。代わりに、生まれつきといって良い敏感な感覚が空気を嗅ぎ取る。 居並ぶものの顔には、全て病の影がある。それは外から与えられたものだ。 抜け出したのはバザールの裏であった。バザールはセフィルと一緒に通って、何やらを値だったりしたことがある。そこに彼女がいるかと思ったのだ。付いていきたかったのだ。セフィルの元に。その辺りをさ迷い、空いていた路地に踏み込んだ瞬間、別の風景が広がっていた。 「セフィル〜?いないの?」 鈴の音に似た高い声が空気に溶けた。 心に冷たいものが満ちていく。不安の色を滲ませて、小さな足が止まった。迷いが巨大に彼女にのしかかる。道が分からなくなったということより、セフィルが見つからないのが不安だった。 「ーチビさん、どうしたの?」 柔らかい声が上から掛けられる。淡く波がかった、長い髪の持ち主だ。埃で汚れてはいるが、微妙な銀波は優雅さを湛えている。着古された服には腹帯が結ばれていた。 リュイは目を丸くした。おいしゃさまの場所で見かけた人だった。 「迷子かしら?」 見せる笑顔は、セフィルのものよりも明るく、ヴィーシアよりも、声と同じで柔らかだ。顔全体で微笑んでいる。 リュイは首を傾げた。 「マリヴロン!」 その時、低い声が女性の後ろから聞こえた。ナーラダの男がそこに立っている。細身の身体に薄着を着け、険しい顔立ちをしている。肩上に赤黒いものが見えた。 「迷子ですよ、あなた、そんな恐ろしげな顔をしないで。」 自分の服の裾を両手で握っているリュイを見下ろし、息を吐き出す。 「判っているよ。奴らはこんな所を避けるからな。」 「私も『奴ら』なんですけどね。」 取り敢えず回りを見回し直してみる。急拵えらしい木の建物が並んで、汚れた垂れ布も今にも落ちそうだった。壷を持った人がそこから出て行くのは、住処なのだろうか?表の、バルスの建物群とは余りに異なっていた。既に疲れた様子で立ち並んでいる。ここで眠るのは寒そうだな、と思った。とても楽しそうだけど風邪をひいてしまう。 「ねー。」 途端に見下ろされる。それに慣れたリュイでないと、足が竦んでしまうだろう。子供なら殆どの者が持っている視界だが。 「んとね。」 口頭に少し間が開く独特の癖さえ珍しいものであるかのようだ。 「けがしているの?痛いの?」 何の色も無い無邪気な響きが届いた時、眉間の皺が深まった。顔を赤くしてリュイは話しかける。 「リュイの知ってるおいしゃさまがいるよ。痛いの、くるしぃのすぐに治してくれるの。リュイが言ってあげようか?おともだちも知っているかもしれないけど、入りにくいならリュイがついてきてあげるの」 男は何かを言おうとしたようだった。 「おい、二人とも何をしている、こちらへ来てくれないか?」 人が近づいてきた。茶色の髪に目、バザールの商人に似た格好をしている。 二人は顔を合わせた。いつしか、壁際の人々は一方向に歩んでいた。木の壁が切れた辺りに、石の高い建物があり、暗い戸口が開いていた。 商人は、二人を引っ張るように連れていこうとする。首から下げた、まるで端が繋がった三日月のような金の輪の飾りがきらめいた。遠い天からの陽光を、それだけが受け止めている。 女性は、詫びながら、指で出口を指した。男は無言のままでリュイを見下ろしていた。 二人は、建物の中に吸い込まれた。丸い眼でじっと見つめるリュイに気づいているのか、共に沈んだ表情で。リュイは後ろで組んだ指を降ろした。 「まってるの。」 「…おい、トゥーのお嬢さんっ」 二人が戸口に消えた瞬間、今度は肩を軽くつつかれた。 童子のような、あるいは駿馬のような清い眼が遥か高みから見下ろしていた。リュイは、山を眺めるような表情で、少し唇を開いてそれを見返す。 「嬢ちゃん、迷子かい?」 「うー…ん、なの。」 リュイは考え込む。そして、数秒後顔をぱっと上げた。 「セフィルを探しているのっ」 「セフィル?まさか、あの邑宰かい?」 「うん、そーゆうお仕事してるの。」 「そーか、はて。ここ身よりの無い子供の家でも作ってんのか?」 「ミヨリはあるのー。」 「…ま、いいか。俺もそこに用があるんだ。」 腕に抱え上げられて、リュイは思わず「おおっ」と声を上げた。 岩のように逞しい腕は、しかし血の流れを温もりを内から発していて、包まれると深い安心感がある。 「高ーいのっ」 「何だ、さてはお前の父ちゃんは低いのかね?」 木の枝を突っ込んだ口と、光る白い歯が下に見えた。 「お、おい、遊ぶなっつーの!!」 不精髭を撫でられ、頬を引っ張られ胸を足で叩かれ、ファン・フェイロンは甘美なものとは程遠い、愛に満ちた抱擁を受けていた。ついでの、毛皮の首回り飾りがもろに鼻をつつく。 ふらふらと、酔っ払いのような足並みで左右に路を抜けて行く。 「いてててててーッッ」 影が染み付いているような角に、大音声が響いた。 「ぶぇ〜っくしょい!!」 長い草たちだけの空間に立ち入った瞬間、音が鎮まる。 薮だ。一つ樹木が立っていたが、長い蔦に絡み付かれ、低い幹は皮が見えない程覆われている。枝も葉々も下へ垂れ下がり、草たちと同化しているようだった。 僅かな仲間に咲き誇る座を渡し、冬を迎える準備を済ませ、眠りにつこうとする土と草たち。小さな虫たちもそれに従ったのか、食らいついてくる者はいない。 「…うわぁ、これ、爆睡丸の材料じゃないか。いーとこみつけた。人の月には可愛い花が咲くぞ。」 ダナスは薮の中にしゃがみこみ、草の匂いを嗅いだ。そうなると殆ど彼の身体は、乾いた葉々の中に包まれていまう。ほんの微かに、寒気が弱まった。 小さく何か呟いた後、足元の土を取る。そのまま指に乗せ、ぺろんと嘗めた。 「…よし、ここだね」 袋から土掻きを取り出す。 「ごめんね、みんな。ちゃんと引っ越しさせるからね。」 彼の姿は長い草によって半ば以上に隠されていた。道行く商人たちはそこに妖人がいることに気づかない。ただ、樹木に絡む蔦が風が無い日だというのに、そっと揺れた。 「これが、寒い場所の晴れなんだろうかね。」 ダルディークは衣服を整え治しながら、誰にでも無く呟いた。 次から次へと、医療を求める患者がやってくる。身体は忙しさで殆ど麻痺している。普通の医者なら既に身体の方の釘が取れているだろう。 今日になって突然数が増えた。明かに、今まで寄ってこなかった類いの者もいる。その者は大抵不満顔で、星薬会の態度の変更を訴えた。星薬会は、財力を持った患者しか迎えなくなったという。それまでは定額の料金を取っていたというのに。それでなくても、患者の数は減っていたのだ。金を取らずに町医者を営むダルディークに集まるのは当然だっが。 ー些か、突然すぎるな。正直な感想だった。自分の考えとは異なる面を捕らえられているのだろうか。 彼の心の眼は天に向いていた。 雲も風に流されて行くのだ。 冷たい深い蒼と、それを包み込むように膨らむ雲。僅かに雲が増したか。そして、雲の下の影。ナーラダたちの域から、湖の上から、見上げるものとは違う。第一、この雲は形を変えぞすれ動かない。限りなく 帯を整え直して、目の端に窓を入れた。 室内の風景が、僅かに変わっていたことに気づいた。 ラスカの瞼が開いていた。天井を見つめる青紫の眼は色が薄い。やがて窓際の花に向き、最後に、ダルディークの視線に気づく。今の空のように静謐な雰囲気で。 あの弦の音がまた現れた。胸に手が伸びる。肺の中に冷気が充満した。 使いの者を呼ぶ息の、温かさは消えていた。 「リュイ、がきだって。んでミヨリナシなんだって。」 布で頬を拭いながら、セフィルは少し眉を寄せた。 「そういう汚い言葉使いはいけませんね。」 愉快そうな笑い声が聞こえる。力強いが軽やかな声が、卓の上の花を揺らした。 慌ててセフィルはそちらに振り返った。大きく腰を曲げて一礼する。 「この子を見つけてくださり、本当に有り難うございました。」 「いや、気にすんな。」 大きな手をヒラヒラ降り、歯を見せるのはファン・フェイロンだ。小さい椅子に腰をかけ、足を組むのは中々の壮観だった。 「…では、向こうのお部屋までいきなさい。道は覚えていますね。」 「知っているのっ。階段の脇にあるの。」 「なら、そこでお着替えをすること。ほら、もう可愛い服も汚れてしまっていますよ。」 不思議そうに自分の格好を眺め下ろしたが、頷き去っていく。この建物に飽きたらそうもいかないだろう。廊下を折り曲がる間、一度柱に張り付くようにして手を振った。 白い花びらが風に流れて行くような様だった。 フェイロンは、肩を竦めて卓に向かう。その前にセフィルも立った。 箱の中には、幾振りかの剣がある。銀よりは鋭い光沢が目を刺す。傷一つない肌。 「…鉄の剣、ですか。」 セフィルの眼は、剣の表面を滑る。二つの眼が奇麗に写される。茶の湯気で、細かく結露していた。 「ああ、独自のルートって奴があってな。『銀狼の眸』に売りたいんだ。こんなもんでいいだろ?」 指を何本か上げる。その先に白い陽光が掛かった。 「そうですね、財務長官に掛け合ってみて、正式なこちらの希望価格を出しましょう。明日の朝で結構ですか?」 「早くて良いねぇ。あんたの意見は?」 「この造りにしては安い方ですね。…鉄の剣は、邪悪な精を断ち切り、場を浄化すると言われていますし。」 「おいおい、俺は神官の積もりはねぇんだけどな」 鏡よりも細やかに、己の貌を移す刃物に目を注ぐ。自分はこんな面で笑っていたのだ、とふと思う。 「…まア、これ程の金属、ヴィシュバカルマン神殿の管理から外れて皆が使うようになれば、神王のご加護の内容もちょっとは変わって行くんじゃないかねぇ。」 セルフィア湖に停泊中の己の船を思い浮かべる。そのうち、恐らくもしバルスが消えた後よりも遥か後、自分自身の存在が灰よりも細かくなった時、この船も全ての姿を露わに出来るのだろうか。 「ナーラダ族の技術力は見事なものですね。」 「あ?んなことねぇよ。ただ興味の持っていく方向に剣造りが交ざってるだけだ。少なくとも、ヴェルーダの難民たちには関係ねぇことだよ。」 言葉の端に、小さくひっかかりが出来る。 脳裏に、木塀に囲まれた暗い路が浮かんだ。その上を歩む小さな銀の髪の幼な子。 セフィルは指を卓に乗せたまま、俯いた。静寂を生む。 「あんたン所、蜘蛛会にまで難民対策の委託はさせていないだろ。」 そうですか、と囁きに近い言葉が漏れる。 「これは噂なのですが、蜘蛛会のものたちが…その…ヴェルーダの方々を纏めているそうです。」 たん、という勢いの良い音、で彼女は飛び込んでこなかった。 裏口の垂れ布から、金の髪の渦が覗いたかと思うと、身を屈めるようにして擦り抜ける。垂れ布は微かにも波打たなかった。 耳を掠めるような微笑の声。ラスカは軽く顔を下げて挨拶をした。 「ラスカ!」 ヴィーシアは顔を輝かす。大股で数歩、狭い部屋を突っ切った。その風をもろに受け、ダルディークは手元の薬壷を落としかけた。一瞬、黄金の波がきらめきを放つ。 「無事だったんだねぇ、良かった良かった」 「医者氏のお陰だよ。」 ダルディークは礼の積もりで頭を下げる。 「はは、流石だね。」 互いの様で、二人が既に知り合っていることを見たのか、ラスカは薄い静かな笑みを口元に浮かべている。木綿の質素な衣は、少しずつ朱鷺色に変化していく空を映していた。「ほい、これバルスもなかにバルスせんべい。皆新鮮な五殻を使ってるよ。皆で食ってくれよ。栄養が一番だ。過労気味の先生にもね。」 背中に背負って来た風呂敷包みを渡す。濃緑の唐草文様のそれからは、香ばしい匂いが漂ってきていた。 外の混乱は収まってきていた。空の色がようやく変わり、雲が中空から沸き出すようになってからだ。太陽がようやく淡紅色を生み出し、天空の碧と交じり合った黄昏の時間だ。 しかし、常に人はいる。町医者の家の前の路に幾つかの人の塊がある。隣の商店や住民に苦情は慣れてしまった。 「ラスカ、もう痛みはは良いのかい?」 「傷自体は浅かったので、あと数日寝ていれば大丈夫です。琴も弾けますよ。」 「そうか…私は特に痛んでいないよ。これは慣れっこなんだ。」 耳に鳥の鳴き声が聞こえてきた。ダルディークが目を向けると、橙の胸毛を持つ小鳥が、ヴィーシアの肩に止まり歌っていた。単純で素朴な旋律だが、耳の中で転がるような美しさだった。「私には胸の辺りに、病巣があるらしくてね。ーいや、どこか欠けているのかもしれない。診てもらった妖人の医者に、全身の気の一部が抜けていると言われたんだ。他の気がその変わりをしているとね。子供の頃は酷く苦しんだ。」 言葉を切る。 「病気は否なものだ。どう助けを求めても助けはこない、苦しみだけが増えていく。」 ラスカは、親しい者と世間話をするような様子のままだった。 その手に茶を受け渡しながら、ダルディークは話しかける。彼の言葉は心のどこかに落ちた。 「病気がどこにでも張り付いてくるものなら、私も病持ちですよ。…傲慢な言い方ですね。」 限られた時間。それに気づいた時から、人はある種の病にかかっているのだ。それは身勝手な実感かもしれない。窓脇の唄う鳥はそんな事を思いもしないだろう。 ヴィーシアは既に風呂敷包みを開きつつ、もなかを指で摘まんでいた。 「私はガンダルヴァ神王の元、琴を知ることである意味救われた所がある。君はどうなのかな。」 ダルディークの眼が微かに動いた。茶を渡した後、窓際に近づいた時だ。鳥が彼の顔を見上げている。黄鶲だ。 「神の教義は、その様な力を持つものがあるのですか?」 「ガンダルヴァ神はそんなことを言われていないよ。ただ、美しい音の奏で方とか、演奏する時の心構えを教えてくれただけ。私は、曲を演奏するのが合っていたんだろうね。不安や恐怖に辿ろうとする心を引き上げる」 セルフィアー一の楽士は、澄んだ目で続ける。 「でも…そうだね。私は私の周りでしかものは言えないけど、神殿に余り触れていない楽士の人たちには、神に大きな役割を見る人々もいる。4友の神を融合させたりとか…。人の心の中には、そんな存在を望む心も間違いなく息づいているよ。」 「それでいいんじゃないか。全てを自分任せにしたら、どこで狂っているか解らなくなる。」 数秒毎、空は暗く染まって行った。地上にも、薄闇が侵食していった。セレネが金属のような硬質の光を放ち表れる。澄んだ空気に微か風の匂いが入り込む。 ヴィーシアの言葉は、さりげない形を持って落とされた。黄鶲が羽ばたき、ダルディークの肩に移った。堅い木の実がぶつかり合うような可憐な鳴き声。 「…剣や槍ではない、民衆たちの力と共に邑を建てた方だからこそのお言葉でしょうか。 指先で羽根を撫でつつ、ダルディークは問う。喉の奥が痛んだ気がした。 肩を竦められた。彼女の白いが健やかな、ジャスミンのような指が覗く。 「いや、民衆の力ではないよ。」 菱の格子に重なり、二つの影が長く伸びる。 ラスカはまた眠ったようだ。 「ほんの僅かな人々が、私たちに目を注いでくれた、というだけだ。素晴らしい幸運によってね。民衆の人々はここを住処を見つけてくれて集まってくれた。その人々が、その子供もその次に生まれてくる人も、手を差し伸べるような邑を作らなければね。柱は、私のものではないんだ。」 「剣を持たずに、唯築く方へ向かうのですか。剣は便利ですよ。」 「いくさは嫌なんだよねー。父さまや母さまからあれは怖いものだとたっぷり聞かされてきたんだ。いや、よくそれぞれの邑たちが育ったと思うよ。バルスもそうであってほしい平和とか、時流だとか何とか言っているけど…独立戦争があって400年、人は8代変わっているよね。平和ボケなんていう言葉は、身近にいくさがあるからこそ生まれるんだよ。その中、時の流れだとかこの島にすむ殆どの人間は…戦争なんてカスミにも思っていない。不思議だよね。」 健やかな姿態、若草色の、強くはないが、無垢さにも似た澄んだ瞳。近づくと、何か暖かが清冽な、曙の気が感じられる。 ちろり、と胸元のどこかが灼けたのは何故だろう。常に女人の存在に感じるものではない。もっと深遠の、源の、楽しくはないもの。 「あなたたちにはお見通しなのでしょうね。」 これからの路のありかを、変化の徴を。 土掘りと水汲みを掴んだまま、ダナスは溜め息をついた。 「だめかなぁ」 塩樹は確かに息づいた。ほんの僅かな間でーしかし。枝か蔦か分からないものが自ら裂けては幾重にも絡み合い、ちょっと美的感覚では見られないものになっている。 人目を避けた場所に植えたのだが、もしそれ見た目があったなら、嫌悪の色を浮かべているだろう。食中花より苔より奇態な植物だった。 周囲の緑たちの中では、異世界から来た生き物のように見えた。ダナスは、島の中の世界樹の子供たる植物は殆どを知っている。塩樹も、アプシーズの図書倉分室の中で会った。ーが、このような狂い咲きは見たことがない。 「地と空気と水、陽光…それが僅かでも異なると狂ってしまうのだろうか。人でもそうなのかな。」 植物の生命力に掛けてみようとした自分の考えを悔やむ。 「ごめんね。」 ダナスは小さく頭を下げた。 聳える高い山にしか咲かない花たちがある。森林の限界より高くに根付く植物で、世界樹の各部分により近い姿をしている。しかし、それ自体は繊細すぎる生命の力を持ち、乱獲されると群れを消してしまう。妖人たちが心を掛ける所以だ。この塩樹も、高山の植物と同じ存在なのかもしれない。 眉がそっと寄った。ダナスの、薬師としての鼻が、それを嗅ぎ取っていた。地上から昇る冷気の中の匂いが鼻に入った。記憶にあった。 塩の香りだという。突き詰めて言えば、海の匂いだ。ダナスは以前立ち寄ったことがある。身の回り全てが風に覆われ、冷たい風に耳を切られる。吸い込む空気は、肺の中を清冽でいて、どこか底の知れない渕とするようだった。その中。 「−鉄のにおいがする。」 塩の幹らしい場所の透明な肌に、うっすらと亀裂のようなものが走っている。その中に、何かが流れているように見えた。 草たちが鳴る。蔦が絡む低い樹が、涸れた葉の屑を散らした。 ダナスの髪にも降り落ちる。それも気にせず、彼は立ちすくんでいた。 それに気づいた時だ、塩の樹が取った形状が目に入った。 草は、人の身体を癒す。その中はヴラスマーの気が、細密な記憶として縒りこまれているから。薬となるのは、世界樹の機能を模して、甘露に似たものを草たちは作り出せるからだ。しかし、草は人の一部ではない。 しかし、今目の前にあるのは、人の身体、正式に呼べば、人の手のひらだった。 指が一本多い。それは身近な何かを捕らえるのか、力無いまま開かれているようだ。 彼の長い白銀の髪が流れていく。今日初めての風だ。 まだ薄ら明るいが、辺りはもう夜だった。 ラスカは歩んでいた。長い足を腰の脇に降ろして、流すまま。 リュイは顔を出した。駄々を少し捏ねて、セフィルと夕食を食べに行く途中だ。他に彼女はリュイを様々な神殿に連れて行ったが、その真意はまだ分からなかった。 小さな顔が明るくなった。元気になったのだ。飛だし、足音を鳴らして近づく。 路は仕事帰りの民、異邑の旅人、商人でごったがえしたが、するりと擦り抜ける。 長い脚を包むローブに纏わるように付いていく。空色の瞳か彼の面から外れない。 「ラスカー?」 二つの足音が絡む。 「どこにいくの?」 「帰らなくてはいけない。まだ、ここは小さいから。」 上から声が落ちてくる。少し滑らかで高い。 「どこにー?リュイも行けるの?」 見上げる顔は、昼に会ったものとは僅かに違う気がした。セフィルに似ている。 ラスカは前に行った。足は速めていないのに、姿は前に移ろう。 慌てて走り寄り、質問を繰り返す。ローブが顔にもろに当たる。 「行けるよ…寒いけど…ね。」 「昔のバルスなの?」 刹那、叫びのような声が聞こえた。 大通の壁を前にして、少女が泣いている。手に金正をくくりつけたままで、頬に押し付けるようにして。滴が床に次々落ちる。亜麻の髪が小刻みに震えた。 「ごめんなさいっ。ごめん…。」 ラスカは軽く首を傾げた。暗い空は星を飾り、天へと深めている。リュイは少女の顔を下から覗きこんだ。濡れた白い手が目に映る。隣に少年がいた。少女の肩を手で掴み、何か声を掛けている。彼らの足音に幾つかの琴が並んでいる。 風が吹き、見えない指が弦を鳴らした。 雑踏が彼女たちの背後に流れていった。押し包むように。 振り向いた時、ラスカの姿は失せていた。 円形の広場は、人通りが絶えなかった。多少の猥雑さを含んだ熱気を孕んでいる。 バルスには画家も多い。クリムゾンのように名前が有る者から、殆ど絵を描くかしていない者まで。彼らは広場に並び、風景画などを石に刻んでいる。 その中、一人の女性が歩いている。頭巾から顔を出している。流れる烏羽の髪。巡らせる翡翠の瞳。面には不安な色がある。 「…もし。一つ伺いたいことがあるのですが…」 画家の一人に声を掛ける。彼女の美しさに筆を止める画家を気にせず、真剣な声で問い掛ける。 「こちらの画家の中に、14位の少女がおりませんでしたか?」 トゥルニアから、音楽祭への招待と、会談への密状が同時に届いたのは空が白んだ時だった。戸を叩いたのは、トゥー族の少年だった。怒っているのか、強い視線のままで、彼は立ち竦んでいた。 深遠な闇が安らかに微睡んでいる。 岩に、樹木に幾重にも絡まる蔦。鈍く光を纏っている。発光しているのか、そのほんの僅か辺りは闇が薄まり、蔦の色を表している。 小さい獣が走る音。足が、散らばったかけらを踏む。塩の花の元へと逃げ込んだ。地面には、白い滑らかなかけらが幾つも落ちて地にめり込んでいる。陶器だった。青い曲線で人の図が描かれている。それと鳥。散り散りに壊れているので全貌は分からない。 少女が泣いている。木に身体をもたせ掛けて、静かに。時間の感覚は失せていた。足元に木の板とペンが落ちている。回りには何人かの人がいた。動きもしない。ただ、同じように、目を閉じ口々に何かを呟いていた。朗唱のようだった。 蔦は重なり合って大樹を形成していた。巨大な木だった。トゥルニアの塩狩りの者さえ立ち入っていない空間。だが、密猟者たちが路を作ってしまった。 大樹の中央。長細い空間がある。 白い影が現れる。銀の髪を流した人物だ。片手に蒼い合口を携えている。闇が支配する森の中、それは鋭く光った。 |
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